夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第三十五話 小舟にて

「あれ、ピアノが増えてる」

「今回のために用意してもらったんです。本当は練習の時のように並んで弾きたかったんですが……」

「ならどうして?」

「悠貴くん顔出ししたくありませんよね?」

 

 スタジオに戻るとピアノが1台増えていた。もともと置かれていたものの対面に全く同じタイプのピアノが設置されている。

 僕と朱鷺ノ宮さんが顔を見合わせて演奏できる形に整えられていた。

 

「僕が顔出ししないで済むようにもう1台を?」

「もちろんです――って言えたら格好良いんですけどね」

「それだけが理由じゃないってこと?」

「久しぶりの露出が男性の隣で連弾というのは駄目って言われちゃいました。だから仕方なくこの形に……」

 

 朱鷺ノ宮さんならピアノの腕以前に、その凛とした佇まいだけでファンがつくのは間違いない。

 

 そんなピアニストの久しぶりのファンへの露出が、僕みたいな一般人とのコラボ動画って確かに炎上とかしそうだ。しかも隣に並んでの連弾なんて、変な憶測を呼びかねない。

 

「……こんな形になってしまって申し訳ないです」

「え、いいよそんなの。この形でも2人で弾けるのには変わりないと思うし」

 

 朱鷺ノ宮さんが隣にいる状態で演奏すると意識してしまう。

 何回も連弾はしたから多少は慣れたけど、それでもあの距離で演奏の度に腕が触れることもあるから心臓に悪い。

 

「そう言っていただけるのは嬉しいですけど……」

「なんだか不満そうだね」

「ええ、不満です。やっぱり距離が離れた分だけ音が離れると思うんです」

「そんな変わらないと思うけど」

「変わりますよ。悠貴くんだって弾き始めれば、私の言ったことが分かると思います」

 

 隣からピアノを挟んで対面までの距離は何メートルくらいだろう。

 音が離れるって朱鷺ノ宮さんは言ったけど、この距離が音の感じ方を変えてしまうんだろうか。

 

「今回は仕方なく折れましたけど、この動画で悠貴くんが私と連弾する腕があるのは証明できるはずです」

「え、まさか」

「はい、私を目当てに見る人が悠貴くんの実力を認めれば何も問題はないんです。そしたら次の連弾では一緒に隣並んで連弾できるはずです」

 

 どこか執念のようなものを感じる。よっぽど今回の連弾が急遽対面で演奏することになったのが不満だったんだ。

 

 朱鷺ノ宮さんは不服そうだけど、この対面での演奏を渋々だけど認めたってことだもんな。それを朱鷺ノ宮さんに納得させた人がいるってことなんだろうけど、一体誰なんだろう。

 

「……何も前日の夜に言わなくたって。前もって言ってくれればこの形で練習だってできたのに、本当にお母様は勝手なんですから」

「あ、お母さんに言われたんだ」

「はい、昨日海外から戻ってきたので仕方ない部分もあるんですが、帰ってくるなりコラボは構わないけど形は気にしなさいって言われたんです」

 

 海外から帰ってきたばかりの母親にって、やっぱり話のスケールが違う。

 だけど朱鷺ノ宮さんもお母さんに言われたら聞くしかないって、不満げな朱鷺ノ宮さんには悪いけど同い年らしい親近感を覚えてしまう。

 

「なら収録は別日にする? 着替えちゃったけど、練習する時間を取ったほうが」

「いえ、今日は収録しましょう。ピアノが2台での連弾になってしまいましたけど、曲自体は何度もさらったので大丈夫なはずです。それに、告知しちゃいましたから」

「あ、そうだったね」

 

 『Shizuru』のアカウントで明日、動画が上がるって告知済みだった。

 普通のコラボ動画なら何日か投稿日がズレるのは特に問題にならないだろうけど、朱鷺ノ宮さんだと意味が変わってくる。

 

 数年振りに復帰するピアニストが、告知していた日に動画を上げられない。そんな事態になれば、要らぬ憶測を生んでしまうかもしれない。

 

「ではそろそろ始めましょうか。もうカメラマンを呼んでも?」

「……うん、大丈夫」

 

 こっちの話は事前に朱鷺ノ宮さんから聞いていた。コラボ動画はいつもと違ってカメラを担当するスタッフを入れたいと提案があったのだ。

 

 いつもの形での収録だとピアノの手元しか映さないから、朱鷺ノ宮さんをメインに撮るなら僕たち以外の手が必要になる。

 

 そこでいっそのこと、プロのスタッフを入れて本格的に撮ろうと、朱鷺ノ宮さんが言い出した。

 

 朱鷺ノ宮の系列にそういうツテがあるらしくて、そこに頼もうという話になったのだ。そこなら僕の顔も映さないように上手く撮ってくれると言われ、それなら良いかと承諾した。

 

 スマホを朱鷺ノ宮さんが操作すると、それほど待つことなくカメラマンの人たちがスタジオに入ってくる。

 

 いつもは僕たちだけのスタジオにたくさんの人がいて、何だか変な感じだ。

 

「私は最終の確認をしてくるので、悠貴くんは手前のピアノで準備しておいてもらえますか?」

「あ、うん」

「手前のほうはいつもと同じピアノなので問題ないと思いますが、念の為に音のチェックもお願いします。問題があれば調律師さんにも控えてもらっていますので」

「……分かった。準備しておくよ」

 

 言われた通りに手前のピアノに座って音を確かめる。今日のために確認するなら、『小舟にて』がうってつけだろう。

 

 プリモがいないまま音の確認のためだけに水面を奏でる。その音に問題もなく、ピアノはいつも通り良い音を響かせている。調律師さんに来てもらう必要はなさそうだ。

 

「悠貴くん、どうでしたか?」

「音のほうは大丈夫、いつも通りだったよ」

「良かった……いつもは2人だったのに、今日は大勢いるから変な感じがしますね」

 

 周りの人たちに聞こえないよう、朱鷺ノ宮さんが耳元で囁いた。

 朱鷺ノ宮さん、僕と同じこと考えてたんだ。そう思うと何だか嬉しくなってしまう。

 

「朱鷺ノ宮さんも? 俺も同じこと考えてた」

「うふふ、一緒ですね。いつもと少し周りの環境が違いますけど、良い演奏にしましょうね」

 

 僕への激励をして、朱鷺ノ宮さんは対面のピアノのほうへ移動した。朱鷺ノ宮さんが対面に座ると、自然と目が合う。

 

 「カメラ回してます。いつでも始めてもらって大丈夫です」とスタッフさんの声がした。

 ニコリと朱鷺ノ宮さんが微笑む。いつでも僕のタイミングで始めて構わない。そう言っているような気がして、僕の両手は自然と鍵盤に向かい、最初の音を奏でた。

 

 

 イメージするのは水面だ。変に力は入れなくていい。これまで朱鷺ノ宮さんと積み上げたことを信じて、ただ穏やかな水面であればいい。

 

 そこへ浮かぶのは朱鷺ノ宮さんの小舟だ。小さく揺れて水面を進んでいくけど、いつもと様子が違う。

 

 朱鷺ノ宮さんの音がいつもより響いている。「音が離れると思うんです」その距離を埋めようとしていることに気がついた。

 

 僕は驚いて鍵盤から視線を上げると、朱鷺ノ宮さんと目が合った。「これで、いつもの距離ですよね」そう朱鷺ノ宮さんの表情が言っていた。

 「悠貴くんも」――そう言われている気がして、僕も音を響かせて距離を近づける。

 

 ピアノを挟んで向こう側にいるのに、今までで一番近くにいる気がした。

 もう何度もさらった曲なのに、いつもと違う表情を覗かせている。新しい発見をしたみたいで、心が浮き立ってくる。

 

 朱鷺ノ宮さんも一緒だといいな。いっそこのままでいいのに、いつまでも一緒に弾いていたいと思ってしまう。

 

 だけど、曲は音を奏でる度に終わりへと近づく。もう終わってしまう。もっと続けたいのに、そんな願いは叶うことなく僕たちの『小舟にて』は終わりを迎えた。

 

「……はい、OKです。お疲れ様です!」

 

 演奏が終わるとスタッフさんが声を発し、周りが喧騒に包まれた。

 そんな中で僕と朱鷺ノ宮さんは言葉も交わさず、ただお互いに視線だけを重ねていた。

 

 今までになかった演奏になった。僕たち2人ともそう感じていたと思う。この余韻に言葉は不要だった。

 

「お疲れ様でした。良ければこのタオル使ってください」

「……あ、ありがとうございます」

 

 まだ座ったままの僕にスタッフさんがタオルを手渡してくれた。

 あっちでも朱鷺ノ宮さんの周りにはスタッフさんが大勢いて、タオルやら水、それに羽織るものなんかも渡している。すごいプロみたいだ――って思ったけど、もともとプロだったのを思い出す。

 

「この水も良かったら、演奏めちゃくちゃ良かったです!」

「あ、ありがとうございます」

 

 さっきのスタッフさんが今度は水を持って来てくれた。受け取って喉を潤した。

 一曲弾いただけなのにけっこう疲労感がある。普段と違うことをしたのもそうだけど、いつも以上に集中できていたのも理由の1つだと思う。

 

「悠貴くん!」

「朱鷺ノ宮さん、お疲れ様。いけたね」

「はい、最後まで完璧に! 最初はこの対面形式が不満でしたけど、弾いてみたら思っていた以上に良かったです」

「めちゃくちゃ音響かせてたね。いつもと全然違った」

 

 スタッフさんから離れ、僕のほうへ来てくれた朱鷺ノ宮さんはとても満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 大成功ってことでいいんだろう。喜んでくれてるし、思い返してもミスらしいミスもなかった。

 

「だって遠かったから……悠貴くんも応えてくれたじゃないですか」

「そっちのほうが良いと思ったからね」

「はい、最高でした! あのままいつまでも弾いていたいって、ずっとあのまま……」

 

 朱鷺ノ宮さんは、無邪気な子供のようにしゃいでいた。演奏の時に感じたことをそのまま言葉にしている。

 

 やっと求めていた場所に戻れた。その喜びを噛みしめるように、朱鷺ノ宮さんはいつまでも連弾の感想を語り続けた。

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