いつもと同じ時間に目が覚めた。
制服に袖を通す。布が腕を撫でる感触は、驚くほど平坦だった。
頭が痒くなることもない。胸の奥がざわつくこともない。
何も、起きていないみたいだった。
「おはよう」
いつものように、そう言った。
「……何してるの?」
珍しく聞く、母の戸惑いの声。
「何って?」
油がはぜる音が、小さく響く。火加減もいつも通りだった。
「なんで、制服を着てる?」
「今日は木曜日だよ」
卵を返す。
きれいに焼けている。失敗はない。
「あんなことがあったのに行くの?」
少しだけ声音が強くなる。だけど、叱っていないと分かる。
「あったから、だよ」
「分からない、私には分からない」
母の声が、揺れる。
それでも、俺は火を弱めない。
「行かなくていいの、いくらでも休んでいいの」
「まだ解決していないから」
フライパンを置いて、皿に盛る。
「解決するために行くんだよ」
母は、何も言わない。
コンロの火だけが、静かに燃えている。
「中途半端はダメなんだ。一度目を付けられたら、曖昧に逃げる方がいちばん危ない」
「もう一度トラウマを与えられる。心が折れる。視界から存在が消える。そうしてやっと、見逃されるんだ」
料理も一拍置いて、続ける。
「可能なら休学よりも転校したいけど、それはまたその時話そう」
昨日は避けるように話される事の無かった未来。今のその先をようやく口にした。
「だめよ……だめ、だめ」
バタバタと騒がしく近づいてくる。
片腕を、離さない強さで力強く握られる。包丁を持ったまま、動けなくなる。
「危ないよ」
「あなたが抱えているものの方が、ずっと危ない」
包丁をそっと置き、火を消す。
「私は、何も感じていないよ」
「嘘」
「私はね、家族が大切なんだ」
いつもの声で、ゆっくりと、噛みしめるように。
「だから家族のためならなんでも出来るんだよ」
あの日、中等学園で問題を起こした時と同じことを言った。
だが、母は違う事をした。
「そんなの、いいから、自分のために、生きて」
口々に、たどたどしく、その全てが優しさだ。
「ありがとう」
俺は行かなくてはならない。
あんな事件が起こった。花宮という桃色の生徒が居た。アレらは行動してしまうだろう。
今日行かないことで学園の空気は穏やかになるだろう。だけれど、俺には友達がいない。あとから情報は得られない。
俺には、行かないという選択肢はなかった。
「行かせない」
両手でぎゅっと掴まれた。
「母さん」
「行かないで」
涙声。そうされてしまうと、俺に出来ることは無かった。
「わかった。今日は一日中家にいる」
「ありがとう」
母は優しく抱き着いてきた。そうして長い時間が経っても、リビングに居た。
特にすることも無いので、テレビを見ていた。いや、見てすらいない。聞き流していた。
そんな時だった。時刻的にはお昼頃、電話が鳴った。5コールを超えても続くそれ。電話番号を見る。それを俺は知っていた。
「もしもし」
それは、学園からの電話だった。
幾つかの応答があった後、言われた。
「虐められていますか?」
俺は答えることが出来なかった。
その問いが救いではなく、踏み絵のように思えた。思えてしまった。
言葉が思い浮かばなかった。受話器を持ったまま動けなくなる。
答えを間違えれば、悪化する。正しく答えられて、ようやく解決に進める。
だけど、正しいと断定できない沢山のヒントの中、正解を見つけ出すなんて不可能だった。
リスクとリターンが合わない。宝くじが夢物語に思えないほど、確率が低く、結果は重たい。
長い沈黙に疑問を抱いたのだろう。教師は私の名を言った。
「瀬名さん?」
電話を切る。
その場に立ち尽くす。
最悪の結果は避けたのだろう。だが現状維持とも呼べないそれを、俺はどう認識すればよいのだろうか。
胸の奥で、鈍い自己嫌悪だけが、逃げ場もなく、静かに膨らんでいった。