地方トレセン学園・女子寮
共有スペースの古いATM端末。
画面の青白い光が、メロヴィクトの顔を照らしている。
残高照会。
読み込み中。
――ピッ。
表示。
残高:31,247,860円
「……え?」
瞬き。
もう一度、暗証番号。
打ち直す。
表示。
31,247,860円
固まる。
「……え?」
後ろの自販機のモーター音がやけに大きい。
彼女の脳が、桁を拒否する。
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……
「……さん、ぜん……」
声が出ない。
これまでの最高残高。
24,380円。
それでも「今月いける」と安堵した自分。
今、目の前にある数字。
三千万円。
「……バグ……?」
タップ。
更新。
変わらない。
横から顔を出す先輩ウマ娘。
「確認できた?」
「せ、せんぱい……」
指が震えて画面を示す。
先輩、ちらっと見る。
「ああ、中央GⅢの分だね」
軽い。
軽すぎる。
「さ、三千……」
「優勝賞金それくらいだよ」
「そ、そんな……」
「地方は百万くらいだったでしょ? 二勝分で二百万。中央は桁違うよ」
メロヴィクトは思わず後退する。
ATMに背中をぶつける。
呼吸が浅い。
三千万円。
それは彼女の、これ迄稼いだ総額を軽く超えている。
六畳一間でビクトリームが
ダンボール製の玉座に座り、腕を組む。
「当然だ。」
「当然じゃないですよ!!」
現実で叫びそうになり、
慌てて口を押さえる。
「どうしたの?」
「な、なんでも……!」
六畳一間の精神世界で、ビクトリームはゆっくり立ち上がる。
「貴様は中央を制した。」
「GⅢです!」
「中央だ。」
言い切る。
「地方の百とは重みが違う。三千は“壁を越えた証”だ。」
メロヴィクトが震える声で話す。
「こんな……こんな大金……私が持っていい額じゃ……」
「持つのではない。」
ビクトリームが指を突きつける。
「“掴んだ”のだ。」
画面の数字が、じわりと滲む。
これで。
何かあっても学費の心配はいらない。
毎回、登録費に怯えなくていい。
食堂が閉まっても、
水で我慢しなくていい。
でも……胸が苦しい。
嬉しさよりも、恐怖が勝つ。
「……怖い」
小さく呟く。
静まり返った六畳一間の世界で、ビクトリームが少しだけ声を落とす。
「何がだ?」
「もし、次に勝てなかったら」
静寂。
「この額に、見合わない私だったら」
初めての言葉。
ビクトリームは即答しない。
代わりに歩き、彼女の背後に立つ。
「価値は結果ではない。」
「……え?」
「描いた軌跡だ。」
六畳の床に、光が走る。
何時ものV字。
細く、まだ不完全。
「中央GⅢで貴様は“自分の脚で”差した。」
「……」
「私は力は貸した。だが、走ったのは貴様だ。」
先輩が笑う。
「お祝い、する?」
「……え?」
「メロン、奢ろうか?」
一瞬、瞳が揺れる。
ビクトリームの目が光る。
「買え!」
「えっ?」
「金はあるのだろう?」
「いやそれは違います!!」
現実で即否定。
「急にどしたの?」
「な、なんでもありません!」
メロヴィクトは通帳を胸に抱える。
三千万円、勝利の結果。
でも。
まだ足りない。
なぜなら――“GⅠには、まだ出ていない。”
トレーナーの声が背後から響く。
「確認できたか?」
振り向く。
58歳の男。
達観した目。
だが、ほんの少しだけ誇らしげだ。
「はい……」
「どうだ、中央は規模が違うだろう?」
静かな一言。
メロヴィクト、うなずく。
「……重いです」
トレーナーは少し笑う。
「なら、いい」
「え?」
「これを軽く感じ始めたら、終わりだ」
頭の中にビクトリームの低く抑えた笑い声が響く。
「次は三千では済まん。」
「まだGⅠ出てません!」
「出る!」
ビクトリームの断言に、メロヴィクトが息を飲む。
ATMの画面がスリープに入る。
数字が消える。
だが――
胸の中の重みは、消えなかった。
勝負服という物がある。
それは、レースに人生を賭けるウマ娘達の憧れ、そして誇り。
それは、G1への出走を許された者だけが纏える。
必然的にその栄誉に賜われる者は少なく、
殆どのウマ娘が袖を通す事なく終わる。
メロヴィクトは今日、
その栄誉に賜われる数少ない選ばれしウマ娘としてここに立っていた。
URA提携・勝負服工房。
店内はとても静かだ。
飾られているのは、歴代GⅠウマ娘の勝負服のレプリカ。
色褪せない布。
擦り切れた袖。
何度も走った証。
それらが忠実に再現されている。
メロヴィクトはそれを見て、思う。
(……ずっと、これを着るんだ)
隣の先輩が肘でつつく。
「デザイン、出しなよ」
メロヴィクトが、慌ててスケッチブックを差し出す。
白基調。
紫と金のライン。
腹部に細いV字。
派手すぎない。
でも、中央で埋もれないための線。
受け付けの人がじっと見る。
「いいですね。このデザインでいきますか?」
「……はい!」
採寸。
素材説明。
仕様の確認。
そして、見積もり。
明細を表示した端末がこちらを向く。
約2,000,000円
「……」
息は止まらない。
でも、胸が重くなる。
ビクトリームは黙っている。
珍しく、茶化さない。
先輩が小声で言う。
「高いよね」
「……地方GⅢ、二回分です」
ぽつり。
百万×二。
自分が泥だらけで、
歯を食い縛りやっと得られた金額。
それが一瞬で布になる。
「払えないわけじゃないんでしょ?」
確かに、口座には三千万ある。
払える。
ある意味、余裕で払える。
でも。
「……これ、ずっと着るんですよね?」
職人が頷く。
「基本的に勝負服は変更しません。 あなたの“顔”になります」
……顔。
その言葉が刺さる。
(これが、私になる?)
GⅠに出るには必須。
でも、それ以上に――これは“固定”。
地方でこそこそ走っていた、どこにでも居る自分は終わる。
もう「いつでも戻れる」立場ではなくなる。
六畳一間の精神世界で、ビクトリームが歩く。
足音が響く。
「何を恐れている?」
「……これを着て、負けたら?」
正直な言葉。
「中央で通用しなかったら?」
「……」
「この服が、“勘違いの証明”になったら……」
静か。
六畳の空気が重い。
ビクトリームは低く言う。
「貴様はまだ、“地方の自分”を逃げ道にしている」
その言葉は……図星。
胸が痛む。
「違います……」
「違わん」
容赦無き断言。
「勝負服は強さの証ではない」
一歩近づく。
「覚悟の証だ」
メロヴィクトは見積書を見る。
2,000,000円。
払える。
でも重い。
なぜならこれは――“戻らない”ための布。
先輩が言う。
「似合うと思うよ、これ」
「……」
「辞めるなら、今だよ?」
優しいけど残酷。
ビクトリームも重ねる様に静かに言う。
「GⅠに出るのだろう?」
「……はい」
「ならば、着ろ」
短い。
でも逃げ道はない。
メロヴィクトは顔を上げる。
「……お願いします」
受け付けの人が頷く。
「完成まで三週間、出来たらトレーナーさん宛に発送させて頂きますね?」
契約書。
サイン。
ペン先がわずかに震える。
生まれて初めての大きな買い物。
書き終えた瞬間。
不思議と怖さが、少しだけ形を変える。
六畳一間の床に、細い光。
V字。
まだ未完成。
だが――今までより、はっきりしている。
ビクトリームが笑う。
小さく。
「服に着られるな」
メロヴィクト、心の中で返す。
「……着こなします」
工房を出る。
空気が冷たい。
口座は減る。
でも。
これは消費じゃない。
決意表明だ。
自分の覚悟への……。
夕方。
トレセンの小さな応接室。
古いソファ。
低いテーブル。
書類の束。
メロヴィクトは背筋を伸ばして座っている。
向かいにはトレーナー。
机の上に置かれた一枚の書類。
「……これが?」
「個別契約書だ」
静かな声。
メロヴィクトは目を丸くする。
「え……あの、私、まだGⅠ出てないです」
「知っている」
「中央所属でもないですし」
「知っている」
「実績も」
「三勝」
即答。
地方GⅢ二回。
中央GⅢ一回。
全部一着。
トレーナーは続ける。
「十分だ」
書類をこちらへ滑らせる。
トレーナー個別育成契約書
本契約は、URA(ウマ娘レース協会)および学園規定に基づき、
下記当事者間において締結される。
第1条(当事者)
本契約は、 ウマ娘:________(以下「甲」という)
トレーナー:______(以下「乙」という)
との間で締結する。
第2条(目的)
乙は、甲の競走能力向上およびレースにおける成績向上を目的として、
専属トレーナーとして育成指導を行う。
第3条(契約期間)
1. 本契約の有効期間は、署名日より開始し、
別途定める目標レース終了日までとする。
2. 契約期間満了時、双方合意の上で更新できるものとする。
第4条(目標レースおよび成果条件)
1. 甲は乙の指導のもと、事前に協議し定めた目標レースに出走する。
2. 当該目標レースにおいて、別紙に定める成果条件を達成できなかった場合、本契約は終了する。
3. 成果条件の詳細は、別紙目標設定書に記載する。
第5条(指導義務)
1. 乙は、医学的・科学的根拠およびURA指針に基づき、
安全かつ合理的なトレーニング計画を策定・実施する。
2. 乙は、甲の健康状態を最優先とし、過度な負荷を課してはならない。
第6条(遵守義務)
1. 甲は、乙の指導方針に従い、誠実にトレーニングへ取り組む。
2. 甲および乙は、学園規則およびURA規定を遵守する。
第7条(費用負担)
1. 通常の学園トレーニングに関わる基本費用は学園規定に従う。
2. 遠征費、登録費等の追加費用については、事前協議の上決定する。
第8条(獲得賞金)
1. 甲がレースにおいて獲得した賞金は、
URAの規定に従い分配・処理される。
2. 本契約は、URA規定に定める賞金配分割合を変更するものではない。
第9条(契約解除)
1. 双方の合意により、本契約を解除できる。
2. 重大な規約違反が認められた場合、相手方は契約を即時解除できる。
3. 医師の診断により競走継続が困難と判断された場合、本契約は終了する。
第10条(秘密保持)
本契約に関連して知り得た個人情報および戦略情報を、
第三者へ漏洩してはならない。
第11条(紛争解決)
本契約に関する紛争は、学園およびURAの定める調停機関において解決を図る。
本契約締結の証として、本書2通を作成し、
甲乙各自署名の上、各1通を保有する。
契約締結日:__年__月__日
甲(ウマ娘)署名:________
乙(トレーナー)署名:________
学園承認印:________
心臓が跳ねる。
「……専属?」
「そうだ」
「他の子は……?」
「いない」
あっさり。
「お前一人だ」
一瞬、時間が止まった気がした。
ビクトリームは……何も言わない。
メロヴィクトの声が裏返る。
「わ、私だけ!?」
「そうだ、個別だからな。」
「え、でも、え、え、だって」
言葉が追いつかない。
トレーナーは淡々と続ける。
「中央GⅠに出す以上、中途半端な管理はしない」
「……」
「俺の時間も、責任も、お前に全部使う」
全て……重い言葉。
メロヴィクトの目がじわっと潤む。
「……なんで?」
小さな声。
トレーナーは少しだけ考えてから言う。
「賭けたいと思った」
「……」
「お前の走りに」
一拍。
「それだけだ」
ビクトリームの低く笑う声が頭の中に響く。
「ようやく腹を括ったか」
メロヴィクトは書類を何度も見る。
専属。
自分だけ。
逃げ道が、また一つ消える。
でも――それ以上に。
胸が熱い。
「……いいんですか?」
「何がだ?」
「私、まだ弱いですよ?」
「知っている」
「中央で負けるかも」
「何時も勝つ奴なんておらん」
否定しない。
でも。
トレーナーははっきり言う。
「それでも、俺はお前で行く」
その言葉が。
二百万円の勝負服よりも重い。
メロヴィクトの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんとに……私だけ?」
「ああ」
「浮気しません?」
「しない……何か違く無いか?」
「他の子スカウトしません?」
「しない」
「途中でやっぱやめたとか……」
「言わない!」
全て即答。
返答を聞いたメロヴィクトは、どうにも我慢できなくなり歓声を上げる。
「やったぁぁぁあああ!!」
立ち上がる。
机に膝をぶつける。
「痛っ!」
それでも笑う。
そしてぐるぐる回る。
「専属!専属ですよ!? 私だけ!? え、え、すごくないですか!?遂にトレーナーさんがデレた!!」
トレーナーはその姿にため息混じりに話しかける。
「落ち着け」
「無理です!!」
ビクトリームも嬉しいのか、六畳一間で一緒に叫ぶ。
「ブルァアアア!!」
メロヴィクトの頭の中にビクトリームの声が響く。
(うるさい!!でも嬉しい!!)
彼女は書類を胸に抱きしめる。
「……私、ちゃんと走ります」
急に真面目な顔で宣言する。
「専属、無駄にしません」
トレーナーは小さく頷く。
「無駄にさせる気はない」
一瞬、2人の視線が交差する。
契約。
金ではなく。
覚悟の交換。
ビクトリームが住む六畳一間。
床のV字が、少しだけ太くなる。
いまだ未完成。
だが、前より確実に変化を感じる。
トレーナーが立ち上がる。
「まずはGⅠ登録だ」
メロヴィクト、満面の笑み。
「はい! 専属トレーナーさん!」
「その呼び方はやめろ」
「じゃあ、専属さん!」
「やめろ」
「せーんぞくさーん!」
廊下までに響く声。
でもその笑顔は、三千万円を見たときよりも
二百万円を払ったときよりもずっと、明るかった。
職員室は静まり返っている。
机の上に置かれた契約書。
几帳面な文字で、名前が丁寧に書かれている。
「メロヴィクト」
しっかりした字だ。
一文字ずつ、覚悟が滲み出ている。
俺はペンを握る。
署名を書くために。
手が震えている。
これは過去への恐怖ではない。
重圧だ。
覚悟だ。
一瞬、紙を握り潰し、破りたい衝動がよぎる。
「……俺はまだ、怖いのか?」
手が硬直する。
逃げるな。
この震えを、逃げる言い訳にするな。
ゆっくり、ペン先を紙に置く。
震えながらも、一画ずつ署名を書く。
インクが紙に染みる。
息を整える。
「……これで、進む事が出来る」
震える手を机に下ろす。
恐怖は消えない。
だが今は、前に進む覚悟になった。
翌朝、地方トレセン学園事務室。
契約書を差し出す。
古参の事務員が目を通し、静かに頷く。
「……やっと前を向けたんですね?」
短い一言だが、声には感慨が滲む。
事務員は契約書をそっと受け取り、丁寧にファイルに挟む。
指先がわずかに震えているようにも見えた。
多分今日の一枚には、特別な意味があるのだろう。
俺は小さく頷く。
「……ああ、やっとだ」
事務員の微笑みを受け取りながら、肩の力を少しだけ抜く。
前を向いた自分に照れ臭さも感じる。
恐怖はまだ残っている。
だが、もう逃げない。
そしてこの契約書を通して、あの子が覚悟を見守ってくれている気がした。
ここまで読んで頂き、有り難うございました!
これから完結まで毎日投稿となります。
物語は結末まで書き終わっているので、次回もお楽しみに!
そしてもし宜しければ、感想や評価を頂けると、今後の創作活動の励みになります!
お気軽にコメントをくださいね。
それでは、また次回お会いしましょう!