エルザのことを忘れない   作:区隅 憲

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迷いながら握り返した温もり

―17.5―

 

 

(お母さんは、私のことを裏切ってたんだ……。

お母さんは、私のことなんてどうでもよかったんだ……)

 

 残酷な真実を突きつけられ、私は鳴り止まない嗚咽を上げ続けていた。

ずっと大切にしていたのに、思い出はどす黒く塗り潰された。

ずっと支えにしてきたのに、温もりはズタズタに引き裂かれた。

 

(お母さんは、本当に私を捨ててたんだッ!!)

 

 あの約束が幻想だったと思い知らされ、深海に溺れるようにベッドに体を沈めていた。この胸をかきむしるほどの痛みをどうしたらいいのかわからない。

お母さんが憎くて、お母さんが許せなくて。

……でもお母さんに会いたくて仕方なかった。

 

 

 ドンドンドン! ドンドンドン!

 

 

「エルザちゃ~ん! 夕食ができたよ~」

 

 部屋の外から突然、場違いなほど明るい声が耳をつんざいた。

その騒音にわずかに身じろぎすると、辺りはすっかり夕闇に染まっていた。

けれど、空腹なんて感じない。普段ならささやかな幸せを感じられる時間さえ、今の私にとっては苦痛な日課でしかなかった。

 

 ――誰にも、会いたくなんてない……。

 

 ベッドに突っ伏したまま、しつこく催促する呼び声に耳を閉ざす。

けれど扉は何の躊躇もなく開かれ、無遠慮な足音が床の軋みとともに踏み入った。

 

「エルザちゃん、今日は羊のお肉が商店街に売られてたんだよ! いや~これがけっこう高くってさ。私の独断で買ってきたから、院長先生にもすごく怒られちゃった」

 

 あの人の能天気な声が頭上に振ってくる。

けれどそんな日常的な会話でさえ、頭を締め付けられるように辛かった。

 

「……ひつじの肉なんて、いらない」

 

「ええ~そう? 美味しいと思うんだけどなぁ。じゃあ代わりに私がエルザちゃんの分も食べちゃおっかなぁ?」

 

「放っといて……」

 

「……?」

 

 あの人の足音がまた何の気兼ねもなく近づいてくる。

でも今は、顔を上げる元気すらなかった。

 

「エルザちゃん、どうしたの? 体の具合でも悪いの?」

 

「別に、悪くなんかない……」

 

「体、すごく震えてるよ? もしかして風邪でも引いてるの?」

 

「引いてなんかないっ!」

 

 バンッ! と、私はベッドを叩きつける。

激しくて荒々しい打撃音が、すぐに虚しい沈黙へと変わった。

何も知らず視界の隅に立つ相手に、どうしようもなく苛立ちが募ってくる。

 

「……私は、みんな嫌い。この孤児院のことも、お母さんのことも、みんな嫌い! どうせ私はお母さんから忘れられてる。私を愛してくれる人なんてもうどこにもいないんだ!!」

 

 私は叫び散らし、枕に顔を押しつける。

しゃくりあげる声が止まらない。視界が全て黒霧で覆われる。

地割れのような亀裂が胸の中に走り、押し潰されそうなほど心臓が痛かった。

 

「そっか……お母さんに忘れられて、すごく傷ついてるんだね」

 

 静かな足音が、また一歩ずつ耳に届いてくる。

ゆっくりとゆっくりと、慎重に。まるで腫れ物を扱うように。

けれどそんな相手の気遣う態度すら、耳障りで仕方なかった。

 

「近づかないで! 先生だって私がここを出ていったらすぐに私のことなんて忘れるんでしょ!? もう私のことなんて放っといて! どうせ私は孤児院から卒業したら、独りぼっちのまま死んじゃうんだ!!」

 

 絶叫が喉を引きちぎりそうなほど振るい出された。

どれだけ孤独を叫んでも、この悲痛はかき消せない。

唯一私がすがりついた過去の面影は、最初からなかった。

 

 だからもう……私には何も残されていない。

八年間ずっと信じ続けた約束は、全部嘘だったんだ!!

 

 

「私は忘れないよ。エルザのこと」

 

 

 ふいに、耳の奥に私の名前が響いた。

水面に一滴《ひとしずく》が落ちたような、静かで、つつましやかな、けれど芯の通った声。

その呼び方の変化に気づき、私はハッとなって顔を上げた。

 

「ほら、目が腫れてるよ。一旦深呼吸して、落ち着こっか?」

 

 先生がハンカチをそっと差し出してくる。

私は一瞬迷いが生まれてためらったが、無意識のうちにそれを受け取っていた。

 

「隣、座ってもいい? エルザも落ち着いたら座りなよ」

 

 先生はゆったりとした声で呼びかけ、私のベッドに腰かける。

そんな自然体で距離を近づける相手に、最初私は戸惑った。

けれどじっとひたむきに待ち続ける瞳に、かすかに気持ちが揺れ動く。

やがて私はうつ伏せの身体を起こし、先生の隣にためらいながら座った。

 

「ちょっと、私の昔話を聞いてくれるかな? また気分が重くなっちゃうような内容だけど、大切な話だから」

 

「…………」

 

 私はハンカチを握りしめたまま、頷きもせず、否定もせず、ただ顔を俯ける。

そんな私の曖昧な沈黙を見届けると、先生は静かに私に向かって語り始めた。

 

「……私もね、実はお母さんを戦争で亡くしちゃったんだ。ずっと昔に故郷が襲われた時に、手を繋いでたお母さんとはぐれて。だから私はもう一度お母さんを探し出そうと、街の中を彷徨ったの。でも見つけた時には、もう血塗れで倒れてた」

 

 強張った両手を膝に重ね、先生は表情に影を落としながら過去を紡ぐ。

暗くて凄惨な、想像すらできないほどの重みを両肩に背負っていた。

思い出したくもないはずの心の傷。それなのに――

打ち明かされた言葉には、どこか懐かしむ声が包まれていた。

 

「だから、わかるの。エルザがどれだけお母さんのことが恋しいのかって。……独りぼっちになるのは、やっぱり寂しいよね。

 

 ――でもね、エルザ。大切な人ってお母さんしかなれないわけじゃないんだよ。自分自身の大切な人はね、自分自身で見つけることができるんだよ。だからエルザも、そんな風に諦めたりしないで」

 

 優しく諭すように、先生は真摯な眼差しで私と向き合い続ける。

けれどそんな先生の思いやりに気づいても、私は信じることができない。

 

「……そんなの、綺麗ごとだよ。私に大切な人なんて、見つけられるわけない……」

 

 私は目を伏せ、わずかに首を横に振った。

けれど先生はひたすら本当の答えを待ち続けるように、真っすぐな瞳を離さなかった。

 

「いないなら、私がなってあげるよ。エルザの大切な人に。エルザのお母さんと同じぐらい、私があなたの大切な人になるから。……だから、もう泣かないで」

 

「そんなの、口先だけだよ! 大切な人になんて、簡単になれるわけないじゃない……っ!」

 

 私は先生の言葉を、激しく頭《かぶり》を振って拒絶する。

けれど先生は、そんな感情さえも受け止めた。

 

「うん、簡単じゃないよ。誰かのことを本当に心の底から大切だと思えるなんて、私だって難しいって思うよ。……私も、何度もそういう関係に憧れて失敗したから。

 

 でもね、まずは一歩踏み出さないと何も始まらない。信じて歩み寄らないと何も始まらない。私は、エルザと仲良くなれるって信じ続ければ、エルザと本当の親友になれるって、そう思ってるの。だから……だからね」

 

 先生は膝の上の両手を伸ばし、私の手のひらにそっと触れる。

指先がわずかに震えている。緊張が肌を通して伝わってくる。

それでも、私を離さない。

やがて二つの温度が溶け合うように、先生の声が私を包み込んだ。

 

「まずは仲良しさんからはじめよ? エルザ」

 

 蕾が咲いたような笑顔が、私の瞳に重なった。

子供のように純粋で、けれど芯の通った熱さがあった。

私はただ視線を瞬かせ、この温もりが幻でないことを何度も確認する。

 

 そんな言葉を信じていいのかわからない。本当に愛情なんてあるのかわからない。裏切られるのが怖くて、とっさに重なる手を跳ね除けそうになる。

 

 ――それでも、信じたい気持ちを抑えられない。

力強く握られた指先が、次第に人肌を求めて強張りをなくしていく。

やがて震えた心は雪解けを迎え、先生の手をそっと握り返していた。

 

「なんで……先生はそんなに優しくしてくれるの? 私は、こんなに不愛想で自分勝手な子供なのに……」

 

「言ったでしょ? 友達がほしいからだって。ずっと忘れることができないような、大切な人がほしいの。だからエルザも、私のことを忘れないで」

 

 先生は私の肩に体を寄せ、何度も頭を撫でてくれた。

少し大きくて遠慮のない、けれど安らぎを覚える手のひらだった。

お母さんとは全然違うはずなのに、懐かしい記憶を思い出す。

 

 

 やがて夕闇が月明かりに変わる頃、堪えきれなかった涙が消えていた。

 

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