7
夏帆とはダイニングの入口で別れた。
ミステリーナイトまでの間もひまならお茶でもしようとそこでお互いの連絡先を交換する。
彼女はこのあとスパとエステに行くらしく、ハジメも一緒にどうかと誘ってくれたのだが、どうにもそういったところは性に合わない気がして断った。美雪の教育もあり男のときよりは身だしなみに気を遣うようになったが、いまのハジメのなかにも美容という概念はない。
去っていく夏帆の背を見送り、ハジメはさてと自分の予定について考えてみる。
オリエンタル号自体は本日も終日航海予定となっており船の外に出ることはできないし、船の探索は昨日のうちにすませてしまった。船内にあるホールでは毎日のように何某かのミュージカルやショーなどが上演されているが、運悪くというか本日の演目はオペラのようであまり興味は惹かれない。
高遠にカジノにでも連れて行ってもらおうか。
ハジメが頼めば、少し呆れた顔をしながらも了承してくれるだろう。あれであの男はなかなか自分に甘いところがある。
「やべ、スマホ充電切れてら」
先ほど使ったときは電池の残量が十五パーセントはあったと思ったが、どうやら力尽きてしまったらしい。そう言えば、昨日寝る直前までソシャゲをして充電しないままだった。何度電源ボタンを押してもうんともすんとも反応しないスマホを手にハジメは渋い顔をする。
部屋に戻れば充電器はあるし、ちょっと充電して高遠に連絡すればいいのだが、なんだか出端を挫かれたようでひどく面倒臭い。
再び本日の予定に頭を悩ませるハジメを救ったのは、昼食をとるためにダイニングへとやって来た親子だった。
「ねぇ、ソフトクリームは?」
「だからお昼ごはんを食べてからって言ってるでしょ」
「ええー、早く食べたいー」
「ワガママ言わないの! ほら、お行儀よくしなさい」
母親に手を引かれ半ば引きずるように歩いている男の子をちらりと見やる。
「ソフトクリーム、か」
夏といえば、ソフトクリームとかき氷とスイカである。あと屋台の焼きトウモロコシ。
そう言えば、この夏はまだソフトクリームを食べていない気がする。意識すると猛烈に食べたくなってきた。それなりに腹は膨れているが、甘いものは別腹だ。
エントランスの受付スタッフに聞けば、八階のサンデッキにソフトクリーム専門店の出張屋台が出ているらしい。バニラやチョコのほかにもバナナマンゴーやブルーライチなど少し変わった味もあるのでオススメだと言われ、スマホの充電は後回しにしてとりあえずソフトクリームを食べに行くことにした。
最上階である八階はサンデッキとウォーキングトラックしかなく、いわゆる展望台のような造りで完全な屋外となっている。そのため、八階に行くには一度エレベーターを七階で降りてテラスやプールがあるエリアを通り、外階段を上がらなければならない。
昼時となりダイニングへ来る客と入れ替わりでハジメはエレベーターへと乗り込んだ。
五百人もの乗客がいるなかで、悲恋湖での関係者と出会う確率はそう高くないだろうと思いながらも、ついつい乗り合わせた人たちの顔を確認してしまう。
前回の記憶を持つ自分が、その記憶をもとに相手と関わるのは事件のときだけと決めている。それはある種の線引きやけじめのようなもので、こうして人の運命を変える以上、ハジメにとって必要な心構えだった。なので特別彼らに会いたいというわけではないのだが、それでもひと目元気な姿を見られたら嬉しくはあるので、ついハジメの視線は乗客たちの顔を追ってしまっていた。
七階でエレベーターを降りたときに見かけた男が気にかかったのも、そんな無意識に近い観察の結果だったのかもしれない。
「あれ?」
二階のダイニングで先ほども見かけた男である。
年は五十をいくらか過ぎているだろう。身長は平均よりやや低いが、年齢に似合わないがっしりとした身体つきをしている。目つきの鋭さと無精髭のせいか、ずいぶんと迫力のある男だった。おおよそ豪華客船などとは縁がなさそうな顔と風体で、プールやスパのある七階の華やかな雰囲気にまったく馴染んでいない。
男はすれ違いざまちらりとハジメを一瞥し、飲み物を片手にジムの休憩スペースへと歩いていった。
「…………」
シャツと草臥れたスラックスという運動に相応しいとは思えない格好で、男はソファに座りそのまま近くにあった雑誌を読み始めた。わざわざ雑誌を読みにジムの休憩スペースに来る人間がいるとも考えにくいので、スパやエステに行った妻でも待っているのだろうか。
しかし、なんとなくその男の位置取りが引っかかった。
男のいる場所はこの七階の人の出入りを監視するのにはうってつけのような――。
「なーんてな。考えすぎ考えすぎ」
いつも近くにいる物騒な元犯罪者のせいで少々神経過敏になっているのかもしれない。高遠が「船内での殺人事件を警戒したほうがいい」などと言うからなんてことないことまで気になってしまうのだ。
それにハジメの勘が確かならあの男は犯罪者ではない。
別に警戒しなくてもいいだろうと、男に背を向け八階へと上がる外階段を目指して外に出る。
「うわ、暑うぅ!?」
屋外に出た途端、ガラス越しとは比べものにならない日差しに襲われ、ハジメは思わずうめき声を漏らした。ジリジリと皮膚が灼ける音が聞こえてきそうだ。
本日も昨日に引き続き雲一つない晴天である。
プールの上にあるスライディングルーフはその屋根の部分が大きく開けられ、燦々と降り注ぐ太陽の下、水着姿の乗客たちが泳いだり、日焼けを楽しんだりと思い思いに過ごしていた。
ハジメはそんな人々を横目に少しでも太陽を避けようと日陰を探しながら歩く。
「君たち、可愛いね。よかったらこれから一緒にランチでもどう?」
ナンパの定型文として教科書に載っていそうなセリフが聞こえてきて、ハジメは歩みを止めないままフラレてしまえと見知らぬナンパ男へと念を送る。
「えー。どうする?」
「でも、いまの時間だとダイニングもカフェも混んでるんじゃない?」
そんな念が届いたのか、声をかけられた女の子たちのあまり乗り気でない返事に、内心「ざまあみろ!」と舌を出した。チャラ男はいまも昔も嫌いである。
「なら、僕の部屋に来る?
「ええ! お兄さん、スイートルームに泊まってるの!?」
「スゴーイ。お金持ちなんだぁ。あたし、スイートルームってちょっと興味あるかも」
「あたしも!」
そんな馬鹿な。
思わぬ話の展開に、ハジメはつい足を止めてそのナンパ男たちを見やった。
ナンパ男らしき爽やかなイケメンがギャルっぽい女の子二人に両腕をとられながら、ハジメの横を通りエレベーターのほうへと歩いていく。
「…………」
イケメンで金持ちなんて反則だろう。存在が嫌味な男がここにもいたとは。
早く可愛い恋人を作って売約済みになれ、それかハゲろ、と世の独り身の男たちを代表して天に祈っておいた。
◆
階段を上がれば、そこには素晴らしい景色が広がっていた。
遮蔽物がないからか先ほどまでよりも潮風を強く感じる。船内では味わえない広々とした開放感にハジメは大きく伸びをした。
真上にある太陽は相変わらず燦々と輝き、その日差しはヒリヒリと痛いほどだったが、不思議とげんなりした気持ちは湧いてこない。
「美雪にも見せてやりたかったな」
さすがに沈没する可能性のある船旅に美雪を誘うわけにはいかなかったのだが、きっと彼女もこの光景を見たら喜ぶだろうとわかるだけに残念だった。
高校生になったら、いつかみたいにバイトして二人で旅行するのもいいかもしれない。ポケットに例の
とりあえずなにかお土産を買って帰ろうと心のメモに記し、ハジメは目的のソフトクリーム屋の列に並ぶ。
「どれにしよっかな~」
順番を待つ傍らメニューを見れば、専門店というだけあり、ソフトクリームの種類だけでも三十種類近くあった。ワッフルコーンもプレーンとチョコから選べるらしい。
ハジメの前には五・六人並んでいたのだが、悩んでいるうちにあっという間に順番が回ってきてしまった。
「お決まりですか?」
「ええっと……北海道バニラと塩バターキャラメルのミックス! チョコワッフルコーンで!!」
「ご注文ありがとうございます」
出てきたソフトクリームを受けとり、どこで食べようかと辺りを見回す。この暑さなのでのんびり移動している余裕はない。ほかの客たちもみんな同じ考えなのか、近くのベンチに腰掛けたり、海を眺めながら立ったままで食べていた。
ハジメもサンデッキの端のほうに移動して、念願のソフトクリームをひと舐めする。
「〜〜っ!!」
旨い。
さっぱりしたフルーツ系のフレーバーと迷ったがやっぱりこっちにしてよかったと、ハジメは大口を開けてソフトクリームを食べていく。上の部分のクリームを三口ほどで平らげ、手が汚れるのも構わずワッフルコーンに
そのまま食べることに集中していたハジメは急に後ろからなにかにぶつかられ、たたらを踏む。幸い転ぶことはなかったが、その衝撃で手からソフトクリームが落ちて悲鳴をあげた。
「ああっ!?」
「……っと、悪い」
「俺のソフトクリームが!?」
まだ三分の一も残っていたハジメのソフトクリームはサンデッキにその無惨な姿を晒している。これでは三秒ルールも適応できない。
「なんてことすんだよ!」
文句を言ってやろうと振り返った先にいた人物を見て、ハジメは続く言葉を飲み込んだ。
「い……っ!?」
そこにはハジメの記憶よりも少しだけ若い、いつき陽介がバツの悪そうな顔で立っていた。
8
いつき陽介は一回目と変わらずのチェーンスモーカーぶりで、いまもハジメの横に座り旨そうにタバコを吹かしている。
「悪かったな、ボウズ」
「奢ってくれたからもういいよ。それよりいつ…おっさんはなにしてたの?」
新しいソフトクリームはシンプルに白桃ソフトにした。
ハジメが一個目と同じ速度でそれを食べながら尋ねると、船内は一部を除き禁煙なのでタバコを吸いに来たのだと半ば予想通りの答えが返ってきた。
「それより、俺のことはお兄さんと呼びなさい。まだ二十代だぞ」
「どうせギリギリだろ、おっさん」
「可愛くないやっちゃな! このクソガキは!」
「うわ! やめろよ、おっさん!!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻きまぜられ、急いでいつきの横から逃げる。
悲恋湖での初対面時よりも態度が柔らかいと感じるのはハジメが幼いからなのか、それともいつき自身の状況のせいだろうか。彼はいまの時期は最上葉月とまだ付き合っているはずだ。当時は結婚まで考えていたそうだから、精神的にも充実していたのかもしれない。
そう考えると二人の結末を知っているだけに少し気持ちが重くなる。今度こそ、彼らには幸せになってほしかった。
「はははっ。もうしねぇから、座ってゆっくり食べな」
明るく笑ういつきの顔を眩しげに見て、ハジメは先ほどと同じ場所に腰を下ろした。
「おっ、そうだ。ボウズにいいもんやろう」
そう言って、いつきが差し出したのは一枚の名刺だった。
『フリーライター いつき陽介』と記されたその名刺はハジメが知るものと微妙にレイアウトが変わっていたが、手にとるとどこか懐かしくて、ハジメは小さく笑みを浮かべる。
「名刺なんてもらったことないだろ? 学校で自慢してもいいぜ」
「小学生じゃねぇんだからそんなの自慢にならねぇよ」
「なんだ。ボウズ、中坊なのか」
「はあ!? 小学生だと思ってたのかよ!! てか、ボウズじゃなくて金田一。金田一一!」
あいにくハジメは名刺など持ち合わせていないので、いつきから手帳を借りてそのメモ欄にデカデカと名前を書いてやった。案の定「キンダニか」と笑われる。今回は女だからか、そのあだ名は小学校で卒業してしまったのだが。
「フリーライターってのはな、まあ新聞記者の親戚みたいなもんだ。俺はこのオリエンタル号の処女航海の取材で乗り込んでんだよ」
いつきはニヤニヤと笑いながら、ボールペンをマイクのようにハジメへと差し出す。
「ズバリ、この船のご感想は?」
「飯も旨いし、船酔いもしないし、ちょー快適! あっ、でもカジノとかカードルームに入れないのは不満」
「そうかそうか。ページが余ったらすみっこにでも中学生の生の声として載せといてやるよ」
「ぜってー載せる気ねぇヤツじゃん!」
ハジメがソフトクリームを食べ終わってからも、しばらくいつきと二人馬鹿みたいな話で盛り上がった。途中で涼しいところに移動すればよかったと気づいて、また二人して笑う。
「あー、暑!」
「いつきさん、このあとひまならカジノ連れてってよ」
「バーカ。俺はこのあとはお仕事だよ」
船内の様子を写真に撮ったり、最新鋭の設備について聞き込みしたりと忙しいらしい。実際、何人かの乗客や船員にもインタビューをするそうだ。
いつきは昼時のダイニングの様子を撮ると言って、足早に階段を降りていった。
「いつきさん、あんま変わってなかったな……」
独りその場に残ったハジメは、いましがた自分の身に起きた出来事にしばし呆然とする。
まさか出会えるとは思っていなかった。十日間もあるので姿くらいは見られるだろうと思ってはいたが、こんな風に知り合いになるとは考えもしなかった。
汗で少しよれてしまったいつきの名刺をきれいに伸ばしてから、ジーンズの尻ポケットにしまう。
会えなくてもいいと思っていた。
それなのに、こうして会ってしまえば自分でもちょっとびっくりするくらいに嬉しい。もう一度、以前とは別の形でいつきと友人になれるだろうか。
「あー、高遠に礼も言ってねぇや」
オリエンタル号に乗らなければこんな出会いはなかったはずだ。
そして、ハジメだけの力ではどうしたっていまの状況を作り出すことはできなかった。イマイチなにを考えているかわからない男だが、それでもハジメのためにこの豪華客船のチケットを手に入れたことはわかっている。
とりあえず、あとで会ったら礼くらいは言っておこう。
改まってそんなことを言うのは微妙に気恥ずかしい上に、高遠がどんな反応をするのか予想がつかないのが怖いなと思いながら、ハジメは炎天下から逃れるためにベンチから立ち上がった。
「あれ、高遠?」
ハジメが階段を降りれば、七階のサンデッキで高遠が子どもたちを集めマジックを披露している姿が目に入った。指名手配中でも顔を隠して子ども相手にマジックをするような男なので、仕事なのか趣味なのか判断がつかない。
高遠は自分の周りにいる七・八人の子どもたちにそれぞれ風船を配り、その場にいた全員に風船が行き渡ったのを見て、彼らの注目を集めるように一度大きく両手を広げた。
「僕がこれから三つ数えるから、みんなはその風船をしっかり握っていてね。いいかい? 風船から目を離しちゃだめだよ。いーち、にーい、さん!」
マジシャンがぱちんと指を鳴らすと、子どもたちが持っていた風船がひとりでに割れ、そのなかから色とりどりの薔薇が現れた。それを見た子どもたちはわあっと歓声を上げる。
すごい、すごいと興奮した子どもたちに次のマジックをせがまれている男は、いつもとは違い柔らかな笑顔を浮かべていた。
「さあ、今日はもうおしまい」
「えー!」
「まだ見たい!」
「明日は夕方からホールでもっとすごいマジックをする予定だから、お父さんやお母さんと一緒に見においで。そのときはそこのお姉さんもマジックを見せてくれるよ」
いきなり話を振られたハジメは目を丸くする。
一度もこちらを見なかったのにいつからハジメに気づいていたのか。ハジメを指差す高遠は腹立たしいくらいいい笑顔だった。アシスタントはするが、舞台でマジックを披露するとは聞いていない。
ハジメを見つめる子どもたちの瞳は期待に輝いている。
「高遠、なに言って……」
「えー、すごい!」
「絶対見に行くねー!」
ハジメの抗議は子どもたちの楽しげな声にかき消されてしまった。
高遠とハジメに「頑張ってね!」と手を振りながら、子どもたちはそれぞれの両親のもとへ帰っていく。残されたのはご機嫌な様子でマジック道具を片付け始める男と、その男のせいで苦々しい顔になっているハジメだけだ。
「勝手なこと言ってんなよ。ショーの練習なんてしてねぇじゃん」
「君は器用だから大丈夫ですよ。私が教えなくてもビルチェンジなんかは簡単にできるようになったでしょう。テクニックだけならそこらの二流マジシャンよりも筋がいい」
「いつもマジックはテクニックじゃなくて演出だってダメ出しするくせに」
「ええ、そうですよ。だから私の演出に合わせてくださいね、アシスタント君」
「つーかさ、仕事内容は簡単な雑用が主だってあんた言ってなかったっけ?」
「おや、君はこの船に乗ってからなにか一つでも雑用をしてくれましたか?」
「……ゔ」
それを言われるとハジメには返す言葉もないわけだが、高遠の顔を見るかぎりこれはただの嫌がらせな気がする。
ハジメだってマジック自体は好きだし、高遠に横から口を出されながらも自分でやってみたりもするが、大勢の観客の前で舞台に上がりたいなんて気持ちは微塵もない。
せめて香港のときの
「まあ、ショーの練習は明日の午前中にするので、今日は予定通り自由行動で構いませんよ」
マジックショーの出演はやはり決定事項らしい。
「へいへい。じゃあ、明日は扱き使われてやるからさ。このあと、カジノ連れてって」
「お昼時なのに食事はいいんですか?」
「朝飯食ってそんな時間経ってないから平気。あっ、あんたはもしかしてこれから食べんの?」
「いえ、私もそれほど空腹ではないので……」
そこで言葉を切り、高遠はハジメの頬を軽く撫でてから自分のハンカチを差し出した。
すごい汗だという男の指摘に身体をつたう汗を意識する。たしかにもうずいぶんと長いこと屋外で過ごしている。暑さにのどがひりついていた。
しかし、同じような条件だというのに高遠がほとんど汗をかいていないように見えるのはなぜなのか。九月にゴムマスクをつけて過ごせる男は汗腺からして普通の人間とは違うのかもしれない。
「顔、真っ赤ですよ。先に水分補給したらどうですか」
「ならカフェに行こうぜ。バーでもいいけど」
「ここからならラウンジが近いのでそちらに行きましょう」
そう言って歩き出した高遠のあとを追いかけながら、ハジメはどのタイミングで彼に今回の礼を伝えるべきかひっそりと頭を悩ませていた。
◆
ハジメの様子がおかしい。
どこがとは言えないのだが妙にそわそわと落ち着きがない気がする。
「金田一君、そろそろ電気を消しますよ」
いまもベッドの上でスマホを片手に気のない返事をしているが、それがゲームに熱中しているフリのように感じられて、高遠はじっとハジメを見つめながらその原因を考えてみた。
七階のサンデッキで会ったときはいつも通りだった。だが、そのあとのラウンジではすでに少し様子がおかしかったように思う。高遠への態度そのものに変化があったわけではないが、どうにもこちらの様子を窺っている気がしたのだ。
しかし、思い返してみてもサンデッキからラウンジまでの間でとくに変わったことはなかった。
そのあとのカジノでもハジメがはしゃいでいたくらいでほかに特筆すべきことはなく、時系列からするとやはりラウンジ以前になにかきっかけがあるのだろう。
高遠が知らない間になにかあったのか、それとも……まさか、同じベッドで寝ていたことを気にしているのか? あのハジメが?
「……なんだよ?」
見られていることに気づいたハジメが不思議そうな顔をする。そこには警戒も嫌悪も浮かんではいない。
問い詰めるか一瞬悩んで、結局高遠は別の言葉を口にした。
「明日は午前中からショーの練習をすると言ったでしょう。そろそろ寝てください」
「わかったよ」
そう言って、ハジメは素直にスマホを枕元に置いて掛布を被る。
高遠がベッドサイドのスイッチで電気を消せば、室内は常夜灯の薄明かりだけになった。ハジメはしばらく布団のなかでなにやらモゾモゾと動いていたが、唐突に耐えきれなくなったかのように勢いよく起き上がった。
「あのさ……今日、いつきさんに会ったんだよ」
起き上がった勢いには相応しくない小さな声。
夜目の利く高遠にもうつむいている少女の横顔はよく見えなかった。
ハジメはそのままこちらを向くでもなく、ポツリポツリといつき陽介とのやりとりを高遠に語って聞かせる。その声音は穏やかだが、思わぬ再会への喜びが滲んでいた。
「そんでさ、こういうのもあんたの……高遠のおかげだなって思って。俺ひとりじゃ、この船には乗れなかったし。だから……」
そこで言い淀んだハジメは、ぐしゃぐしゃと髪を掻きまぜながら唸るような声をあげて、どこかヤケクソぎみに残りの言葉を早口で続けた。
「ありがと! それだけ! じゃあオヤスミ!!」
こちらの返事を聞くことなく、がばりと布団を被ったハジメは気まずさからか蓑虫のように丸まっている。
名前を呼んでみるがこんもりと膨らんだ布団は不自然なほど動かない。
どんな顔をしているのか見たいと思ったのに、高遠が実際に布団を捲りハジメの顔を見たのは、彼女の寝息が聞こえてきてからだった。
「…………」
枕を抱えてこちらに背を向けるように眠るハジメは昨夜と変わらず穏やかな表情をしていた。
しばらく高遠はベッドのそばに立ち尽くし少女の寝顔を見つめる。先ほどのハジメの言葉をどう受け止めればいいのかわからない。
彼女のことだ、別に深い意味などないのだろうが……どういう意図で言ったのだろう。
ハジメのためにこんな方法を選んだのだから、彼女が高遠に感謝するのはある意味では当たり前だ。それでも、こうして改まって伝えられるなど思ってもみなかった。
嬉しい? 腹立たしい? 不愉快?
いま、自分が抱く感情としてはどれが正しいのか。
ハジメを喜ばせたいわけではない。そんな気持ちは高遠のなかには一つもないはずなのに、彼女のために行動している理由を、彼女自身に突きつけられた気がした。
高遠の精神をかき乱すたった一つの存在は、人の気も知らずのんきな顔で眠っている。
「君は……裏切ってやったら、どんな顔をするんでしょうね」
そうつぶやきながらも、思い出したのは昨夜自分の腕の中にあった少女の温もりだった。
ハジメとの関係は変わらない。どれほど二人の距離が近づいたように感じたとしても、高遠遙一と金田一一は決して交わらない平行線なのだ。それが変わるはずがない。
――でも。
ハジメの横に身体を滑り込ませ、眠る少女を後ろから抱きしめれば、やはり高遠の平行線はまるで誂えたかのようにぴったりとその腕の中に収まるのだ。
そのことに安堵する自分がいることを、高遠はまだ認めることができなかった。
明け方近く、のどの乾きを覚えてぼんやりと覚醒したハジメは、とっさに自分の置かれている状況が理解できず固まった。
なぜ高遠に後ろから抱きしめられているのか。
あげかけた声を呑み込み、身を固めたまま相手を窺えば、とても珍しいことに高遠は深く寝入っているようだった。
一瞬また自分がベッドを間違えたのかと疑うが、ここはハジメのベッドで、この夜トイレに目覚めた記憶はない。この男がハジメのようにベッドを間違えるわけがないのだから、つまり……どういうことだろう?
高遠を起こさないようにそっと顔だけを動かす。
色素の薄い瞳は閉じられ、その睫毛の長さがわかる距離に高遠の顔があることになぜかハジメは動揺した。
「……っ」
わずかに目の前にある瞼が震えた気がして息を呑む。
息を殺して高遠を見つめるが、覚醒しかけたわけではないのか、男は変わらず規則正しい寝息を立てている。
高遠の寝顔を見たのは初めてだ。
気配に敏い男はいま、ひどく無防備な姿を晒していた。前髪が下りているからかどことなくいつもより幼く見える。意外と端正な顔をしているのだな、と暗がりのなかぼんやりと思った。
そのまま高遠の顔を見続けるのがなんとなく気まずくて、ハジメは先ほどと同じようにそっと顔を元に戻した。
そうすると、今度は背中に感じる男の体温に意識がいく。
少しだけ落ち着かないけれど、不快ではないその温かさに、ハジメはゆっくりと身体の力を抜いた。自分の腹部に回った男の手はがっちりと組まれており、簡単には解けそうもない。
高遠を起こそうと思わなかったのは、男の寝顔が想像よりもずっと穏やかだったからだろうか。
「……ふわぁ」
小さなあくびがハジメの口から漏れた。
どちらのものかわからないほど混じり合った体温は、ハジメを再び夢のなかへと誘う。徐々に下がってくる瞼の重みに白旗を揚げて、ハジメはそのまま眠りへと落ちていった。
自分の腕の中で、何事もなかったかのように再び寝息を立て始めたハジメを、高遠は信じられない気持ちで見つめる。
少女がこちらを振り返ったあたりで目が覚めていたが、どんな反応をするだろうかと寝たフリをして様子を窺っていたらこれだ。
――怒って、この腕のなかから出ていけばよかったのに。
そう思うのに、高遠の腕は少女をぴったりと抱きしめたまま動かない。
起こさぬようそっとその顔をのぞき込めば、自分の意思で高遠の腕の中にいることを選んだ少女はなにも考えていなさそうな顔で眠っていた。
「……金田一君、逃げなくてもいいんですか?」
違う。
金田一一は高遠から逃げたことは一度もない。
なら、いまの彼女は?
「君は……私を、捕まえてはくれないんですか?」
地獄の傀儡師を捕らえることのできる世界でたったひとり、自分だけの平行線。
ハジメはもう高遠にあの燃えるような瞳を向けることはないのだろうか。
このまま少女のそばでこのぬるま湯のような日常に浸っていれば、いつか自分の輪郭すらもわからなくなってしまいそうだ。
高遠の脳裏にちらつくのは十七歳の彼。
金田一一はなに一つ変わっていない。燃えるような正義感も、類まれな推理力も……その優しさすらも。
それなのに、なぜ自分はいまハジメを抱きしめているのだろう。
高遠がほしいのは自分を燃やし尽くしてしまうようなあの瞳だけだ。いまのこの状況は、再び相対するまでの協力関係でしかないはずなのに……どうしてか、この腕の中の熱をもう忘れられない気がした。