夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について 作:矢上鉋
「チャンネル名も決まりましたし、そろそろ撮影を始めましょう」
「……そうだね」
ついにこの時が来てしまった。ちゃんと弾けると思うけど、やっぱり緊張はあった。
「どうぞ」そう言うように
僕はそれに向かって一歩踏み出す。駅で弾いた時とはまったく違う緊張感だ。気がつけばもう白と黒の鍵盤の前に座っていた。
「悠貴くん?」
「ごめん。緊張しちゃって」
「始めるのは悠貴くんのタイミングで構いませんから、いつでも好きな時に始めてくださいね」
「ありがとう」
大きく息を吐いたが、緊張はほとんど変わらない。演奏を始めれば上手くいくかもしれない――そう思って鍵盤に手を伸ばすと、汗が滲んでいることに気づいた。
手のひらに滲んだ汗をズボンで拭おうとして、ポケットのハンカチの存在を思い出す。そんなことも忘れるほど緊張しているらしい。
ぎゅっとハンカチを握りしめ、馴染みのある布の感触に意識を集中させる。少しだけ落ち着いたような気がした。
朱鷺ノ宮さんは緊張している僕に気を使ってか、黙って見守ってくれていたのがありがたかった。
今は朱鷺ノ宮さんが何か言ってくれても、さらに指が強張っただろうから。
「……よし」
小さく声を出して気合を入れ、鍵盤の上に手を翳す。
思い描くイメージは今朝夢に見た光景、どこか分からない舞台の上で1人ピアノを弾いた時のことを思い出す。
緊張が消えていく。まるでスイッチが入ったみたいに、自然にピアノへ向き合えている。不思議な感覚だけど……悪くはない。
指が固まりそうだったのに、今は弾きたくて仕方がない。これなら、夢のように弾ける気がした。
そう確信すると同時に僕は鍵盤を押し込んだ。
「……っ」
最初の音が響いた瞬間、朱鷺ノ宮さんが息を呑む気配が伝わってきた。 静寂に包まれたスタジオだからか、彼女の微かな反応さえも肌で感じる。
この空間の音を全て僕が支配しているような感覚。さっきまで弾き始められなかったのが嘘のように鍵盤の上で僕の指が躍るように音を響かせていく。
夢で見たように弾けている。音が粒のように次々と空間を駆け巡る。駅で弾いた時とは、響き方が全く違う。
これがスタジオで弾くってことか。駅では音が遠くへ飛んでいくように感じた。けれどスタジオでは強く反響して、音の感じが違う。
スタジオで弾くほうが夢のイメージに近い。夢の中も舞台のような場所だったからかな。
「……終わった。あっ」
弾き終えた余韻の中、ポツリと呟いてしまう。収録だったことを思い出して慌てて口を手で塞ぐ。
やり直しかな。確認のために朱鷺ノ宮さんのほうへ振り返る。
「朱鷺ノ宮さん?」
朱鷺ノ宮さんは僕の真後ろで演奏を聴いてくれていた。緊張した僕の視界に入らないように気遣ってくれたのだ。
だから気が付かなかった。朱鷺ノ宮さんが両手を祈るように組んで目を閉じて聴いていただなんて。
「……とても素晴らしい演奏でした」
「あ、ありがとう」
「モーツァルト【ピアノソナタ第16番 ハ長調 K.545】……初心者のための小さなソナタ、とても有名な曲ですね」
「小さなソナタ?」
「はい、モーツァルトの小さなソナタ、そんな風に呼ばれて世界中で愛されている曲です」
「へえ、そうなんだ」
確かに聴き覚えのある曲だったけど、初心者向けの曲だったんだ。
自分でも夢のように良い感じに弾けたって手応えがある。きっと初心者向けの曲だったからだと思う。
「モーツァルト自身が“初心者のためのソナタ”と書き残した曲だからこそ、誰もが最初に触れる。だからこそ弾き手の個性がそのまま出る曲なんです。同じモーツァルトでも、十人十色の響き方をします」
「個性……今のはどうだった?」
「――圧倒的でした」
「えっ?」
「今まで多くのソナタを耳にしました。悠貴くんのソナタは優雅で、美しくて……私が聴いたモーツァルトの中で、最も優れていました」
「お、大げさじゃない……?」
「いえ、今の言葉ですら足りないくらいです。――それほど貴方のモーツァルトは素晴らしかった」
そう力強く言葉にされると返すものがなかった。僕を見つめる瞳は決して今の言葉がお世辞や冗談じゃないと告げていたからだ。
そんなに上手く弾けたのか。うまく言葉にはできないが、胸に温かいものが宿る。
朱鷺ノ宮さん、『Shizuru』に僕のピアノを認められた。
でも、こんなに褒められたら千聖さんの『リテイクでゴリ押し作戦』が使いづらくなってるような……あれ、ひょっとして結構不味い状態だったりするか?
「えっと……最後につい終わったって言っちゃったけど、大丈夫だったかな?」
「あの程度でしたら全く問題ありませんよ。編集しますし」
「そっか……編集できるよね」
何とか絞り出した時間稼ぎの思い付きは、現代の編集技術を前にあっけなく散ってしまう。
声出ちゃったの演奏終わってからだし、何とでもなるよな。編集か……そういえば誰が編集するんだろう。
「……編集って、俺やったことないな」
まだストックの曲は残っているから、焦らなくていい。気になるのは動画投稿に欠かせない編集作業、どうするつもりなんだろう。
朱鷺ノ宮さんが僕の発言に、待ってましたと言わんばかりに自信満々の笑みを浮かべている。
その笑顔は、まるでこの瞬間を楽しみにしていたかのように見えた。
「この週末までの間、私が何をしていたと思いますか?」
「え、まさか」
「そのまさかです! 編集作業は全て私に任せてください!」
「その本って」
「編集のために勉強しました」
どこからか一冊の本を朱鷺ノ宮さんが取り出す。その表紙には『【完全版】初心者から上級者までこの一冊で編集スキルをマスターできる本』と書かれている。
ここからでもかなり読み込んでいるのが分かる。付箋の数がそれを物語っていた。
「2人でチャンネルを運営するのですから、これくらいは私がさせてもらわないと」
「場所を貸してくれてるだけで十分すぎると思うけど」
「そんなことはありません! スタジオをチャンネル用に使うための準備を終えていますから、私にも何か役目が必要です。このチャンネルは私たちの『My etude』なのですから」
「私たちの……『My etude』」
「そうです。それに編集を担当するということは、悠貴くんの演奏を何度も聴く特権を得たということでもあります。ああ、今から編集作業が楽しみです」
朱鷺ノ宮さんは頬に手を当ててうっとりと、どこか遠くを見ていた。
任せるのはアレかなと思ったけど、本人がやりたそうだし好きにしてもらおう。
「手伝えることがあったら言ってね」
「はい、任せてください。悠貴くんの演奏の魅力を余すことなく伝えられるように精一杯頑張りますね」
「ほ、ほどほどにね」
「チャンネルのために、もう一曲とお願いしたいところですけど……」
「けど?」
編集の本を丁寧に片付けると、朱鷺ノ宮さんが何やら相談したい雰囲気を出していた。
「チャンネルの方針を話し合っておきたいと思いまして」
「……正直どうするのが良いか。さっぱり分からない」
「まずはストック作りが良いと思うんです」
「しばらくは投稿しないってこと?」
「そうなります。実は作戦があって……」
どんな作戦か予想できなかったけど、朱鷺ノ宮さんの表情には勝算があるように見えた。
「それはまた後日に話しますね。では、大まかな運営方針が決まりました。次はピアノの調律を済ませましょう」
「え、今から来るの?」
「はい。さっきのモーツァルト、悠貴くんが良ければなんですが……調律のあとにもう一度弾いてもらえないでしょうか?」
「……それは、構わないけど」
リテイクなら大歓迎だけど、今から本当に来るの? 驚きも消えないうちに、初老の男性がやってきた。
「お待たせいたしましたお嬢様」
「お願いしますね」
「かしこまりました」
早い。いくらなんでも早すぎる。
もしかして僕のために待機してもらっていた? お金持ちの世界って凄い。
圧倒されて、そんな感想しか出てこなかった。
「弾いてみて、何か要望などはありませんか? 弾き心地など、何か気になる点があればおっしゃってください」
弾き心地、弾き心地ってなんだろう。
いや、このピアノと駅のピアノは確かに感触が違った。
このピアノは硬い感じがする。弾いていて障害になったわけじゃない。むしろ……。
「もう少し鍵盤は硬いほうが良いかもしれないです」
「ほお、硬くですか」
「変なこと言っちゃいましたか?」
「いえ、そのようなことはありませんよ」
調律師さんが専用の器具を持ってピアノの調律を始めた。
なかなか見られる光景じゃない。職人の作業工程に、思わず釘付けになって僕は調律が終わるのを待った。
「一度、弾いてみてもらえますか」
「あ、はい」
促されるまま、僕は微調整されたピアノを弾いた。
その作業を何度も繰り返し、ピアノの調律は続いた。
どの段階でも些細な違いがある。これで良いのか分からないけど、調律されるたびにこっちが良いと思えるのが不思議だった。
そして何度目かで、しっくり来る感覚がした。
「あ、これ良い感じです」
「……もう一度調律するので、比べてみてくれますか?」
「はい」
もう一度、調律されたピアノを弾く。
全然違う。これは好きじゃない。こんなにも違うものかと、驚くほどさっきの調律は心地よかった。
「さっきのほうが良かったです。これは弾きにくく感じます」
「……驚きました。貴方が『これだ』とおっしゃった調律……お嬢様がいつも指定なさるものと全く同じものです」
「悠貴くんが、私と同じ……」
「え、そうなんですか?」
ピアノ業界だとよくあること、って感じじゃなさそうだ。2人の反応がそう言っている。
「悠貴くんは、私と同じ世界を見ているのですね」
静かに言葉にした朱鷺ノ宮さんを、僕は見つめることしかできなかった。
「同じ世界を見ている」と告げる微笑みは儚くて、ただ美しかった。