夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第六話 始動

 朱鷺ノ宮(ときのみや)さんとは週末に会うことになった。キーボードを譲ってもらった帰りに、千聖(ちさと)さんが車で送ってくれている途中で連絡に気が付いた。

 

 慌てる僕の背中を千聖さんが「行ってきなよ」と背中を押した。正直、不安しかない。まだ楽譜は読めないままだ。

 

 千聖さんは「夢で見た曲、いくつかあるでしょ? そのストックがあれば乗り切れるって」と千聖さんはアドバイスしてくれたけど、先生役を買って出てくれた日にそんな課題を与えるなんてちょっとスパルタ過ぎると思う。

 

「今の演奏は納得できなかったからリテイクで、って言えば何とかなるって千聖さんは言うけど……本当に大丈夫かな?」

 

 不安が尽きない僕に千聖さんが授けてくれたのが『リテイクでゴリ押し作戦』だ。言葉通り、一曲を何度も擦るって戦法らしい。

 そんなので大丈夫かと訝しむ僕に、千聖さんは「相手も音楽やってる子なんでしょ? 動画にする演奏を納得したいものにするって話なら理解してくれるよ」と言っていた。

 

「……胃がきゅっとしてきた」

 

 音楽経験者の千聖さんのアドバイスだから大丈夫なはずだ。と自分に言い聞かせながら、僕は朱鷺ノ宮さんとの約束の場所へと近づいていた。

 あのストリートピアノが置いてあった駅から徒歩十分程、目的の建物が近づいていた。

 

「ここだよな。そのまま中に入ってきてくださいって言われてるけど」

 

 駅近くの立派なビルで朱鷺ノ宮さんは待っているらしい。やりとりしたメッセージ画面に添付された地図と、ビルの名前を何度も確認する。

 ゆっくりと息を整えてから、僕は恐る恐るビルの中へと足を踏み入れた。

 

「……あの」

「はい、本日はどのようなご用件でしょうか」

「えっと、朱鷺ノ宮さんと約束をしている篠原です。受付で名前を言えば分かるようにしていると言われていて……」

「篠原様ですね。伺っております。左手にございますエレベーターで6階までお上がりください」

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 まるでバスガイドさんのように手で方向を示されて、僕は促されるままにエレベーターへと向かう。

 高校生の僕にまで様付けか、すごく丁寧な対応をされたんだってことだけは分かった。

 

「……様つきで呼ばれたのって初めてだ」

 

 エレベーターに乗り込んで1人呟く。背中がむず痒いような、場違いなところに迷い込んでしまった気分だ。

 液晶の数字がひとつずつ上がり、6階に近づいていく。

 そこで朱鷺ノ宮さんが待っている。――そろそろ覚悟を決めないとな。

 

「悠貴くん! お待ちしていました」

 

 エレベーターの扉が開くと、そこには朱鷺ノ宮さんが待ち構えていた。

 受付では6階に上がってくださいとしか言われていなかったから、迷う前に朱鷺ノ宮さんと会えて良かった。

 

「私、今日の撮影とっても楽しみにしてたんです」

「朱鷺ノ宮さん、テンション高いね」

「はい! 準備している間も、ずっと楽しみだったんです」

 

 そう言って朱鷺ノ宮さんは本当に嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 とても期待されている。ひしひし感じて、胃が痛む。痛むけど、あくまで緊張から来るものだ。今日は弾くと決まっているからか、頭の痛みは襲ってきていない。

 やっぱり、ピアノがトリガーなんだ。

 

「スタジオはこちらです。ついて来てください」

「あ、うん」

 

 エレベーターホールから少し進むと、目の前に重厚な扉があらわれた。重そうな扉を引くと、空気が一気に溢れるように流れた。

 学校の教室くらいの空間、その中央にグランドピアノが鎮座している。部屋に入り、扉が閉まると音が消えた。ここに入るまであった音が消え、僕たちの息遣いしか聞こえなかった。

 

 部屋の中央に鎮座する重厚な光沢を放つグランドピアノ、僕と朱鷺ノ宮さんだけの世界になってしまったかのようだった。

 ビルの中とは思えない異質な空間に、思わず息を呑んでしまう。

 

「……すごいね」

「気に入っていただけましたか。このピアノ、以前私が収録に使用したものなんです」

「収録?」

「はい、他の撮影機材もその時のものなんですよ」

 

 グランドピアノの周辺には撮影や、収録するための機材類が並んでいる。

 どれがどの役目を果たすのかはカメラくらいしか予想できないが、全て朱鷺ノ宮さんが以前使ったものだと聞いて少し安心した。

 朱鷺ノ宮さん「このために全て新しく用意しました!」って平気で言いそうな雰囲気があるもんな。

 

「私のピアノを悠貴くんに使ってもらいたかったんです。遠慮せずに弾いてくださいね」

「あ、ありがとう」

 

 朱鷺ノ宮さんから感じるストレートな好意に、面を食らってしまう。

 ……落ち着け。これは僕のピアノを気に入ったからこその好意だ。だから、勘違いするなよ。隣の朱鷺ノ宮さんに聞こえそうなくらい、鼓動を早くしている心臓に言い聞かせる。

 

「この機材のためだったんだね。時間をくださいって言っていたのは……あんまり時間掛かってなかったけど」

「いつもお願いしているところでタイミング良く都合が付いたんです! 機材がきちんと使えるかのチェックと、ピアノの調律は済んでいますよ」

「調律って、あっ」

 

 朱鷺ノ宮さんはピアニスト活動を休止している。

 だからこのピアノも長らく放置していたのかもしれない。それで今回の撮影のために調律までしておいてくれたのか。

 

「ピアニストはお休みしていますが、調律自体は定期的にお願いしていたんですよ」

「だったら、どうして今回のために調律を?」

「いつもは私に合わせた調律をお願いしているのですが、今回は悠貴くんに弾いていただきますから」

「俺が弾くから?」

 

 そんなのいいよと言いそうになって口をつぐむ。世界で名の知られたピアニストである朱鷺ノ宮さんに合わせた調律のままで良い。

 そんな恐れ多いことを言いそうになったと気がついたからだ。

 

「はい、悠貴くんのためです。今日はニュートラルな状態にしてもらっていますが、次は悠貴くんに合わせた調律をお願いしましょうね」

「俺に合わせたって……お金が掛かるんじゃ」

「朱鷺ノ宮家が専属でお願いしている調律師さんですから、その心配は不要ですよ」

「専属の調律師さんが、すごいね」

 

 活動を休止していても専属の調律師さんがいるんだ。流石は朱鷺ノ宮家だと思うと同時に、追加の費用を心配する必要がないと分かって少し安心していた。

 まだ調律がどんなものかわからないけど――朱鷺ノ宮さんが必要だと言うのなら、きっと大切なことなんだろう。

 

「今日は調律師の方に来てもらって調律してもらってから撮影を始める。そうするのが本来であれば一番なのですが……」

「ですが?」

「最初の撮影は悠貴くんと2人きりが良かったから……ごめんなさい。私の我が儘で調律は後回しにしちゃいました」

「え……いや、全然謝らなくていいよ! 俺も朱鷺ノ宮さんだけのほうが気軽に弾けると思うし、他に人がいたら緊張しちゃったよ絶対」

 

 言いにくそうな雰囲気を一変させて、朱鷺ノ宮さんは無邪気な表情で手を合わせて謝った。

 ドキッとする仕草に僕は慌てて朱鷺ノ宮さんの我が儘を肯定してしまう。

 

「悠貴くんもそう思いますよね! せっかくの記念日なんですから」

「記念日?」

「はい、今日を私たち2人のチャンネル立ち上げ記念日にしたいじゃないですか」

「記念日……誕生日以外でそういうの初めてだ」

「私たち2人にとって特別な日になる。そう思いませんか?」

「……そうだね。俺もそう思う」

 

 ただ撮影するだけだと思っていたけど、記念日だと言われてみると確かに相応しいと納得する。

 実際に動画を投稿するのはまだ先だけど、今日から朱鷺ノ宮さんと活動を開始するんだ。それは間違いなく僕たちにとって記念日になる。

 

「それで、悠貴くんには撮影の前に相談があるんです」

「相談? 何かな」

「私たちのチャンネル名です」

「……なるほど、確かに名前はいるね」

 

 チャンネルの名前か。そもそも頭に無かったな。

 今日から活動を開始する訳だし、一番最初にチャンネル名を決めるのはいいかもしれない。それに、撮影時間が短くなれば演奏時間も減って僕のストックが尽きる心配も減る。

 

「何も考えてなかった。何がいいかな?」

「ピアノに関するチャンネルだと一目で分かるものがいいかもしれませんね」

「じゃあ、ピアノ練習場、ピアノ曲投稿チャンネルとか……ごめん。自分で言っていてあれだけど、こういうの俺には全然センスがなさそうだ」

「うふふ、そうは思いませんけど、悠貴くんの案だと少しシンプル過ぎるかもしれませんね」

 

 とりあえずピアノに関するチャンネルだと一目に分かるようなのを、思い付くまま言葉にしてみたけどしっくりくるものがなかった。

 あまりのセンスの無さにお手上げ状態で朱鷺ノ宮さんにパスする。

 

「方向性は悪くないと思います。練習場……練習曲という意味のあるエチュード。それだけではシンプル過ぎるので『My etude』というのはいかがですか?」

「あ、いいかも。いかにもピアノチャンネルって感じがするし、響きもいい」

「ありがとうございます。それに、私たちが出会った時に悠貴くんが弾いていた曲もエチュードでしたから。私たちには合っていると思うんです」

 

 『My etude』シンプルで響きもいい。それに朱鷺ノ宮さんが言う通り、出会った日に僕が弾いていた『革命のエチュード』だったのも相まって、かなり合っている。

 これ日本語にすると私の練習曲か、これから楽譜を覚えていこうとしている僕にぴったりな気がする。

 

「私の練習曲……私たちの練習曲、悠貴くんと私の」

「私たちの?」

「はい、2人の練習曲……私も悠貴くんを通してピアノに向き合う。だから、『My etude』には私たちの練習曲という意味も込めさせてください」

 

 もし僕が口にしたら絶対照れて変になってしまうようなセリフを臆面もなく、朱鷺ノ宮さんは口にする。

 同い年の女の子に純粋に僕が求められている。特別な何かになれた気がして、今はその眼差しが心地良かった。

 

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