夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
普段は音楽教室に使っている部屋へ
バイトだとこっちへは来ないから新鮮な気分だ。
キーボードの準備を済ませると、既に準備を済ませた千聖さんが難しい顔でスマホを眺めていた。
「千聖さん、準備できたよ」
「……悠、最近『My etude』はどんな感じ?」
「どうって、千聖さんがチャンネルのこと聞いてくるのって珍しいね」
どうやら『My etude』を見ていたようだ。
最近はあまり見ていない。日に日に登録者数を伸ばしていくチャンネルを見たくなかった。
「やっぱり、知らないんだ」
「え、もしかして炎上でもしてる?」
「そうじゃないけど……見て、すごいことなってるよ」
「うちのチャンネル? え、じゅうにまん……12万人!?」
千聖さんがスマホの画面に表示していたのは『My etude』のチャンネル画面だった。
登録者数は12万人。前に僕が見た時の4倍だった。
慌てて自分のスマホで確認する。見間違いじゃない。確かに12万人って表示されている。
「悠のショート動画めっちゃバズってるみたい」
「ショート? うわ、再生数すごいことなってる」
「そこから一気に伸びたんじゃない。こういうのって火が付くとすごいって言うし」
ショート動画の再生数は、登録者数の何倍にも膨れ上がっていた。
この前、投稿を始めるって
「あれ、違う」
「どうしたの悠?」
朱鷺ノ宮さんが『Shizuru』のアカウントで宣伝したのかもしれない。そう思ってSNSのアカウントを確認したけど、更新はずっとされていない。
『活動をお休みさせていただきます』ってお知らせを最後に止まったままだ。
「ううん、なんでもない。なんでまた急にこんなことに」
「更新頻度が高いし、動画の質もいいからじゃないかな。再生数のあるチャンネルって、意外と古くて今はもう動いてないのも多いし」
「……言われてみれば、そういうチャンネル結構見たかも」
クラシック系のチャンネルは、特にそんな印象があった。
昔からある曲ばかりだし、動画サイト自体ももう長い。昔に投稿された演奏がいくつもあって、最新の動画ってのはあまり見かけなかった。
「それに悠のチャンネルは環境も影響してるかも。良いピアノに、良い収録機材、ちょっと音楽分かる人ならお金掛けてるなって分かるもん」
「確かに良いもの使わせてもらってると思う」
「普通の人だって、なんか良いなって感じてるはずだよ。一流の機材や道具って、そういう力があるから」
「……そういうの、ちゃんと伝わるんだ」
「見て、今ちょっと調べたんだけど。『ラ・カンパネラ』のショート動画、海外の有名なヴァイオリニストがシェアしたみたい」
「それで拡散されたってこと?」
有名人が反応したことで一気に登録者が増えたのか。海外の有名人ともなれば、桁が増えるくらい登録者数が増えたのも頷ける。
どうしてだろう。普段の僕なら馬鹿みたいに驚いて千聖さんに笑われただろうに。
今はちっとも心が動かない。
「間違いないよ。自分の伴奏してほしいって言ってる……反応返してあげる?」
「……やめとくよ。とてもそんな気分じゃない」
今はクラシックの話題そのものに触れたくなかった。ライブだけの意識を向けようとしていたのに、鎖のように絡みついてくる。
海外の有名人だとしても、今は千聖さんとの時間を邪魔されたくなかった。
「悠、そんな顔しないで。その夢のクラシックをぶっ飛ばしてやるんでしょ」
「……千聖さん」
「むしろ悠が現実の音で夢のクラシックを取り込んじゃえ。俺のなんだから勝手なことするなって」
「……そうだね。俺の夢なんだから大人しくしといてもらわないと」
「そうそう、その意気だよ」
千聖さんの言葉で心が少し軽くなった。
それでも、自分の音楽なんてものが本当に僕の中にあるのか、その答えだけはまだ見えなかった。
「二人とも、差し入れ持ってきたわよ~」
「差し入れ? やった!」
「ありがとうございます」
少し重い空気になっていたところへ店長が差し入れを持ってきてくれた。
半透明なビニール袋には、お菓子やペットボトルが透けて見えている。
「もう暑くないけど、水分補給は小まめにね。あとお菓子もあるから、いっぱい食べてね」
「やった、店長大好き!」
「ありがとうございます」
千聖さんがギターを下ろして差し入れを受け取る。僕も重そうなほうを受け取って、2人分には多すぎる差し入れをテーブルの上に置いた。
「旦那が来たのよ。今は車を駐車場に回してるから、もう少しで来ると思うわ」
「飯田先生、腰大丈夫?」
「寝込んでた時に比べたらね。まだギターかついで演奏は無理そうだけど」
腰は大丈夫なんだろうか。まず心配が先にくる。運転できるくらいだし、落ち着いてきてはいるんだろうけど。
「あの人、毎年文化祭のライブをすごく楽しみにしてたの。だから代わりに引き受けてくれた2人に、どうしてもお礼が言いたかったみたい」
「そうだったんですか」
「結構熱い人だよね飯田先生」
数学の授業の時は分かりやすく教えてくれる穏やかな先生だったけど、そういう一面もあったんだ。
そんな話をしているとレッスン室の扉が開いて飯田先生が姿を見せた。相変わらず温和で優しそうな雰囲気な人だ。
「こんばんは。水無瀬《みなせ》くんに、篠原くんも」
「あ、飯田《いいだ》先生、こんばんは~」
「こんばんは、飯田先生」
「今回は悪いね。僕が不甲斐ないばっかりに、2人に急にライブの代役をお願いすることになって」
「大丈夫だよ先生、私たちにとっても良い機会だったから。ね、悠」
「うん、初めてだけど頑張ります」
学校以外で先生に会うってなんか変な感じだった。
千聖さんは『久しぶりですね』って盛り上がってるけど、僕は何を話せばいいかよくわからなかった。
「曲は何をするつもりかな? 2人に任せるから、自由にやってくれて構わないからね」
「私の曲にしようかなって思ってる。悠の学校にも私のファンだって言ってくれる子もいるし」
「それはいいね。楽しみにしているよ」
千聖さんの曲、あの夢を告白した時は一緒に演奏しようって言われたけど結局できていない。
セッションは何度もしたけど、あれはバズってる曲の練習だった。
だから、今回のライブは本当に良い機会だった。合わせるのは今日が初だけど、もらった楽譜は何度もさらって覚えてきている。
「悠も、いいよね?」
「もちろん、千聖さんの曲一緒できるの楽しみにしてたんだ」
「私も、ずっと悠と一緒に演奏したかったんだ」
本当に嬉しそうに千聖さんが笑う。ずっとこの時を待っていたかのような笑顔に、僕もつられて表情が緩む。
「あらあら、お邪魔かしら?」
「あまり長居しても練習の邪魔になってしまうからね」
「もう、そうじゃないでしょ。相変わらず鈍いんだから……ま、いいわ。2人とも私たち下にいるから何かあったら声掛けてね」
「はーい、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
店長と先生がレッスン室を後にする。確かに見られていると練習しにくい気がする。
部活で顧問の先生に見られてるって感じかな。ライブで大勢の人に見られるんだから克服しないとな。
「曲は私ので決まりね。文化祭では2曲することになってるの」
「え、一曲しか楽譜もらってないよ」
ライブすると決まった日に「私の曲をやるからね」と一曲分だけ楽譜を渡されたから、てっきりライブは一曲だけだと思っていた。
「実は、二曲目は決まってなくて……今作ってるのがあるんだけど」
「 新曲ってこと? 大変そうだけど、千聖さんがしたいなら俺も頑張るよ」
「簡単に言ってくれるなあ。大変なんだよ。ただでさえ練習時間きびしいのに」
「……文化祭、2週間後だったね」
「2週間なんて一瞬だよ、一瞬!」
単純に考えると一曲に一週間しか練習時間が取れない。
バンド活動に詳しくないけど、ライブに向けての準備期間としては確かに短い気がする。
「ま、悠と私なら何とかなるかもね?」
「どこからその自信が……? 俺、素人みたいなものだよ」
「一曲は決まってるから大丈夫。一週間前までに新曲が完成しなかったら、別の曲を練習すれば間に合う……はず」
いつも頼もしい千聖さんも、流石に自信がなさそうだ。
「新曲が間に合わなかった時のために、既存の曲で二曲目の準備もしておこうよ。一人でも練習頑張っておくからさ」
「ふふっ、悠はしっかりしてるね」
「千聖さんが行き当たりばったりなんだよ。まさか初ライブがこんなことになるなんて……」
口ではそう言いながらも、僕の口元は笑みを浮かべていた。
こんなドタバタが楽しくてたまらない。千聖さんとならきっと大丈夫、根拠なんてないけどそう確信していた。
「……だね。それは本当に悪いと思ってる」
「せ、責めてるわけじゃなくて」
「一週間前までに新曲が完成しなかったらスパッと諦める。悠の言った通り準備してた二曲でライブしよう」
「……いいの?」
僕をライブに誘った責任を感じてくれているんだろう。
いつもなら無茶振りしてきそうな千聖さんだけど、ライブに関しては一線を引いているみたいだった。
「ま、間に合わせるけどね。私の作曲したのって難しくないし、悠なら2、3日あれば完璧に弾けるようになるよ」
「本当にライブの3日前とかは無理だからね」
「そ、そんなことしないよ~」
あからさまに千聖さんは視線を反らした。僕をライブに誘った責任感はありつつも、新曲もライブに間に合わせたいんだろう。
中途半端にはしない人だ。きっと大丈夫だと思う。
前途多難に思えるけど、不思議と不安にはならなかった。