夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第三十三話 貴方の水面

「『小舟にて』はドビュッシーの4曲からなる小組曲の1曲目の曲です。ドビュッシーがまだ若い頃の作品で、ポール・ヴェルレーヌの詩集『艶なる宴』に含まれる詩からインスピレーションを受けたと言われています」

「詩からインスピレーション、そういうのもあるんだ」

「ええ、詩や文学から影響を受けた曲は多いですよ。時代によって傾向は違いますけど、詩や文学、それに神話など、物語から音楽が生まれた例は数え切れないほどなんです」

 

 そういえば僕が作曲したのも千聖(ちさと)さんの書いた歌詞を見たイメージを音にしたっけ。

 クラシック音楽界の偉人たちと比べるのは烏滸がましいけど、根っこは同じってことかな。

 

「今度、実際にポール・ヴェルレーヌの詩集をご覧になりますか? 楽譜を見るのとは違ったイメージを得られるかもしれません」

「詩集……国語の授業でしか読んだことないけど、せっかくだし読んでみようかな」

「では次に会う時までに用意しておきますね!」

 

 自分が弾く曲は全部こんな風に向き合っていたのかな。『神に愛されたピアニスト』そう呼ばれていたのは、朱鷺ノ宮(ときのみや)さんのこういう努力があったからこそなのかもしれない。

 それなのにピアノが弾けない。触れることができない。そんなの悲しすぎる。

 

 今まで2人で過ごした時間のお陰で、朱鷺ノ宮さんがピアニストである自分をどれだけ求めているのかを、少しは理解したつもりだ。

 『小舟にて』の連弾、この曲が朱鷺ノ宮さんの願いを叶えてくれると信じて向き合おう。

 

「それで、その……言いにくいのですが」

「なに、どうしたの?」

「『小舟にて』の連弾。私にプリモを弾かせてほしいんです」

「プリモ?」

 

 クラシック用語なのは予想がつくけど、初耳の単語だ。

 恐らくは演奏パートについて言っているんだと思う。この連弾は朱鷺ノ宮さんのために弾くんだから、好きな方を弾くべきだ。

 だけど、朱鷺ノ宮さんは何故か言いにくそうで、遠慮しているように見える。

 

「プリモ? パートのことだよね。もちろん構わないけど」

「本当ですか? まだちゃんと弾けるかも分からないのに……プリモを、主旋律を任せても悠貴くんは本当にいいんですか?」

 

 まだ不安だと、朱鷺ノ宮さんの顔に表れていた。それなのに主旋律を弾きたいって言うのはピアニストとして思うところがあるのだろう。

 でないとこんな複雑な表情は浮かべないはずだ。僕には本当にこだわりは無いから、朱鷺ノ宮さんの気持ちはあまり理解できなかった。

 

 だけど、さっき弾いた感覚で1つ分かったことがある。あれは主旋律を引き立てるためのものだった。弾いていても、何か物足りなさを感じていた。その理由が分かった。

 

「これは朱鷺ノ宮さんのための連弾なんだ。だからプリモを弾いて欲しい」

「……ありがとうございます」

「決まりだね。こっちはプリモじゃないほうってことで」

「セコンドですね。悠貴くんがセコンドを弾いてくれるなら、きっと大丈夫だと思いますから」

 

 どこか安心したように朱鷺ノ宮さんが微笑む。胸の前で硬く結んだ両手が、まるで祈るように固まっていた。

 朱鷺ノ宮さんにとっては大事なことだったんだ。僕は安請け合いしちゃったけど、安堵の笑みを浮かべてしまうほどの不安があったのかもしれない。

 

「『小舟にて』はセコンドから演奏が始まるんです」

「あ、そうなんだ。じゃあ俺から弾く感じなんだね」

「ええ、悠貴くんの旋律があるなら私も一歩踏み出せるような気がするんです。それに、悠貴くんの水面は……きっと冷たくないはずです」

「水面って、ああ……そういう風に考えて弾くってこと?」

 

 主役であるプリモが小舟で、船が浮かぶ水面は脇役のセコンドって解釈なんだろう。

 曲のタイトルからしても納得できるイメージだ。

 

「はい、作曲者であるドビュッシーが公言しているわけではありませんが、そういう解釈もありだと思うんです」

「プリモが小舟で、セコンドが水面ってことだね」

「悠貴くんの水面は、きっと穏やかに私を浮かべてくれると思えるんです……私のわがまま、聞いてもらえますか?」

 

 さっきもそうだったけど、朱鷺ノ宮さんの表情が硬い。

 やっぱり緊張しているし怖いんだと思う。それでもピアノが弾けるようになりたいと強く求めているんだ。

 

「もちろん、一緒に弾くの楽しみだったんだ」

「悠貴くん……それは、期待に応えなくてはいけませんね」

「うん、聴かせてほしい。朱鷺ノ宮さんのピアノを」

 

 曲とパートは決まった。あとは2人で合わせて完成度を上げるだけだ。

 僕たちは言葉もなく頷き合い、ピアノに向かった。いつもより大きな2人で座れる椅子に並んで座る。肩が触れそうなくらい朱鷺ノ宮さんと距離が近づく。

 

 これちょっとドキドキする。ピアノの演奏ってけっこう身体動かすし、平常心で演奏できるように慣れが必要かもしれない。

 

「私の準備はできていますから、悠貴くんのタイミングで始めてください」

「分かった」

 

 紙の楽譜を譜面台に置く。楽譜を見つめていると、隣に座る朱鷺ノ宮さんの緊張した息遣いを感じる。

 優しく迎え入れよう。朱鷺ノ宮さんが小舟を出すのが怖くないよう穏やかに、落ち着いた水面がイメージできるように弾こう。

 

 鍵盤にそっと指を置き、イメージした通りに弾いていく。

 まるでこのために夢を見たように、ただ穏やかな水面が旋律となって流れていく。

 

「……っ」

 

 朱鷺ノ宮さんのパートが始まり、思わず声が出そうになる。

 弾けている。朱鷺ノ宮さんが僕の伴奏に合わせて主旋律を奏でていく。ずっと弾けなかったのが嘘のように、水面に浮かぶ小舟を鮮明にイメージできる音色が響く。

 

 お互いの息遣いには驚きが混じっていた。それでも僕たちは演奏を止めなかった。

 このまま最後まで、言葉は交わさなくても音がそう言っている。さっきの物足りなさが嘘のように、音は豊かに色づいている。

 これが朱鷺ノ宮さんの音色、ピアニストを休んでいたのなんて信じられない。それほど美しく、滑らかな旋律だった。

 

 最後の旋律が響き、スタジオに溶けるように消えていく。

 音が消え、静寂が訪れる。僕たちは言葉も交わさないまま、互いに見つめ合っていた。

 

「……弾けました。悠貴くん、私弾けましたっ!」

「うん、うん! 弾けてたよ朱鷺ノ宮さん」

 

 短い沈黙を破るように、僕たちは「弾けた」と互いに言葉を繰り返した。

 気が付いたらお互いに椅子から立ち上がって喜びを分かち合うように手を握り合っていた。

 

「悠貴くん、悠貴くん……わたしっ」

「……大丈夫だよ朱鷺ノ宮さん、ちゃんと弾けていたよ。美しい音色だった」

 

 やがて通して弾けたのが事実だったと実感できたのか、朱鷺ノ宮さんの瞳から涙が溢れた。

 

 その表情に笑顔はなかった。

 悲しみなのか、それとも恐怖から解放されたのか。

 いくつもの感情が混ざり合ったまま、涙がとめどなく流れていく。

 

 そんな朱鷺ノ宮さんに、僕は「大丈夫だよ」「ちゃんと弾けていたよ」と言葉を掛ける。僕にはピアノが弾けない深い苦しみは分からなくて、そんな言葉しか出て来ないのが辛い。

 やがて感極まったのか、朱鷺ノ宮さんは僕の胸に身体を預けて嗚咽をもらしながら背中を震わせている。

 

 僕は朱鷺ノ宮さんが落ち着くまで、ずっと背中を撫でてあげることしかできなかった。

 

「……すいません。取り乱してしまって」

「ううん、そんなことないよ。一緒に弾けて良かった」

 

 どれくらいそうしていたか分からない。

 徐々に震えが収まってきて、朱鷺ノ宮さんはゆっくりと僕から離れた。

 

「私、弾けたんですよね。悠貴くんと一緒にドビュッシーの『小舟にて』を」

「弾けたよ……最後まで、2人で」

 

 僕たちは確かに『小舟にて』を最後まで弾けた。それは間違いない事実だ。

 朱鷺ノ宮さんがピアニストに復帰するための一歩、それを明確に踏み出すことができたんだ。

 

「朱鷺ノ宮さん?」

「……やっぱり、まだ一人はちょっと怖いみたいです」

「すぐに弾けるようになるよ。また一緒に弾いてさ、リハビリすればすぐだよ」

「……本当ですか?」

「もちろん、たくさん演奏しよう」

 

 まだ一人では弾けないみたいだけど、2人で色んな曲を弾けばリハビリになるはずだ。

 そうしていれば完全にピアニストとしての朱鷺ノ宮さんに戻れるはずだと、なんの確信も無いけどそう思う。

 

「……私、本当はすごくわがままなんです。ピアノには毎日触れたいんですから、悠貴くん本当に付き合ってくれます?」

「え、あはは……それはバイトとかあるし、ちょっと難しいかな」

「くす、分かっていますよ。でも、今まで通り付き合ってくださいね」

「それは大丈夫。来週も予定は空けてあるから」

 

 くすくすと笑う姿はいつもの朱鷺ノ宮さんだった。毎日と言われたのには少し驚いたけど、元の調子に戻ってくれて安心した。

 流石に全部は叶えてあげられないけど、週末だけじゃなくてバイトが休みの日で予定が無い日も一緒に演奏できるって伝えておこう。

 こんな可愛いわがままくらい、付き合ってもいいはずだから。

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