コンコン
「失礼します」
扉の向こうで、椅子を引く音がした。
「はいはい次の授業始まっちゃってますよと」
言い終わる前に、保健室の先生が姿を現した。そして止まった。
視線が、俺の上から下へと移動する。ゆっくりと、見逃さないように。
「……」
一拍。
「怪我は、ある?」
問いは短い。
「いえ」
「体調は」
「良くはないです」
それだけで、十分だったらしい。
「早退?」
「はい。そうさせてもらえれば」
「わかったわ」
先生はそれ以上、聞かなかった。理由も、経緯も、誰が何をしたのかも。
代わりに、机を軽く片付けた。そして一言だけ言う。
「今日は、無理しないこと」
「はい」
横で立っていた桃色の彼女に、視線が移る。
「花見ちゃんも、ここまでありがとうね。授業始まっちゃってるから、帰りなさい」
「……はい」
納得していない顔だったが、さすがに引き下がった。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえる。
二人きりになる。
先生は椅子を指さした。
「座って」
言われるまま腰を下ろす。
先生は引き出しから紙を取り出した。
「体調不良で済ませるには、ちょっと無理があるわ」
紙にペンを走らせながら、淡々と続ける。
責める声音ではない。事実確認でもない。ただ、線を引く声。
頷かなかったのは最後の抵抗だった。
「見逃せない、という意味ですか」
先生は一瞬だけこちらを見て、それから視線を逸らした。
「ええ。教師としても、保健の立場としても」
ペン先が止まる。そして俺を見た。
「今日は早退。連絡は、こちらから入れるわ」
「ありがとうございます」
「それと」
先生は椅子から立ち上がり、白衣の裾を整えた。
「一人で帰らせるわけにはいかない状態ね」
その言葉には、判断が含まれていた。
感情ではなく、職務としての判断。
「車、出すわ。自宅まで送る」
拒否する理由はない。だけども、それは反射的だった。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから、言ってるの」
静かだったが、有無を言わせない。
数分後。保健室の先生の車に乗り込んでいた。
エンジン音がかかる。
走り出す最中、保健室の先生は一言だけ言った。
「今のところは、あなたが話したくなるまで無理に聞かない」
それは猶予だった。
猶予であり、保護だった。
「今日は、家に帰って休みなさい」
車は、静かに校門を出た。
学園が遠ざかっていく。何事もなかったかのように。
だが、確実に一線は越えたのだと、理解していた。
ただいまも言わず家には入る。
今は平日のお昼。親は仕事に出かけていた。
玄関に腰を落とし、思考する傍らで靴を脱ぐ。脱ぎ終わっても、しばらく腰を掛けていた。
「……お姉ちゃん?」
その声は動揺に包まれていた。
居るはずが居ない存在に振り返る。信じたくない現実に、つい、一瞬だけ顔が歪んでしまった。
その手に持たれる棒付きアイスが、宙に浮く。べちゃりと地面に落ちた。
「水曜日だったか」
自分の口から答えが出た。
妹は中等部だ。午前中で終わる日が毎週のように訪れる。
本来であれば喜ぶことしかないそれに、今だけは反対の感情を抱くしかない。
「どうしたの、それ」
「ただいま」
「……」
いつもなら、「おかえりは言ってくれないのかい」と言っていただろう。だけど、今はいつもじゃない。
ああ最悪だ。早退してしまった。その連絡がいく以上、親には全て話す予定だった。今後の事も相談する上でしっかりと話さなくてはならない。でも、妹には一言だって伝える気は無かった。
「ごめんね」
どう答えるか、悩んだうえでその言葉が出た。もう、誤魔化せない。
「失敗しちゃった。お姉ちゃん虐められちゃってるんだ」
妹は口をパクパクと揺らした。何かを言いたくて、伝えたくて、伝えられていなかった。
「大丈夫、あともう少しで片付けられるから」
立ち上がる。
視線は下げない。腕を広げ、胸は張り、大きく見せる。
たった1歩だった。
「どこにいくの」
その声は震えていた。
妹は両手を広げて道を塞いだ。
「着替えてくるだけだよ」
「だめ」
即答された。
「隠しちゃだめ」
「早退しちゃったし、こうもなっちゃったし、お母さんには全部話すよ。隠さない、大丈夫だよ」
「昨日だってあんなに冷え切って帰って来たのに!!何にも言ってくれなかった!!」
その一言で、足が止まった。
部活動もしていない。
だから、あの日の帰りが遅かったのは、最初からおかしかった。
いいや、あの日、鳳が家に訪れた時から妹は疑っていた。狂った歯車がそのまま壊れただけだ。
「だめ」
断言。
「泥だらけの服を洗わないといけないから」
「だめ」
「……少しだけ」
「だめ」
何度でも、その言葉を吐く。まるで俺を引き留めるように。だけども妹は俺の方向を見ていなかった。
「なんでそんな普通でいられるの」
「泣かないで」
その質問には答えられなかった。俺の中では決まっている。ただ、それを答えれば妹は自分のせいだと認知しかねない。だから言えない。
「しゃがんで」
突然の命令に近い口調。反射的に、膝を折った。
次の瞬間、衝撃みたいな力で、抱きつかれた。
いつの日か俺がやってあげたように。小さな体が、全力で。逃がさない、と言わんばかりにぎゅっと抱き着いて来ている。
「泥で汚れちゃうよ」
「いいもん……」
辛うじて声が、鳴いていた。
背中を撫でる。あやすようにポンポンと撫でる。
「大丈夫だよ」
何が、とは言わない。
しばらくして、妹はようやく腕の力を緩めた。
無言で引っ張られるまま、リビングへ。
ソファに座らされ、隣にピッタリ引っ付かれた。
「ここ」
逃げるな、という意味だろう。
これほどまでに強引な行動をするのを初めて見た。
記憶の中の妹は優しくて、言葉にはしないけれど気づかいが出来る子で、どんな言葉でも真摯に受け止めちゃう子だった。
母によく似た人。
今の状況も相まって、抗うすべがなかった。
何もしなかったわけではない。
お腹が空いたとキッチンに立ったり、落ちてしまったアイスを片付けたり、トイレに行こうとした。
ずっと背中を追い続けられた。まるで幽霊のよう。今日は何も出来ないことを悟り、妹の頭をもう一度、軽く撫でた。
玄関に落ちていたアイスが溶けていて、甘ったるい匂いがいつまでも消えなかった。
そうして時間がゆっくりと過ぎ、親が帰って来た。
いくつか言葉は交わしたが、結論と呼べるものはなかった。ただ、側に居てくれた。
久しぶりに、川の字で寝ることになってしまったが、悪いものではなかった。