パリ近郊、ブローニュの森の奥。
セーヌ河畔に広がる広大な芝の海を前に、メロヴィクトはしばらく言葉を失っていた。
ここが、凱旋門賞の舞台――パリロンシャンレース場。
遠くに風車が見える。
スタンドは緩やかな曲線を描き、空港の滑走路のように広い敷地がどこまでも続いている。
メロヴィクトはその広大さに圧倒されながら、ふと足を止めた。
目の前に広がる芝生の海、そしてその先に待ち構えるグランプリ――凱旋門賞。
その意味を改めて噛み締めていた。
彼女の前にはただの競技場ではない。
ここは、世界中のトップ馬が集う戦場。
ここで戦わなければ、世界の頂点には立てない。
彼女の足元には、勝利への道が広がっているのだ。
「フォワ賞は凱旋門賞と同じ2400だ」
トレーナーが並んで立つ。
「大コース。右回り。スタートしてすぐ上り坂だ。約1000メートルのバックストレッチを越えて、下りのコーナー。フォルスストレートでは動くな。勝負は533メートルの直線勝負だ」
淡々とした説明だった。
だが、その一つ一つが重く響く。
ここを勝てれば、本番でも戦える。
メロヴィクトは芝を見下ろした。
アスコットとは違う。
ここは、庭ではない。
静かな六畳一間の部屋が頭をよぎる。
最近、ビクトリームの声が弱くなっていた。
「実りが……足りぬ……」
ホテルに戻ると、ビクトリームは益々弱ってきていた。
メロヴィクトはパリの街を歩き回った。
青果店、マルシェ、スーパー。
並ぶのはウリのような瓜類や、水気の多い果実ばかり。
「違う……これじゃない」
焦るメロヴィクトは夜、スマートフォンを握りしめる。
「お願い、日本から送ってほしいの。ちゃんとしたメロンを」
「メロヴィクトちゃん、そんなにメロン好きだったの?あ、それともホームシックかな?そう言えばさ……」
「……はい、それじゃあお願いしますね?」
先輩ウマ娘との通話を終えてすぐ、
頭の中に聞こえるか細い声。
「ウリではないぞ……メロンと、ちゃんと伝えよ……」
「言ったよ?ちゃんと夕張メロンって」
翌日、到着はフォア賞に間に合わないと返事が来た。
フォワ賞、ロンシャン競馬場。
空気が張り詰める。
ロンシャン競馬場、今日の戦いの舞台が整った。
メロヴィクトはその場に立ち、冷静に周囲を見渡していた。
「ここが凱旋門賞への試金石、フォア賞……。」
レースの前、彼女の心はすでに決まっていた。
今日、ここで勝つことは何よりも重要だ。
この勝利が凱旋門賞への鍵となる。
ゲートが開くと、その瞬間、アンダルシア・ブルーが飛び出した。
だが、メロヴィクトは微動だにせず、じっとその動きに目を凝らす。
アンダルシア・ブルーは明らかに先頭を取った。
だが、そのペースが尋常ではない。
少しの躊躇いもなく、彼女は全力で一気に加速した。
直向きに前へ前へと突き進む。
「……欧州レースで大逃げ?」
メロヴィクトは疑念を覚えつつも、後方の中団の位置から冷静にその動きを見ていた。
恐らく、アンダルシア・ブルーはラビット役と言うモノだろう。
ラビットは同じチームのエースの為にペースを引っ張り、後ろのウマ娘たちを引き離していく。
それが彼女の仕事だ。
だが、パドックで見た彼女の目には、焦りの色が浮かんでいたのが何故か気になった。
「あの人は何を考えている…?」
メロヴィクトは一瞬、その速度に警戒感を覚えた。
しかし、すぐに冷静さを取り戻し、計画通りペースを守ることに集中する。
「Ma che fa questa? Va troppo veloce per essere una lepre!(彼女、何してるんだ?ラビット役にしては速すぎる!)」
イタリアのウマ娘、ロベルタ・ベルディも疑念を抱く。
確かにその速さは、通常のラビット役とは明らかに異なっている。
周りがアンダルシア・ブルーに対して最初に思い描いていた「ペースメイカー」としての役割に、明らかに反していた。
だが、誰もが「速すぎる」と思っても、誰もその意図を完全には理解していない。
「Pourquoi elle fait ça ? Elle va s'épuiser avant le tournant final.»なんでこんなことを?最後のコーナー前に力尽きるだろう。)」
フランスのウマ娘、エトワール・ドゥ・セーヌが呟く。
その不安げな言葉が、他のウマ娘たちにも伝播する。
アンダルシア・ブルーのペースが速すぎるのだ。
だが、それでもその足は止まらない。
残り600メートル、アンダルシア・ブルーはまだ先頭を譲らない。
だが、その走りには無理が生じてきていた。
既に呼吸が乱れ、足取りが重くなる。
「これは、無理かもしれない。」
メロヴィクトは中団としてその動きを見つめていた。
まだ無駄に前に出ることはない。
あのペースなら最終直線で必ず垂れる。
焦らず、じっくりと、隙を狙う。
それが今の彼女の戦い方だ。
メロヴィクトはアンダルシア・ブルーの後ろに、じりじりと近づく。
残り400メートル、アンダルシア・ブルーのスピードはさらに鈍り、ついに他のウマ娘たちが次々とその背中に並びかける。
「Ça va être dur de tenir jusque là…ここから最後まで持つかどうか分からない…)」
フランスのウマ娘、エトワール・ドゥ・セーヌがその瞬間を見逃さずに、その貯めた脚で加速する。
「Andalucia Blue semble enfin à bout de forces. Mais en tant que lièvre de notre équipe, elle a accompli un travail plus que suffisant.(アンダルシア・ブルーが、ついに力尽きそうだな。だが、我がチームのラビットとして、充分な働きだ。)」
その時、メロヴィクトもようやく内側に隙間を見つけ、そこから一気にスピードを上げた。
全力で前に出る瞬間が来たのだ。
「ここです。」
メロヴィクトは冷静に、アンダルシア・ブルーをその射程に収め、ゴールラインを目指して全力で駆け出した。
残り100メートル、メロヴィクトはアンダルシア・ブルーに並びかけるが、アンダルシア・ブルーが歯を食いしばり最後の力を振り絞る。
残り50メートルの地点でメロヴィクトの耳にアンダルシア・ブルーの血を吐く様な叫びが聞こえた。
そのまま一気に突き放したメロヴィクトがゴールを越えた瞬間、彼女は深呼吸をしながら徐々に足を緩める。
「……勝った!」
しかし、彼女の目に宿るのは勝者としての満足感ではない。
その裏には、アンダルシア・ブルーの強さと叫びを感じ取ったことがある。
「……彼女、最後まで戦ってた。」
その言葉には、アンダルシア・ブルーの精神力を称賛する気持ちが込められていた。
アンダルシア・ブルーの強さは、単なる「ラビット役」に収まるものではなかった。
彼女の中にあったもの。
それは、最後まで戦い抜く強い意志だった。
ゴール板を過ぎた瞬間、歓声が重く降り注いだ。
勝った。
息を整えながら、六畳一間を思う。
――静かすぎる。
かすかな影が揺らぐ。
「……我が意志が……」
声は、薄い。
以前なら、勝利と同時に満ちたはずの存在感がない。
祝福も、誇張も、誇らしさも。
ただ、静寂。
(私が強くなったから……?)
ホテルの窓から、夜のロンシャンが見える。
遠くのスタンドに月光が落ちている。
テレビには参考資料として再生している凱旋門賞の過去映像。
重い芝。
密集するバ群。
歓声。
「……」
ビクトリームの声はか細く、風に溶けるように弱い。
メロヴィクトは窓に手を置いた。
自力で勝った。
確かに、勝った。
それなのに。
胸の奥に、小さな空白がある。
――V無し。
勝利の裏で、何かが静かに削れている。
凱旋門賞まで、あとわずかだった。
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