平行線機能不全   作:キユ

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第三章「オリエンタル号⑥」

11

 

 この日、オリエンタル号では処女航海の祝賀パーティーが執り行われていた。

 東亜オリエント海運の新たな看板客船となることが期待されている船とあって、そのパーティーには船舶業界の名士や実業家も大勢参加しており、会場には船長をはじめとする主要な船員たちの姿も多く見られた。

 着飾った笑顔の紳士淑女たち。見栄えのするたくさんの料理。

 分厚い雲に覆われ、月明かり一つ差さない甲板にもそのパーティー会場からの光が届き、人々の華やかな喧騒が漏れ聞こえてくるようだった。

 そんな船内の明るさとは対称的に海の闇はどこまでも濃い。波は穏やかだが、夕方から発生した霧で視界は悪く、少し先が見通せないほど辺りは白く霞んでいた。

 どこか不吉な雰囲気と生臭い霧が漂うなか、オリエンタル号は粛々と三積ケ浦沖を進んでいく。

 この船へと迫りくる危機を知るものは、たったふたりしかいない。

 

 

 

 若王子幹彦は一方的に切られた内線電話を怒りのままに叩きつけた。

 

「ふざけやがって!!」

 

 その剣幕に、そばにいた四等航海士の大野が身を竦ませたことにも気づかず、若王子はイライラとその場で足踏みをする。

 船長の鷹守が指示した横暴としか言いようのない勤務プランの変更。

 若王子の再三の抗議にも、鷹守は頑として意見を変えなかった。このままでは若王子は祝賀パーティーに参加することが叶わなくなる。オリエンタル号の次期船長を約束されたエリートたる自分が、だ。それどころか、若王子の派閥に属する船員たちの多くがパーティーの間、なんらかの勤務につかねばならない事態となっていた。

 自身の今後の出世を考えれば、船舶業界の名士たちが多数出席するこのパーティーには絶対に参加する必要がある。横のつながりが重要な意味を持つ業界だ。ここで顔を売り、コネクションを作らねばならない。

 悩んだのは一瞬だった。

 すでに交渉は決裂している。あちらがその気なら、若王子も強硬手段にでよう。

 

「パーティーに参加する。君も準備しなさい」

「え!? で、でも、そうするとこの操舵室が……」

 

 無人になると言いたいのだろう。

 細かな気配りができ大人しいところが気に入って、よく自分の補助勤務にあたらせているこの四等航海士は少々肝が小さい。

 いまも不安げな表情でこちらの顔色を窺っていた。

 身のうちにまだ先ほどまでの怒りを燻らせながらも、若王子は意識して笑顔を浮かべてやる。ここで押し問答をする時間も惜しい。パーティーはもう始まっているのだ。

 

「大丈夫だ。衛星自動操舵システムを作動させる」

 

 そう、この最新のシステムがあれば、なにも操舵室に張り付いている必要などない。

 コンピュータにはこの先の暗礁も事前にすべてインプットされている。若王子たちが舵をとらずとも、問題なく船は進む。

 若王子の説明に大野はほっとしたように笑い、「じゃあ、急いで行きましょう」と操舵室の扉を開けた。

 

 ――パシャパシャ!

 

 突如響いたシャッター音と眩いフラッシュの光に、若王子は手のひらを眼前へとかざしその顔を伏せた。

 それはフラッシュの光を避けるためのとっさの仕草だったが、まるでなにか後ろ暗い人間のような反応をしてしまった気がして心臓が嫌な音を立てる。

 滲んだ不安を振り払うかのように若王子は鋭い視線を元凶へと向けた。

 

「"話題の豪華客船、熾烈な権力争いでエリート航海士が勤務ボイコット!?”なんてどうですかね? なかなかワイドショー向けのネタだと思うんだが」

 

 声をかけてきたのはチンピラ染みた男だった。

 ふてぶてしい態度。趣味の悪い柄物のシャツ。離れていても漂ってくるタバコの臭い。どう見てもろくな人間ではない。

 ニヤニヤと笑う男は、顔に似合わない本格的なカメラをその手に持っている。

 

「……お客様。ここは関係者以外立入禁止となっております。それに、なにか誤解があるようだ」

「おっと、これは失敬。職業柄気になるとついついこんなところまで入り込んじまう」

 

 若王子の厳しい表情にも臆することなく近づいてきて、男は一枚の名刺を差し出した。

 少しよれたあとのあるそれに記された『フリーライター いつき陽介』の文字に、若王子は小さく眉根を寄せる。

 よりにもよってフリーライターとは。品位など期待できないゴシップ記者が相手では、なにを書かれるかわかったものではない。

 

「記者の方でしたか……しかし、本日は取材の申し込みなどはなかったように思いますが」

「いやー、うっかりしてたな。なら、改めて取材を申し込んでも?」

「ええ。後日……時間がとれましたら。いまは勤務中ですのでご容赦ください」

「ああ、どこかに行く途中だったんでしょう? 祝賀パーティーですか?」

「まさか! 私は現在操舵室勤務にあたっておりますので」

 

 慇懃に対応しながらも、若王子は必死でいつきの目的を考える。

 一番最悪なのは鷹守が若王子を陥れるためにけしかけたというパターンだ。この船の船長はあくまでも鷹守であり、自分にはその命令に従う義務がある。如何にそれが横暴だったとしても、対外的に勤務ボイコットは体裁が悪すぎた。

 そんなことを世間に広められては出世どころではない。

 仮に鷹守の差し金ではなく、この男をこのまま金銭などで言いくるめられたとしても、自身の弱みを握られることになってしまう。

 八方塞がりだ。

 もう、どうやっても若王子が祝賀パーティーに参加する目はない。

 湧き上がるのは先ほど無線電話を叩きつけたときとは比べ物にならない憤怒だった。しかし、それを表に出すのは若王子のプライドが許さない。

 なにより怒りのまま衝動的に行動した結果がいまだ。これ以上の不利益が出ないよう、ここから最善へとつながる行動をしなくては。

 

「フロアまでご案内致しましょうか?」

「いやいや。自分で戻れますよ。お気遣いどーも」

「そうですか。それでは、長く操舵室を空けるわけにはいきませんので、私どもはこれで失礼致します」

 

 内心の煮えるような怒りを押し殺し、きっちりといつきに向かって頭を下げてから、若王子は隣でオロオロとし続けている大野を伴い操舵室へと戻った。

 

 

 

 ひとり廊下に残った男はひどく冷めた目で操舵室の扉を見つめていたが、しばらくするとくるりと踵を返し歩き出した。

 まったく、とんだ茶番だ。

 歩きながら男――高遠遙一は『いつき陽介』の顔をベリベリッと剥がす。

 なかなかいい出来だったがもう使うことはないだろう。

 竜王丸の接近までまだ数十分あるので、念のため近くで待機はしておくが、若王子幹彦の性格を考えるともう一度ボイコットを試みる可能性はかなり低い。

 

「さて、金田一君の方は上手くいきましたかね」

 

 

 

12

 

 水崎丈次は浮かれていた。

 補充人員とはいえ、憧れていたオリエンタル号に乗ることができた幸運に、ここ数日ずっと地に足がついていないかのような心地だった。自分を選んでくれた船長の鷹守には感謝してもしきれない。

 この船で働ける。

 それだけで水崎にとっては充分に名誉なことだったが、先ほど鷹守直々に祝賀パーティーへ参加するように言われ、さらなる幸運が自分のもとにやって来たことを知った。

 業界の名士が出席するパーティーへの参加。その意図は明白だ。自分はあの鷹守から目をかけられている。東亜オリエント海運の次期重役といわれている実力者たる鷹守から。

 水崎は誇らしさでいっぱいだった。

 喜びのあまり、まるで酔っ払ってしまったかのような不確かな足取りで、監視台の狭い階段を下りていく。

 あれほど憧れたオリエンタル号での仕事を、自分が放棄しようとしているという自覚はなかった。平時の水崎であれば、上司の命であっても持ち場を離れることに忌避感を覚えたことだろう。しかし、いまの水崎にはちらりともそんな考えは浮かばない。

 階段を下り終え、デッキへと出る扉に手をかけたとき、彼のなかには輝かしい未来への期待だけがあった。

 

「――本当に、それでいいのかよ」

 

 だから、外に出た瞬間に聞こえてきたその言葉に、冷や水を浴びせられたような気がした。

 

「しなきゃいけないことを放り出して……後悔するんじゃねぇの。自分がなんでそうしたかったか、思い出せよ」

 

 あまりにもタイムリーな発言で、初めは自分に言われているのかと思ったが、どうやら声の主は電話中らしい。

 水崎がいる扉から数メートル先。デッキの手摺りへと身体を預けるように、霧に包まれた海を見つめる後ろ姿が目に入った。

 その人物はまだ小さな子どもだった。

 一方的に聞こえる会話の内容は幼い声にはあまり相応しいとは言えない。

 言葉遣いから少年かと思ったが、首の後ろで尻尾のように括られた髪についた可愛らしいヘアゴムから、この子どもが少女であることが推測できた。

 

「自分の仕事にもっと誇りを持ってるんだと思ってた」

 

 会話の相手はどんな人物なのだろう。

 幼い子どもにこんなことを言わせて、さぞ自身を恥じているのではないだろうか。……水崎のように。

 恥ずかしかった。

 自分に向けられたものではなかったが、少女の言葉はすべて水崎の心にも深く刺さっていた。自分がしようとしていたことはなに一つ誇れるものではない。

 監視台に戻ろう。

 憧れの船で働ける以上の喜びなどないと知っていたはずなのに、危うく愚かな過ちを犯すところだった。

 通話が終了したらしい少女がこちらを振り返る気配に水崎は持ち場に帰ろうと動かしかけた足を止める。とくに理由があったわけではない。ただ、どんな子どもなのか気になったのだ。

 

「こんばんは。お仕事ごくろーさまです!」

 

 船員服を着た水崎に、太めの眉と意志の強そうな瞳が印象的な少女は年相応の明るい笑顔で挨拶してくれる。

 人懐っこいタイプらしい。

 「船がすごい」と話しかけてくる姿からは、先ほどまでの大人びた会話の様子は微塵も窺えなかった。

 

「なんかめっちゃ霧が出ててちょっと怖かったけど、船員さんがいてくれるから大丈夫ですね」

「! ……ええ、もちろんです」

 

 少女の言葉に胸を張って答えられない自分に苦い思いが湧き上がってくる。

 本当に自分はどうかしていた。

 それでも、水崎はこのオリエンタル号の船員なのだ。乗客の信頼に応えないでどうする。

 

「ご安心ください。この船は絶対に沈まない『水上のリゾートホテル』です。最新の設備と技術で快適な船旅をお約束します」

 

 この船に相応しい船員でありたい。そんな思いで少女へととびきりの笑顔を向ける。

 鷹守は怒るだろうか。

 せっかく目をかけてもらったのに、出世の機会を自ら棒に振ったのだから、ひょっとしたらもう自分はこのオリエンタル号には乗れないかもしれない。しかし……水崎のなかには不思議と不安はなかった。

 たしかにオリエンタル号は素晴らしい船だ。

 でも、自分はただ船に乗ることが生き甲斐なだけの男なのだ。

 豪華客船の船長になりたいわけじゃない。

 この船を降りたとしても、またどこかで別の船に乗ればいい。それが水崎にとっての紛れもない本心だった。

 

 

 ◆

 

 

 深い霧の中。

 黒々としたその巨大なタンカーは三積ケ浦沖でゆっくりとオリエンタル号とすれ違った。明るい船内からタンカーに気づいた乗客はほとんどいないだろう。

 沈没事故を回避した二つの船は、お互いに何事もなかったかのような様子でそれぞれの海路を進んでいく。

 金田一一はデッキに座り込み、手摺りの間から海側へ足を放り出すような形で、少しずつ離れていく竜王丸を見つめていた。

 終わったのだ。

 もう遠野英治も、香取洋子も、悲しみに囚われその手を復讐に汚すことはない。彼らのもとに大事な人たちは無事に帰ることができる。

 

「…………」

 

 それなのに、ハジメの胸に広がるのは安堵というにはあまりにも苦い感情だった。

 運命を変えるたびに、誰かを救うたびに……助けられなかった一回目の記憶が、どうして救えなかったのかとハジメを責める。

 あのとき、もっと自分はなにかできたんじゃないのか。

 事件の真相や動機に早く気づけていれば。加害者となってしまった彼らを止める方法はなかったのか。そんなどうしようもない考えが浮かぶのは、ハジメ自身があり得ない二回目を生きているからだろう。

 誰かを救えた、なんて誇らしい気持ちには決してなれない。

 いつだってハジメのなかには、やり場のない悲しみと憎悪に殺人という手段を選んでしまった人たちが、そしてその犠牲となった人たちがいる。

 ハジメにとってこの人生はやり直しではないのだ。一回目がなかったことにはどうしたってならない。

 

「協力者に労いの一つもないんですか、君は」

 

 男が近づいてきたことには気がついていたから、かけられた声にハジメは振り向かなかった。

 黙ったまま海を見つめていれば、高遠はこぶし二つ分ほどの距離を空けてハジメの隣に腰を下ろした。再会した当初よりも、なんとなく距離感が近い気がする。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。

 ただハジメ自身は嫌ではなかった。

 ちらりと横目で高遠を窺えば、男はハジメとは逆に手摺りを背もたれにしながら船内を見つめていた。

 

「それで? ずいぶんと浮かない顔をしていますが、どうかしましたか?」

「……別に。上手くいったから……気が抜けただけ」

「こんなつまらないことで何人もの人間が犠牲になったのが悲しいですか?」

「……っ、そんなんじゃ、ない」

 

 どうして一回目は()()なってしまったのかという悔しさが拭えないだけだ。

 自分から聞いておきながらこちらの答えには興味がないのか、高遠は手慰みのようにマジック用のコインを消したり出したりしている。

 一枚だったコインが、二枚三枚と増えてもその動きに不自然さは微塵もない。

 消えては現れ、現れては消え、コインはまるで意思を持っているのかと錯覚しそうなほど軽やかに高遠の指の間を行き来している。

 ハジメは気づけば、その華麗な指さばきに見惚れていた。

 

「フッ。君、マジックが好きですねぇ」

「あんたほどじゃねーよ。筋金入りのマジックバカだろ」

 

 笑われたことにムッとして言い返しながらも、これはひょっとして高遠なりの慰めのつもりなのかと思い当たり、そんな自分の思考に少し動揺する。

 高遠が自分を慰めるだなんて、以前のハジメなら考えもしなかったはずだ。

 だが、いまのハジメのなかにはその可能性が当たり前のようにある。

 共に過ごしてきたこれまでの時間で、この男がこちらを傷つけるときはひどく意識して行動するくせに、甘やかすのはどこまでも無自覚であるのだと知ってしまった。

 

「おや、そんなにこのマジックが気に入りました?」

「へ?」

「そんなに嬉しそうな顔をされるとやり甲斐はありますが」

「……っ、嬉しそうな顔なんてしてねぇよ、バーカ!!」

 

 ハジメの反応に不可解そうな顔をしている高遠から思い切り顔を背ける。

 さすがに先ほどのやり取りからハジメの心情を理解することはできないだろうが、相手は人間心理に長けた一流のマジシャンである。油断はできない。

 

「マジックでないなら……私の行動のなにが君を喜ばせたんですか」

 

 ほら、正しくハジメの心理を読み解こうとしてくる。

 

「てか、なんでちょっと不機嫌になってんだよ」

 

 表情はさほど変わらないが、醸し出す雰囲気から少し苛立ちのようなものを感じる。

 マジックを褒めなかったから怒っているわけではないだろう。テクニックこそすごいが、それこそ初歩的なマジックだったし。

 

「君が……」

「俺がなんだよ」

 

 言語化しにくいのか、眉根を寄せてしばし考え込んでから続けられたのは、ハジメからすれば無茶苦茶な理由だった。

 

「私の行動から、勝手に喜びを感じたことが許せない?」

「はあ!? どんな理屈だよ! わがままか!!」

 

 そんな理不尽な怒りに曝されていたとは恐ろしい。

 疑問形なあたりどこまで本当かはわからないが、犯罪芸術家などという常人には理解しがたい価値観の持ち主なので、意外と言葉通りの意味で言っている可能性もある。

 

「話をそらすのが上手ですね、金田一君。それで、なにが嬉しかったんですか?」

「だから、別に嬉しそうな顔もしてなきゃ、喜んでもいねーよ」

「ほう。この私相手にしらばっくれるつもりですか」

「じゃあ、自分で解き明かしてみれば? 初めっから答えを聞くなんて、あんたらしくねーじゃん」

 

 こう言っておけば、高遠はいまある情報から答えを導き出そうとするはずだ。

 あまり嬉しい展開ではないが、下手にこのまま尋問されるよりはマシという判断である。この男はハジメの小さな反応や態度からその心理を探り当て兼ねない。話を逸らせなかった時点で、なんらかの解決策は必要だったのだと無理やり自分を納得させた。

 

「つまり、答え合わせをしてくれるんですね?」

「え……?」

「自分で解き明かせということは、私が自身の答えを告げれば、君が正否を教えてくれるのでしょう? ……もちろん、"違う”ならその理由も含めて」

 

 これは、墓穴を掘ったかもしれない。

 迂闊なことを言うんじゃなかったと後悔しても遅かった。どう転んでも高遠は望む答えを手に入れるし、ハジメはあまり認めたくない感情を当の本人に暴露することになる。

 いっそ、言ってしまっても別にいいんじゃないかという考えが頭を過ぎる。

 

 ――あんたが俺を慰めようとしてくれた気がして嬉しかった、って?

 

 無理だ。

 言いたくないし、言ったあとの高遠の反応も怖いし、どんな顔をして言ったらいいのかもわからない。

 やっぱり誤魔化そう。

 高遠の出す"答え”に乗るのも一つの方法だろう。嘘が通用するかはこの際置いておく。

 

「ま、せーぜー頑張って考えたら?」

 

 ハジメのためにも、ぜひそれっぽい答えを期待している。

 そんな疚しい考えを悟られないよう、海を見つめたまま立ち上がり、明るく賑やかな船内へと足を向けた。

 いまはただ無事に七月二十七日が終わることを喜ぼう。自然とそう思えたのは、楽しげな船内の雰囲気のせいか、あるいは――隣を歩く物騒な協力者のおかげかもしれない。

 

 

 

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