夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
左手が鍵盤を駆け巡り、激情の嵐を巻き起こす。
叩きつけるような右手の和音は、悲痛な叫びのようにスタジオの空気を震わせる。
激しく、それでいて繊細。重厚な音でありながら、軽やかに奏でられていく。
ショパン『革命のエチュード』。かつて『神に愛されたピアニスト』と呼ばれた少女のピアノを、僕は初めて耳にした。
「……ッ」
最後の音が消え、静寂がスタジオを満たしても、僕は呼吸を忘れて固まっていた。
ブランクなど感じさせない圧倒的な技術力、そして胸を打つような表現力、ピアノに触れてきたからこそ分かる。
これが『
「
鍵盤から指を離し、朱鷺ノ宮さんが振り返る。コラボでの連弾をきっかけに、朱鷺ノ宮さんは一人でもピアノを弾けるようになった。
復帰できたはずなのに、その表情は険しい。音はあれほど威風堂々としているのに、その瞳は迷子のように縋る色を浮かべていた。
「すごかった。えっと、語彙力なくてごめん。とにかくすごかった」
「普段、私がどれだけ感動していたか分かっていただけましたか?」
「どういうこと?」
「今のは悠貴くんの音をなぞっただけですから」
「俺の音?」
自嘲するように朱鷺ノ宮さんは笑い、祈るように手を胸の前で握る。
「『My etude』で悠貴くんが弾いてくれた曲なら大丈夫なんです。それ以外の曲は……」
「だからコンサートのプログラムを」
「ええ、全て悠貴くんが私の前で弾いてくれた曲です。『My etude』に紡いだ音だったら、1人でも大丈夫ですから」
「……それは」
そんな状態でコンサートなんて無謀だ。とは言葉にできなかった。
ずっと弾けなかった苦しみを朱鷺ノ宮さんが抱えていたのを知っているから。
「コンサートまでに私の音を取り戻してみせます。見ていてくださいね」
「……どうしても、クリスマスにコンサートをしなくちゃいけなかった?」
「無謀だと思いますよね」
「だったら……!」
朱鷺ノ宮さんはプロのピアニストだ。彼女が覚悟を決めているのだから、僕が口を挟むのは無粋だと思う。
だけど、不安は尽きない。舞台の上では何が起きるかわからない。そんな場所で、もし失敗すれば?
治りかけていた傷口がまた開いて、今度こそ再起不能に陥ってしまうかもしれない。
「たとえ無謀でもチャンスが目の前にある。だから立ち止まっているわけにはいかないんです」
朱鷺ノ宮さんの決意は固い。それでも、言わずにはいられなかった。
「それでも、無謀だと思う」
「……心配してくれるんですね」
「当たり前だよ」
「そんな悠貴くんだからこそ、私は隣に立ちたい。置いていかれたくないんです」
朱鷺ノ宮さんはピアノの椅子から立ち上がり、僕のほうへ歩み寄った。
置いていかれるって、まるで僕が朱鷺ノ宮さんより優れているように聞こえる。
「『小舟にて』のコラボ動画から、チャンネルへのメッセージが増えました」
「メッセージ?」
「コラボの依頼です。プロやアマ、それも国内だけに留まらず海外からも……」
「え、そんな……動画のコメント欄は朱鷺ノ宮さんへのコメントでいっぱいだったよ」
「目端の利く人間は悠貴くんを見逃さなかったということです。きっと貴方は世界へ羽ばたく。このまま私を置いて……」
悲痛な、心底悔しそうな声だった。
本当に僕が朱鷺ノ宮さんを置いていくと思っている。朱鷺ノ宮さんの姿は、その言葉に真実味を持たせていた。
「そうならないためのコンサートなんです。無謀なのは私も理解しています。それでも立ち止まっている訳にはいかないんです」
「……朱鷺ノ宮さん」
「だって、私は2年も立ち止まっていたから……ピアニストとして死んでいるも同然なんです」
「そんなこと……コラボの連弾だって、2人で良い演奏ができたじゃないか」
そう思っているのは僕だけじゃない。再生数も、登録者数もそれを表している。
朱鷺ノ宮さんの音を求めて大勢の人が演奏を耳にしたはずだ。
「……それだけでは駄目なんです。名のあるコンサートで、結果を残さなくては……高校3年生になる来年が勝負の年になるでしょう」
「そのためにコンサートを?」
「ええ、クリスマスのコンサートは私からクラシック界への宣戦布告でもあるんです。私はまだここにいる。死んでないって……」
まるで決意表明だ。
クラシック界でのこと、ピアニストとして結果を残さなくちゃいけないことは理解できた。
でも、僕が朱鷺ノ宮さんを置いていくという話だけは、どうも実感が持てない。
そんな僕と裏腹に、朱鷺ノ宮さんは信じて疑っていないみたいだった。
「信じてください悠貴くん、私を……きっと貴方の隣に立ってみせます」
「……僕の、隣に」
「まだ不安って顔ですね。なら、とっておきの方法があるんですけど、聞いてもらえますか?」
「とっておきの方法?」
「ええ、これでコンサートは大成功、みんな幸せなハッピーエンドになる方法です」
不思議と、朱鷺ノ宮さんの表情が明るくなった。
みんな幸せなハッピーエンドになる方法が本当に存在するように、ニコニコと楽しそうな笑みを浮かべている。
「コンサートするのは私なのに、悠貴くんが不安そうですよね」
「こんな無茶なスケジュールでコンサートするんじゃなければ、安心して応援できたんだけどね」
「耳が痛いですね。でも大丈夫です」
「とっておきの方法ってやつ?」
「はい、悠貴くんと一緒に演奏すれば、きっとコンサートを成功させられるはずです」
連弾がとっておきの方法? 納得できず、思わず黙り込んでしまう。
コンサートは一人で弾かなくちゃいけない。僕と連弾することで、練習になるとは思えなかった。
「……だから、ピアノ二台のままなんだ?」
「連弾した時のままにしてもらいました。これなら悠貴くんと一緒に弾けますから」
「弾くのは構わないけど、練習になる?」
「なります。この上ないほどに」
射抜くように真っ直ぐと、朱鷺ノ宮さんの瞳が僕を見つめている。
僕との練習がとっておきの方法だと信じて疑わない表情だった。
「『小舟にて』の連弾の時のこと、思い出したんです」
「……何を?」
「悠貴くんと弾いている間、何も怖くなかった。 だから、もう一度……駄目ですか?」
2つ並んだグランドピアノが部屋の明かりを反射している。
コラボした時のように2人で、あの日の演奏を思い返すと指が疼いていた。
「駄目なわけない。一緒に弾こう朱鷺ノ宮さん、あのコラボ楽しかったんだ」
「……はい!」
「何を弾こうか。コンサートの曲? それとも、連弾用の曲かな?」
「コンサートの曲でお願いします! ピアノは2つあります。連弾用にアレンジしていない曲でも大丈夫ですから」
朱鷺ノ宮さんが小走りでピアノに向かっていく。僕もそのあとを追ってもう一台のピアノのほうへ向かう。
向かい合う形で座ると、視線が合う。柔らかく微笑む朱鷺ノ宮さんの姿は、本当に恐怖を感じていないようだった。
「何から弾く?」
「モーツァルトで……モーツァルト【ピアノソナタ第16番 ハ長調 K.545】、悠貴くんがここで初めて弾いた曲です」
「『K.545』……確か、モーツァルトの小さなソナタだっけ?」
「ええ、覚えてくれていたんですね」
「そりゃあ、覚えてるよ。朱鷺ノ宮さんはめちゃくちゃ褒めてくれるし、調律師さんは来るしで、印象的な初収録だったから」
「あの時は本当に驚きました……同じ世界を見ていると言ったの覚えていますか?」
感慨深そうに「悠貴くんは、私と同じ世界を見ているのですね」と言った朱鷺ノ宮さんの姿は今でも鮮明に覚えている。
なんとなく、正直に言うのは照れくさくて「どうだったかな」と濁してしまった。
「うふふ、私はちゃんと覚えてますからね。今日は、また悠貴くんと同じ世界を共有できる。あの日のように、見ているだけじゃない。それが嬉しいんです」
「……朱鷺ノ宮さん」
「そろそろ始めましょう。きっと、弾き始めたら時間なんてあっという間に無くなってしまいますから」
モーツァルトの小さなソナタの出だしを繰り返しながら、朱鷺ノ宮さんは待ち切れない様子だった。
開始の合図はアイコンタクトだった。計ったように同時にモーツァルトの小さなソナタが始まる。
――音が違う。僕の音をなぞったと言った時とは違って、朱鷺ノ宮さんの音が僕の音とは全く異なっていた。
同じ曲のはずなのに、音がぶつかり合っている。
「……っ」
引っ張られそうになるのを耐えて、僕のリズムを保つ。
直感だけど、朱鷺ノ宮さんが僕に求めていることのはずだ。初めての収録の日のように、リズムを変えずにソナタを弾き続ける。
そして、演奏が終わった。
「……やっぱり、悠貴くんと一緒に弾けて良かった」
「朱鷺ノ宮さん、今のは……?」
「ちょっとだけ、お転婆に弾いちゃいました」
『革命のエチュード』を弾いて聴かせてくれた時のように、僕の音をなぞるとばかり思っていた。でもそうじゃなかった。
お転婆に弾いたというのも、何か理由があるんだろうか。
「……いつまでも悠貴くんに頼り切りではいけませんから」
「だから、お転婆に?」
「ええ、悠貴くんの音をなぞらなくても、音が歪まないか確かめたかったんです」
「それであんな風に」
朱鷺ノ宮さんは、まだ不安なのかもしれない。
つい最近まで全ての音が歪んで聴こえていたんだから。
「大丈夫だった?」
「ええ、自分でもやり過ぎって思うくらいお転婆でしたよね。ちゃんと私の音も歪まずに聴こえていましたよ」
「……良かった」
「ありがとうございます。それで、まだ続けたいのですが……お時間は大丈夫でしょうか?」
それからも時間の許す限り、朱鷺ノ宮さんの練習に付き合った。演奏を繰り返す度に朱鷺ノ宮さんの音は洗練されて、これならコンサートは大丈夫かもしれないと思わせてくれた。
完成度があがる度にそう思うのに、何故か胸の奥にこびり付いた不安だけが、いつまでも消えてくれなかった。