夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第二話 革命のエチュード

 千聖(ちさと)さんと再会した翌日、僕はかつてない頭の痛みに襲われていた。

 昨日、演奏を途中で止めたせいか。今日の昼過ぎからずっと痛みが止まらない。だから友人の誘いも断って、放課後はあのストリートピアノに急いだ。

 

 広場に着いてピアノを目にした瞬間、痛みが嘘のように消える。

 

「……楽になった」

 

 痛みが意思をもって僕を攻撃しているみたいで、「ピアノを弾け」と脅されている気分だった。

 今日は初めて弾いた時よりも人通りが多い。けれど、同じ学校の生徒の姿はなかった。通学路から外れた区画だから、あまり生徒は寄り付かないようだ。

 

 千聖さんに見られた時は、驚いて演奏を中断してしまった。あれが痛みの原因かもしれない。だから今日は一曲ちゃんと弾ききろう。

 

「ついでに、録画でもしようかな」

 

 強制されてるみたいで気が乗らない。だけど、この痛みと苦しみは我慢できない。演奏しなければいけないのなら、僕にもメリットがある形にすればいいと思いついた。

 

 動画撮影でお小遣いが稼げるかもしれない。なんとか僕の顔が映らないように上手いことセッティングして、録画ボタンを押した。

 上手く弾けたらどこかに投稿してみよう。バイトだと思えば少しは気が楽になる。

 

「……始めよう」

 

 今から弾く曲はショパンの『革命のエチュード』だ。

 今朝、家で何気なく見たテレビから同じ曲が流れてきた。それで曲名を知ったのだ。なんだか作為的で気味が悪かったけど、今は弾くしかない。

 

 鍵盤に手を添える。最初の音は身が縮こまりそうな強い音、怒りの激情を表すように左手が鍵盤の上で荒れ狂っている。その中に時折響く甲高い音色は、悲しみに悲鳴をあげているようだった。

 

 とても素人が弾ける曲だとは思えない。それでも淀みなく、激しく、そして切なく。複雑な緩急をひとつひとつ操るように音にしていく。

 

 こんな難しそうな曲なのに、ひとつも躓くことがない。これが謎の声が言っていた才能ってやつなんだろうか。

 

 夢のことを思い出す。あれは一体何なんだろう――答えが出ないまま、演奏は進んでいく。

 

「……やっぱ、普通じゃないよな」

 

 クラシックに詳しくない僕でも耳にしたことがある名曲。それを他の誰でもない僕が弾いている。

 

 まだ夢の中にいるみたいだけど、これはまぎれもない現実だ。夢で見たままに、現実の世界で僕はショパンを弾いている。まるで嵐のような激しいリズム、革命という名にも頷ける荒々しい音を僕の指が形作る。

 

 そんな慣れない感覚のまま、駅の中にはショパンの革命が響いていた。

 

 そして、駆け抜けるように僕は最後の和音を押し込んだ。

 

「終わった。今日はちゃんと弾き終わったんだから、しばらくはやめてくれよ」

 

 あの耐え難い頭の痛みは日常生活に支障が出るレベルだ。馬鹿らしい話だけど、この痛みの元は意思を持っている。

 

 そう考えてしまったほうが楽かもしれない。ちょっとしたバイト、放課後にピアノを弾いていれば後は元通りになると思っておこう。

 

「え、めっちゃ上手かったよね。音楽科に通ってる子かな?」

「あれ翔学の制服だよ。あそこには音楽科なんてないでしょ。でも凄かったね」

 

 演奏の余韻に浸って痛みが出ないように祈っていると、反応の声があちこちから聞こえた。周りにはいつの間にか足を止めて演奏を聴いてくれた人が集まっていた。

 

 あんまり長居しないほうがよさそうだ。早くどこかへ移動しよう。そう思った時だった。

 

 ――パチ、パチ、パチ。

 小さな拍手が周りのざわめきを打ち消すように、痛いほど鮮明に僕の耳へ響いた。

 

 振り返るとそこには一人の少女がいた。

 絹糸のような黒髪が腰まで流れ、ガラス細工のように澄んだ瞳が僕を見つめていた。

 

 冬服のセーラー服。濃紺の襟に、深い赤色のリボンが金色のリングで上品に留められている。

 

 その制服を、この街で知らぬ者はいない。

 朱鷺ノ宮女子学院――全国から名家のお嬢様が通う名門校。

 そんな別世界の人間が、惜しみない拍手を僕に送ってくれていた。

 

 あまり不躾に見るのは失礼だ。僕は慌てて目を逸らして下を向いた。

 

 「貴方のショパン、とても素敵でした」

 

 不意に、予想外の至近距離から柔らかい声がした。

 驚いて顔を上げると――さっきの女の子が、僕を覗き込むようにすぐ隣に立っていた。

 

「……っ!?」

 

 いつの間にこんな近くに。驚きと共にスマホを手にとって、飛び上がるように立ち上がる。

 

 心臓の音が聞こえそうなほどドキドキしている。思わず大きく後ろへ下がると、背中がドンと壁に当たる。

 ここが区画の隅だってことを忘れていた。

 

「私は朱鷺ノ宮 静流(ときのみや しずる)といいます。……貴方のお名前を教えていただけませんか?」

 

 逃げ場がない。どうしようと戸惑う僕に構うことなく、彼女は堂々と名前を口にする。

 物語の中から飛び出してきたような完成された振る舞い。その姿に、思わず見惚れてしまっていた。

 

「その、大丈夫ですか?」

 

 返事がないのを不審に思ったのか、不思議そうに小首を傾げる。

 その愛らしい姿にハッと我に返る。

 

「……えっと、はい、大丈夫です」

 

 見惚れたせいで質問の返事もしないまま固まっていたとは言えない。

 まだ落ち着かない鼓動を必死に抑え、僕は何とか答えを返した。

 

「……篠原 悠貴(しのはら ゆうき)です」

「篠原 悠貴くん……悠貴くんと、お呼びしてもいいでしょうか?」

 

 その問いに僕は壊れた玩具のように何度も頷くことしかできなかった。

 朱鷺ノ宮――この街の支配者といってもいい名家の名前だ。

 

 彼女はそう名乗った。そんな人が僕の弾いたピアノを褒めてくれている。

 よく分からないけど、とんでもないことになっている気がした。

 

 この街で一番大きな病院も、銀行も、この駅ビルだって朱鷺ノ宮という名前だ。

 その一族の女の子が僕に話しかけている。何をどうすればいいか、まるで分からなかった。

 

「悠貴くん……。私たち、はじめましてですよね?」

「? う、うん、そう、だと思います……けど」

「……そうですよね。そうですよね! 私は貴方を知らなかった!」

 

 まるで感情が爆発したように朱鷺ノ宮さんが声を上げた。大きな瞳が僕を見つめている。

 さっきの柔らかい雰囲気とは一転、鬼気迫る表情が僕を逃さないと言わんばかりに僕に向けられている。

 

 豹変した雰囲気に驚いていると、僕の手が朱鷺ノ宮さんの両手に包まれるように強く握られた。

 

「……どうして、あれほど完璧に弾けるのですか?」

「え、えっと……完璧?」

「同い年くらいですよね?これまでコンクールで貴方をお見かけしたことがありません。どこでピアノを学びましたか? どなたに師事されていたのでしょうか?」

「と、朱鷺ノ宮さん?」

 

 動揺して朱鷺ノ宮さんと名前を呼ぶ。だけど、止まるどころか握られた手に籠もる力がより強くなる。

 そして、彼女は更に言葉を畳み掛けてきた。

 

 「それほど弾けるのに何故コンクールへ出ていないのですか? 貴方ほどの腕があれば国内で高い知名度を得られたはずです。どうして、ストリートピアノを弾いていたんです?」

 

 圧に押されて、僕は思わず息を呑んだ。

 朱鷺ノ宮さんは今にも泣き出しそうな表情をしていた。周りの目など気にした様子もなく僕に詰め寄ったまま、その瞳には涙が浮かび、今にも零れ落ちそうだ。

 

「何故ですか?……何故、それだけ弾けるのにっ、なぜ……なんでっ……どうして!」

「あ、あの……朱鷺ノ宮さん?」

「……失礼しました。取り乱してしまって」

 

 そう言って彼女は顔を伏せるように俯いたけど、それでも僕の手を握ったままだ。

 まるで慟哭にも似た叫びに、この手を振り払うことができない。

 

 どう言葉を掛ければいいか分からないまま立ち尽くす。そのまま、どれくらい時間が流れただろうか。やがて前触れもなく、手を包んでいた温もりが消える。

 冷めていく体温に、何故か寂しさを覚えた。

 

「……この後、お時間はありますか?」

「え、うん、大丈夫だけど」

「なら、お茶をしませんか? 素敵なお店知っているんです」

「え!?」

「私、悠貴くんとは仲良くしたくて……だから、勇気を出してお誘いしちゃいました」

 

 また雰囲気がガラリと変わる。今度はイタズラを思い付いた子供のような、無邪気な表情を浮かべて笑っている。

 

 涙を隠すように俯いていたときとは別人だ。その落差に僕は狼狽えていた。

 

 だけど、今は彼女の笑顔を壊したくない。目の前の柔らかな笑みにあてられて、ただそう思った。

 

「……ちょうど喉が渇いてたんだ」

「やった! 決まりですね。すぐ近くのお店なんです。ここから歩いていけますよ」

 

 おそらくは店がある方向へ「こっちですよ」と、朱鷺ノ宮さんは僕を先導するように歩き出した。

 次の瞬間にはスキップし出しそうなほど嬉しそうで、そんな仕草にどこか安心している自分がいた。

 

 ――けれど。

 逃さないように僕へ詰め寄った雰囲気、やっぱり普通じゃなかった。

 あそこまで彼女を追い詰める事情。

 

 僕はそれが、どうしようもないほど気になって仕方なかった。

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