9
出航から三日目。オリエンタル号は予定通り北海道の函館港へと寄港していた。
渡島半島の南端に位置する、津軽海峡に面したこの天然の良港は、横浜・長崎と並ぶ日本最初の貿易港であり、本州との連絡や交通拠点などとして発展を続け、いまでは観光地としてもその整備が進んでいる。港湾には近代的な建物やモニュメントが立ち並んでおり、まさに海の玄関口と呼ぶに相応しい景観だった。
本日も天気はすこぶる良好で、太陽は燦々と輝いている。
乗客の多くは函館観光へと出掛けているらしく、船内は変わらない華やかさのなかにもどこか閑散とした雰囲気を漂わせていた。
船内を行き交う船員たちもいつもよりのんびりとした様子で仕事をしている。
連日大賑わいのホールも寄港日は夕方からしか上演がないため、いまは客席のライトはすべて落とされ、ときおり舞台の練習や最終確認をする演者の声が寂しく響くばかりだった。
「イカ、カニ、ウニ……ああ、俺の食い倒れプランが」
ハジメは函館のグルメ雑誌を片手に、しょんぼりと肩を落とし恨めしげな視線を高遠へと向ける。すでに何度目かわからないそのつぶやきはもちろん黙殺された。
自分の舞台に一切の妥協を許さない人間のショーなど手伝うものじゃない。
高遠が完璧主義なことは知っていたが、スパルタすぎて少々引いた。地獄の傀儡師のマリオネットとなった歴代の殺人者たちはみんな、高遠の非常識な要望に一々応えていたのだろうか。だとしたら、決して褒められた行為ではないが、そのガッツだけは称賛に値すると思う。
ハジメなら絶対に途中で投げ出して逃げる。なんならいまも逃げたい。
「なぁ、そろそろ昼飯にしない? せっかく函館にいるんだし、外に食べに行こうぜ」
朝早くからハジメを叩き起こし、食事もそこそこにこの舞台裏にある演者の控え室兼練習部屋へと連れてきた男は、珍しくこちらを見もせずにショーで使う小道具の点検をしている。
「君が真面目に練習に取り組んでいたら、とっくにお昼くらい食べに行けていたんですけどね」
「適度な休憩も必要だろ?」
「君がいましているのは休憩ではないと?」
ようやく振り向いた高遠は手に持ったステッキを器用にくるりと回し、その先端でハジメの左手にあった雑誌を軽く叩いた。ワン、ツー、スリー。カウントとともに、まるで磁石で引っ張られるかのように雑誌はハジメの手を離れ、そのままステッキについて行ってしまう。
見えない糸などで動かせる重さではないので、事前に雑誌に仕込みをしていたとしか考えられない。こんなマジック、今回のショーでは使わないのに。
「自分だって遊んでんじゃん!」
「遊んでいるとは人聞きの悪い。身近なものにタネを仕込んでおくのはマジシャンの嗜みですよ」
雑誌をどこかに片付けてしまった高遠にブーブーと文句を言いながら、ハジメはこの場から逃げ出す算段を頭のなかで巡らせる。
どうも今日の高遠はハジメを甘やかす気がないらしく、このまま強請っていても効果は薄そうだ。
夏の函館グルメをなに一つ堪能せずに帰るなんて冗談じゃない。海鮮丼やラーメン、いまが旬だというイカなど食べたいものは山程ある。
もう時刻は午後十二時を回ろうとしていた。
土地勘のない観光客が溢れる場所で目的のものを食べて戻ってこようと思えば、ことがすべてスムーズに進んだとしても、もう時間的な猶予はないと言っていい。
幸い、この部屋の通路への出入り口はハジメのすぐそばだ。高遠に気づかれず通路に出ることさえできればなんとかなる。さすがの高遠も逃げ出したハジメを連れ戻しに来たりはしないだろう。
「…………」
ちらりと高遠を窺えば、荷物が積まれたその奥でなにかしているようで、こちらに注意を払っている様子はない。しゃがんでいるのか、荷物の影からは彼の上着の裾だけが見えていた。
適当にマジックの話題を振りながら、ハジメは出入り口へとジリジリと後退する。
「このインビジブルスレッドってもうちょっと太いヤツないの?」
「それが一番切れにくいタイプなんです。少々取り扱いが難しいですが、浮遊マジックには必須と言ってもいいポピュラーなアイテムなので、使えるようになってくださいね」
「ええー、難しいのはあんたがやってくれたらいいじゃん」
ようやく背中に扉が当たる。視線は向けずに腕だけを伸ばし、手探りで見つけたドアノブを音を立てないようにゆっくりと捻った。
気が急くのを抑え、慎重に扉を開ける。……まだ、バレていない。
「金田一君、そろそろおしゃべりはやめて集中してください。それじゃあ、いつまで経っても練習が終わりませんよ」
「高遠の要求が高すぎるんだろ! ……はぁ。わかったよ。マジメにやりゃあいいんだろ」
高遠の返事を聞かずに通路へと滑り出る。
扉はあえて閉めなかった。どうせハジメがいないのはすぐにバレる。いまは扉を閉める時間すらも惜しい。それでもお互いの身体能力の差を考えれば、せめてこの四階からは出てしまいたかった。
先ほどの会話の流れならハジメが数分黙っていてもおかしくはない。高遠もおしゃべりとはほど遠いタイプなので、うまくいけば十分くらいは時間を稼げる。
関係者専用の通路にも絨毯が敷かれていることに感謝し、足音に気をつけながら全力疾走する。
たしかここを出て少し行けば階段があったはず、と通路の終わりである扉に手をかけようとすると、目の前の扉が開き、ハジメは通路へと入ってきたその人物に激突した。
「……痛てぇ!?」
強かに打ち付けた顔が痛い。
たたらを踏んで後ろへと倒れかけたハジメを、その人物はなぜか優しく抱きとめてくれた。心底急いではいたが、とりあえず相手に礼を言おうと顔を上げ、ハジメはその場でぴしりと固まった。
「た、高遠……」
「金田一君。如何に君であろうと、私の舞台を台無しにするのは許しませんよ」
わざとらしいほどにっこりと笑った顔が怖い。
満面の笑みなのに、細められた目の奥がちっとも笑っていないことがわかり、背筋に冷たい汗が流れた。間違いようもなく怒っている。
「は? いや、あんた練習部屋にいたはずだろ!? えっ、舞台側から追っかけて来たの!?」
自分で言いながら、それは無理だとすぐさま否定した。かなり大回りになる舞台から客席を抜けてここまで来るルートではどう考えても時間が足りない。
「言ったでしょう? マジシャンとは常にタネを仕込んでおくものなんですよ」
「タネって……あっ! あんた、俺のことハメめたな!?」
たぶん、ハジメが逃げようとしていることに気づいた高遠は、荷物の影に隠れ、上着を脱いであたかもそこにいるように偽装工作してから舞台側の出入り口へと向かったのだろう。そのあとの会話はスピーカー越しかなにかだったに違いない。
いわゆるミスディレクションと呼ばれるテクニックの応用だ。
ハジメは自分の意思であのタイミングを選んだつもりだったが、本当は高遠により巧妙に誘導されていたにすぎず、彼の思惑通りに行動してしまった結果がこれである。
「ハメめたとはまたひどい言い草ですね。サボろうとした君がいけないのでは?」
正論すぎてぐうの音もでない。しかし、やり口が陰険すぎるし、普通に注意すればよかったのではと思わないでもない。ハジメが素直に聞いたかどうかは、この際横に置いておく。
無駄に手の込んだことしやがって、と高遠の腕の中で悪態をつけば、非情な男は笑顔でその腕の力を強めた。
「グェ……く、苦しい。高遠、骨がミシって! ミシっていってるから! 折れる折れる!!」
「大丈夫ですよ。骨は折れても治りますから」
「ぎゃあー! 人殺しーっ!!」
「ええ。人殺しですがなにか?」
なんなら連続殺人犯だ。
そういえば昔から約束事には厳しいところがあったなと、圧死されそうになりながら思う。最近はやたらとハジメに甘いので忘れかけていた。
正直、マジックの練習をサボったくらいでという気がしないでもないが、悪いのは完全にこちらであるので出かかった悪態は吞み込んでおく。
さすがのハジメも、この状況で高遠に喧嘩を売る無謀さは持ち合わせていない。
自分の腕の中でハジメを圧死させることは諦めたのか、高遠は少しだけその腕の力を緩めて、ハジメをそのまま抱えあげた。
「うわっ、危ね!」
高遠が声の一つもかけないものだから、ハジメはバランスを崩し、とっさに男の首に両腕を回して落とされないようにぎゅっと抱きついた。
「……金田一君、そうされると前が見えないんですが」
「じゃあ、降ろせよ」
「降ろしたら逃げるんじゃないですか?」
「逃げねぇよ」
というか逃げられる気がしない。
ハジメの言葉を信じていないのか、高遠はハジメを抱えたまま歩き出した。先ほどハジメが必死で走った通路を無情にもスタスタと戻っていく。
「ううっ、さよなら……俺の海鮮丼」
遠ざかる扉を見ながら物悲しげにつぶやけば、ハジメの腹も賛同するかのように盛大な音を鳴らす。
「函館朝市に行きたいなら、すぐに出ないと間に合いませんね」
「へ?」
「片付けは手伝ってもらいますよ」
言葉と同時に高遠が扉を開ければ、部屋の中はショーの練習のために広げた道具が散乱していた。片付けろというのはこの部屋のことだろう。
高遠の拘束からようやく解放され、数分ぶりに自分の足で地面に立ったハジメは、そのまま無言で高遠と見つめ合う。
内心などちっとも読ませてくれない男は、いまもいつも通りのポーカーフェイスだ。
「……行かないんですか?」
「! 行く!!」
不思議そうな問いかけに力強く返事をし、ハジメはマジック道具を片付け始めるために身を翻した。
なぜ高遠の気が変わったのかはわからないが、「やっぱりやめた」と言われては堪らないので黙々と働く。片付けをするそのスピードはハジメ史上最速だったかもしれない。
そのあと食べた海鮮丼はめちゃくちゃ美味しかった。そして、船に戻ってからのショーの練習は当然のようにスパルタだった。
10
スポットライトから降り注ぐ光に目が眩みそうだと思った。
舞台袖へと引っ込めば、その柔らかい暗闇にほっと肩の力が抜ける。舞台の上はハジメが想像していたよりもずっと熱くて、興奮と緊張で滲んだ汗が大きな粒となって身体を流れ落ちていく。
疲れた。
高遠は呆れるかもしれないが、それがショーを終えたハジメの率直な感想だ。
実際、ハジメの出番なんて大したものではなかったし、人前だからと緊張するような繊細な神経はしていないはずだが、それでもこの場に座り込んでしまいたいほど疲れていた。
壁へと寄りかかり、なんとか重たい身体を支える。
そのままの姿勢で先ほどまで自分がいた場所へと視線を向ければ、ハジメが知るなかで最も優れたマジシャンたる男は、その手でいくつもの魔法を生み出し、観客たちを魅了していた。
舞台袖にいても観客の驚きと感動が伝わってくるようだ。
「……あーあ」
無意識に自分の口から漏れた声が、多分に落胆の色を含んでいたことに驚いた。
舞台に立つ高遠のマジックを目にしたときから、なぜ自分はあの素晴らしいマジックを観客として見られないのだろうか、という思いが消えない。
これだけそばにいて、なんならマジックを教えてもらうことさえあるのに、ハジメは高遠のショーを見たことがなかった。近宮玲子とともに舞台へと立つ高遠が見たいと話したのはいつのことだったか。
「あいつは……殺人以外のショーに、俺を招待する気あるのかな」
ハジメの問いに答える声はない。
勝手に人のバッグに携帯電話を忍ばせたり、男子高校生の夏休みを台無しにするような手紙を送ってきたりする自称犯罪芸術家の招待などもう二度と受けたくないが、普通のマジックショーにならいくらでも行ってやるのに、変なところで気の利かない男だ。
いっそ“血のように紅い薔薇”など差し出せないように、高遠が栽培している薔薇を全部他の色に変えてやろうか……いや、そうすると今度は本当に薔薇を血で紅く染めかねない気がする。
「……全部忘れて、ただのマジシャンになっちまえばいいのに」
そんな願いは、客席から上がった歓声と割れんばかりの拍手でかき消されて、つぶやいたハジメ自身の耳にも届かなかった。
舞台袖に戻ってきた高遠は衣装の首元を緩め、額へと幾筋か落ちてきた髪をかき上げた。その額に浮かんだ汗が目に止まり、やっぱり高遠も汗をかくのだとぼんやり思う。
「おつかれー」
「ええ、金田一君もお疲れさまでした。ショーに出てみたご感想は?」
「疲れた」
「それだけですか? まあ、君らしくはありますが……たしかに、疲れた顔をしていますね。君は立派な新米マジシャンでしたよ」
満足げな高遠の顔を見るに、ハジメのマジックも及第点には達したらしい。朝からスパルタな完璧主義者にしごかれた甲斐はあったようでなによりである。
「つーか、俺の衣装とかいつの間に用意してたんだよ?」
「ショーの助手をお願いするんですから、それくらいは準備していますよ。気に入りませんでしたか?」
スカーレット・ローゼスだの、マスクマンだの、少々常人には理解しにくいセンスの持ち主が選んだにしては、用意されていた衣装は普通だった。
バンドカラーシャツに黒いベストと同色のズボン。
着慣れないが、着ることに抵抗を覚えるものでなかったことに、じつはひっそりと胸を撫で下ろしたのは黙っておこう。
「あー、やっぱなんか窮屈で性には合わねぇかな」
衣装と合わせて高遠が結ってくれたこのハーフアップという髪型も、首元が少々ムズムズしてなんだか落ち着かない。
ヘアゴムを外し、ぐしゃぐしゃと髪を掻きまぜてから、いつもと同じように首の後ろで一つにくくる。
「片付けをしたらシャワーを浴びて食事にしましょうか」
「あー、やっと飯だ! 腹減ったーっ!」
次のパフォーマーたちの邪魔にならないように手早く撤収作業をし、二人はその場をあとにした。
◆
オリエンタル号は日没を待たずに函館港を出航した。
大きな船体をゆっくりと動かし、翌日の寄港予定である佐渡島へと向かう。
シャワーで汗を流してから少し早い夕食を堪能したハジメが、腹ごなしに八階のサンデッキまでやって来たのは、海の果てに太陽が沈みきった頃だった。
まだどこかに昼間の明るさの名残りを感じさせる空とは対称的に、海の闇は見つめていれば呑み込まれてしまいそうなほどに深い。
昨日訪れたソフトクリーム専門店はもう店仕舞いをしてしまったらしく、サンデッキはひっそりと静まりかえっていた。
いつきと座ったベンチを見つけ、ハジメはひとりそこに腰を下ろした。
夜風が気持ちいい。
じめじめと蒸し暑い東京の夜とは大違いだ。
潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、座りながらグッと伸びをしたハジメの前を、ウォーキングトラックでジョギングしている数人の乗客たちが楽しげに横切っていく。
「……もう、明日か」
七月二十七日。
その夜はこれまでの天気が嘘のように、三積ケ浦海域には濃い霧が立ち込めるはずだ。
黒煙を上げ燃え盛る竜王丸。船体を大きく傾け海へと沈んでいくオリエンタル号・泣き叫び助けを求める乗客たち。
見たこともない光景は想像だけでハジメの身体を震わせる。
自分が失敗すれば、その光景は間違いなく現実のものとなる。きっとこの真っ暗な海はすべてを呑み込んでしまうだろう。
脳裏に浮かぶのはいつき陽介や小泉螢子の顔だけではない。この船に乗って知り合った泰田夏帆や、船内ですれ違ったたくさんの家族連れの笑顔……自分がしようとしていることの重さに、緊張からか知らず指の先が冷たくなる。
「……大丈夫」
口に出したところで不安が消えるわけではない。
それでも、まるで無敵の呪文を唱えるかのように同じ言葉を口のなかで繰り返す。
――この私が、失敗するとでも?
ふっと頭に浮かんだのは、どうやって事故を回避するか話し合ったときの高遠の顔だった。
実際にそんなことは言わなかったはずだが、如何にも言いそうだと思う。
あの物騒な協力者は、きっとハジメの心配など馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだろう。あるいは自分を侮っているのかと怒るかもしれない。
「難しいことじゃない、か」
そう、尾高山のときとは違うのだ。
いまのハジメのそばには、物騒で少々信用しきれない厄介な男がついている。
「はっ……くしゅん!」
ずいぶんと気温が下がってきた。
盛大なくしゃみのあと、鼻をすすり無意識に二の腕を擦る。半袖から伸びた腕には鳥肌が立っていた。
周りを見れば、いつの間にかジョギングをしていた人たちも船内へと戻ってしまったらしい。ハジメのほかには、なにやらうつむきがちにサンデッキを歩いている制服姿の乗組員らしき男しかいなかった。
あっちにウロウロ、こっちにウロウロ。
しばらくその様子をなんとなしに眺めていれば、男がなにをしているのかは簡単に想像がついた。しかし、懐中電灯くらい持ってくればいいのに。
「オジサン! なに探してんの? もう暗いし明日にしたら?」
声をかけられるとは思ってもいなかったのか、男は少し大げさなくらい驚いてハジメのほうを振り返った。
「へっ!? あ、ああ、どうかされましたか、お客様」
「いや、あたしじゃなくて。オジサン、なんか探してるんでしょ? でもこう暗いとろくに見えないし、日が昇ってからにしたら?」
「ああ、そうなんだけどね。大切なものだから……お嬢さんこそ、もう暗いしご両親が心配してるんじゃないのかい? 部屋がわからないならフロントまで送ろうか?」
男の言動からどうやらまた小学生に間違えられているらしい気配を感じ内心ムッとする。ちょっと小柄かもしれないが、もう十四になるという少女をつかまえて失礼な話だ。
眉を下げ、心配そうな顔をする男の胸元にある名札には“機関士・
五十は超えてるだろうその顔は、真っ黒に日焼けしているところ以外は、おおよそ逞しい海の男といったイメージからはほど遠かった。どこか気弱そうな雰囲気と、制帽の上からでもわかる乏しそうな頭髪と相まって、妙にうらぶれた印象を受ける。
迷子ではないことを説明し、遠慮ぎみの波多野から話を聞き出せば、夕方にこのサンデッキで失くしものをしたという。
「手帳っすか?」
「ああ。これくらいの、黒い手帳なんだ。なかに家族写真が入っていてね。でも……君の言う通り、もう暗いし明日にするよ」
「夕方のときはなにしにここに来たんですか?」
「ん? そのときは、たしか休憩中に風に当たりに来たんだったと思うけど」
「なら、ベンチとかに座ったんじゃないですか?」
「ああ、そうだったかもしれないが……」
不思議そうな波多野に構わず、ハジメは彼の言動から手帳を落としたであろう場所を推測することにした。闇雲に探すにはこのサンデッキは広いし、なにより暗すぎる。
外で手帳を落とすということは、ズボンのポケットにでも入れていたのだろう。たぶん、尻ポケットだ。
波多野の話だと手帳はスマホとそう変わらない手のひらサイズのもので、落としたときに気づかなかったという点を踏まえると――。
「おっ、やっぱりここにあった!」
いくつかのベンチの下や背もたれとの隙間などを探せば、波多野の手帳はすぐに見つかった。
拾い上げた手帳を渡せば、波多野は驚いた顔をしながらもしきりに頭を下げて何度も礼を言う。大切そうに開いた手帳には彼のいう家族写真が収まっていた。
いまよりも二十は若そうな波多野自身と、その妻らしき女性。少し年の離れた二人の娘たち。
日常のスナップショットではなく、なにかの記念日にでも撮ったのか、四人家族がそれぞれ少し畏まった表情をしているのがどこか微笑ましい。
なんてことないその写真を見つめる男の瞳がひどく寂しそうで、それがなぜだか強く印象に残った。
「本当にありがとう。なにかお礼ができたらいいんだが」
「いやいや、気にしないでください。すぐに見つかったし」
よかった、よかったと言い合い、二人で船内へと戻るために外階段を下りる。
「ずいぶんと風が出てきたね」
「そうっすね」
轟々と強さを増す風が、近づく不穏な気配を伝えているようで、ハジメは自分のうちに滲む嫌な予感に眉根を寄せた。
明日の沈没事故は必ず自分が止めてみせる。
それなのに……このオリエンタル号には、まだハジメが気づいていない闇があるような気がしてならなかった。