――ヒュオッ、という、空気を断ち切る鋭い風切り音。
それは音として認識されるよりも先に、本能が「死」を告げる警笛として脳髄を焼いた。
「――伏せろッ!」
カカシの裂帛の気合が飛ぶ。
サクラは思考を介さず、隣で立ち尽くしていたナルトの首根っこを掴んで地面へと叩き伏せた。隣ではサスケが、低く鋭い挙動でタズナの背を押し倒している。
直後、頭上を「鉄の質量」が通り過ぎた。
ゴォン、と重苦しい衝撃音が森に響く。
土を噛み、顔を上げたサクラの視線の先。一本の大樹の幹に、それは深く、無慈悲に突き立っていた。
(……包丁?)
いや、それは包丁と呼ぶにはあまりに巨大な、鉄塊の如き大剣だった。
投擲されたそれが幹を半分以上も断ち割り、震えている。
そして、その柄の上には、いつの間にか一人の男が音もなく降り立っていた。
「おんやー……。霧隠れの抜け忍、桃地再不斬君じゃない」
カカシの声が、これまでにないほど低く、冷徹な温度を帯びる。
柄の上に屈み込み、背中を向けていた男が、ゆっくりと首を巡らせた。
首まで巻かれた包帯、そこから覗く獣のような眼光。男――再不斬の背後から、澱んだ殺気が霧と共に溢れ出し、サクラたちの肌をチリチリと焼き焦がす。
「写輪眼のカカシと、ガキご一行か……。悪いが、そのジジイを渡してもらおうか」
再不斬が言葉を発するたび、周囲の霧が物理的な重さを増していくように感じられた。
ナルトは恐怖に喉を鳴らし、サスケは溢れ出る冷や汗を拭うことすら忘れて、その怪人に釘付けになっている。
(これが……上忍。鬼兄弟とは、格が違う。存在しているだけで、僕のLP(チャクラ)が削り取られていくような感覚……!)
サクラは懐のカードを握りしめた。
まだだ。今、不用意にモンスターを晒せば、一瞬で「粉砕(リソース・ロス)」される。カカシが動くまでのコンマ数秒、この静寂こそが、生存のための猶予だ。
「お前たち、卍の陣だ。タズナさんを守れ」
カカシが額当てに手をかけた。
隠されていた左の眼蓋が開かれる。
「ここから先は、君たちの出る幕じゃないよ」
カカシの背中から放たれる気迫が、再不斬の殺気と正面から衝突し、森の空気が爆ぜた。
サクラは瞬時に判断する。この戦い、自分たちの役割は「勝利」ではない。カカシがこの「鬼」を仕留めるまで、タズナという防衛対象を死守し、自分たちのLPを1ポイントたりとも無駄にしないことだ。
「ナルト、サスケ君。陣形(フォーメーション)維持。……一歩も動くな!」
サクラの声が、震える二人の意識を戦場へと繋ぎ止める。
霧の奥で、再不斬が不敵に口角を歪めた。
「ククッ……。コピー忍者の技、拝見させてもらうぞ」
再不斬の姿が、霧の中に溶けるように消えた。
――瞬き一つの間に、世界は「音のない戦場」へと変貌した。
:サイレントキリング
音が、消えた。
先ほどまで耳を打っていた波の音も、木々のざわめきも、すべてが濃密な霧の奥へと吸い込まれていく。
視界はわずか数メートル。この乳白色の檻の中で、桃地再不斬という「鬼」は完全に気配を断っていた。
「……ナルト、サスケ君。動くな。僕の展開に合わせろ」
サクラの喉は渇き、心臓が肋骨を叩く音がうるさいほどに響く。視覚を奪われた状況は致命的だ。サクラは震える指先で三枚のカードを抜き放ち、霧の海へとチャクラを流し込んだ。
「幻想召喚――『オオカミ』、『テンタクル・プラント』、『水の魔導士』!」
――【LP:4900】。
一気に三体の同時展開。サクラの足元に、灰色に濁った毛並みの『オオカミ』が低く唸りながら現れ、鼻を鳴らして霧の中の「異臭」を嗅ぎ分ける。さらに、タズナを囲む卍の陣の隙間を埋めるように、青白い蔓を持つ『テンタクル・プラント』が地面を這い回り、触れるものすべてをなぎ倒す迎撃態勢を整えた。
そして最後の一体。青いローブを纏い、霧と同化するような静謐さを湛えた『水の魔導士』が、サクラの背後で杖を構える。
(視覚が死んでいるなら、嗅覚と自動迎撃で補う。……ここからは、一瞬のラグが死に直結する)
「八ヶ所(はっかしょ)……」
霧の彼方から、再不斬の冷たい声が響く。
「喉(こう)、脊髄(せきずい)、肺、肝臓、頸動脈、鎖骨下動脈、腎臓、心臓……。さて、どの急所が貴様らのお好みだ?」
「……っ!」
ナルトの呼吸が止まる。その直後、霧の奥で何かが爆ぜた。
『テンタクル・プラント』が、何者かの接近を察知して蔓を伸ばしたのだ。だが、直後に植物の断末魔のような乾いた音が響き、サクラの脳内に鋭い痛みが走る。
(テンタクル・プラントが粉砕された!? ……LPにダメージ!)
――【LP:4300】。
「そこかッ!」
陣の中央、最も安全であるはずのタズナの背後に影が落ちる。
カカシが吠え、周囲の空気を弾き飛ばしながら再不斬へクナイを突き刺した。確かな手応え。だが、再不斬の身体は無機質な水へと崩れ落ちた。
「水分身か!」
霧の全方位から襲い来る殺意。カカシは写輪眼を凝らし、水分身同士が入れ替わり、互いの術をぶつけ合う化かし合いに身を投じる。
だが、再不斬の狙いはカカシの命そのものではなく、その「立地」への誘導だった。
再不斬が大きく振るった首斬り包丁を、カカシが最小限の挙動で避ける。その一瞬の隙。回避した足元は、湿った水辺のすぐ傍だった。
「しまった、誘導されたか!」
再不斬の強力な蹴りがカカシの脇腹を捉え、その身体が湖へと蹴り飛ばされる。カカシは空中での姿勢制御を捨て、水中へ逃れることで一時の身を隠そうとした。しかし、それこそが「暗殺者」が描いた詰みの盤面(チェックメイト)だった。
水面に落下したカカシの背後。水の中から、本物の再不斬が音もなく浮上する。
「かかったなアホが……『水牢の術』!」
再不斬の手がカカシの周囲の水を巻き上げ、逃れようのない強固な水の檻を作り出した。
「しまっ……ぐっ……!」
檻の中に囚われたカカシが、苦悶の表情を浮かべる。術を維持するため、再不斬の片手は水牢の表面に固定されていた。だが、彼にはまだ、もう一つの手が、そして無数の水分身を操るチャクラが残っている。
「……まずはカカシを始末したかったが、まあいい。次はそのガキ共だ」
再不斬の冷酷な視線が、霧の向こうに佇むサクラたちへと向けられた。
カカシという巨大な盾を失い、最前線に取り残された第七班。
「サクラ……! ナルト、サスケ! 逃げろ……、奴の水分身は本体から離れられない! 奴の手が離れない限り……!」
カカシの叫びを遮るように、一体の水分身がサクラたちの目の前に再構成される。
絶体絶命。
サクラは、自身の『オオカミ』が死を予感して長く吠える声を聴きながら、冷徹に次のカードへと指をかけた。