朝日が札幌の街を淡く染め上げる。
メロヴィクトは民泊の畳の上で目を開けた。
身体が少し重い。
寝ぼけ眼に窓の光が差し込み、
畳の香りと民泊特有の木の匂いが鼻腔をくすぐる。
ここまで来た――と思うと、
胸の奥に小さな高鳴りが生まれる。
今日はエルムステークス、
中央G3、札幌ダート1700m。
地方トレセン学園所属の自分にとって、
二度目のG3だが、自分の力を見せる特別な舞台だ。
「……ここまで来ちゃったなぁ」
小さく息を吐き、布団の端に手をつく。
身体はまだ眠気を引きずっているが、
心は自然と覚醒のリズムを刻んでいた。
民泊の小さな部屋は狭くても、
今日のレースを想像すると、自然と目が冴えていった。
身支度を整え外に出ると、冷たい朝の空気が街路樹の葉を揺らす。
湿った土の匂いが風に混じり、
遠くに見えるレース場から人々の騒めきが聞こえて来る様だった。
「……この距離で聞こえて来る筈無いよね」
自然と息が吸い込まれ、心臓が軽く跳ねた。
――そして、心の中で小さく決意する。
「行け、私の脚で……今日だけは、私のVで勝て」
まだ誰も目にしていない小さな決意が、
胸の奥で熱を帯びる。
札幌レース場。
砂のコースは、前日の雨の名残でやや湿った重バ場。
シューズが沈む感覚は、軽いが確実な抵抗を生む。
ゲートに入った瞬間、体が緊張を感じ取る。
鉄の匂いと湿った土の香りが混ざる、独特の空間。
「皆、強そう……でも負けられない。今日こそ勝つんだ……私自身の力で!」
心を落ち着かせる為に耳を澄ませると、
隣のゲートのウマ娘のやや緊張した息遣いが聞こえる。
その一音一音が、まるで鼓動のように胸に響く。
風がわずかに額に当たり、冷たい感触が集中力を研ぎ澄ます。
ゲートが開く前の時間はゆっくりと、しかし確実に流れていた。
メロヴィクトの視界にはスタンド、
芝の緑、遠くの山並み。
土の色、湿り気、風の向き――
目に入るすべての情報が、自然と脚の感覚と呼応する。
「行く……」
小さく呟くと、胸の奥が軽く震え身体が前へと傾く。
ゲートが開いた瞬間、土飛沫がわずかに舞う。
湿った馬場はしっとりと重く、
シューズの沈みが脚取りを確実に伝える。
風はやや向かい風で、額に冷たい感触が残る。
だが、それすらも今は自分を研ぎ澄ます材料に変わる。
視界の端に、キョウトシチーの姿。
昨日トレーナーとのミーティングで
何度も耳にした名前の持ち主だ。
中央重賞を何度も経験した、
安定感抜群の先行~差しタイプ。
中盤で好位につけ直線で抜け出すその走りは、
湿った馬場でも軌跡が美しく見える。
「……やっぱり、強そう……でも、負けられない」
自然と呼吸が整い、筋肉が火を吹くように熱を帯びる。
最初の100m、200m――
土の抵抗、風の向き。
脚の裏で微妙な振動を感じ、心がその情報を瞬時に処理する。
インコースの隙間、
わずかなコース取りの差、
外側の脚の角度。
「ここを……抜ける」
理屈ではなく経験、身体が自ずと答えを示す。
残り1000mを過ぎ、キョウトシチーは軽く脚を伸ばす。
湿った馬場の抵抗は一定ではなく、外側と内側で差が生じる。
それを感じ取りながら、
メロヴィクトはわずかに内側を縫うように進む。
心拍と脚の振動が完全にリンクし、呼吸も自然にリズムを刻む。
周囲のウマ娘たちは微妙な位置取りを争い、足音が空気を震わせる。
「……いまだっ!」
内側にわずかに空いたスペース、
土の沈み込みの差。
小さな判断が、数十m後の勝敗を決する。
身体は瞬時に反応し、内側に入り込む軌道を選択する。
風は依然として冷たく、向かい風がやや脚を奪う。
それでも、湿った馬場の土の抵抗が逆に踏み込みを教え、
脚は無駄なく回る。
心の中では過去の未勝利戦や、
学園での1人孤独な練習の記憶が静かに燃料となっている。
残り400m。
これから最終コーナーへと入る距離。
視界の端に、キョウトシチーの影。
彼女の脚取りは正確で無駄がなく、コーナーに入ると緩やかに加速、
外側に少しスペースを作りながらも綺麗なラインで曲がって行く。
「……ここしかない」
小さく息を吸い込み胸の奥の決意に全神経を集中。
チャーグルもチャーグル・イスミドンもなし、
純粋に自分の脚だけで前に出る。
300m、200m……
残り距離と脚の感覚を身体全体で測る。
筋肉の張り、
重心の移動、
脚の角度、
風の向き――
全てが完璧に噛み合った瞬間、
メロヴィクトは前方のキョウトシチーと並ぶ。
残り264.3m
――札幌ダート直線の距離を目の前に、メロヴィクトの心臓は跳ねる。
肩越しにキョウトシチーの姿。
軽やかに、しかし確実に前へ出る彼女。
湿った土が足裏に吸い付き、わずかな抵抗が脚を研ぎ澄ます。
「……いける!」
頭で考えるよりも早く、身体が反応する。
インの隙間、
土の沈み込みの差、
風の微妙な向き。
全てを瞬間で計算し、脚は自然に回転数を上げる。
残り200m。
呼吸は荒くなるがリズムは正確。
肩の圧、
脚音、
風の抵抗。
周囲のウマ娘たちの足音も、
まるで、
自分の脚の延長のように感じられる。
「まだ、負けられない……!」
残り150m。
筋肉の張り、
重心の移動、
足裏の感覚
――全てが一つに結びつく瞬間、
メロヴィクトはわずかに内側に入り、
キョウトシチーと肩を並べる。
残り100m。
息が熱く、脚は重力すらも味方に変えるかのように前へ出る。
視界の端でキョウトシチーの微かな前傾を確認。
「ここまで来た……最後まで私の力で!」
残り50m。
地面の反発、
風の圧力、
肩越しの圧
――全てが身体に刻まれ、脚は極限まで回転する。
手応えが、
ゴールが、
全て肌で伝わる。
そして――
ゴール!
歓声が耳を打ち、土の匂いが鼻腔を満たす。
膝をつくメロヴィクト。
勝利は届かなかったが、胸の奥にはやり切った熱が残る。
「……負けた……でも、やり切った……!」
心に浮かぶのは、
肩を並べたキョウトシチーの存在と、
直線で感じた全身の震え。
達成感と悔しさが入り混じる瞬間。
何処か抑揚の無い声が頭に響く。
「よくやった、我が肉体よ。今日の走りで、次につなげる準備はできた」
拗ねたように口を尖らせつつも、胸の奥には新しい光――
次こそは私の脚で、私の力で、勝つ。
「……大丈夫か?」
かけられた言葉に顔を上げる。
近寄ってきていたキョウトシチーがメロヴィクトを立たせると、
静かに微笑み告げる。
「……良いレースだった。また一緒に走ろう。」
そう言って差し出された手を握り締めたメロヴィクトの心に、
爽やかな達成感が満ちる。
夕日が札幌ダートを黄金に染め、六畳一間のVの字が思い出される。
心の奥で、小さな決意が光を増す――
勝利は、まだ手の届かない未来かもしれない。
しかし、脚と心が一体となったこの瞬間――
今はまだそれが、自分だけのVなのだ。
札幌でのレースが終わり戻って来た小さな部屋は、
今日も静まり返っていた
――はずだった。
レースの疲れもあり、すやすやと眠るメロヴィクト。
その精神世界では一人、荒れ狂う男が居た。
「ぬぅぅぅぁぁぁあああ! 何だって言うのよぉぉおおっ!」
畳を踏み鳴らす音が響き渡る。
尊大な声、
剛毅な振る舞い、
Vの身体。
ビクトリームは、溢れ出る悔しさのあまり、
文字通り床を蹴っていた。
「我が力無しで敗北……!! 我がVはどこだーーーーー!!! この無念、誰が晴らすのよぉ〜!!!」
手を振り回し、畳に膝をつき、天井に向かって叫ぶ。
隣でメロヴィクトはため息をつく。
「……あの、少し落ち着いてください……」
しかしビクトリームは止まらない。
顔面に青筋を浮かべ拳を畳に叩きつけた。
――そのとき。
溜息混じりにメロヴィクトが差し出したのは、 緑色に輝くメロン。
「はい、今日のご褒美……」
ビクトリームは目を見開いた。
瞬間、
先ほどまでの怒号は消え失せ、
瞳孔が爆発するかのように開き――
「……な、なんだと……ヒャッホイ!」
両手を挙げ、
跳びはね、
踊り狂う。
「マイスイートハート! メ、メロン……これは我に与えられし光ーーー!!!」
畳を駆け回り、
空気を切るような勢いで体をひねり、
天井に向かってV字ジャンプを決める。
「ブルァアア!! 我が……我がVは、メロンで輝くんだってばよぉ〜!!!」
メロヴィクトは呆れ顔で傍観し、冷めた目でツッコミを入れる。
「……案外チョロいんですね、ビクトリーム様」
その瞬間、ビクトリームの歓喜の表情が凍りついた。
目は大きく見開き、口が半開き。
両手でメロンを抱えたまま、静止――
「な、な、なんだ……と!?」
畳に残る微妙なへこみも、どこか哀愁を誘う。
ビクトリームは一歩も動けず目はメロンに、
そして心はメロヴィクトに吸い込まれるかのように固まった。
六畳一間。
何故か夕陽が差し込む小さな部屋で、
尊大なる魂が小さな敗北を味わう――
しかしその胸中には、メロンへの愛が詰まっていた。
ここまで読んで頂き、有り難うございました!
これから完結まで毎日投稿となります。
物語は結末まで書き終わっているので、次回もお楽しみに!
そしてもし宜しければ、感想や評価を頂けると、今後の創作活動の励みになります!
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それでは、また次回お会いしましょう!