5
自分の腹が鳴る音で目が覚めた。
「……腹減った」
寝起きの掠れた声でポツリとつぶやき、ハジメはその腹の虫に急き立てられるように、わずかに残る眠気を振り払ってベッドから起き上がった。
グッと伸びをしながら室内を見回して首を傾げる。
「あれ?」
カーテン越しに差し込む陽光で薄っすらと明るい室内に自分しかいないのはいい。高遠がわざわざ朝食にハジメを起こしてくれるとは思えないし、今日はもとからバイトとしての雑務もなく一日自由行動を言い渡されている。
「俺、こっちのベッドで寝てたっけ?」
ハジメの記憶がたしかなら、自分がいままで寝ていた場所は高遠が使っているベッドのはずだ。そう言えば、夜トイレから戻ったときに高遠がなにか言っていたような気がする。眠気に負けてスルーしてしまったが、あれはベッドを間違えているという指摘だったのだろう。
しかし……追い出すでもなく、そのまま自分と一緒に寝たのか、あの男は。
「……まあ、いいか」
しばし悩んだのち、ハジメは年頃の少女としてはいささか問題のある結論を出して、身支度を整えるために洗面所へと向かった。
顔を洗い、歯を磨き、いつものように首の後ろで髪を一つにくくる。
美雪は一緒に髪を伸ばそう、お揃いの髪型にしようと誘ってくれるが、ハジメはこの髪型が一番しっくりくるし、シニヨンだの編み込みだのはそもそもどこがいいのかわからない。
目の前の鏡に映る自分は男のときとあまり変わりがなく、美雪と色違いの貝殻モチーフのヘアゴムだけが唯一女の子らしいアイテムと言えた。
洗面所を出て、ベッドの足元に置いたボストンバッグのなかから適当に着替えを探す。
バッグにはこの豪華客船での旅行に一番気合が入っていた美雪によってハジメの持ち物のなかでも比較的可愛らしい服が収まっていた。
「げぇー。美雪のヤツ、なに考えてんだ。パーティーに出席するんじゃないんだぞ」
裾に向けて白からピンクへとグラデーションになっている花柄のワンピースを見つけて顔をしかめる。
ハジメの母の趣味ではないので、たぶん美雪が自分のものを貸してくれたのだろう。汚したら怒るのが目に見えているので、バッグの奥のほうへとしまい込んでおく。
もう少し着やすいものはないかとバッグを漁り、半袖のパーカーを発見した。美雪曰く、フードの裏地と袖口が黄色のタータンチェックになっているのが可愛いらしい。パーカー自体の色が白なので汚れが目立ちそうだが、こちらは自分の持ち物なので気兼ねはいらない。
寝巻きがわりのTシャツとジャージをベッドへと脱ぎ捨て、バッグから取り出したパーカーを被る。昨日脱いだまま床に転がっていたジーンズに足を通したところで、はたと美雪のいつものお説教を思い出した。
――はじめちゃん。お願いだから、ブラくらいつけて!
中学に上がった頃から口を酸っぱくして言われているが、美雪と違い、ハジメの胸は二次性徴がはじまったことが信じられないくらいにぺったんこだ。
美雪と下着屋に行って彼女のブラジャーを選ぶのは楽しいし目の保養だが、自分がつけるのはなにも楽しくない。
ハジメは無言で自分の胸部を見下ろした。
パーカーは薄手の生地だがそこまで透け感はないし、このまま素肌に着ていても大丈夫ではないだろうか。もうすぐ十四になるが、未だに私服では高確率で男に間違われるくらいだし「平気だよな」と自問する。
空腹に耐えかね、さっさと食事に行こうと歩き出したハジメの足を止めたのは、脳裏に浮かんだ幼馴染みの怒った顔ではなく、視界の端にちらりと見えた先ほどまで自分が寝ていた高遠のベッドだった。
「……あー、もう!」
少しの逡巡のあと、ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜ、ハジメはバッグのなかからブラジャーを引っ掴んだ。
◆
ハジメが二階にあるメインダイニングについたのは午前十時半を少し過ぎたところだった。
寝坊した自覚はあったが、店内にはハジメのほかにもちらほらのんびりと食事をとる人の姿が見受けられた。
昨日夕食に訪れたときは気づかなかったが、大きくとられたダイニングの窓からは青々とした海がよく見える。燦々と降り注ぐ陽の光が海面に反射して窓際は眩しいくらいだ。乗船してから海はすでに嫌というほど見た気がしていたが、その美しい景色にハジメはしばらく空腹も忘れて見とれてしまう。
「……すっげー」
窓の外はどこまでも海と空の蒼が色鮮やかに続いている。
自分でもびっくりするほどその光景に感動してしまった。海がこれほどまでに美しいのなら、早起きして日の出を拝むのもいいかもしれない。
「お客様、朝食はビュッフェスタイルとなっております。お席を選ばれましたら、トレイをお持ちになってお好きなものをおとりください」
「へ? ……あっ、ああ、はい! ビュッフェね、ビュッフェ」
ぼーっと突っ立ているハジメを困っていると判断したのか、ウェイトレスに優しく促されて、慌てて目についた席へと腰を下ろす。
知ったかぶりして頷いてみたが、“ビュッフェスタイル”なるものがなんなのかイマイチわからない。先ほどのウェイトレスの説明と、店内の様子からしてバイキングのような形式だろうとあたりをつける。
店内にはパンの焼けるいい匂いが漂っていた。
食事を意識した途端に、現金なハジメの腹はグー、グーと自己主張を始める。まずはこの腹をなだめないといけない。
ハジメはトレイを手に意気込んで食事が並ぶテーブルへと向かっていった。
バゲット、クロワッサン、ポテトサラダ、厚切りのベーコン、ウインナー、ミニオムレツ。
並べられた料理は朝食だというのにずいぶんと種類が多く、あれやこれやと目移りしながらも、ハジメは気になったものを片っ端から山盛りに自分の皿へと載せていく。
トレイの重みに一旦席に戻るかと踵を返したところで、デザートコーナーらしき場所にマスクメロンを発見した。しかも、ラスイチのようだ。これはぜひ手に入れなければと、トレイをひっくり返さないように慎重な足取りでそのテーブルへと近づき、ハジメが右手を伸ばしかけたのとほぼ同時に、横から伸びてきたスラリとした手がメロンを掻っ攫っていった。
「あっ!?」
「え?」
思わずあがった声に、隣から驚いたような反応が返ってくる。
「ごめんなさい。狙ってた? ……って、あら君、昨日の?」
「へ? あ、お姉さん?」
大きな目を丸くしてこちらを見つめるのは、昨日六階のダイニングでハジメがぶつかってしまったプロポーション抜群の美人――夏帆だった。
今日はピッタリとしたボトルネックのサマーニットとレースの膝丈タイトスカートという身体のラインが引き立つ格好のせいか、どこか扇情的でドギマギしてしまう。
しかし五百人近い乗客がいるなかで、こうして連日出会うとは不思議な縁でもあるのだろうか。
夏帆の方も同じことを思ったようで、手にとったメロンをハジメのトレイへと置いて、一緒に食事をしないかと誘ってくれる。
「あ、メロンはお姉さんが食べてください。あたしはほかにもいっぱいあるし」
「子どもが遠慮しなくていいのよ。それに、あたしは二個目なの」
そう言って、夏帆はいたずらっぽくペロリと舌を出して笑った。
夏帆の案内で彼女がいたテーブル席まで移動する。窓際の四人がけの席には夏帆が言った通り、コーヒーやサラダ、ヨーグルトの器と一緒にメロンを食べたあとがあった。どうやら本当に二個目だったらしい。
夏帆の座っていた席をさっと観察し、ハジメは内心はてと首を傾げる。
彼女はどうして素晴らしい景色に背を向けて食事をしていたのだろう。食器やコーヒーカップの置かれた位置から、気を遣ってハジメに席を譲ってくれたわけではないのは確かだ。
夏帆の席からは客の出入りがよく見えるから、ひょっとして本当は誰かを待っていたのかもしれない。
「どうかした?」
「いいえ。えっと、お姉さんは……」
「やだ! あたしったら自己紹介もしてなかったわね。改めまして、
「あ、あたしは金田一一です。こちらこそ、よろしくお願いします」
神妙な顔でぺこりと頭を下げ合い、同じタイミングで吹き出した。
「金田一さんっていくつ? 中学生?」
「中二です」
「今回は家族旅行かしら? 昨日一緒にいたのはお兄さん?」
「あー、いや、そういうわけじゃなくて……。バイト? みたいな?」
つくづく関係性を説明しにくい男だな、とここにはいない高遠を思う。
旅の同行者が美雪なら幼馴染みだと紹介する。仮に剣持警部や明智警視だったなら、保護者か引率だと伝えるだろう。高遠だとて立場は保護者と言っても間違いではないのだが、どうしてかハジメの心情的にそう説明したくない。
歯切れの悪い言葉に不思議そうな顔をする夏帆の気をそらすために、ハジメは彼女へと手のひらを差し出す。なにもない手のひらを夏帆が見たのを確認してから、ハジメはゆっくりその手を握り、反対の人差し指で手の甲を三回叩く。
「ワン、ツー、スリー」
「え、なに? なに?」
手首を返して開いてみせたハジメの手のひらの上には、小さなキャンディーが載っていた。青いボーダーにヨットや舵が描かれた可愛い包み紙は、凝り性の男がこの船旅に合わせて準備していたものだ。高遠がマジックに使うあまりをくすねてポケットに入れていてよかった。
「うそ、なんで!? すごい!! ねぇねぇ、どうやったの?」
「タネは秘密です」
「えー。でも、そっか、金田一さんはマジシャンなのね」
「昨日一緒にいたのがマジシャンで、あたしは見習い? 雑用係? みたいな感じですよ」
マジシャン本人が見たら、話の誤魔化し方が雑だと文句の一つも言われそうだ。
6
「夏帆さんはひとりで食事を? 昨日の男の人は一緒じゃないんですか?」
「ええ。夫は朝から図書室で読書。せっかくの豪華客船だっていうのにね」
一通りハジメのマジックにはしゃいだあと、夏帆はそう言ってすっかり冷めきったコーヒーをすする。それを見てハジメも心持ちゆっくりと自分の食事に手をつけた。この美人の前であまりガツガツと食べるのはなんだか気が引ける。
「あの人、旦那さんなんですね」
「そうよ。……あ、さては不倫カップルだとでも思ってた?」
「へ? いや、違いますよ!」
「別にいいのよ。結構年が離れてるしね〜」
「いや、ホントにそうじゃなくて! 指輪! 夏帆さん、結婚指輪はずしてるみたいだから!!」
ハジメの指摘に、夏帆の顔が一瞬強張ったように見えた。
しかしそれは瞬きのうちに消え去り、夏帆は左手をプラプラと振ってなんでもないことのように笑ってその理由を話す。
「ああ。最近ちょっと痩せちゃって、指輪が緩くなってるの。朝一でプールに行っていたから、失くさないようにはずしたままにしちゃってたわ」
その言葉通り、夏帆の髪はまだ少し濡れているようだ。
彼女は薄っすらと指輪のあとが残る左手の薬指を撫でながら、今回の旅行が夫婦の結婚二年目のお祝いなのだと教えてくれた。
夫の名前は
夏帆とはなんと十八歳差らしい。まだ二十七歳で活動的な夏帆と、インドア派で老成したような政則とは趣味がまったく合わないのだと愚痴が続く。
「でも、じゃあなんで結婚したんですか?」
幼馴染みの少女がいれば「立ち入ったことを聞かない!」と頭を引っ叩かれそうなハジメの不躾な質問にも夏帆は気にした様子もなく笑う。
短時間の付き合いだが、彼女はむしろハジメのこの明け透けな物言いを気に入っているフシがあった。
「……運命だって思ったから、かな」
「運命?」
「そう、この人と結婚する運命なんだって思ったの」
その言葉だけ聞けば情熱的な恋愛をしたのだと思えるはずなのに、夏帆の表情からはもっと別の決意のようなものが伝わってくる。
なんとなくそんな彼女の様子が引っかかったが、ハジメが次の言葉を考えあぐねている間に夏帆は先ほどまでの表情を打ち消すかのようなカラッとした声で話を続けた。
「なーんてね。タイミングよ、タイミング!」
「タ、タイミング?」
「そうそう、結婚なんてしょせん勢いとタイミングなんだから。JCには夢のない答えだったかな? 金田一さんは好きな子とかいないの?」
好きな子、と聞かれて幼馴染みの少女を思い浮かべなくなったのはいつからだろう。
美雪のことは好きだ。
でも、それは十七歳の金田一一が抱いていたものとは違う。これから先、美雪に彼氏ができればやっぱり面白くないし、嫉妬もするだろうけれど、自分がその立場にいたいとはもう思えない。
いつだったか、高遠から美雪との関係をやり直せばいいと言われたことがある。そのときの高遠はハジメを男だと思っていたからの発言だったのかもしれないが、もしいまのハジメが男のままだったとしても美雪の手をとることはないだろう。
二回目の自分はやはりどこまでいっても異質な存在で、美雪や両親に言えないことの重みにときおり息苦しくなる。
以前のハジメを一番よく知っていたのは七瀬美雪だった。あの少女の瞳に映るままの、困ったときには頼りになる男でいられたらよかったのに。でもきっと、まのハジメをもっとも理解しているのは幼馴染みの少女ではなくて――。
「ひょっとして、あのマジシャンのお兄さんとか?」
「ヘッ!?」
飲んでいた牛乳を危うく吹き出すところだった。
鼻のほうへ入った牛乳を近くにあった紙ナプキンで押さえる。少し涙目になりながら咽せるハジメに大丈夫かと問いかけつつも夏帆の顔は笑っていた。
「ゴホッゴホッ。な、なんで……」
「ごめんごめん。仲良さそうだったから。……図星だった?」
「違います! あいつは……なんていうか、腐れ縁みたいな」
「えー、金田一さんくらいの年代だったら年上に憧れたりしない? 彼、わりとイケてると思ったんだけど」
出会いが出会いだったからなのか、それとも出会ってからの印象のせいか、高遠を年上だと意識したことはあまりない。少年でも青年でもたとえ老人だったとしても、ハジメのなかで高遠遙一はいつだって同じ存在だ。
悪魔のような知恵を持つ天才的な犯罪者で、人を欺き驚かせることに価値を見出す筋金入りのマジシャン。一回目のときからずっと、それは変わらない。
たとえいまの関係に名前がつけられなかったとしても、恋人とか恋愛対象というカテゴリーに入れるには死ぬほど遠い存在だと思う。友人のほうがまだマシだ。
「ないない。高遠とか、絶対にない!」
「ホントに〜? お姉さん、結構恋愛相談とか乗れるクチよ?」
「だから違いますって!」
最近、美雪にも似たような勘違いをされたのを思い出し苦い顔をする。
高遠と何度食事に行こうがそれは決してデートなんてものにはならないし、こうしてふたりで旅行に来ることになってはいるがそれも必要に駆られてのことでしかない。
美雪も夏帆も、高遠がどんな男か知らないからそんな勘違いができるのだ。どんな男なのか説明できないのが口惜しい。
もうなにも話さないという意思表示で、ハジメは口の中いっぱいにパンを頬張る。この手の話題で盛り上がる女性への対応は反応しないことだと、美雪との会話でしっかり学んでいた。
「まあ、いっか。そういうことにしといてあげる」
「……そりゃどーも」
「この旅行もまだ始まったばっかりだし、相談したくなったらいつでも言いに来てくれていいのよ?」
パチッとウィンクを飛ばされ、毒気が抜ける。
気づけばハジメも笑ってしまっていた。
「あ、そうだ。相談で思い出した」
夏帆はゴソゴソと隣の席に置いてあったハンドバッグを漁り、その中から一枚のチラシをとり出した。ハジメへと差し出されたチラシには『オリエンタル号ミステリーナイト』と書かれている。
開催日は今日から三日後の七月二十八日。
六階のダイニングで二十時から開始される船内イベントらしい。
「ミステリーナイトっすか……」
正直、この手のイベントにいい思い出がない。
バルト城しかり。暗黒城しかり。
ミステリー◯◯とか、なんちゃらナイトと呼ばれるようなイベントは鬼門だ。あと雪山とか孤島とか廃墟とかも。お宝探しや報酬目当てのモニターなども高確率で物騒なものと遭遇することになる。
その過去の経験からハジメがイベントへの参加を忌避するのをいったい誰が責められようか。
「これ、最大四人までチームを組めるみたいなんだけど一緒にどうかな? チラシ見つけて面白そうだなと思ったんだけど、あたし、推理とか苦手で……ひとりだと心細いんだよね」
「旦那さんとはやらないんですか?」
「う〜ん。一応声はかけるけど、断られると思う。……ね? お願い! なんだったらあのマジシャンのお兄さんも一緒でいいから!」
しかし、いまも昔もハジメは美人のお願いには弱かった。
美しいお姉さんの困り顔に気づけば了承の言葉を返してしまっていた。
「別にいいですよ。とくに予定もないし」
「ホント!? よかった〜!」
幸い、ミステリーナイトは問題の祝賀パーティーの翌日だ。
沈没事故の死者・行方不明者八十七名の中に泰田夏帆の名前があったのかはわからない。ただ、今回の彼女が何事もなくこの豪華客船での旅を楽しめたらいいとそう思った。
オリエンタル号の船員も、五百人の乗客も、タンカー船『竜王丸』の船員たちも……誰ひとり失われることなく、二十八日の朝を迎えよう。
そのためにも、自分がしなければならないことがある。
明後日の夜を思い、ハジメは人知れずテーブルの下で小さく手を握りしめた。
ハジメはこのときのやりとりをのちに何度も思い出すことになる。
もしも、夏帆の誘いを断っていたら事件は起こらなかったのだろうか。もしも、彼女とのやりとりのなかで抱いた小さな違和感をきちんと拾い上げていたら、事件を止めることができたのではないだろうか、と。
高遠はそんなハジメを傲慢だと嘲笑うが、どうしてもその後悔が胸のうちから消えてはくれなかった。