夢見のピアニスト~夢に見ただけでピアノを弾けるようになった僕が、活動休止中の天才ピアニストと動画配信を始めることになった件について   作:矢上鉋

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第九話 レッスン

 僕の採用が決定すると、千聖(ちさと)さんは早々に楽器店から家路に付いた。

 次は僕の勉強に付き合ってくれる約束があったからだ。

 

 この前と同じ道を通って千聖さんの家に向かう。辺りはもう陽が落ちて暗くなっていた。その暗がりの中で千聖さんの家には明かりが灯り、暖かく迎えてくれているようだった。

 

「ただいまー」

「おかえりなさい」

「こんばんは。お邪魔します」

 

 千聖さんに続いてお邪魔すると家の奥から聞き覚えのある声がした。千聖さんのお母さんだ。小さい頃、よくクッキーを焼いてくれたのを覚えている。

 

「あら、千聖。お友だちも一緒?」

「うん、悠が一緒」

「え、悠ちゃん?」

 

 バタバタと、慌ただしい音が奥からこちらに近づいてくる。

 エプロンを付けた千聖さんのお母さんが扉を開けて顔を出した。

 

「悠ちゃん! 久しぶりじゃない」

「お久しぶりです」

「大きくなったわね。最後に家へ来たのいつだったかしら?」

「えっと、10年くらい前だったと思います。ご無沙汰してます」

「こんなに格好良くなって……あ、でも優里香ちゃんとはやっぱり姉弟ね。よく似てるわ」

 

 姉さんと似てるって結構言われるんだよな。自分ではそんなに似てないと思うんだけど、色んな人からよく言われる。

 

「ママ、玄関で話し込もうとしないで。ほら、悠も上がって」

「あら、ごめんなさい。つい懐かしくて……どうぞ、遠慮せず上がってね」

「はい、ありがとうございます。お邪魔します」

 

 千聖さんのお母さんは、娘と違って髪が暗い茶色だけど、顔は彼女とそっくりだ。

 いや、千聖さんがお母さんにそっくりだと言うのが正しいよな。

 

「やっぱり男の子とは疎遠になっちゃうわよねぇ」

「そ、そうですね。千聖さんとも最近また会うようになって」

「あら、そうだったの! 良かったわね千聖」

「ママ、はしゃぎすぎだから。ちょっとスタジオ使うからね」

「もちろん大丈夫だけど、悠ちゃんも楽器するの?」

「はい、少しだけですけど」

 

 そんな世間話をしながらスタジオの方へと3人で向かう。

 昔はこうやって向かうのはキッチンだった。あの時のクッキーがすごく美味しかったな。

 

「ふふっ、そっか。悠ちゃんも音楽するのね。良かったわね千聖」

「ちょっと、いい加減にしてよママ。スタジオまでは付いてこないで」

「はいはい、ママは邪魔しませんよ~」

「もう、行こう悠」

「あ、うん」

 

 ぐいっと手を引く千聖さんに抵抗せず、僕はスタジオに引っ張られていく。

 そんな様子を千聖さんのお母さんはニコニコと見守っている。

 こういうところ、お母さんにそっくりだよな。そう思ったけど、絶対に本人には言わないでおこう。

 

「はあ、ごめんね悠。ママがはしゃいじゃって」

「ううん、懐かしくて嬉しかったよ」

「……それ絶対ママに言っちゃ駄目だからね。調子乗るから」

「あー、そうかも」

「かもじゃなくて、絶対にそうなるの!」

 

 千聖さんの表情はいつになく真剣だ。いつにない表情、決して逆らってはいけない何かを感じた。

 

「ママもここにまで邪魔はしに来ないだろうし、早速だけど始めよっか」

「うん、よろしくお願いします」

「教本はこれね。私が昔使ってたやつ」

「あ、バイエル。名前は聞いたことある」

 

 千聖さんが用意していた赤い本、バイエルという名前には聞き覚えがあった。ピアノ教室に通っていたクラスの女の子が口にしていたのを覚えている。

 バイエルが終わってないから、他のを触らせてもらえないと愚痴っていたのが印象的だったからだ。

 

「バイエルって有名だもんね。ピアノ習う子の殆どが通る道かも」

「へー、そうなんだ」

「他人事みたいに言っているけど、今から悠も通るんだからね」

「……そうだった」

「ふふっ、基礎的なことだから退屈なこともあるかもしれないけど、一から頑張っていこうね」

 

 特徴的な赤い表紙は、少しくたびれた感じがした。千聖さんが頑張ってきた練習のあとが刻まれているようだった。

 バイエルを僕に手渡して、千聖さんがキーボードのカバーを外す。譲ってもらった物と同じメーカー、これで曲とか作ったりしているんだろうか。

 

「とりあえず、ここに座ってくれる? 教本見ながら実際に鍵盤に触れるのがいいから」

「分かった」

 

 促されるまま長方形の椅子に座る。鍵盤の他に、色んなボタンや液晶画面が並んでいる。どんな機能があるか全然分からないけど、楽譜の勉強には必要なさそうだ。

 

「準備できたね。じゃあ、まずは少し横に寄ってもらおっかな」

「横にって、どうして?」

「隣に私が座って教えてあげるってこと。ほら、寄って寄って」

「わっ、押されたら落ちるって」

「落ちなかったでしょ。それではレッスンを始めます」

「千聖さん、これはちょっと近くない?」

「レッスンを始めまーす!」

 

 あ、これ何を言っても駄目なやつだ。

 しょうがない。照れくさいけど、この状態でレッスンを受けるしかなさそうだ。

 

「悠、五線譜って分かるよね?」

「それは分かる。この線のことだよね」

「正解。じゃあ、これは分かる? この記号なんだけど」

 

 千聖さんが指差したのは五線譜の上に書かれている大きな記号だった。

 見たことはあるし、名前を聞いたこともある。でも何だったかな。

 

「……ト音記号?」

「正解。意外と覚えてるものでしょ」

「今のはほぼ勘だったけど、当たってるなら良かった」

「こっちは分かる?」

「えっと、さっきがト音記号だったから、へ音記号?」

「そう、へ音記号であってる」

 

 こっちも当たっていたようだ。あとは#も音楽の用語だったはずだ。電話の記号としてのほうが馴染みあるけど、元々は音楽の記号だったはずだ。

 

「このト音記号とヘ音記号の違いって分かる?」

「違い……何だっけ?」

「すごく簡単に言うと右手で弾くのがト音記号、左手で弾くのがヘ音記号なの」

「あー、なんか習った覚えがある」

「全部がそうなる訳じゃないの。へ音記号を右手で弾くことだってあるから」

「……なるほど」

「ふふっ、そんな難しい顔しないで。悠ならちゃんとできるようになるよ」

 

 簡単に2つの違いを教えてもらえたが、一部例外ありみたいに言われると頭が混乱しそうになる。

 

「覚えること、多そうだね」

「そうだね。多いよ」

「これって、覚えるのにどれくらい掛かるかな?」

「うーん、個人差があることだから……私の場合は見ながら弾けるようになるまで半年くらい掛かったかな?」

「 ……それって早いほうか、遅いほうだとどっちだった?」

「私も詳しいわけじゃないけど、早いほうだって言われたことはあるかな」

「半年で早いほうなんだ……」

 

 今から半年後って、僕はもう高校3年生になってる頃だ。

 高3ともなれば受験勉強が待っている。両親二人とも僕が希望する大学への進学を「頑張れよ」って応援してくれている。

 そんな中で楽譜の勉強に集中していていいんだろうか。

 

「もしかして、楽譜を覚えるのに期限とか決めてるの?」

「期限とか特に無いんだけど……」

 

 もともと期限はない。だけど、流石に半年も時間が掛かってしまうと、朱鷺ノ宮《ときのみや》さんにも変に思われてしまうと思う。

 朱鷺ノ宮さんは僕のピアノを希望だと言ってくれた。だから彼女をがっかりさせたくない。

 

「……早くて、半年掛かるんだよね」

「悠は、早く楽譜を覚えたい?」

「うん、可能な限り早く」

 

 最初は痛みから逃げるように始めた。だけど、さっきの店での演奏はそれだけじゃなかった。

 弾ける楽しみ、っていうのを少しだけ分かった気がする。演奏の途中、朱鷺ノ宮さんに聴いて欲しいって自然と頭に浮かんでいた。

 

 何かが変わっていく気がする。今の僕は、その変化を受け入れようとしているのかもしれない。

 

「早く楽譜を習得するのは大変だよ。普通だったらね」

「普通だったら?」

「残念、2人でゆっくり勉強するの楽しみにしてたんだけどなー」

「それって、どういう……?」

「家庭教師みたいでしょ、1回やってみたかったの」

 

 そう言って少しだけ寂しそうに千聖さんが笑みを浮かべていた。

 千聖さんにとっても僕が楽譜を覚えるのは早いほうがいいと思っていたのに、どうしてそんな顔をするんだろう。

 

「悠が早く覚えたいなら、ゆっくりなんてしてられないね」

「……千聖さん?」

 

 だけどそう見えたのは一瞬で、次の瞬間には千聖さんはいつもの優しい表情に戻っていた。

 そして大丈夫だよと語りかけるように、千聖さんの手が僕の手に重なった。

 

「悠には特別な――”とっておきの方法”があるから」

「……とっておきの、方法?」

「うん。でも今日はまだ内緒」

 

 そう言って千聖さんは意味深に笑った。

 冗談みたいに軽く言ったはずなのに、いつもとは違う真剣な雰囲気があった。

 

「準備できたら教えてあげるから、楽しみにしていてね」

 

 小さくウィンクされ、僕はそれ以上何も言えなかった。

 胸の奥に引っかかるような不安と、ほんの少しの期待を抱えながら、その日は勉強を終えた。

 

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