夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第四十話 クリスマスコンサート

 クリスマス当日、今日は朱鷺ノ宮(ときのみや)さんの復帰コンサートの日だ。

 僕はコンサートの会場である朱鷺ノ宮国際音楽ホールへと1人で来ている。

 

 開場に合わせ受付でチケットを提示して入場を済ませると、スタッフの人が静かに声を掛けられた。

 

「篠原様でございますね。恐れ入りますが、こちらへお願いできますでしょうか」

「あ、はい」

 

 どこかへ案内してくれるみたいだ。僕の座席に連れて行ってくれるんだろうか。でも他のお客さんは個別に誘導されている様子はなかった。

 

 一体どういうことなんだろう。ちょっと不安になって引き返したくなってきたところで、その疑問はすぐに解消されることになる。

 

「悠貴くん、来てくれたんですね!」

 

 通されたのは控室で、ドレスを身に纏った姿の朱鷺ノ宮さんと鏡越しに目が合う。

 まず目についたのは燃えるような真紅のドレス。このためにデザインされたとしか思えないドレスが、朱鷺ノ宮さんをいつもより何倍も華やかに見せている。

 

 普段は降ろしている髪は、肩や背中に触れないように装飾の施されたバレッタで高い位置に纏められていた。

 

 振り返って立ち上がった朱鷺ノ宮さんの胸元には、羽をモチーフにしたネックレスが光る。この前僕に付けてくれたラペルピンによく似ていた。

 

 微笑みかけてくれる笑顔はいつもと同じなのに、目の前の彼女は遠い世界の存在のように見えた。

 

「悠貴くん?」

「あ、ごめん。そのドレス、すごく良く似合ってる」

「悠貴くんもいつもと違う雰囲気ですけど、良くお似合いです」

 

 控室には僕たち2人だけだった。あと1時間もしない間にコンサートが始まる。

 僕になんか会っていて大丈夫なんだろうか。会えたのは嬉しいけど、同時に不安もよぎる。

 

「その……大丈夫? リハとか、そういうのって」

「リハーサルはもう一通りしましたから、あとは本番に臨むだけです。だから悠貴くんに会っておきたくて」

「コンサート前に?」

「普通はこういうことってしないんでしょうけど、悠貴くんは私にとって特別ですから」

 

 僕にとっても朱鷺ノ宮さんは特別な存在だ。

 夢で繋がった不思議な関係、あの夢が彼女をもう一度舞台へと登らせたきっかけだと思う。

 

「このコンサートができるのは悠貴くんのお陰と言っても過言ではありませんから」

「……うん」

「悠貴くんが聴かせてくれた音、あの音が私の中にあるから1人でも弾くことができた。貴方のお陰で私はもう一度舞台に立てるんです」

 

 二人で対面に並んで何時間も練習した日から、何度も同じように練習を繰り返した。

 今日まで何度も、僕は楽しそうにピアノを弾く朱鷺ノ宮さんを見てきた。

 

「ちゃんと見てるから」

「ええ、見ていてください。私を」

 

 見届けよう。それが今の僕にできる精一杯のことだから。まだ不安が燻っているけど、舞台に戻ることを決めた朱鷺ノ宮さんを応援したい。

 

 胸に残るざわめきを無視して、僕は彼女が無事に演奏できることを願った。

 

「このあと、コンサートが終わってからも忙しいんです」

「そうなんだ。久しぶりだからってこと?」

「ええ、音楽関係の方への挨拶、インタビューも受けなくてはいけませんし、本当に忙しくて……コンサートが終わってからは悠貴くんに会う時間は取れないんです」

 

 残念そうに朱鷺ノ宮さんは視線を落とした。だから、コンサート前の大事な時間に控室へ呼んでくれたんだ。

 

 世界的なピアニストが復帰するコンサートだ。僕なんかに会ってる時間は、本来は無かったんだろう。

 

「だから、明日……明日また会えませんか?」

「明日?」

「この前お話した2人でのお祝いがしたくて……もう予定が入っているでしょうか?」

 

 さっきまでの凛とした雰囲気が一転し、不安気な上目遣いだった。断られるんじゃないかって不安を見せる姿は、このあと大舞台を控えているピアニストには見えなかった。

 

 こういうところが朱鷺ノ宮さんの魅力なんだろう。僕には断るって選択肢はなかった。

 

「大丈夫。チャンネルのお祝い、約束してたもんね」

「はい! 詳細はまた連絡しますね。明日、2人でチャンネルのお祝いと……今日の私の感想も聞かせてくださいね」

「それは、責任重大だね」

「ええ、だって今日は悠貴くんに聴いてほしくて私は弾くんですから!」

 

 そう微笑む朱鷺ノ宮さんの姿に、僕はまた奇妙な胸のざわつきを覚えていた。

 きっと朱鷺ノ宮さんは弾ける。そう信じているはずなのに、どうしてもこの感覚が消えてくれない。

 

 今日のコンサートは大成功して、明日チャンネルのお祝いで今日の感想を言うんだ。

 

 そう信じてるのに、信じたいのに、まるで僕の気持ちを嘲笑うようにこの奇妙な胸のざわつきは収まらない。

 

「そろそろ、時間ですね。悠貴くんには関係者席を用意してありますから、案内の者を呼びますね」

「あ、うん。頑張って」

「ええ、期待に応えてみせます。私の演奏聴いていてくださいね」

 

 最終の準備に向かう朱鷺ノ宮さんを見送って、僕は案内の人に関係者席へ連れて行ってもらった。

 

 そこには僕1人だけだった。周りに誰もいない一番上から舞台を見下ろす孤独な観客席。座り心地の良い椅子も、演目の書かれた手触りが良いプログラムも、何故かさっきの胸のざわつきをより強く感じさせる。

 

 冷たい空気が頬を撫でる感覚が嫌に際立つ。大丈夫だから、まるで自分に言い聞かせるように僕は祈りながら開演を待つ。

 

 

 拍手。コンサートはこれからだと言うのに、グランドフィナーレのような万雷の拍手が鳴り響く。幕が上がり、朱鷺ノ宮さんが舞台に姿を現しただけで会場全体が揺れているような熱気に包まれていく。

 スポットライトに照らされた朱鷺ノ宮さんが優雅に一礼、漆黒のグランドピアノの前に座る。

 

 さっきの拍手が嘘のような沈黙が降りる。この場にいる誰もが彼女の音を待っている。

 そして1度天を仰ぐように顔を上げた後、朱鷺ノ宮さんの手がゆっくりと鍵盤へと振り下ろされた。

 

『革命のエチュード』

 

 音が1つ1つ粒のように響きこの空間全てに溢れていく。天上を抜けていきそうなほど強い音でありながら、繊細さが損なわれていない旋律、どれだけ素晴らしい技術を朱鷺ノ宮さんが持っているのか一瞬で聴衆は理解させられる。

 

 僕と朱鷺ノ宮さんが出会うことになったきっかけであり、チャンネルの名前の由来の1つでもある曲を朱鷺ノ宮さんが弾いている。

 

「……っ」

 

 まだ胸がざわつく。どうして消えないんだ。あんなにも完璧に弾けているじゃないか。どの音も歪み無く、美しい旋律なのに消えてくれない。

 

 むしろ強く、より不快感を伴って全身を支配するように広がっていく。気が付けば僕は胸を掻きむしるように押さえていた。

 

 何故か泣いてしまいそうだった。どうしてか分からない。この音を聴いていると、どうにかなってしまいそうで恐ろしかった。

 

 

『K.545』

 

 曲が変わる。初めて朱鷺ノ宮さんと収録した曲、モーツァルトの小さなソナタが朱鷺ノ宮さんの手によって奏でられていく。

 

 ――圧倒的だった。僕が弾いたモーツァルトより遥かに深く、優雅だった。

 

 

『乙女の祈り』

 

 プログラムはそんな僕の感情を置き去りにして進んでいく。

 大好きな曲が始まったというのに、胸のざわつきは消えない。朱鷺ノ宮さんは完璧な演奏を続けているのに、僕の胸を締め付けるこの苦しさは増すばかりだった。

 

 大丈夫なはずなのに、僕の祈りは届いたのにどうしてこんな気持になってしまうのか全く分からなかった。

 

 

『愛の夢』

 

 また曲が変わる。『ラ・カンパネラ』を朱鷺ノ宮さんに教わるきっかけとなった曲が響く。

 

 優しい音色、愛の旋律、ちゃんと聴こえているのに不安は消えない。恐ろしいのに、目が離せない。耳を塞ぎたいのに、身体は前のめりになって朱鷺ノ宮さんの音を求めていた。

 

 

『ラ・カンパネラ』

 

 プログラム通りに曲は進行していく。『愛の夢』は終わり『ラ・カンパネラ』がコンサートホールに響く。

 

 最初の1音、それを聴いた瞬間にこれは僕が夢で弾いたものと同一の音だと気がつく。

 

 それなのに、朱鷺ノ宮さんの弾く『ラ・カンパネラ』のほうが圧倒的に優れていると分かってしまう。

 

 夢と同じでありながら朱鷺ノ宮さんのほうが優れている。僕は、夢を再現しきれていなかった。この演奏を、音を聴いていれば嫌でも理解してしまう。

 

 僕のは――ただの劣化品だったと。

 

「……朱鷺ノ宮さんのための夢だったんだ」

 

 ピアノの音に掻き消えるような小さな声で呟いてしまう。ポツリと溢れたその言葉に、何故あんな夢を見るようになったのかを理解した。

 

 このためだったんだ。朱鷺ノ宮さんが、『神に愛された天才ピアニスト』が舞台に戻るための――

 

「……っ」

 

 苦しい。叫びだしそうなくらい胸が痛い。

 この胸の苦しみは、最初から分かっていたんだ。逃げ出せって、ずっと警告していたんだ。

 

 力が抜ける。座席に身体が沈み込み、舞台がより一層遠くなったような感覚がした。

 もうこれ以上、聴きたくない。本能のように訴えかけてくる感覚を必死に押さえながら、僕は空っぽになったようにその場に留まっていた。

 

 プログラムはつつがなく進み、やがて最後の曲が終わった。

 万雷の拍手、割れんばかりの響きで朱鷺ノ宮 静流の復活を祝福している。始まる前の拍手より熱量を伴ってコンサートホールを震わせていた。

 

 それが、どこか遠くのことのように思えた。

 拍手は止まらない。僕は空虚に手を叩きながら、拍手が止むのを耐えるように待つことしかできなかった。

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