夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
僕たちは今、公園の中央広場にいる。とても大きな公園でキッチンカーも出ている市民の憩いの場だ。
学校から駅を挟んで東にあるせいか、今日は同じ学校の生徒の姿はあまり見かけなかった。
今日は“どうしても外で話したいことがある”と言った
「悠貴くんはどれにしますか?」
「……えっと、チョコバナナクレープにしようかな」
「定番のものですね! 私も悠貴くんと同じものを頼んでみましょうか。それとも別のものを、悩ましいですね……」
その公園の一角で僕と朱鷺ノ宮さんはクレープの屋台の前にいた。
こういう屋台って初めてらしい。そんな漫画のお嬢様みたいなこと、本当にあるんだと少しおかしくて笑ってしまった。
「あ、悠貴くん、笑いましたね」
「ごめん、そんなに真剣にクレープ選んでいるのがおかしくて」
「だって、初めてなんですもの」
「こういうの、海外にはなかったの?」
「あったとは思いますけど、そういうところに出歩くことはなかったですから」
クレープ屋の立て看板の前であれでもないこれでもないと悩みながら、自然と朱鷺ノ宮さん自身の話になった。
活動休止するまでは海外で暮らしていたらしい。そこはクラシックと言えば海外ってイメージがあるので、驚きはなかった。
屋台が初めてなのはびっくりしたけど、真剣にクレープを選ぶ姿にどこか親近感を覚える。
朱鷺ノ宮さんは僕と同い年の女の子なんだって思わせる一面だ。
「決めました。このイチゴのクレープにします」
「いいと思う。そっちも定番だし」
「今度来た時は悠貴くんが頼んだバナナのほうにしてみます。また一緒に来ましょうね」
「……じゃあ、俺のほうは次イチゴにするよ」
「私は悠貴くんが頼んだクレープにしますね」
また、そう言われてドキッとした。今日みたいに朱鷺ノ宮さんと出掛ける機会がまた来る。そうなるとデートという単語を否応なしに意識してしまう。
デートって恋人同士でするものってイメージだから、誘われるとどうしても好意を向けられていると感じてしまう。
意識し過ぎなんだろうか。クレープを受け取って珍しいものを見たように眺める朱鷺ノ宮さんは、そんな僕の心境と真逆に自然体でこの時間を楽しんでいるようだった。
「どこか落ち着けるところでいただきましょう」
「適当なベンチがあれば……あの辺とかいいんじゃないかな」
移動した先は特になんの変哲もないベンチがあるところで、2人でそのまま腰を掛ける。
公園内の道の端に設置されているため、僕たち以外の利用者が目の前を通り過ぎていく。
「じゃあ、食べようか。出来たてのほうが美味しいよ」
「そうですね。いただきましょう」
一口齧るとふわっとしたクリームの甘みが口全体に広がる。久しぶりに食べるとやっぱり美味しいな。朱鷺ノ宮さんも気に入ってくれるといいんだけど、そう思って隣の様子を伺う。
そこには口を片手で抑えて感動した様子でクレープを食べる朱鷺ノ宮さんの姿があった。どうやら気に入ってくれたようだ。
僕が作った訳じゃないのに、気が付けばホッと胸を撫で下ろしている自分がいた。
「その反応だと、気に入ったみたいだね」
「んぅ、お恥ずかしいところを」
「どうだった? 初めてのクレープは」
「思っていたよりもずっと、美味しくて驚きました」
クレープを齧りながら、他愛のない話をする。公園の雰囲気もあってか、穏やかな時間が流れていく。
その空間に懐かしい音が入り込んできた。前のベンチで小学生の子が楽器の練習を始めていた。
「あ、ピアニカだ。懐かしい。朱鷺ノ宮さんも小学校の時に習った?」
「習いましたよ。ピアニカではなく、鍵盤ハーモニカと呼んでいましたが」
「あー、色々呼び方あるんだっけ?」
「制作している会社によって異なる名称があるらしいですね」
これ音楽の先生が教えてくれた気がする。
楽譜は覚えてないくせに、こういうことは覚えてるんだよな。
「エーデルワイスだ」
「エーデルワイス? ああ、あの子たちが弾いている曲ですか」
「うん、懐かしい。小学校で習ったけどピアニカじゃなくて、歌うほうだったな」
「それは、悠貴くんのクラスメイトは不幸でしたね」
「え、どうして?」
「だって、悠貴くんの演奏でエーデルワイスを歌える幸運を逃したんですよ? 不幸と言わざるを得ません」
「……持ち上げすぎたよ」
「あら、嘘偽りのない私の本心ですよ?」
そう言って、朱鷺ノ宮さんは少しだけ視線を下げた。
どうしたんだろうって疑問が浮かぶと、ピアニカの音が響いた。
この音も不協和音に聞こえているんじゃないか。
きっと、辛いはずだ。場所を変えよう――そう声をかけようとした。
「朱鷺ノ宮さん」
「私は鍵盤ハーモニカでした。演奏には自信がありましたから」
朱鷺ノ宮さんの手がゆっくりと膝の上で構えられる。何をしようとしているのか僕はすぐに気がついた。ピアノを弾こうとしているんだ。
膝の上を鍵盤に見立て、エーデルワイスを奏でようとしている。
「……っ」
その指使いは、とてもピアノが弾けなくなったようには見えなかった。本当に鍵盤を叩いているように指が踊っている。
朱鷺ノ宮さんのピアニストとしての姿、その一端を目の当たりにして僕はただ、その指先に目を奪われてしまっていた。
小学生が演奏を間違えて、途中で手を止める。それでも朱鷺ノ宮さんの指は止まらなかった。
その光景に記憶の中にあるエーデルワイスが、朱鷺ノ宮さんの指先から奏でられるように鮮明なイメージが浮かぶ。
「鍵盤があると指が動かないんです。無ければ、こんな風に弾けてしまうのに……おかしいですよね?」
エーデルワイスの演奏を終えた朱鷺ノ宮さんがそう悲しそうに微笑んだ。
その笑顔に、朱鷺ノ宮さんがどれだけ深刻に悩んでいるかを理解させられる。
僕は何も言えないまま、その笑顔を見返すことしかできなかった。
「ごめんなさい。今日はこんなこと言うつもりじゃなかったのに」
「……ううん、話してくれて嬉しい」
「悠貴くんは優しいですね」
ああ、駄目だ。そんな顔をさせたくない。泣きそうになりながら笑わないで欲しい。胸が締め付けられて、心が苦しい。
ピアノを弾ける楽しみ。それを少しだけ知ってしまった僕は、朱鷺ノ宮さんの弾けない苦しみが想像を絶するものだと気付いてしまっていた。
「……その、俺の演奏は本当に朱鷺ノ宮さんの助けになっているのかな?」
「もちろんです。あの音に、私がどれだけ救われているか……悠貴くんには、本当に感謝しているんです」
この言葉も本心なんだろう。そう思ってくれていることは素直に嬉しい。
けれど――朱鷺ノ宮さんの心は、ピアノを弾けるようにならなければ晴れない。
陰りのある表情が、静かに物語っていた。
「あの日、あのストリートピアノで――貴方の音に救われたんです。あのまま、すべてが歪んで聞こえていたら……私はきっと、どこにも行けなかった」
「……俺の音は、朱鷺ノ宮さんをどこかに連れ出せた?」
「はい、あの暗い場所から――悠貴くんが、私の手を引いて連れ出してくれたんです」
その言葉が胸の奥へと落ちていく。
これからも、彼女の手を離さずにいられたら――そう思ってしまった。
「私がピアノをまた弾けるようになるかは分かりません。それでも――悠貴くんと『My etude』を続けていれば、もしかしたら……」
そう言いかけて、朱鷺ノ宮さんは言葉に詰まる。その姿は、何かを押し殺すように耐えているようだった。
「本当は二度と弾けないんじゃないかって、怖いんです」
「……朱鷺ノ宮さん」
「ですが、悠貴くんの音を聴くと……また弾けるかもしれないって、そんな夢を見てしまうんです。叶わない夢かもしれない。それでも、信じたいんです」
叶わない夢、決してそんなものにさせたくない。朱鷺ノ宮さんの願いが、僕の音で叶ってほしい。
「それなら、俺も最後まで付き合うよ」
「……約束、ですよ」
「約束する」
いつか朱鷺ノ宮さんの演奏を聴きたい。その瞬間を楽しみにして、今は『My etude』の投稿を続けよう。
それが、朱鷺ノ宮さんの助けになるはずだから。
「今日、悠貴くんを急にデートに誘った理由を話していませんでしたね」
「……理由?」
朱鷺ノ宮さんがふと空を見上げた。
沈みかけた夕陽が、雲をやわらかくオレンジ色に染めている。
「この瞬間だけは――どうしても2人で迎えたかったんです」
そう言って視線をこちらに戻した朱鷺ノ宮さんは、スマホを取り出す。
そこには『My etude』というチャンネルが表示されて、彼女が何をしたいのかすぐに理解できた。
「もしかして、今日は投稿するために?」
「ストックの編集が全て終わったんです。だから……今から、いいでしょうか?」
「いいよ。今日は投稿しよう」
ここまで来たのに、朱鷺ノ宮さんは不安気だった。その背中を押すつもりで投稿しようと言って僕も覚悟を決める。
「……あの、お願いがあるんです」
「何かな?」
「一緒にこの投稿ボタンを押してくれますか?」
あとは投稿ボタンを押すだけ。朱鷺ノ宮さんが『My etude』の最初の曲に選んだのはショパン『革命のエチュード』だった。
僕と朱鷺ノ宮さんが出会った時の曲だ。これほど僕たちのチャンネルの最初の曲に相応しいものはないと思う。
「もちろん、喜んで」
「良かった。なら、一緒にですよ。せーの、で押してくださいね」
「分かった」
「悠貴くんも、一緒に言って下さいね。それでは、行きますよ……」
「「せーの!」」
一緒に「せーの」と声を合わせて投稿ボタンを押す。2本の指が同時に画面に触れて『革命のエチュード』が投稿された。
画面が切り替わり、投稿が終わった画面を僕たちは投稿ボタンを押した姿勢のまま見守っていた。
「……きっと、たくさんの人が悠貴くんのピアノを聴くことになりますね」
夕陽に溶ける横顔は、曲が終わったあとに漂う余韻のように静かだった。
僕はただ、その光景に目を奪われていた。