夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第十七話 リスト

 今日は朱鷺ノ宮(ときのみや)さんと収録の日だ。

 千聖(ちさと)さんとセッションして練習した曲を披露できると意気込んでいたのだが、ある問題に今朝になって気が付いた。

 

「ごめん、朱鷺ノ宮さん。一曲しか準備できてなくて……」

 

 あの一曲しか練習していなかったのだ。

 流行りの曲をフルで自分が演奏できる。夢で見たからじゃない。自分の力で一曲フルで演奏できるようになれた。

 舞い上がっていた僕は、それはもう馬鹿みたいに同じ曲ばかり繰り返し練習していたのだ。

 

「あれからまだ一週間も経っていませんし、そんな風に謝らないでください」

「申し訳ないよ。一曲しか練習してなかったなんて」

「私もそういう経験がありますし、本当に気にしなくて大丈夫ですよ」

 

 朱鷺ノ宮さんは「まだストックがありますから」って、怒らずに僕の失敗をフォローしてくれた。

 だけど、一曲だけ収録して終わりってのはヤバイよな。ちょっと慣れてきたけど、こんな立派なスタジオを用意してもらってるのに。

 千聖さんと他の曲を練習する約束をしているけど、流石に一曲だけ収録して「はい、さようなら」は朱鷺ノ宮さんに合わせる顔がない。

 

「今日はその一曲を収録してその後はどうしましょう。解散でしょうか?」

 

 朱鷺ノ宮さんの声もどこか淋しそうに聞こえる。

 今朝、夢で見た曲がある。この曲も収録してもらっておこう。クラシックのストックが増えるのは朱鷺ノ宮さんも歓迎してくれるはずだ。

 

「ストックは多いほうがいいよね? クラシックのを何曲か弾いてもいいかな」

「もちろんです!」

 

 朱鷺ノ宮さんの表情が一気に晴れる。やっぱり、笑ってくれているほうがいい。

 さっきの名残惜しそうな声も、喜びが乗ったようにキーが上がっている。

 

「じゃあ、最初はこの曲を弾いて、その後にクラシックを弾くね」

「お願いします」

 

 いつ見ても圧倒されそうになるグランドピアノへ向かい、腰掛ける。

 椅子は僕が前に合わせた高さのままになっている。鍵盤にひとつ触れると初めての収録のあとに調律してもらったのと全く同じ音がした。

 この音、すごく落ち着く。初めての時はガチガチに緊張していたのが、自分のことなのに嘘のようだ。

 

 千聖さんとのセッションを思い出しながら指を走らせる。ただ今回は僕1人だけの演奏だ。千聖さんのギターはない。

 1人でこの曲の良さを引き出さなきゃいけない。クラシックとは違う軽快なリズムのサビで、激しくアップテンポに盛り上げる。そして、飛び降りるようにテンポを落とす。

 また一から積み上げるように、丁寧に音を紡ぐシーンだ。

 

 けれど、楽譜にはフォルテッシモの指示がある――音量ではなく“気迫”を求めているんだと僕は受け止めた。

 指先に力を込めるというより、心で押し出すように弾く。そうすると不思議と、これしかないと思える音になる。

 

 そして、迎えるラストのサビ。駆け上がるように、さっきよりも激しく響かせる。

 頭の中では原曲じゃなくて、千聖さんの歌声が響いていた。あと少し、このまま走り抜ける。

 

 ゴールテープを切ったように、最後の音が響く。鍵盤を押し込んだまま、ペダルをゆっくり戻していく。

 徐々に小さくなっていく音が、走り抜けたあとの足取りのようだった。

 

 終わった。夢で見たことがない曲を朱鷺ノ宮さんの前で弾くのは初めてだ。

 千聖さんはいないけれど、上手く弾けただろうか?

 

「……お疲れ様でした」

「うん、お疲れ様。どうだったかな?」

「良く弾けていましたよ。今バズっている曲ってこんな感じだったんですね」

「え、知らなかったの?」

 

 テレビやネットでも一時期は聴かない日がないくらいバズっていたはずだ。

 あまりテレビやネットは見ないのかな。話をしていてもスマホをイジったりする姿を見たことがないし、ありえるかもしれない。

 

「いえ、聴いたことはあると思います」

「どういうこと?」

「今の私は、悠貴くんのピアノでしか“音”を感じられませんから」

「あ……ごめん朱鷺ノ宮さん。俺、すごく無神経なことを」

「いえ、謝らないでください。今の私には悠貴くんの音がありますから」

 

 音が不協和音に聴こえるって話を、ピアノだけだって思い込んでいた。

 すべての音がぐちゃぐちゃに聴こえると言っていたじゃないか。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったんだ。

 

「本当に気にしないでくださいね。それよりも、悠貴くんに聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「聞きたいこと?」

「曲がクラシックでしたから、いつもと違うのは当たり前の話ですが……」

 

 聞きたいことがあると話しだしたけど、朱鷺ノ宮さんが言葉に詰まった。

 何か聞きにくいことなのかな。

 

「その、本当にいつもと感じが違って……悠貴くん以外の誰かを感じたんです」

「誰かって……あー、千聖さんのことかも」

「千聖さん、ですか?」

「姉さんの友達なんだ。今はバイト先が一緒で、すごくお世話になってる」

「その方と練習を?」

「楽譜を送ってもらった日にバイト先の事務所で練習してたら見られちゃってね。クラシック以外は初めてでしょって練習に付き合ってくれたんだ」

「……そう、ですか」

 

 そういえば千聖さんに1人でちゃんと弾けたよって報告しておかないとな。

 朱鷺ノ宮さんもよく弾けてたって言ってくれたし、そう断言しても大丈夫なはずだ。

 

「次はクラシックだね。このまま続けて弾いても大丈夫かな?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 

 ピアノの前に座ったまま、次の曲の確認をする。

 朱鷺ノ宮さんは準備万端といった様子で、いつものようにスタジオの端で待機してくれていた。

 

「じゃあ、このまま続けるね」

 

 その言葉から一拍置いて僕は今朝夢で見たままにピアノを奏でた。

 これも聴いたことがある曲だった。家でキーボードを弾いて姉さんにも聴いてもらうと『愛の夢』だと教えてもらえた。

 

 楽器は弾けないのに僕よりずっとクラシックに詳しい姉さんに、少しだけ笑ってしまいそうになる。

 『愛の夢』こんなタイトルの曲を同い年の女の子の前で弾くのは照れくさい。

 だけど、それ以上に聴いてほしいと思った。

 

 この美しい旋律を、朱鷺ノ宮さんだけのために奏でる。

 この演奏は収録のためだと理解しているけど、目の前の彼女のためだけに奏でたい。

 

 愛の夢、どんな夢なんだろう。この曲のように優しく、美しいものなのだろうか。

 まだ良くわからないけれど、そうだったらいいな。そう感じるのと同時に、最後の和音を奏でていた。

 

「『愛の夢』どうだったかな。朱鷺ノ宮さんはこの曲を知っているだろうけど、それでも聴いてほしかったんだ」

「……『愛の夢』を弾くなんて思いませんでした」

「好きな曲じゃなかった?」

「いえ、大好きです。ただ、さっきのポップスとは随分と雰囲気が違いましたから」

「え、駄目だったかな?」

 

 自分では上出来だったと思ったけど、朱鷺ノ宮さんの表情は複雑な感情を表していた。

 戸惑っているようで、喜んでいるような、僕には判断ができなかった。

 

「……この曲は、悠貴くんの“音”でしたから」

「どういう意味?」

「……分からないなら、いいんです」

 

 これは、喜んでくれているのかな。

 髪の上から両手で頬を押さえる姿は、何故か『愛の夢』を喜んでくれたように見えた。

 

「……こほん、悠貴くん。リストの曲を弾いた以上、もう一曲弾いておかなくてはいけない曲がありますよ」

「え、そんなのあるの?」

「『ラ・カンパネラ』です。クラシックを聴く人なら、誰もが聴きたい曲のはずです」

 

 『ラ・カンパネラ』その名前は聞いたことがある。

 めちゃくちゃ難しい曲だって有名だ。あまりクラシックの曲の名前を知らない僕でも、その難易度が高いことを知っているくらいだ。

 どんなに難しい曲なんだろう。夢で見てないし、弾くなら練習しかない。

 

「めちゃくちゃ難しい曲だったよね」

「難易度が高い曲としても有名ですね。それも人気の要因の1つかもしれません」

「れ、練習しときます」

「せっかくですから、収録を中断して今から練習しますか? 『ラ・カンパネラ』の楽譜ならすぐに用意できますよ」

「えっと、1人である程度は練習したいかな」

「……そうですか。残念です」

 

 全く弾いたことの無い曲を朱鷺ノ宮さんの前で弾く度胸は、まだ僕には無かった。

 いつか見てもらいたいな。もっとたくさん練習して、夢で弾ける感覚にちゃんと現実の技術を追いつかせたいから。

 

「自主練するけど、すぐには形にできないと思う。その時は、練習に付き合ってもらってもいいかな?」

「はい、もちろんです! いつでも言ってください」

 

 やっぱり朱鷺ノ宮さんには、この花の咲いたような笑顔がよく似合う。

 この笑顔が見られるなら、僕が練習でカッコ悪いところをみられるくらいなんでもない。

 

「朱鷺ノ宮さんは、その『ラ・カンパネラ』弾けるようになるまでどれくらい掛かった?」

「通しで弾けるようになるまでだと、一週間くらいでしょうか? でも、コンクールに向けてそのあと半年以上練習したんですよ」

「は、半年も?」

「そんなに珍しくないと思いますよ? 人によってはコンサートやコンクールに向けて一年以上……ただ一曲を仕上げるために、練習に取り組む方もいらっしゃいますから」

 

 想像だにしなかったクラシックの世界の片鱗に、乾いた笑いしか出なかった。

 これ、僕がちゃんと弾けるまでどれくらい掛かるんだろう。考えただけで、気が遠くなりそうだった。

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