夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
朱鷺ノ宮さんの声が聞こえなくなるところまで、がむしゃらに必死に走った。
脇腹が痛くて、呼吸が追いつかない。走るのが限界になって、足を止めて近くのベンチに倒れるように腰を落とす。
一点を見つめながら呼吸を整えると、辿り着いた先が駅の待ち合わせスポットなことに気がつく。
「悠」
「……千聖さん?」
顔を上げると千聖さんが立っていた。
「なんで、千聖さんがここに?」
「心配だったからじっとしてらんなくて……どこへ行ったにしても帰る時はここ通るでしょ?」
「ほっぺ真っ赤だよ。どんだけ待ってたの?」
「ふふ、悠がそれ言っちゃう?」
厚手のコートを着込んで、口元を隠すようにマフラーを巻いた千聖さんは鼻の頭が真っ赤になっている。
ずっとここで待っていたようだ。
「……ごめん」
「謝らなくていいって、今日のは私が勝手にしたこと。まあ、昨日みたいなことしたら流石に怒ったけど」
「もう帰ろうと思ってたとこだよ」
「なら一緒に帰ろう。優里香が昨日のパーティーやり直したいんだって、今日は25日だからまだセーフって張り切ってたよ」
腕を引く千聖さんの後に続いて駅構内へと向かう。
その短い距離を千聖さんは黙ったままだった。早く家に連れて帰りたい。そんな気持ちが腕を掴む手から伝わってくる。
「けっこう混んでるね。年末が近いからかな?」
「……どうだろう。まだ帰省ラッシュには早いと思うけど」
そのままホームで黙って電車を待つこと数分、到着した電車に乗り込んで、ようやく緊張が解けたように千聖さんは言葉を発した。
視界に入った情報をそのまま言葉にしたように感情が籠もっていない。自然と僕の返事も同質なものになる。
「……あの子に会ってきたんでしょ?」
「うん、会ってきた」
また少しの沈黙が流れ、何度か躊躇う様子を見せながら千聖さんは静かにそう切り出した。
「その、大丈夫だったの?」
「……どうかな。でも約束してたし、ちゃんと向き合わないとって思ったから……でも、傷付けちゃったな」
傷付けた上に逃げ出した。最低なことをしてしまった。だけど、もう一緒にいられなかった。
酷い別れになってしまったけど、朱鷺ノ宮さんは大丈夫だろう。ピアノを弾けるように、舞台に戻ることはできたのだから。
「朱鷺ノ宮さんに会って確信したよ。もう弾けない、弾いたら駄目なんだって……僕の役目は終わったんだよ」
「そんなことない。絶対に弾いたら駄目なんてことない」
「……弾くのが怖いんだ。また音が崩れたらって……コンサートの日、いくら弾いても音が形にならなかったんだ」
クリスマスコンサートの日、逃げるように辿り着いたストリートピアノ。思い出すだけでも身震いしてしまいそうになる。
いくら弾いても音が崩れる。「お前の壊れている」と突き付けられそうで、鍵盤に向かう意思を僕は持てそうにない。
「やめちゃうの?」
「……来年には受験だし、勉強に集中したほうがいいのかもね」
嘘だ。ピアノを前にするのも怖くて仕方ないのに、止めるのも怖い。
ピアノを弾くのが本当に楽しかった。チャンネルも伸びて、千聖さんとライブだってした。あんなに素晴らしい演奏をした朱鷺ノ宮さんが認めてくれていたじゃないか。
止めたくなんかない。もっと続けたいに決まってる。
だけど、僕の音が否定されたって恐怖が全身を包むように纏まりつく。一歩も動けそうになかった。
「駄目だよ悠、休んだって構わない。だけど止めるなんて言わないで」
「……休む。そうだね。今は休んでいたほうがいいかも」
「うん、今はそれで充分。いつでも帰っておいで」
恐怖を乗り越えてピアノの前に戻る。あるいは、恐怖が大したことなかったと気にならなくなる日が訪れるんだろうか。
分からない。少なくとも今の僕は鍵盤に触れないんだから。
「ただ1つだけ、千聖お姉ちゃんからアドバイス」
「アドバイス?」
「年上からのありがたいお言葉ってやつ。答えの出ないことを悪い風に考えるのは勿体ないよってね」
「答えの、出ないこと……」
「夢のこと……いくら悩んだって答えはでないでしょ? だったらね。良いほうに考えたらいいじゃんって私は思うな」
良いほうに考えるって、どうやればいい? 朱鷺ノ宮さんが舞台に戻れた。それが良いことなんじゃないかって考えてしまう。
僕の必要性は無くなってしまった。今はそんな風にしか考えられなかった。
「まーた悩んでるでしょ?」
「……ごめん」
「もう、謝らなくていいって……重症だね。早く帰ってパーティーで気分転換しよ」
「そうだね。ケーキ買って帰らないと」
電車が止まり、千聖さんと共に降りる。駅近くでケーキを買っていくことになって店を探していると、クリスマスソングが流れていた。
全く心に響いてこない。この曲が悪いんじゃない。聴いている僕に問題があるんだろう。
そんな馬鹿なことが頭に浮かぶと同時に、あることに気が付いた。
「……この曲」
「この曲? 有名なクリスマスソングだよね。」
「ちゃんと聴こえるんだって思って」
どこから響いているか分からないクリスマスソング、スピーカーの質が悪いのか音が時々軋んでいる。
ノイズ混じりなのに、クリスマスソングとして形になっていて、不協和音ではなかった。
どこから聴こえるんだろう。足を止めてスピーカーを探してしまう。
「あの日、駅でいくらピアノ弾いても音がめちゃくちゃに聴こえていたのに……ちゃんと聴こえるよ」
「……悠」
ノイズの混じったクリスマスソングに涙が溢れそうだった。
全ての音が壊れてしまったんだと思っていた。もう音を奏でるのも、聴くのも楽しむことはできないって諦めていた。
でも、違った。僕の音は壊れている。それでも、音楽は世界に響いている。
「音が全部壊れてしまったと思ってたんだ。だけど違った。僕だけが壊れてたんだよ」
「悠、駄目だよ。そんな風に言わないで」
「良かったんだよこれで。だって僕以外の音は綺麗で歪んでないんだから、聴く分には大丈夫ってことでしょ。ちょっと安心したくらいだよ」
俯きながら口にした言葉が胸を締め付ける。世界から僕の音だけが拒絶されていることが明確になったようだったから。
それでも全部の音が壊れて聴こえるよりはずっと良い。
朱鷺ノ宮さんは全ての音が歪んで聴こえると言っていた。それがどれほどの苦痛なのか。僕は自分の音だけでこんな有り様だから、きっと耐えられないと思う。
「言ったでしょ。悪い風に考えるもんじゃないって、今の悠は自分で自分を追い詰めてるよ」
「……そうかもね」
「悠だけが壊れたなんて神様が許しても、私が絶対に許さない。どんな方法を使っても、そのままにさせないから」
「させないからって、どうやって?」
そんなの無理だよとは言葉を続けられなかった。腕を強く掴まれて、千聖さんなら何とかしてくれるんじゃないかって考えてしまったからだ。
いつまでも甘えていちゃ駄目なのに、千聖さんの優しさを断れない自分が嫌になる。
このままじゃ駄目だ。いつか千聖さんも傷付けてしまう。
いっそのこと、ストリートピアノで再会する前……疎遠になっていた時に戻ったほうがいいのかもしれない。
「方法はまだ分かんないけど、絶対に悠を1人になんてしないから」
「……1人だなんて大げさだよ」
「私と距離取ろうって考えるでしょ? あの時と一緒、悠は悪くないのに自分のせいだって私から距離取ったのと……もうあんなのは嫌だよ」
昔、千聖さんや姉さんと遊んでいると2人の同級生にからかわれることが増えた。幼い僕には年上の男の人が僕たちをからかってくるのが本当に怖かった。
「男のくせに姉貴とばっか遊んでて気持ち悪い」心無い言葉で責め立てられる僕を2人は必死に庇ってくれた。泣きそうになりながら僕を守ろうとする2人を見て、このままじゃいけないと幼いながら思ったのをよく覚えている。
だから距離を取った。言われた言葉を借りて「お姉ちゃんたち遊ぶの恥ずかしいから」と2人を傷付ける形で僕は千聖さんと疎遠になった。
「そんなことないよ」
「嘘だよ。あの時と同じ顔してるもん。もう、嫌だよ。だからお願い……今度は一緒にいさせてよ」
「……千聖さん」
「1人で抱え込まないで……私が、悠の側にいるから」
断らなくちゃいけない。僕は壊れてしまったんだから。
千聖さんを傷付ける前に離れなくちゃいけないんだ。分かっているはずなのに、千聖さんの優しさを振り払うことができなかった。