夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
たった1つだけ、恐れていたことがあった。
もし『ラ・カンパネラ』を弾く夢を見てしまったら、その不安は撮影当日に現実となった。
「……なにも撮影当日に見なくてもいいじゃないか」
昨日までの僕が弾けたものとは一線を画す――完璧な演奏を夢に見た。
良い演奏ができるようになったと喜ぶべきかもしれないけど、とてもそんな気分にはなれなかった。
「とりあえず準備しなきゃ」
気分は最悪でも体調は何も問題ない。それに今日は収録するって
こんな夢を見たからって約束を破るわけにはいかない。ベッドから起き上がって、出掛ける準備を始める。
「おはよう悠くん。もう出掛けるの?」
「少し早いけど、遅れるよりはいいかなって」
準備を終えてリビングに出ると姉さんがいた。今日は大学も休みのはずだけど、出掛ける用事があるらしい。
「朝ごはんは食べていくよね。パンでいい?」
「自分でするよ」
「いいの。お姉ちゃんがしたいんだから、悠くんは座ってて」
パンを焼く匂いとコーヒーの香りを感じながら椅子へと座る。
心地よい香りだけど、気分は晴れなかった。
「はい、できたよ悠くん」
「ありがとう姉さん」
「私はもう出るね。悠くんはこれから収録でしょ? 頑張ってね」
先に家を出る姉さんの背中を見送りながら、朝食を済ませる。
食べ終わったあとの片付けをしていると、手に触れる冷たい水の感覚がやけに痛かった。
「……そろそろ、向かわないとな」
収録場所へ向かわなくちゃいけない。家を出て慣れた道のりを歩いていくと、あっと言う間に着いていた。
あんな夢を見てしまったからだろうか。どうも収録に臨むメンタルが沈んでいる。
重い足取りで自動ドアをくぐる。いつも通りに受付の人に挨拶しようとしたその時、不意に声が掛けられた。
「おはようございます
「朱鷺ノ宮さん……珍しいね。いつもは上で待ってくれてるのに」
今日はエントランスで待ってくれていたのか。
いつも6階のスタジオで待ってくれているけど、それくらい今日の収録が楽しみだったのかもしれない。
「今日はいよいよ『ラ・カンパネラ』の収録ですね」
「だね。頑張るよ」
受付の人に会釈だけして、朱鷺ノ宮さんと一緒にエレベーターへ乗り込む。
「一昨日、投稿した『愛の夢』の動画はもう確認しましたか?」
「上げてくれてたね。一応見たけど、何かあった?」
「次は『ラ・カンパネラ』を楽しみにしている。そんなコメントが多かったんです」
「あー、そこまでは見てなかった……本当だ。朱鷺ノ宮さんが言ったとおりになってるね」
「リストと言えばの曲です。多くの人が聴きたくなるのは自然なことですから」
2人でエレベーターに乗って、そんな会話をする。
僕が見たのは投稿してすぐ、まだその手のコメントは無かった。でも朱鷺ノ宮さんの予想通り、視聴者は『ラ・カンパネラ』を求めているようだ。
「悠貴くんの演奏が聴きたいと、毎日登録者数は伸びています」
「思ってたよりも伸びてるよね。もう4桁まで伸びてたし」
「ピアノや機材は良いものを使っていますし、何より悠貴くんの実力は本物ですから」
「……そこまで言われると恥ずかしいな」
「うふふ、慣れていかないともっと伸びてから大変ですよ」
朱鷺ノ宮さんの期待とは裏腹に僕の気持ちは沈んだままだった。
それは、今日はどう『ラ・カンパネラ』を弾けばいいのかが分からないからだ。
今まで練習してきたとおりに? それとも夢で見たように?
同じ曲だけど、その選択で全くの別物になると思う。僕は練習の成果を出したい。
本当にそれで良いのか。その悩みがずっとついて回っていた。
「私も、この曲には苦労しました」
「朱鷺ノ宮さんも?」
「はい、何回も同じところをさらって何度も練習を繰り返して、それでも通しで弾くとミスを繰り返して」
「そうだったんだ」
「だから悠貴くんが練習しているところを見ているのが嬉しかったんです」
「嬉しかった?」
いつもみたいにちゃんと弾けていないのに、それが嬉しかったと朱鷺ノ宮さんは言った。
駅で弾いたのは何とか通して弾けたってレベルだったと思う。それでも聴いていて嬉しかったんだろうか。
「かつての私を見てるようでしたし、それに悠貴くんの新しい一面を知れましたから」
「……それって、どんな?」
「悠貴くんがピアノの練習にどのように取り組んでいるか、という姿です」
「練習に、取り組んでいる姿……」
「これまでは、完成された音を聴かせてもらっていました。だからこそ――その過程、完成に近づけていく姿を見られるのが嬉しかったんです」
「近づく、ちゃんと近づけていたかな?」
「はい、練習を重ねるごとに確実に」
その言葉に、今まで悩んでいたことが嘘のように心から雲が晴れていく。
今日まで練習してきたものでいい。積み上げたものを聴かせてほしい。そう言われたような気がした。
「練習の途中でも悠貴くんの音色は美しく響いていました。だから、気負わないでください」
「……ありがとう朱鷺ノ宮さん」
「それに収録ですから、何回だってリテイクはできますから」
「あ、そっか。一発勝負って感覚だった」
「うふふ、いつもは1回で収録できちゃいましたからね。時間もありますし、悠貴くんが納得できるように何回だってやり直していいんですよ」
どうやら悩みを抱えているって、朱鷺ノ宮さんにはお見通しだったようだ。
情けない姿を見せてしまったな。その分、今日まで積み上げてきたありったけで演奏しよう。それが朱鷺ノ宮さんの期待に応えるたった1つの方法だと思う。
「ちょっと気負い過ぎてたみたい」
「何回でも私は付き合いますよ」
顔の前で小さく拳を握る朱鷺ノ宮さんの姿に、胸の奥がじんわりと熱くなってくる。
夢で見たことは一度忘れて、今日まで練習に付き合ってくれた朱鷺ノ宮さんにその成果を見てもらおう。きっとそう考えて収録に臨むのが一番いい。
「あとで後悔しても知らないよ」
「そうはなりませんよ。悠貴くんのピアノを聴いていられるんですから」
もうさっきまでの悩みはない。あれだけ気分が落ち込んでいたのに、今はもうピアノが弾きたくて仕方ない。
朱鷺ノ宮さんの隣から、ピアノの前へと踏み出す。そして鍵盤の前に手を構え、深く深呼吸をした。
「撮影の準備はできています。いつ始めてもらっても大丈夫です」
その言葉を背中に受けて、もう一度息を吐く。そして僕はこれまで積み上げてきたものを意識して鍵盤を叩いた。
始めの音からどんどん激しくなってくるリズム、最初は指がこんがらがってしまいそうだったけど今は淀み無く流れるように弾ける。
イメージは鐘の音。『ラ・カンパネラ』は日本語では鐘という意味らしい。だからこの音が祝福の鐘の音になるようにイメージを作り上げて音を奏でる。
指が鍵盤の上を走るたび、これまでの練習の時間が音になっていく。
何度も止まっては朱鷺ノ宮さんと確認した箇所も、今は自然に指が導いてくれる。
一音一音に、積み重ねた日々の重みが宿っているようだった。
「……っ」
だからこそ、見逃せなかった。 ほんの小さな違和感を。ミスはしていない。間違えそうになったけど、なんとかカバーできて良い調子だと思う。
だけど、その違和感はどんどん大きくなっていく。
僕の積み上げたものが崩れていく。それは音が崩壊していくということではなく、見えない糸がどこか高い場所へと引き上げていくような感覚だった。
曲が進めば進むほど、その正体不明の感覚が強くなっていく。
ゆっくりと暗闇から這い出るように、その正体は強烈な既視感を持って僕の前に現れた。
これは夢で見たものだ。僕が今まで朱鷺ノ宮さんと積み上げてきたものではなく、今朝夢に見た、あの鐘の音だった。
違う、これじゃない。僕が積み上げてきた音は、こんなものじゃない。そう思って指を抑え込もうとするけど、夢の鐘の音は止まらない。
確かに僕が弾いているはずなのに、その確信が持てない。夢のように曖昧な感覚のまま、ただ鮮烈に響くのは僕が積み上げたものよりも遥かに完成された音だった。
まるで操り人形になってしまったようで、言いようのない恐怖が背中を走る。
そのまま最後の鐘の音が響いて消えていく。僕はその鐘の音が消えたあとも、しばらく自分の手から目が離せなかった。
「……すごい」
「朱鷺ノ宮さん?」
「すごい、すごいです悠貴くん! 途中からどんどん音が澄んでいって、まるで鐘の音のように響いていました」
「……鐘の音、朱鷺ノ宮さんにはそう聴こえた?」
「はい、まさに『ラ・カンパネラ』という名にふさわしい素晴らしい演奏でした!」
その無邪気に喜ぶ姿が何故か遠く見えた。同じ鐘の音を聴いたはずなのに、こうも感じることが違うんだと素直に喜べない。
さっきの恐怖が足元に纏わりつくように身体を重くして、ピアノの前から立てなかった。
「だんだん完成されていくのが本当にすごくて、今までの練習以上の演奏でした」
「練習以上、そうだよね。今までで一番良かったかも」
「はい、今までで一番の演奏と断言しても良いくらいです!」
朱鷺ノ宮さんは僕を褒めてくれているのに、どうしても喜ぶことができない。
今まで積み上げてきたものを誰より信じてくれた人に否定されたような気がして、確かに僕が弾いたはずなのに受け止められずにいる。
「これは他のストックよりこの『ラ・カンパネラ』を先に投稿しましょう。きっと今まで一番反響をもらえるはずです」
「……伸びるかな?」
「ええ、きっと!」
いつもは頼もしい朱鷺ノ宮さんの自信のある声も、今は虚しく聞こえた。
あの夢って一体何なのだろうか。その疑問がずっと頭の中で渦巻いている。いくら考えても答えは出ない。
ふと鍵盤に視線を落とす。無機質な白黒の世界は、ただ静かに温かみなく佇んでいるように見えた。