夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
「……今日は、バイトじゃないって言ってなかった?」
「バイトは休みだよ。今はプライベート!」
「今日は私じゃないからね」
スタジオに着くと、眼の前で姉さんが待ち構えていた。
「来るなら言ってよ。車だよね? 知ってたら、キーボード持ってきてって頼んだのに」
「だって、サプライズしたかったんだもん」
「まあ、帰りに乗せてもらえるからいいじゃん」
「千聖ちゃんが良いこと言った! 帰りは乗せてってあげるから、お姉ちゃんにも
昔はいつもこの3人だった。
今は千聖さんと僕の2人、姉さんだけ仲間はずれにされているような気分だったのかもしれない。
「今度から来る時はちゃんと言ってね」
「
「任せてよ。帰りは私がしっかり運転するから!」
身内に生で演奏を見られると思うと恥ずかしいけど、遅かれ早かれの違いだと思って諦めよう。
「早く行こっか。予約の時間もうすぐだよ」
「そうだね」
「あ、店員割効くよ、今日は私も一緒だし」
店員割があるのか。お礼を言っておくべきだろうけど、今言うと調子に乗りそうだからまた今度にしよう。
「そうだった。優里香がいたらお得になるんだった」
「ちょっと~、人をクーポンみたいに言わないでよ」
「千聖さんが予約してくれたんだけど、それでも店員割って効く?」
「うん、支払いの時に割り引いてくれるよ」
エレベーターに3人で乗り込んでスタジオへと向かう。地下に着くと、前回と同じひんやりした空気が流れていた。
3人で受付を済ませて、前回と同じスタジオに入る。
「悠くん、準備手伝おうか?」
「大丈夫、姉さんは座っててよ」
キーボードをバッグから取り出して、スタンドに備え付ける。
それが終わると千聖さんのほうも準備を終えていた。
「……姉さん、それは何?」
「あはっ、あははは! 優里香、それ……最高……ッ!」
『悠くん♡』『こっち見て!』
そう可愛らしいフォントで飾られた手作りの団扇を姉さんが両手に持っていた。
それを見て呆れる僕を、千聖さんがめちゃくちゃ笑っている。
「何って、推し活の必需品だよ。せっかく2人の生演奏が見られるんだから」
「頭、痛くなってきた気がする」
「え、いいじゃん。推される立場になったんだよ悠」
「悠くんはずっとお姉ちゃんの推しだよ!」
「……本当に頭が痛くなってきた」
こうなったら何を言っても無駄だろう。
あまりの行動力に呆れるけど、一応は手作りみたいだし引っ込めさせるのは可哀想だよな。
「俺だけじゃなくて、千聖さんのは無いの?」
「千聖ちゃんのもあったんだけど、勘弁してって言われちゃったから」
千聖さんが咄嗟に視線を逸らした。僕の視線をどこ吹く風と受け流し、わざとらしく口笛まで吹いている。
「自分はあれだけ笑っておいて……」
「まあ、あの時は若かったから」
適当なことを言う千聖さんに、軽い仕返しを思いつく。
たまにはやり返しておいてもバチは当たらないと思う。
「姉さん、今なら推し活してもいいって」
「え、いいの!?」
「……ごめんって、笑ったのは謝るからさ。あれは勘弁してよ」
本当に嫌そうに千聖さんは顔の前で手を合わせて謝った。
確かにこれは恥ずかしい。今この空間には3人だけだから、僕も呆れるくらいで済んでいるんだし。
「分かってくれたならいいよ」
「よーく分かってるって。優里香、私の時はこれ一言も言わずに初ライブで出したんだよ?」
「それは……ご愁傷様でした」
「えー、頑張って作ったのに2人とも酷いよ」
ライブハウスでこれ出したのか。よく知らないけど、ああいうとこで出すものじゃないと思う。
千聖さんも同じ目、というかもっとひどい目にあっていたのか。それは勘弁してって言うよなと、過去の千聖さんに同情してしまう。
「いいもん。2人がそう言うなら、私だって考えがあるもん」
「悠、なんとかしてよ。弟でしょ」
「千聖さんこそ、友達なんだから何とかしてよ」
お互いに責任を押し付け合う僕らを見た姉さんが、堪えきれずに吹き出した。
それに釣られて僕と千聖さんも――。
「「「ぷっ……あははは!」」」
3人とも一緒に吹き出していた。昔みたいにこの3人で一緒にいられる空気がそうさせたんだと思う。
「おしゃべりもいいけど、そろそろ練習始めようか」
「だね。このままじゃ、話してるだけで終わりそう」
「あ、ごめんね。練習の邪魔するつもりは無かったの」
「謝る必要はないよ優里香。ちょっと3人で話してただけじゃん」
「そうだよ姉さん。気にしないで」
「……うん、ありがとう2人とも」
練習のためにスイッチを切り替えた千聖さんがギターを鳴らす。何度か試すように音が響き、今日は練習すると決めていた曲が始まった。
高校時代から積み上げたバイト代をすべて注ぎ込んで手に入れたという黒と金のレスポールが力強く響かせる。
そこから一拍置いて僕もキーボードを鳴らす。激しいアップテンポの始まりだけど、千聖さんとの音がきっちり噛み合っている。
「わぁ、ライブみたい」
そんな吐息のような声が耳をかすめた。けれどすぐに、音の中に溶けていった。
キーボードの音、そして千聖さんのギターの音だけに耳を傾ける。千聖さんが走れば僕も走り、歩き出せば同じように歩く。
そんな合わせる感覚に、魅了されていたんだと思う。
千聖さんも同じ感覚なのか、目が合って互いに笑みを浮かべた。
そして歌が始まる。千聖さんがバズった曲を歌い上げる。ギターとピアノに千聖さんの歌が加わり、更に音に色彩が宿る。
いつのまにか、原曲よりも少しだけ早いテンポで走っていた。
だけど、それが嫌だとは思わなかった。僕たちで作り上げた音楽がただ心地よかった。
「少しだけ速くなっちゃってたね」
「そうだね。でも、楽しかったよ」
「歌うのは大変だったんだけどね」
「大変にしたのは千聖さんでしょ……まあ、お疲れ様」
「ふふっ、痛いとこ突くじゃん」
「2人ともすごかったよ!」
あっと言う間に走りきってセッションは終わりを迎えた。
普段はテンポを走らせたりしないのに、今日は違った。もしかしたら姉さんがいたからかもしれない。
確かこのバンドの曲が好きだったはずだ。張り切っていたってことなのかも。
「めっちゃ、良かった! もう、なんて言えばいいのかな……無料でこんなの見ていいの? って感じ」
「いえーい、だってさ悠」
「あ、ありがとう姉さん」
身振り手振りで感情を表す姉さんの姿から、本当に喜んでいるのが伝わってくる。
「もう、悠くん。いつの間にそんなにピアノ弾けるようになったの? お姉ちゃん、全然気付かなかった」
「あ、あはは」
「優里香には秘密で特訓してたんだもんね? 格好良かったでしょ」
「うん、最高に格好良かった!」
夢の話は姉さんにはしていない。
まだ千聖さんと僕だけの秘密だ。
「この曲のバンドのファンだった優里香にここまで言わせたんだから、私たち良い演奏ができたんじゃないかな」
「自分で言うのは何だけど、俺もそう思う」
「うん、このレベルなら私以外のファンもきっと喜ぶと思う」
「まあ、私たち別にコピーバンドって訳じゃないんだけどね」
「あ、そっか。悠くんがバズった曲のピアノアレンジを演奏するための練習なんだっけ?」
「いい練習になったよ」
これ以上無いって一体感だったけど、あくまで練習なんだよな。
そう考えると少し勿体ない気がする。観客だった姉さんだってあれだけ喜んでくれたし、演奏していた僕にも手応えはあったから。
「千聖ちゃん、悠くんをライブにゲスト出演させちゃえば?」
「え?」
「悠を私のライブにか……」
姉さんが突拍子もない提案をしてきた。千聖さんのライブに僕がゲスト出演って、一緒に演奏するのは楽しいけど、大丈夫なんだろうか?
千聖さんはシンガーソングライターとして活動している。ファンの人たちはそんな千聖さんを応援しているはずだ。
そこに急に僕みたいなポッと出が現れたら良い気分じゃなくなる気がする。
「……駄目。まだ悠にはライブハウスとかは早いよ。私だって高校卒業してからだし、初めて行ったの」
「あ、そっか。そうだよね。悠くんには危ないよね」
「いや、過保護過ぎない? 千聖さんと違って俺は男だし」
「「駄目!」」
「そんな、2人いっぺんに言わなくても」
2人の過保護っぷりについ口を挟んでしまったけど、ぴしゃりと言い切られてしまう。
確かに怖いとこかもしれないけど、高校生なら出入りするくらい大丈夫だと思うんだけどな。
ただ僕も姉さんの案には乗り気じゃなかった。千聖さんにも、そのファンにも悪い気がしたからだ。
「優里香の案は悪くないけど、ライブハウス以外じゃないと駄目」
「うちの大学祭に来てもらう?」
「イベントの参加申請、もう締め切ってたはず」
「そっかー、残念」
「まあ、そのうち機会があればだね。悠さえ良ければだけど」
「俺は……いい機会があればやってみたいかな」
今の言葉が今の僕の偽りのない本心だった。千聖さんが普段ライブしている場所にお邪魔するのは悪いと思っている。
だけど、それ以外で千聖さんとライブできる機会があるならやってみたい。
あの一体感を誰かに届けられたら、きっと楽しいはずだから。
「ライブの時は私も呼んでね」
「心配しなくても優里香には一番最初に声かけるよ」
「姉さんが居れば変に緊張しないで済みそうだし」
「えー、それって褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。ね、悠」
「うん、めちゃくちゃ褒めてる」
姉さんは「えー、本当かな」とまんざらでもなさそうに微笑んだ。
その後も、スタジオが使える時間ギリギリまで練習を続けた。帰りは姉さんの運転で家に向かったけど、途中でファミレスに寄った。
まるで、これまでの時間を取り戻すように3人での会話はいつまでも止まらなかった。