エルザのことを忘れない   作:区隅 憲

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失われた絆を取り戻して

―11―

 

 

 マウルが帰ってきた日の午前11時、私はフェノメノン製本店にかなり遅れて出勤した。店に入ると店長は目を丸くして私を見留め、心配そうな顔つきで駆け寄ってくる。

 

「どうしたんだいエルザ!? 君がこんな時間まで遅刻だなんて……」

 

 そう問われ、私は洗いざらい顛末を打ち明けた。

マウルと喧嘩して写本にインクをぶちまけられたこと。そして作業を取り戻そうと無理をして倒れてしまったこと。

 

 そんな仕事の不手際を店長は渋面を作りながら聞き黙っていた。

シミだらけになった写本の写しを受け取ると、がっくりと肩を落とし深いため息をつく。そしてオーナー室まで手招きして私を連れていくと、重く口を開いたのだった。

 

 ――三日間の謹慎処分――

 

 それが私に言い渡された命令だった。

ずっと職人として高い誇りを持っていた私にとって、その処罰は十分堪えるものだった。

 

 私はただ粛々とその通達を受け入れ、深々と頭を下げる。

けれど店を去ろうとしたその間際、店長はふと私に声をかけた。

 

「娘さんのこと、大事にしてあげて」

 

 その一言が身に沁みた。

 

 

*****

 

 

 正午過ぎ、私は積雪が残る帰り道を歩きアパートへと帰宅した。

空は青く晴れ渡っているけれど、まだ肌寒い冷気が辺りを漂っている。

仕事ではじめて厳しい処分を下され、やはりショックは大きかった。

それでも私はパンパンと頬を叩き、あの娘が待つ我が家の扉を開けた。

 

「……あっ、お姉さん。お、おかえり」

 

 リビングに到着すると、ぎこちない迎えの挨拶が耳に届いた。

マウルは椅子の上で毛布に包まっており、テーブルには何冊も絵本が積み上げられている。私が出かけて以来ずっとリビングにいたらしく、私の帰りを待ってくれていたことが窺えた。

 

「その、お仕事どうだった?」

 

 マウルはおずおずとした瞳で私を見上げる。

私が普段よりずっと早く帰ってきたこと、それを不審に感じているようだった。

私は相手を責めるわけでもなく、かといって気遣うわけでもなく、ただ淡々と事実を述べた。

 

「……うん、三日間自宅で謹慎するようにって店長さんから言われたよ」

 

「キンシン? キンシンって?」

 

「仕事のミスを反省して、家の中でじっとしていなさいって意味だよ。その間は仕事に来ちゃダメって怒られたの。私が担当してた写本の仕事も外されて、別の人がやることになったんだ。だから、お店も今バタバタしてる」

 

「そ、そっか。そう、なんだ……」

 

 私の説明を聞くと、マウルはしょんぼりと首を項垂れた。

写本にインクをかけてしまったこと。それがどれだけ多くの人の迷惑になってるか、私は包み隠さず答えた。そのほうがマウルにとっても、ちゃんと勉強になると判断した。

 

「それと、店長さんに『娘さんのこと大事にしてあげて』とも言われたよ」

 

「えっ?」

 

 私が続けて言葉を伝えると、途端にマウルは目を瞬かせ私を凝視する。

けれどその瞳はすぐに伏せられ、毛布の中で体をもじもじさせた。

顔を覗き込むと、困ったように眉尻がひそめられている。けれど頬が少し赤くなっていた。

 

「マウル、あのね。ちょっと話し合いたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 そんなぎこちない態度を見せるマウルに対して、私は慎重に呼びかけた。

マウルは顔を俯けたままごくわずかに頷く。それを確認すると、私は少しずつ距離を近づけ対面の席に座る。

――これからの二人の関係、それをいま話し合うべきだと私は考えた。

 

「……ごめんなさい、マウル。私はあなたのことを引き取ったのに、全然ちゃんと面倒を見れなくて。自分勝手な言い分ばっかり押しつけて、あなたの気持ち全然考えられてなかった。親として本当に最低だったと思う。……だから、ごめんなさい」

 

「…………」

 

 マウルは下を向いたまま、こくり、と頷く。

そんなほんの些細な仕草だけで、マウルがどれだけ傷ついていたかわかってしまった。やっぱり私は、親として全く未熟だったのだと噛みしめる。

――だけど、だからこそ、もう一度マウルと向き合いたかった。

 

「だけど、だけどね、マウル。これからは私、ちゃんとあなたの母親になろうって考え直したの。あなたに美味しいご飯を作ってあげて、あなたがしてほしいことをできるだけ叶えてあげようって、そう決めたの。そのために、仕事にも毎日行かないといけないけれど」

 

「…………うん」

 

 長い間を空けて、マウルはごくわずかな返事をかえす。

強張りが残った、かすかに震えた肩。

それでもそんな小さなやり取りこそ、私たちが関係を育むために必要な一歩なのだと、今なら理解できた。

 

「……だから、もう一度私にチャンスを与えて。私は全然母親らしくもないし、仕事のことばっかり考えてるような人間だけど、それでも私、あなたの母親になりたいから。だからあなたも、孤児院には帰らないでほしい」

 

 いま抱いている赤裸々な想いを、ありのままマウルに伝えた。

この決意は、やっぱり半分はエゴだった。

私はマウルと離れたくない。マウルがいなくなってしまうのは寂しい。

 

 ――それでも、マウルのことを幸せにしてあげたい。

今の私なら、その気持ちが嘘偽りではないと確かに言い切ることができた。

だから、私はじっと願う。マウルが下す決断が、私自身と同じ気持ちであるということを。

 

「わ、私も…………お姉さんと一緒に……いたい」

 

 途切れ途切れな答えが、私の耳に届いた。

戸惑いとためらいを含んだ、覚束ない声。

それでもそのたった一言の歩み寄りが、私の胸をどれほど熱くしたか言い表せなかった。

 

「……ありがとうマウル。私のことを信じてくれて」

 

 私は張り詰めていた頬を緩め、マウルの頭にそっと腕を伸ばす。

あの頃の先生がそうしてくれたように、少しためらいがちになりながらも、何度も手のひらを往復させた。そんな私の不器用な触れ合いを、マウルはただ受け入れてくれた。

 

「――マウル。マウルは今日、何か食べたいものある?」

 

「……羊のステーキ……私、羊のステーキが食べたい!」

 

 

*****

 

―10―

 

 

 それから、仕事に復帰して数ヶ月が経った頃、私たちはお互いに仲直りし少しずつ距離を近づけ合った。まだ「母と娘」という関係に実感が持ててなかったけれど、私はその役割を全うしようと懸命に日々を送った。

 

 今日はフェノメノン製本店も休みの日。

私は朝早くからマウルの部屋に押しかけ、埃っぽい空気の中でパンパンと手を叩いた。

 

「ほらマウル、掃除するよ! あなたがここに来てから全然部屋の片付けもしてなかったんだから」

 

 ぐっすりと眠っていたマウルは「う~ん」と唸り声を上げ、やがてのっそりとベッドから起き上がる。私の姿を瞼をこすりながら見上げると、気怠そうに駄々をこねてきた。

 

「ええ~っめんどくさ~い! 別に部屋なんて掃除しなくたっていいじゃ~ん。寝てる時間のほうが大切だよ~」

 

 そんな言い訳を返すと、マウルはベッドの中に這い戻ろうとする。

芋虫のように包まって、サナギのように動かなくなった。

けれど私はそんなだらしない娘の毛布を引っぺがし、腰に手を当てて口を尖らせる。

 

「ダメッ! 掃除しないと、色んな病気の元になっちゃうんだよ?

私たちの周りには菌っていうすごく小さな生き物がいっぱいいてね。そいつらが体の中に入ってくると、どんどん仲間を増やしてマウルの体に悪さしてくるの。

もし放っといたら体を滅茶苦茶に壊されて、体も自由に動かせなくなっちゃうんだよ?」

 

「ええっ! そうなの!? こわ~い!! 私、体が動けなくなるなんていやだよ~!」

 

 マウルはベッドから飛び上がり、ブルブルと体を震わせる。

私は上手くお説教することに成功し、内心「母親らしくできた!」と小さく握りこぶしを作った。

 

「うんそう。菌って物凄く怖いんだよ? だからちゃんと部屋を綺麗にして、菌を全部やっつけないと。マウルにはずっと元気でいてほしいからね」

 

「は~い……」

 

 マウルはしょんぼりとほうきを受け取り、素直に散らかった部屋を掃除し始める。その後ろ姿は手慣れており、やっぱりあの頃の面影が残っている。

私はその気持ちにそっと蓋をしながら、マウルの健康のために一緒に部屋の片付けを手伝った。

 

 

*****

 

―9―

 

 

 季節がまた一つ巡る中、私たちは共に日常を重ねていった。

最初こそどう接したらいいかわからなかったけれど、やがて雪解けのように自然と一緒にいることが当たり前になっていた。

 

 今日も私はマウルの手を繋いで外の日射しの中を歩く。

ファーグリンの街は今朝からお祭りが開催されており、大勢の人たちが賑わっていた。

 

「やっぱり祝日だから混んでるね。マウル、迷子になるから手を離しちゃダメだよ?」

 

 念を押すように言い諭すと、マウルはブスっとした表情でそっぽを向いた。

ぎゅっと握る私の手を逃れようとしており、その度に私は引っ張り戻す。

 

「ええ~っ、私ペットじゃないも~ん! 別にお姉さんがいなくたって平気だよ!」

 

 マウルは不平いっぱいな声で嘯き、周りをそわそわと見渡し始める。

そんないつまでも危なっかしいマウルに対して、私は母親らしくお説教を始めた。

 

「ダメッ! そんなこと言ってこの前も迷子になっちゃったでしょ!? ちょっとでも目を離した隙にどっか行っちゃうし、マウルを探すのすごく大変だったんだからね。だいたいあなたはいつもそそっかしいんだから、もう少し女の子らしく落ち着きを――」

 

「ああ~っ! 見て見てお姉さん! あそこのお店何かいい匂いするよ~」

 

 けれど次の瞬間、マウルは握手を逃れてお肉屋さんの前まで突進した。

「あっ!」と気づいた時にはもう遅く、マウルは香ばしい匂いにわあわあと騒ぎ立てる。慌てて傍に駆け寄ると、あどけない瞳は猪の丸焼きに釘付けになっており、今にもよだれが出そうになっていた。

 

「うわぁ~! すごくおいしそう~! ねぇねぇお姉さん、これ買ってもいい?」

 

 振り向いたとび色の目は、狩猟動物のようにキラキラと輝いていた。

一度コレだと決め込んだら、この娘は絶対自分を譲らない。

私は諦めにも似た胸中を抱きながら、ふと懐かしい光景を思い出す。

 

「……全く、誰に似たんだか」

 

 眉尻を下げて笑いながら、私は財布を取り出し猪のソーセージを買ってあげた。

 

 

*****

 

―8―

 

 

 二人で積み重ねた歳月は、やがて穏やかな寄り添いへと変わっていった。

私の隣にはいつもマウルがいる。しきりに甘えてきたり、わがままを言ってきたり。仕事から帰ると「おかえり!」と元気な声で駆け寄ってくれた。

 

 その笑顔に迎えられる度に私は胸がくすぐったくなり、心地良い微熱が体中に広がった。マウルのことが可愛くて仕方がない。だから私は今日も夜遅いのに、娘にねだられて本の読み聞かせをしてあげたのだった。

 

「『こうしてカルシスは祖国を守り抜いた後、戦争で身寄りのない人たちを屋敷に引き取って彼らに仕事を与えました。リヴァスの街の人々はその施しによって貧しさから救われ、やがてみんながカルシスを英雄と呼ぶようになりました。そんなカルシスの偉大な功績を忘れないために、リヴァスにはカルシスの銅像が建てられたのです』」

 

「すご~い! 銅像なんてかっこいい~!! カルシスは優しくて強くて、だからみんなからも尊敬されてたんだね~!」

 

『英雄カルシスの伝説』の一節を読み終えると、マウルは頬を上気させ興奮の声をあげた。ワクワクで溢れた顔をいっぱいにし、ベッドからせかせかとまた私の袖を引っ張ってくる。もう0時を過ぎているのに……この本を読むと、いつもマウルは私を寝かせてくれなかった。

 

「ねぇねぇお姉さん、もっとカルシスの話聞かせてよ! 私、カルシスのこともっと知りたい! 今度はかっこいい決め台詞とか聞きたいなぁ」

 

「もうっ、『聞かせて聞かせて』ってさっきから何回も言ってるじゃない! でも、明日はお休みだから、あともう少しだけだよ?」

 

 歯止めの効かないマウルの好奇心に呆れながら、私は自然と笑みを零してしまう。この無邪気な笑顔を見せられると、ついつい甘やかしてしまう自分がいる。

 

 そんな親心もすっかり板についてしまい、私はまた『英雄カルシスの伝説』を開く。このページの一節は、私自身も特にお気に入りのシーンだった。

 

「『荒れ果てた街の中、カルシスは戦争で母親を亡くした婦人の前に立つと、そっと手を差し伸べ、ひたむきに言葉を送ったのでした。

 

<あなたを大切に思ってくれる人が必ずいる。あなたを愛してくれる人が必ずいる。だから、あなたも人を愛しなさい。あなたが誰かを労わることで、あなた自身も大切な人を見つけられるから>』」

 

 一つ一つ丁寧に読み上げると、マウルは呼吸を忘れたようにじっと聞き入った。

とび色の瞳が日射しを浴びた水面のように揺れ、やがて静かな光彩を湛えて濡れそぼった。

 

「……すごい! やっぱりかっこいいよカルシスは! なんだろうコレ? 私、すごくジーンってなっちゃった!」

 

 目頭を拭いながら、マウルは溢れ出る感動を声に乗せる。

あの頃と同じだった。カルシスの言葉はマウルの胸に灯火を与え、埋火《うずみび》のようにずっと息づいていた。

 

「うん、そうだね。かっこいいよね。私もこのエピソードが大好きなんだ。誰かを愛するってすごく難しいけど、信じ続ければ本当に大切な人ってできるものだから」

 

「へぇ~そっかぁ! 何だか私とお姉さんみたいだね」

 

 何気ない言葉の瞬間、私はハッとなって声を詰まらせる。

今零れ落ちたマウルの台詞を、何度も頭の中で反芻する。

大切な人、愛する人……。それは私の独り善がりな自惚れではなく、マウル自身も同じ気持ちでいてくれたのだ。

 

 孤児院で一緒に過ごしたあの頃。二人で積み重ねた繋がりと思い出。それはもう遠く途切れてしまったけれど、今もう一度、新しい形で結び直すことができたんだ。

 

「あれ? どうしたのお姉さん? 何で泣いてるの?」

 

 滲み出した景色の中、マウルが心配そうにベッドから起き上がる。

その姿を見るだけで、胸の奥から満ち潮のような高揚がせり上がってくる。

気がついたら、私はマウルを抱きしめていた。

過去も今も全部ない交ぜになり、欠け月のような記憶が一つの糸で結ばれた。

 

「お、お姉さん? 本当にどうしたの? いきなり抱きついてきちゃったりして」

 

「ううん、何でもないよ。……本当にありがとうね、マウル。私はこれからも、あなたの傍にずっと居続けるから」

 

 戸惑うマウルの横顔に頬を寄せ、私はもう一度決意を重ねる。

自由奔放で危なっかしくて、ずっと目を離せない。でも、そんな過程を乗り越えて生まれた『家族の絆』が何よりも大切で。

 

 ――このほのかに宿る温もりを、ずっと忘れたくない。

例えあなたが過去を失っても、私は今のあなたのことも大好きだから。

 

 だからこれからも、私はマウルのことを見守り、マウルに色んなことを教えてあげよう。それが今の私にできる、精一杯の幸せの形だから。

 

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