夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
「やっぱり買い過ぎたんじゃない?」
「えー、そんなことないよ」
クリスマスを明日に控え、パーティーの買い出しを姉さんと済ませるのに半日掛かってしまった。
テーブルに乗せた大量の買い物袋に、これ全部冷蔵庫に入るかなと少し不安になる。
「今年は3人でパーティーだから派手にしないと」
「張り切ってるのはいいけど、俺途中からだからね。参加するの。当日はあんまり手伝えないと思う」
「大丈夫だよ。
パーティーには途中から参加することになっている。
明日は
一ヶ月という通常ではありえない準備期間。その無茶を朱鷺ノ宮さんは乗り越えた。
僕も時間の許す限り練習には付き合ったけど、最後のほうは1人でも問題なく弾けていて圧倒されっぱなしだったくらいだ。
それに、朱鷺ノ宮グループも全面協力をしていたそうだ。
朱鷺ノ宮さんのお母さんが中心となって、復帰コンサートを絶対に成功させようと動いていると聞かされた。
「コンサート、お姉ちゃんが送っていこうか?」
「ありがとう。でも、大丈夫。あのコンサートホール、駅から近いし」
普段通学で使う駅から3駅先で、時間にして20分も掛からない場所だ。
駅からも徒歩ですぐだし、送ってもらう必要はないと思う。
強いて言うなら千聖さんに選んでもらった服だ。朱鷺ノ宮さんはともかく、近所で知り合いに見られるのは色々言われそうで恥ずかしい。
でも心配はしていない。上にコートを羽織って、前を留めていれば目立たないだろう。
「そう? 遠慮しなくていいんだよ」
「俺のことより、料理するんでしょ? これだけ張り切って買い込んできたんだから」
「あ、そうだよね。明日は楽しみにしててね悠くん!」
今日の夜から仕込みをするらしい。もともと料理やお菓子作りが趣味とはいえ、今年の張り切りようは、過去に見たことないほどだ。
きっと千聖さんがいて、僕たち3人での久しぶりのクリスマスだからだ。
もう記憶は薄れているけど、最後に3人でパーティーしたのもクリスマスだったはずだ。
あの時の僕はまだ低学年で、姉さん達も小学生だった。当然、子供がするパーティで料理なんて許されるはずもない。
姉さんが事前に焼いたクッキーと、買ってきたケーキでお祝いしたのを覚えている。あの頃から十年、料理の腕をふるえると張り切る姉さんの気持ちも理解できた。
「とりあえず買ってきたものは冷蔵庫に片付けて……全部入るかな?」
「……ギリ入るかな? ちょっと溢れるかも」
「溢れたらお父さんのクーラーボックス引っ張り出してこよっか。昔キャンプした時に使ってたのあったよね?」
「あー、あったあった。あんな大きいの流石にあっちに持って行っていないだろうし、こっちに残ってると思う」
姉さんが食材を冷蔵庫に詰めている間に、僕は物置からクーラーボックスを探し出してリビングに持ってきた。
予想通り食材は入り切らなかった。クーラーボックスに保冷剤と共に入れて、何とか収まりきったのを見届ける。
「……ギリだったね」
「ねー、お父さん様々だね」
明日の準備も無事に終わり、僕は部屋へ戻ることにした。
少し何か弾きたい気分だし、ちょっと弾いておこうかな。そう思ってカバーを掛けたキーボードに向かうと、スマホが着信を知らせる。
「朱鷺ノ宮さん? はい、もしもし……」
着信の主はコンサートの準備で忙しい朱鷺ノ宮さんだった。
何の用事だろうと思いながら、電話を取る。
「急にお電話してすみません。悠貴くん、今ってお時間よろしいですか?」
「うん、大丈夫だよ。どうかした?」
「悠貴くんの声が聞きたくて電話しちゃいました」
その言葉にドキッとしてしまう。
不意打ちを食らった気分だ。急な電話で女の子にこんなこと言われたら誰だってこうなってしまうと思う。
「……えっと、コンサートの準備は順調?」
「それがもう大変で、忙しさに目が回りそうです」
「え、大丈夫? 電話とか、時間押してるんじゃないの?」
「今は休憩中ですから問題ありませんよ。流石に休息は取っておかないと、コンサートのクオリティに影響が出てしまいますから」
その辺りはピアニストとして活動していた経験もあるし、朱鷺ノ宮さんもしっかり調整とか考えているはずだ。
コンサートの運営も朱鷺ノ宮グループと言っていた。朱鷺ノ宮さんにとってはホームグラウンドみたいなものだろうけど、無茶なスケジュールの無理は響いていそうだった。
「自分で言うのも何ですけど……」
「どうしたの?」
「二度としません。こんな無茶なスケジュールでのコンサート」
「……ぷっ」
「あ、笑わないでください。本当に大変だったんですから」
自分でするって決めたのにと思ってしまった。
言葉にしなかったけど、思わず吹き出してしまい、朱鷺ノ宮さんには僕が何を考えていたか伝わってしまったようだ。
「もう、酷いです悠貴くん」
「ごめん。でも、こんな無茶なスケジュールでのコンサートをするって言い出したのは、朱鷺ノ宮さんだよ」
「分かっています。でも吐き出したくなることだってあるじゃないですか」
少し安心した。こんな風に不満を吐き出せるのは、余裕があるってことだと思う。
何も言えず、抱え込んでしまうことだってあるはずだ。少なくとも今の朱鷺ノ宮さんは僕に電話を掛けて、軽口を言う元気があるってことだ。
「テストもあったからね。テスト勉強しながらコンサート準備って、俺には想像もできないよ」
「……いっそ全部捨ててピアノに集中しようかと思ったくらいです」
「それはヤバいって……え、してないよね流石に?」
「ええ、お母様に止められました。最低限は勉強しなさいって」
止められなかったらするつもりだったんだろうか。朱鷺ノ宮さんならやりかねない。
これ以上深く聞くのはやめておこう。
「悠貴くんもテストなのに、私の練習に付き合ってくれて……本当にありがとうございました」
「気にしないでよ。良い気分転換になったよ。むしろ勉強が捗ったくらい」
「……はい、ありがとうございます」
いつもより勉強時間は取れなかったけど、テストの手応えは良かった。
千聖さんが受験勉強の気晴らしにギターを触って気分転換していたと言っていた。今ならその気持ちが少し分かる気がする。
「今日はコンサートホールでリハしてるんだよね」
「ええ、今は休憩中です。運営スタッフが大勢コンサートのために動いてくれているところです」
「へー、そうなんだ」
コンサートのリハーサルって演奏以外にも色々することあるんだな。
演奏以外は想像付かない。多くの人が朱鷺ノ宮さんのコンサートのために動いている。いよいよ『Shizuru』の復帰が目の前に迫っているんだ。
「私も全部は把握していないのですが、コンサートの準備は本当に色々とあるそうなので」
「だよね。よく知らないけど、そういうイメージあるよ」
「次の私の出番がいつになるか分からなくて……つい悠貴くんに電話しちゃったんです」
「それで急な電話だったんだ」
メッセージで電話できるかのやり取りをする時間も惜しかったんだろう。
次の瞬間にはリハに戻らなくちゃいけないかもしれないんだから。
この電話が、朱鷺ノ宮さんの息抜きになれているといいな。
「すみません。急に電話して」
「大丈夫だよ。話ができて嬉しい」
「良かった。そう言ってもらえて……今、スタッフさんが慌ただしくて、私が呼ばれるまでまだ時間が掛かると思うんです。それまで、お付き合い頂けますか?」
「もちろん」
よく耳をすますと、通話越しに慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
何を言っているかまで分からないけど、あっちが大変そうだってことは理解できた。
「悠貴くんは今何をされていたんですか?」
「今? ちょっとキーボードでも弾こうかなって思ってたとこ」
「キーボード! それは良いタイミングに電話を掛けたみたいですね」
「……えっと、何か弾こうか?」
「ええ、是非!」
朱鷺ノ宮さんの声が弾む。僕の演奏を心待ちにしてくれている声色に、自然と笑みが浮かぶ。
キーボードのカバーを外し、電源を入れる。
何の曲がいいかな。朱鷺ノ宮さんのコンサートが成功するエールにしたい。
あの曲にしよう。『ラ・カンパネラ』この鐘の音が彼女の成功を暗示してくれるように。
「……始めるね」
「はい!」
スマホをキーボードの近くに置いて、鍵盤に指を乗せる。
どうしてもこの曲を弾くと、あの時のことを思い出す。積み上げてきたものが、夢に呑み込まれる瞬間を。
この曲を弾いていると、自分が操り人形になったような錯覚を覚える。
空から糸が伸びてきて、指先が引かれて演奏しているような感覚だった。
借り物みたいな音だ。
いや、気のせいだ。今は朱鷺ノ宮さんのためだけにこの鐘の音を奏でよう。
成功を暗示して、この音が彼女に祝福をもたらしてくれるように弾く。
「どうだったかな?」
「……聴かせてもらえて良かったです。鐘の音が聴こえてくるようでした」
一通り弾き終わって、朱鷺ノ宮さんに声を掛ける。
感嘆の声に、ホッと胸を撫で下ろす。
「明日のコンサート、私も『ラ・カンパネラ』を弾きますから……楽しみにしていてくださいね」
「うん、楽しみにしてる」
きっと朱鷺ノ宮さんのコンサートは成功してくれる。
『神に愛された天才ピアニスト』は復帰を果たす。それだけは疑いようないことだと思えた。