霧に包まれたロンドン郊外。
アスコット競馬場の門をくぐると、湿った芝の匂いが鼻を突いた。
「……ここが、王国か。」
ビクトリームの小さな感想が頭の中に響く。
メロヴィクトの視線は、遠くのスタンドに向いていた。
観客席には礼服と華やかな帽子。
静かで上品な歓声が、しかし確かな重みを持って耳に届く。
看板に掲げられた文字が目に入る。
《KING GEORGE VI & QUEEN ELIZABETH STAKES》
「王の庭だ。」
メロヴィクトは静かに頷く。
ここは、もう日本ではない。
王の象徴――メロン――も無かった。
ホテルの部屋。
遠征初日、メロヴィクトは買ってきた地元のメロン、カンタロープを齧った。
「……水だ。」
目の光が消える。
ここ数週間、同じやり取りが繰り返された。
「王国の実りが、ない……」
力の無い声が頭の中に聞こえる。
メロヴィクトは肩をすくめ、ふと思う。
慣れた象徴がないだけで、世界はこんなにも違うのか。
項垂れ、何処か煤けた印象を受けるビクトリームの姿が脳裏に浮かび上がった。
翌日、アスコットの周回コースに立つ。
日本にいる間に、URA海外事業部経由で予約してくれたらしく、今日はレースの下見を兼ねた練習となった。
トレーナーが準備をしながら目の前のコースの特徴を言う。
「ここの坂は高低差20メートル、最後の直線は上り坂で500メートルある。わかりやすく言うとだ、中山の4倍ってとこだな。まぁ、URAもだいぶ奮発してくれてな?普通は実際のコースで練習だなんて金がいくら掛かるのか見当も付かないな。」
「中山の四倍……」
メロヴィクトが小さく呟く。
脚が自然に震えた。
日本で無敵だった体も、ここではまだ未知数だ。
ビクトリームの姿が頭をよぎる。
「王国では……ない……」
その声は、胸の奥で小さく反響した。
「やるしか無い、練習中はここがあなたの国だよ。」
メロヴィクトは心の中で言い聞かせた。
アスコットレース場に、王室の伝統に則ったファンファーレが演奏される
その特徴的なファンファーレやスーツやドレス姿の観客。
日本とはまるで違うその世界に、メロヴィクトはここが異国の地である事を再認識した。
パドックでのお披露目が終わり、ゲート入り。
スターターが旗を振り下ろす。
芝の匂いが鼻を突き、耳に届く歓声は日本とはまるで違った。
重厚で、静かに迫ってくる力がある。
欧州の最強たちが先導し、メロヴィクトは一歩目から後れを取った。
心臓が跳ねる。
呼吸が粗くなる。
脚の裏の感覚がいつもより鋭く痛む。
高低差20メートルの周回コース。
上り下りを繰り返すたびに、体幹が軋む。
残り1周。
緩やかな下りを抜け、最後の直線に差し掛かる。
500メートルの上り坂はまだ続く。
欧州のウマ娘たちの推進力が鋭く、少しずつ押される。
「……まだ、ここで諦めるわけにはいかない。」
心の中で、自分に言い聞かせる。
六畳一間の王――ビクトリームの影が頭をかすめる。
象徴のメロンは手元にない。
「実りが足りぬ……」
小さな声が聞こえる。
しかし、メロヴィクトは振り返らない。
踏み込む脚だけを信じる。
芝を蹴る感触。
地面の反発。
痛む筋肉。
心臓の高鳴り。
全てが、自分の存在を証明している。
残り300メートル。
脚が悲鳴を上げる。
目の前の欧州ウマ娘が壁のように立ちはだかる。
「私の脚は、ここにある!」
全身に力を込め、後方から押し上げるように加速する。
残り200メートル。
上り坂の傾斜がきつくなる。
芝の軌跡に自分の意思を刻むように、一歩一歩踏み込む。
体は限界を超えたのか、脚が熱をもつ。
でも、止まらない。
後ろを振り返る余裕も、観客を見る余裕もない。
ゴール直前。
視界の端にわずかな隙間。
「――ここっ!」
渾身の力で体を前に押し出す。 半バ身差。
わずかに先頭に立った瞬間、歓声が重く降り注ぐ。
ゴール後、脚を止めると体が震えた。
上半身を前に倒し、呼吸を整える。
日本の歓声とは違う、格式ある重さが胸に刺さる。
そして、初めて理解する。
ビクトリームの力の象徴である呪文もなく、1人のウマ娘としてここで勝った。
ビクトリームの影が、静かに俯いている。
「甘味が……」
「なくても、勝てました。」
メロヴィクトは静かに、しかし確かに呟いた。
自立の第一歩を踏み出した感覚。
夜、ホテルの窓。
遠くのアスコットレース場に月光が差す。
テレビには凱旋門賞の映像。
重い芝、長い直線、熱狂する観客。
ビクトリームが呟く。
「アスコットは王の庭。だが……ロンシャンは戦場だ。」
メロヴィクトは静かに頷いた。
「……なら、戦いに行きます。」
遠くに映る次のレース――GⅡフォア賞。
凱旋門賞への前哨戦。
六畳一間の王は、まだ色褪せたまま。
それでも、未完成の王は自分の足で歩き出した。
今回は、キリ良くする為に短めの回となりました。
次回は長めの回になる筈です。