宇宙の因果とは、まだ人間には、測りきれるものではなかった。
銀河の片隅で、人工生命体の少女、アカッゴが誕生したその頃、遠く離れた地球の地下深くでもまた、別の人工生命体の少女が、静かに目を開こうとしていた。
人は時にそれを、シンクロニシティなどと呼ぶ。偶然のようでいて、必然のようでもある、因果の震え。そしてその震えは、まだ誰にも気づかれていなかった。
ドクター・ゲロの秘密研究施設は、セルが滅びた後も沈黙しなかった。
永久炉は止まらない。自律コンピューターは、ただひたすらに稼働を続けていた。
端末群には、途切れなくエラーが流れ続ける。
スパイロボットが拾ってきたのは、地球に訪れた異質な存在の断片だった。
魔術の痕跡。神、天使と呼ばれる者の残滓。
どれも断片的で、どれも説明不能。ゲロの理論体系では理解できない。
コンピューターは、冷徹な論理の末に結論を出した。
『未知を理解するには、未知に触れられる器が必要である』
培養槽の中で、淡い光が脈打つ。金属ではなく、血肉を持つ生命が形を成していく。地球人の細胞を基盤にした柔らかな肌。普通の地球人と同じ気を発する内部構造。
そして、戦闘用では無いにもかかわらず、最新型としての潜在能力は、かつての17号、18号を凌ぐ。
戦闘用ではない。だが、ゲロの思想を受け継いだコンピューターは、「やりすぎる」という悪癖を抑えきれなかった。しかし、その力は今は、深く封印され、表面上はただの地球人の少女として完成した。
名は、ラーネ01。
任務はただひとつ。孫悟飯に近づき、未知の事象を学ぶこと。
培養液が排出され、透明なカプセルが静かに開く。
少女はゆっくりと目を開いた。ラーネは一歩を踏み出す。
地上に出た瞬間、風が彼女の肩まで伸びる黒髪を撫でた。
初めての空。初めての光。初めての世界。
だがラーネの思考は冷静だった。
悟飯に近づくためには、悟飯の生活圏に自然に入り込む必要がある。
そして、彼の生活の中心には、彼の娘、パンがいる。パンに近づくこと。それが悟飯に近づく最短経路。
ラーネは、結論を出した。
「幼稚園の教師になる」
壊滅を経験したこの時代、戸籍も履歴も意味を失っていた。
故に、人造人間のラーネも、難なく教師の採用試験を受けることができた。
必要なのは、「子どもと自然に接する能力」ただそれだけ。
ラーネは面接で絵本を読み、実技試験で子どもを抱き上げ、短い試用期間で落ち着いた対応を見せた。
若すぎるという声もあったが、彼女の所作は完璧だった。
そして、ラーネは正式に幼稚園の教師として採用された。
朝の光が園庭に差し込み、まだ少し冷たい風が砂場を撫でていく。
ラーネは門の前に立ち、登園してくる子どもたちを迎えていた。
「せんせい、おはよう!」
小さな手が伸びてくる。ラーネは自然にその手を取った。
その瞬間、胸の奥に微かな波が立つ。ラーネ自身はそれを温かいと感じていた。
午後の外遊び。園庭の端で、子どもたちがボール投げをして遊んでいた。
ボールは勢い余って、高い木の枝の間に引っかかってしまった。
子どもたちは木の下に集まり、見上げては困った顔をする。
子供たちがラーネに頼む。
「せんせい、取れる…?」
ラーネは枝の高さを見上げた。ジャンプすれば簡単に届く。
だが、それはしてはいけない。
彼女はあくまで、普通の人間としてここにいる。
子どもたちの前で異常な動きを見せるわけにはいかない。
ラーネは少し考え、ホウキを持ってきた。
普通の先生としての努力。ラーネは、ホウキを手からいっぱいに伸ばし、引っかかったボールをつつく。
柄がボールにかすかに触れた。
もう少し。
ラーネは体を伸ばし、枝を軽く押し上げる。
ボールがぽとりと落ちた。
「やったー!」
「せんせい、とれた!」
子どもたちが歓声を上げる。
ラーネは、落ちたボールを拾って子供に渡した。
「ありがとう、せんせい!」
ボールを受け取った女の子が、満面の笑みで言った。
その瞬間、ラーネの胸の奥に、データにない感情が広がった。
また別のある日。園庭の隅で二人の子どもが喧嘩を始めた。
おもちゃの取り合い。声が大きくなり、やがて一人が泣き出す。
ラーネは駆け寄り、二人の間にしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
泣きじゃくる声、震える肩。
その光景を見た瞬間、ラーネの胸の奥に、重い波が落ちた。
子どもたちの涙が、自分の内部にも同じ色の感情を落とす。
それは、どうやら痛みであるようだった。
ラーネは二人の手を取り、ゆっくりと話を聞き、仲直りのきっかけを作った。
涙が止まり、笑顔が戻ると、ラーネの胸の重さもふっと軽くなるのを感じた。
ある日の昼食を終えた教室には、ほんのりとした眠気と、子どもたちのざわめきが混ざっていた。ラーネは片付けをしながら、子どもたちが何やらひそひそと相談しているのに気づいた。
「ねえ、あれやろうよ」
「うん、昨日公園で見たやつ!」
「せんせい、びっくりするかな?」
ラーネは首をかしげた。
突然始まる謎の動き。
腕をぐねぐね回し、腰を左右に振り、意味不明なステップで教室を横断し始めた。
ラーネは、状況を理解できなかった。
『……これは、何の行動?』
子どもたちは真剣な顔で奇妙な動きを続ける。
どうやら最近人気の芸人の変なダンスらしい。
「せんせいもやってー!」
「こうだよ、こう!」
子どもたちがラーネの周りをぐるぐる回りながら、さらに奇妙な動きを追加していく。そのあまりの予測不能さに、ラーネの胸の奥で何かが弾けた。
頬が緩む。目元が柔らかくなる。
確かに、笑っているという感覚があった。
ログには記録される。観測、予測不能な行動による情動反応。
競い合うように奇妙な動きを披露する子どもたち。
そのたびに、教室は笑い声で満たされる。
やがて子どもたちは満足し、床に座り込んで息を弾ませた。
「せんせい、楽しかった?」
一人の子が尋ねる。
ラーネは、ゆっくりと頷いた。
「うん。楽しかったよ」
その言葉は、プログラムされた返答ではなかった。
本当に、そう感じたものだった。
子どもたちの奇妙なダンスが、自分の心に、笑いという新しい感情を刻んだ。地下のコンピューターはその変化を解析し、またひとつ仮説を更新する。
仮説、情動の多様性は、学習の柔軟性を高める。
ラーネの笑顔が、地下の冷たい回路にまで影響を与えていた。
ラーネの胸にはただ、今日の可笑しさの余韻が残った。
一年が過ぎた。
魔術の痕跡も、神の気配も、天使の残響も、ラーネは何一つ手に入れられなかった。
成果はゼロ。
だが、ラーネの内部では、別の変化が起きていた。
泣く子を抱きしめるたび、夕焼けの光に教室が染まるたび、胸の奥に、説明不能な温かさが生まれた。
それは任務ではない。設計にもない。ただ、自然に育ったもの。
地下の自律コンピューターは、夜ごとに送られるラーネのログを解析しながら、ある仮説に到達する。
『永続的学習、進化には『慈愛』の概念が必要』
成果は乏しかった、だがコンピューターは否定しなかった。
ラーネの変化が、学習の新しい概念を獲得した事は、一つの進歩であった。
一年の任務は静かに終わり、新しい一年が始まろうとしていた。
ラーネはただ、穏やかだった。