元男、女に惚れられる……なんで?   作:庭顔宅

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第十二話

 いつもと同じ時間に目が覚めた。

 

 制服に袖を通す。布が腕を撫でる感触は、驚くほど平坦だった。

 頭が痒くなることもない。胸の奥がざわつくこともない。

 

 何も、起きていないみたいだった。

 

「おはよう」

 

 いつものように、そう言った。

 

「……何してるの?」

 

 珍しく聞く、母の戸惑いの声。

 

「何って?」

 

 油がはぜる音が、小さく響く。火加減もいつも通りだった。

 

「なんで、制服を着てる?」

 

「今日は木曜日だよ」

 

 卵を返す。

 きれいに焼けている。失敗はない。

 

「あんなことがあったのに行くの?」

 

 少しだけ声音が強くなる。だけど、叱っていないと分かる。

 

「あったから、だよ」

 

「分からない、私には分からない」

 

 母の声が、揺れる。

 それでも、俺は火を弱めない。

 

「行かなくていいの、いくらでも休んでいいの」

 

「まだ解決していないから」

 

 フライパンを置いて、皿に盛る。

 

「解決するために行くんだよ」

 

 母は、何も言わない。

 コンロの火だけが、静かに燃えている。

 

「中途半端はダメなんだ。一度目を付けられたら、曖昧に逃げる方がいちばん危ない」

 

「もう一度トラウマを与えられる。心が折れる。視界から存在が消える。そうしてやっと、見逃されるんだ」

 

 料理も一拍置いて、続ける。

 

「可能なら休学よりも転校したいけど、それはまたその時話そう」

 

 昨日は避けるように話される事の無かった未来。今のその先をようやく口にした。

 

「だめよ……だめ、だめ」

 

 バタバタと騒がしく近づいてくる。

 片腕を、離さない強さで力強く握られる。包丁を持ったまま、動けなくなる。

 

「危ないよ」

 

「あなたが抱えているものの方が、ずっと危ない」

 

 包丁をそっと置き、火を消す。

 

「私は、何も感じていないよ」

 

「嘘」

 

「私はね、家族が大切なんだ」

 

 いつもの声で、ゆっくりと、噛みしめるように。

 

「だから家族のためならなんでも出来るんだよ」

 

 あの日、中等学園で問題を起こした時と同じことを言った。

 

 だが、母は違う事をした。

 

「そんなの、いいから、自分のために、生きて」

 

 口々に、たどたどしく、その全てが優しさだ。

 

「ありがとう」

 

 俺は行かなくてはならない。

 あんな事件が起こった。花宮という桃色の生徒が居た。アレらは行動してしまうだろう。

 

 今日行かないことで学園の空気は穏やかになるだろう。だけれど、俺には友達がいない。あとから情報は得られない。

 

 俺には、行かないという選択肢はなかった。

 

「行かせない」

 

 両手でぎゅっと掴まれた。

 

「母さん」

 

「行かないで」

 

 涙声。そうされてしまうと、俺に出来ることは無かった。

 

「わかった。今日は一日中家にいる」

 

「ありがとう」

 

 母は優しく抱き着いてきた。そうして長い時間が経っても、リビングに居た。

 

 特にすることも無いので、テレビを見ていた。いや、見てすらいない。聞き流していた。

 そんな時だった。時刻的にはお昼頃、電話が鳴った。5コールを超えても続くそれ。電話番号を見る。それを俺は知っていた。

 

「もしもし」

 

 それは、学園からの電話だった。

 

 幾つかの応答があった後、言われた。

 

「虐められていますか?」

 

 俺は答えることが出来なかった。

 

 その問いが救いではなく、踏み絵のように思えた。思えてしまった。

 

 言葉が思い浮かばなかった。受話器を持ったまま動けなくなる。

 

 答えを間違えれば、悪化する。正しく答えられて、ようやく解決に進める。

 だけど、正しいと断定できない沢山のヒントの中、正解を見つけ出すなんて不可能だった。

 

 リスクとリターンが合わない。宝くじが夢物語に思えないほど、確率が低く、結果は重たい。

 

 長い沈黙に疑問を抱いたのだろう。教師は私の名を言った。

 

「瀬名さん?」

 

 電話を切る。

 

 その場に立ち尽くす。

 

 最悪の結果は避けたのだろう。だが現状維持とも呼べないそれを、俺はどう認識すればよいのだろうか。

 

 胸の奥で、鈍い自己嫌悪だけが、逃げ場もなく、静かに膨らんでいった。

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