夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
「ちょっと休憩していったほうがいいよ悠」
「そうする。手がまだ震えてるよ」
控室へ戻って椅子に座ると、一気に疲労感が押し寄せた。
「初ライブだったもんね。そうなるのも無理ないって、私なんて倒れたからね」
「え、倒れた!?」
「あー、ちょっと盛った。椅子に座り損ねて尻もち付いたの、それでちょっと起き上がれなかっただけ」
「それ倒れたでいいと思う」
「いやー、あの時は焦った。膝ガクガクだったからね」
椅子に座り込んだ僕と違い、
そんな千聖さんも初めてのライブではヘトヘトだったらしい。一緒なんだって思うとやっぱり嬉しかった。
「あ、優里香ここに来たいって、おばさんも一緒に」
「 えー、いいよ。学校で会うの変な感じするし」
「ふふっ、恥ずかしいんだ?」
嫌って訳じゃない。
多分褒めてくれるだろうし、ただ僕の気持ちが落ち着いてからにしてほしい。
「そういうんじゃなくて……」
「ごめん。いいよって送っちゃった」
スマホの画面を僕のほうへ向けて、もう連絡しちゃったからと千聖さんが意地悪く笑う。
姉さんと母さんがここへ来るのか。姉さんもここの生徒だったし、迷わず来るんだろうな。
「悠くん! 千聖ちゃん!」
「優里香、静かに入りなさい」
あっという間に姉さんと母さんは控室へとやって来た。
ライブに感動してくれたみたいで、姉さんのテンションがいつになく高い。
その勢いのままこっちへ突進してきそうだったのを、母さんが抑えてくれている。
「おばさんも一緒に来てもらって良かったでしょ?」
「……そうだね」
母さんが止めてくれなければもみくちゃにされていたと思う。
「悠貴、いつの間にキーボードできるようになったのよ。千聖ちゃんとライブまでして……優里香から聞いて本当に驚いたんだから」
「だって悠、聞かれてるよ」
「秘密、こればっかりは母さんと姉さんにも教えられないね」
「秘密なの? 残念だわ」
「 私にだって教えてくれないだよ」
夢で見て弾けるようになった。やっぱりこれは言いにくいよな。
2人には悪いけど、秘密ってことにさせてもらおう。
「おばさん、今日は大丈夫だったんだね。優里香からは来られるか微妙って」
「悠貴がライブするって聞いて、おばさん頑張ったのよ」
「大丈夫なの? 仕事とか」
「子供がそんなこと心配しなくていいの!」
そう言い切る姿が嬉しい。やっぱり何だかんだ言っても、見に来てくれるのは嬉しいものだ。
お父さんは単身赴任だから流石に来られないけど、いつかお父さんにも聴いてほしいな。
「優里香とおばさんには悪いけど、そろそろ交代でここ出なくちゃいけないの」
「えー、来たばっかなのに……ま、仕方ないよね。他の人のスケジュールとかもあるし」
「次はPTAの何かだっけ?」
「私たちの時もやったやつ、手品ショーだよ」
名残惜しいと思うのは姉さんだけじゃない。でもそんなワガママでここを占領するわけにはいかない。
それに僕も午後からの当番がある。ライブのために融通を効かせてもらったし、遅れるわけにはいかない。
「それじゃあ、その文化祭が終わったら2人のライブお疲れ様会をしましょう。どこかに食べに行くでもいいし、家にデリバリーでもなんでも!」
「悠くんと千聖ちゃん頑張ってたもんね。お母さんさっすが!」
「やった。ごちそうさまです」
「家がいいな。ピザとか頼もうよ」
お疲れ様会、昔この4人でした誕生日パーティーみたいなものになるんだろうな。もうあれから10年くらい経っている。
あの頃のように皆で楽しめるんだ。
「そうと決まったら私たちは御暇しましょうか。先に家帰って用意しておかないと」
「2人とも先に帰って準備して待ってるよ~」
そのまま2人は帰っていった。
お疲れ様会か、まだ文化祭の途中なのに気持ちがそっちに向いてしまいそうだ。
「悠はまだ文化祭でしょ。まだ楽しんで思い出作っておいで」
「……別にもう帰りたいとか考えてないけど」
「ふふっ、顔見てればわかるって」
「そんな分かりやすい顔してたかな」
「分かるよ。悠のことだからね。さあ、出よ。そろそろ時間」
時計を見ると本当に時間ギリギリだった。早く教室へ戻らないといけない。
控室を出るなり千聖さんに別れを告げる。
「また後でね。文化祭もう終わりが近いけど、最後までしっかり楽しんできなね」
「わかってる。ありがとう千聖さん」
「こっちこそだよ。ライブ、楽しかった。またやろうね」
千聖さんが拳をこっちへ突き出す。
その姿がすごく様になっていて、自然と僕も拳を合わせていた。
「うん、またやろう」
「約束だからね」
「うん、約束」
「うん……じゃあ、私は懐かしい校舎をブラブラしてくるね。待ってるから終わったら一緒に帰ろ」
「分かった。終わったら連絡するよ」
一緒に帰る約束をして、千聖さんはギターケースを背負って職員室のほうへ向かっていった。
僕も教室へ戻ろう。人混みはまだ多いけど、隙間を縫ってなんとか教室へ辿り着いた。
「お、篠原が戻ってきたぞ!」
「篠原くん! なんでライブ!? しかも水無瀬 千聖と、てかめっちゃキーボード上手かったけど」
「落ち着きなって。しのっち、ライブめちゃくちゃ良かったよ~」
「あ、ありがとう」
教室へ戻った瞬間、大勢のクラスメイトにもみくちゃにされる。
みんな思い思いに話をしてよく聞き取れないけど、褒めてくれてることだけは分かった。
そんな状態で数分、ようやく解放されて遠巻きに見ていた武蔵の横へ倒れるように座り込んだ。
「よう、ヒーローみたいだったじゃないか」
「見てないで助けてよ。薄情者め」
「ギリギリまでライブのこと黙ってたやつには相応の報いだな」
それを言われると何も言い返せなくなる。ライブのこと言ったの昨日だった。
普段から落ち着いている武蔵だけど、珍しく驚いていた。
「それよりも当番なんだけど、順番って入れ替わってないよね?」
「ああ、そのことか。お前の順番なんだけどな。なくなったぞ」
「え、どうして?」
「昼過ぎで完売、もう売るものがないから店じまいだ」
「マジ? 余るかもって話だったのに」
急いで戻って来る必要なかったみたいだ。よく見ればもうほぼ片付け終わってる。
けっこう教室に皆集まっているし、そろそろ終わりが近いのかもしれない。
「たけぞー! 私ら一旦部活のほうに顔出すから、しのっちが逃げないように見張っててー」
「武蔵だって、 分かってるよ!」
たけぞー、武蔵のあだ名を女子が呼んだ。そとても聞き逃がせないことを言い残して、教室から出ていった。
確かあのグループはみんな女子テニス部だったはずだ。
「え、何? 怖いんだけど」
「このあと、お前にさっきの子のこととか、ライブのこと根掘り葉掘り聞く時間があるらしい」
「……マジで?」
「マジで。ほら、お前の鞄だ。さっさと帰っておかないと大変なことになるぞ」
鞄を受け取って武蔵の顔を見ると深く頷かれた。
これはもう逃げるしかなさそうだ。職員室に寄って担任の先生に言って帰ろう。今日は特別にそうやって帰ってもいいって先生が言ってたし。
「また来週な、ゆっくり休めよ」
「また借りだね」
「いいって、あんな良いもの見せてもらえたからな。良かったよライブ」
「ありがとう武蔵、また来週」
別れの挨拶を交わし、女子グループが戻る前に教室を後にする。職員室へ顔出して先生に帰ると伝える。
千聖さんが居るかなって見回したけど、もうここにはいなかった。
「……悠貴くん?」
まだ喧騒が残る校内なのに、その小さな声ははっきりと僕の耳に届いた。
振り返るとパンフレットを持った
「良かった。帰る前にもう一度会っておきたかったんです」
「ライブ来てくれてたね。どうだった?」
「とても素晴らしかったです。いつもの悠貴くんとは全然違って、音も私の知らないもので……すごく、良いライブだったと思います」
「……ありがとう」
会う人会う人がライブのことを褒めてくれる。朱鷺ノ宮さんもそれは同じだ。
でも温度感が明らかに違う。ライブが良かったと思ってくれているのは本当だろう。
けれど、言葉の中に含みがある。
「もっと、言いたいことがあったんです。でも悠貴くんの顔見たら忘れちゃいました」
「……朱鷺ノ宮さん」
「ライブの感想だけは、どうしても今日は直接言っておきたかったんです。お友達を待たせているので、私は戻りますね」
「待って!」
「……なんでしょうか?」
何を言えばいいか分からない。それでも引き止めていた。
このまま行かせてはいけないと、そんな予感があったから。
「俺も……言いたかったこと忘れちゃったみたい」
「え……うふふ、なんですかそれ、忘れちゃったって……悠貴くん、おかしいです」
さっきよりも柔らかい笑顔だ。その表情にさっきまでの焦るような気持ちが消えていく。
良かった。安堵感が胸を満たす。くすくすと笑う朱鷺ノ宮さんの姿に、僕も自然と笑っていた。
「悠貴くん」
「……なにかな?」
凛とした声だった。何かの決意を秘めたような、静かだけど力強い声。
何かを言おうとして、少し躊躇うように視線を揺らす。それでもじっと待つと、朱鷺ノ宮さんは意を決したように口を開いた。
「私、負けませんから」
「負ける? 負けるって何に……?」
「あの方、水無瀬 千聖さんに」
唐突に出た勝ち負けの話と千聖さんの名前に困惑する。
千聖さんを知っていたのか、何か勝負をするのか、頭の中を色んな考えが巡ったけど何も分からなかった。
「今日のライブ本当に素敵でしたけど、私と悠貴くんでも同じくらい……いいえ、もっと良いコンサートができたはずです」
「朱鷺ノ宮さんと俺とでって、それは……」
「ええ、分かっています。まだ私はピアノに触れるのが怖い。でも証明してみせます。今言ったことを、必ず」
僕を捉える瞳には、力強い意志が宿っていた。
まだ怖くてピアノに触れないと言いながら、僕たち2人で今日のライブ以上のコンサートをする。それを証明してみせると確かな自信があるように見える。
「方法もあるんです。それは――」
急に手を引かれて朱鷺ノ宮さんのほうへ身体が傾く。
朱鷺ノ宮さんは姿勢を崩した僕の耳に口を寄せ、そっと僕にだけ聞こえるように耳元で囁いた。