夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
『ラ・カンパネラ』の練習を始めて一週間が経った。集中的に練習を繰り返しているせいか、指が少しだけ痛む。
それでも少しずつ積み上げていくように形になっていくことが楽しくて仕方なかった。つまずくたびに、むしろ現実の中でピアノを弾いているという実感が強く湧いてくる。
「今のところは指の角度を少し浅くしてください」
「……こう?」
一週間の自主練を経て、今日は週末の朱鷺ノ宮ときのみやさんとの収録の日だった。
何曲かの収録が終わり、今は『ラ・カンパネラ』の練習を見てもらっている。
「ええ、完璧です。吸収が早いですね悠貴くん」
「そ、そうかな。ありがとう」
こんな風に褒められると、どうしても照れくさい。
それでも、朱鷺ノ宮さんの前でも少しずつ弾けるようになっていくのは嬉しかった。
「……実は不安だったんです」
「不安って、俺がちゃんとできるかどうかってこと?」
「いえ、その心配は全く。ただ――」
朱鷺ノ宮さんは少しだけ言い出すのを躊躇うように、視線を下げた。
「もし、悠貴くんの練習の音まで壊れて聴こえたら……そう思うと、少し怖かったんです」
「そう言うってことは大丈夫だった?」
「はい、杞憂でした。今も悠貴くんの音……ちゃんと聴こえています」
安心したように語る朱鷺ノ宮さんは、少しだけ痛々しく見えた。
いつか弾けるようになって欲しい。弾ける楽しみを知った僕は、そう願わずにはいられなかった。
「もう一度、今のところをさらってみますか」
朱鷺ノ宮さんのアドバイスを意識して躓いた場所をもう一度さらう。
ただ雑念が入ったからだろうか。また同じところで指がこんがらがって音が遅れてしまった。
「今度は指の角度は良かったのですが、タッチが遅くなりましたね。そこ難しいところなんです」
「ごめん。何回も」
「謝るようなことじゃないですよ。さっきよりも良くなっていますから、もう一度やってみましょう」
今度は雑念が入らないように意識してまた同じところを繰り返す。
今度はあっさり弾けてしまう。さっきまで何で躓いていたか分からないくらい、滑らかに弾けていた。
「今のはすごく良かったです。何も言うところが無かったですよ」
「朱鷺ノ宮さんの教え方が上手だからだよ」
「そうですか? 初めて言われました」
「相性いいのかもね俺たち」
高校1年の時の英語の先生の授業は難しかったけど、2年の時の先生は相性が良いのか成績が上がった。
だけど、逆のことを言う友達もいる。教える人と、教えられる人にも相性ってものがあるんだと思う。
「……ええ、だって私たち同じ世界を見ているじゃないですか」
「同じ世界?」
「以前ピアノの調律をしたときに、悠貴くんが私と同じ調律が良いって言ったことがあったじゃないですか」
「あー、あったね。あんな偶然ってあるんだね」
「私は必然だと思っていますよ。きっと私たち同じ世界を共有しているんだと思うんです」
「共有なんて大げさだよ」
朱鷺ノ宮さんはこういうことを臆面なく言える人だけど、言われる僕のほうはどうしても照れてしまう。
それが少し恥ずかしくて、僕は逃げるようにピアノに向かった。さっきのところをもう一度弾いて、その先をさらに弾いてみる。
「あ、駄目だ」
「うふふ、慌ててピアノに向かうからですよ」
「だね。今のとこも難しかった。もう少しさらって感覚を掴まないと同じミスしそう」
「今の所はもう少し……なんて言えばいいでしょうか。こんな風に」
僕の隣にいた朱鷺ノ宮さんが説明に困ったのか、実際に弾いてみせてくれた。
さっき僕の何がいけなかったか一瞬で理解できた。それほどまでに、朱鷺ノ宮さんの弾いた『ラ・カンパネラ』は鮮烈なイメージを僕に与えた。
「……弾けた?」
「朱鷺ノ宮さん?」
「悠貴くん、弾けました。私、今ピアノを弾けましたよ」
「う、うん、すごく分かりやすかったよ。さっきの何が駄目だったか……待って、朱鷺ノ宮さんピアノを」
朱鷺ノ宮さんはピアノを弾けなくなってピアニストを休止している。それがほんの短い小節だけとはいえ、弾けていた。
遅れて気がついて隣を見上げる。僕以上に自分のしたことが信じられないと、朱鷺ノ宮さんは驚いて固まっていた。
「……っ」
もう一度、そう思ったのだろう。
朱鷺ノ宮さんは恐る恐るピアノへと指を伸ばすが、鍵盤に触れる手前で硬直したように手を止めてしまった。
「……偶然、だったみたいですね」
「いや、違うんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「これも必然だよ。今までの『My etude』の活動が無駄じゃなかったってことだと思う」
きっと『My etude』を通じて何かが変わった。
全く弾けなかったはずが、少しだけとはいえ音を奏でられた。まだ耳に残る旋律が、明るい未来を照らしている気がした。
「……そうでしょうか? 私には分かりません」
「きっと弾けるようになる。今のはその証じゃないかな」
「証……さっきのが」
「この調子で頑張っていこう。最後まで付き合うからさ」
「そう、でしたね……ええ、そうでした。悠貴くんには最後まで付き合っていただかないと」
その微笑みの奥には光が戻っていた。
鍵盤は静寂を保っている。その静けさが、朱鷺ノ宮さんの次の音を待っているように思えた。
「ではさきほどの続きを、と言いたいところですけど時間ですね」
「時間?」
朱鷺ノ宮さんが壁に掛けられた時計へ視線を向けた。
ここに来てから3時間も経っていた。もうこんなに時間が過ぎていたのか。
「悠貴くん、約束があると言っていましたよね」
「うん……もうこんな時間か、あっという間だった」
「熱心に練習されていましたから」
「収録する時間が減っちゃうけど、また練習に付き合ってもらってもいい?」
「ええ、もちろんです」
そろそろ千聖ちさとさんとの約束の時間だ。『ラ・カンパネラ』の練習はしたいけど、バズった曲の練習もある。
今日はまた、一緒に演奏する約束をしているんだった。
「今日はありがとう朱鷺ノ宮さん。それじゃあ、また」
「また次の収録で。連絡しますね」
「こっちからも連絡するよ。練習1人でも頑張るから」
「ええ、楽しみにしています」
朱鷺ノ宮さんと次の約束を交わし、ビルを出た。夕陽がガラスに反射して、視界一面をオレンジ色に染めていた。
僕はその光の方へ、千聖さんとの待ち合わせ場所へと歩き出した。
「あっ」
待ち合わせ場所は駅前。この街では定番の待ち合わせスポットだ。
まだ時間前だというのに、千聖ちさとさんはもうそこに立っていた。
「お待たせ。早いね千聖さん」
「私も今さっき来たとこだよ。収録は無事に終わった?」
「収録はすぐに済んで、あとは練習ばっかりしてた」
バズった曲の演奏を3曲分ほど収録した。どれも千聖さんとセッションした曲だ。
あれのお陰でどんな風に弾けばいいか感覚が掴めたから、この人には本当に頭が下がる。
「何の練習?」
「『ラ・カンパネラ』って曲。前に同じ作曲家の『愛の夢』を収録したんだけど、リストの曲を上げるならこっちも視聴者は求めるって言われて」
「あー、確かにね。相方の子、本当に色々戦略を考えてるんだね」
千聖さんも朱鷺ノ宮さんの言ったリストの話は納得できるものだったみたいだ。ピアノに触れる前の僕でも知っている曲だし、その知名度は凄まじいものだろう。
有名な作曲家の曲とは知らずに『愛の夢』を弾いてしまったけど、結果的には良かったのかな。
「動画見てる。良い演奏してるよ悠」
「ありがとう。千聖さんにそう言われると嬉しいよ」
「チャンネルもピアノ良いの使ってるし、結構色々と凝ってるみたいだね」
「あのピアノめちゃくちゃ良いやつだと思う」
グランドピアノはストリートのと、朱鷺ノ宮さんのしか触ったことがない。だけど明らかな違いを感じる差があって、朱鷺ノ宮さんのとこのピアノのほうが音が良い。
「だよね。なんか、こう……重厚感っていうの?動画見てても伝わってくる」
「生だと凄いよ。学校のと比べても、やっぱり違うよ」
「いいじゃん。貴重な経験だから、大事にしなよその子」
千聖さんにはチャンネルの相方を、あの朱鷺ノ宮家のご令嬢だとは言っていない。
ピアノのことも気が付いているし、薄々は感づいていると思う。だけど、千聖さんはそこを踏み込んで聞いてこない。
なんとなく僕も言い出せず、こんな風にチャンネルのことを話す程度に留まっていた。
「今日は優里香のバイト先のスタジオ使う予定だったよね」
「うん、そうだったね」
「どこかのタイミングでさ。うちの大学に来てみる?」
「大学に?」
「音楽室とか、サークル棟の防音室とか借りられるの。学生以外でも申請すれば入れるし、私といれば無料だからさ」
「へえ、お金が掛からないのは助かる。大学も興味あるし」
大学って設備貸してくれたりするんだ。そう聞いたら行ってみたくなる。
千聖さんと姉さんが通う大学。漠然とだけど、僕も進学先はそこだって思っていたから。
「じゃあ、決まり。今は大学がバタバタしてるから落ち着いてからね」
「バタバタ?」
「大学祭があるからね。今の時期に借りるのは大変だし、借りられても慌ただしいだろうから」
「大学祭、そういえばうちの高校も文化祭がもうすぐだったな」
「秋って感じだね。色んなとこでお祭りがあって」
文化祭が近い。まだ何も決まっていないけど、今年は何をするんだろう。
部活はやってないから、参加するのはクラスの出し物がメインだ。去年は屋台をした。今年もああいうのがいいな。
「それが終わったらだね。大学行くの楽しみにしてる」
「普通の大学だよ。悠が期待するような面白いものはないと思うな」
「それでも楽しみだよ。千聖さんと姉さんが通う大学を見られるんだから」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
もう夕陽が沈もうとしている。黄昏時の中、千聖さんと話をしながら歩く。
そんな何気ないひとときが、嬉しくて仕方なかった。もうスタジオはすぐそこに見えていた。