21
被害者は泰田政則。四十五歳。
彼は七月二十八日の二十二時頃、乗船していたオリエンタル号の六〇三号室のベッドの上で変わり果てた姿で発見された。
死因は肺に達する二か所の刺傷による窒息死。その二か所の刺傷以外に外傷はなく、検死の結果被害者の血液から睡眠薬の成分が検出されたことから入眠中に襲われたものと考えられる。また、被害者のいた寝室のベッド脇にあるサイドテーブルの上に、被害者が普段から服用していた二種類の睡眠薬の空シートと水の入ったグラスが残されていたことから、被害者自身がミステリーナイトから部屋へと戻ったあとで飲んだものと判断された。
死亡推定時刻は七月二十八日の二十時三十分から二十一時三十分の間で、これは死体の第一発見者である妻・泰田夏帆と金田一一の証言、検死結果とも矛盾しない。
死体に偽装の痕跡はなく、殺害現場は六〇三号室の寝室であると考えられる。被害者の泊まっていた特等客室はそのエリアに入るのにも専用のカードキーが必要となるため、初動捜査の段階では特等客室に泊まっている乗客を重要参考人として取り調べを行った。
ちなみに、七月二十八日の二十一時頃に特等客室エリアが五分間ほど停電になった事実があるが、事件との関係は不明である。しかし捜査本部内では、六〇三号室へ侵入をするために犯人が停電を起こしたのではないかという見方が強い。
特等客室の乗客たちへの取り調べの過程で、被害者殺害に使われたと思われる凶器を隣室の六〇四号室にて発見。見つかったのは刃渡り十八㎝の包丁で、それには被害者の血液がべったりと付着しており、傷口と一致したことから凶器と断定される。現在調査中だが、凶器の包丁自体はホームセンターなどで買える量産品であり、購入者や入手経路の特定は困難である可能性が高い。
凶器が発見されたことから六〇四号室の乗客である中村一郎を被疑者として、その身柄の捜索を開始……するはずだった。
六階のダイニングの一角。
パーテーションで簡易的に区切られたそこは即席の捜査本部となっていた。参加メンバーはハジメ、連城、村上刑事、岡警部補、そして連城曰く“奇特な刑事”である
船内で見かけたときから刑事だろうと思っていたが、『青髭』である泰田政則を追ってこの船に乗り込んでいたらしい。
「青髭の奴がいまの妻と結婚してもう二年になる。事故を装って殺すならこの船旅はうってつけだ。泰田夏帆の護衛がてら、奴の犯行現場を押さえられればと思っていたんだが……」
「だから夏帆さんの周りでよく見かけたんだ」
「目端が利くな、嬢ちゃん」
もう定年も間近だという老刑事は、ハジメの言葉にその厳つい顔を歪ませてニヤリと笑った。
てっきり岡警部補と同じように素人の捜査への介入を快く思っていないと考えていただけに、そのどこか友好的ともとれる反応に少し面を食らう。伊達刑事自身がこの事件では部外者に近い立ち位置だからかもしれないが、見た目ほどにはとっつきにくい人ではないようだ。
警察官として大先輩にあたる伊達刑事のハジメへの態度を見て、岡警部補はどこか尻の据わりが悪そうな顔をする。
ハジメの向かいに座っていた村上刑事が、上司の態度が軟化したことを敏感に察し、よかったねと目配せしくれた。機嫌の悪い上司の横に座らされた彼はずっと胃が痛そうな顔をしていたので、むしろハジメの方が村上刑事によかったねと言いたい。
「まあ、その青髭のほうが殺されてしまったわけだけど」
そんな、なんとなく和んだ雰囲気をぶち壊したのはエリート警部だった。
ダイニングのスタッフに淹れてもらったコーヒーに角砂糖を五つも投入した連城は、周囲の凍りついた空気など気にもせず、スプーンで混ぜればカップの底がじゃりじゃりと音を立てるそれを旨そうにすする。
連城のどこまでもマイペースな様子に、気分を害したであろう老刑事は、しかし眉根を寄せるだけで話を続けた。
「……そのことについて話したいことがあったから、あんたらに声をかけたんだ」
「犯人に心当たりでも?」
「ああ。いや、そいつのアリバイは完璧なんだが……その男には、泰田政則を殺す動機がある」
その男の名前は
政則の二人目の妻の実兄で、六階のダイニングのスタッフとしてこのオリエンタル号に乗船している。件のミステリーナイトにもスタッフとして参加しており、伊達刑事がいうアリバイはそのときの彼の行動を指してのものらしい。
久木は妹が亡くなった際、警察に何度も「妹は事故死じゃない! 殺されたんだ!!」と主張し、政則ともかなりの衝突があったという。
「俺が青髭に目をつけたのは、三人目の妻・泰田春海の件があってからだ。二人目の妻の事故死についても調べちゃいるが、久木自身との面識はねぇ。ただ、当時久木とやりとりした刑事に話を聞くと青髭への恨みはかなり深かったらしい」
「二人目の妻が亡くなったのはいつなんですか?」
「もう十年は前になる。久木は妹の件があってから勤めていた都内の病院を辞めててな。それ以降の足取りは、残念だが俺は把握できてない。だが、医者から船のダイニングスタッフってのは、ただの転職だと言われても理由を勘繰りたくなっちまう」
「医者、か。人体の構造には詳しいわけだ」
なるほど偶然とは思えない。
しかし、久木は十年もの間政則への殺意を持ち続けていたのだろうか。
ハジメは復讐に囚われ、その仇を殺すことだけを理由として生きている人がいるのを知っている。復讐する機会を窺い、それこそ十年間殺意を鈍らせることなく犯行を成し遂げた人もいた。
だが反面、同じ気持ちを維持し続けることが難しいのも事実だ。
この事件は計画的な犯行であり、偶然仇と同じ船に乗り合わせたから犯行を思いついたというのは考えにくい。
泰田春海の関係者について考えたときにも引っかかったことだが、たぶん現在と過去を繋ぐピースが欠けている。そして、その欠けたピースを握っているのは――。
「ふむ。ひょっとしてここと繋がるのかな」
「え、連城警部、なにかわかったんですか!?」
「その久木悠一という人物は、名探偵のお孫さんがいう“殺人二十面相”じゃないかい?」
「ああ、そうだ。久木はミステリーナイトの間ずっとその役柄で司会進行をしていた。だから、犯行時刻のアリバイが完璧だと言ったんだ」
「ああ! 入れ替わりトリック!!」
「入れ替わりトリック~っ!?」
村上刑事の大声に、岡警部補は胡散臭さそうな表情を浮かべる。老刑事はそこまであからさまな顔はしていなかったが、引き結ばれた口元から彼がその発言にあまり納得していないことが窺えた。
ふたりの反応が芳しくないのを見て、村上刑事は「いや、でも、マイクの位置が……」と尻すぼみになりながらもポソポソとハジメから聞いた説明を繰り返す。
「――ピンマイクの位置、か。気づかなかったな」
「久木悠一を被疑者として連行しますか?」
「岡はいつもせっかちだね。血圧が高いからかな?」
「なっ!? 俺は健康診断で引っかかったことはありません!!」
「え、そうなんですか。意外!」
「うるせぇ! 黙ってろ、村上!!」
「まあ、まずはミステリーナイト中の久木の行動を洗い出そうか。本当に入れ替わっていたのなら協力者がいることになるし」
協力者。
政則を殺すことに手を貸す人物がいるのなら、それは彼の亡くなった三人の妻の関係者だと考えるのが妥当だ。
このオリエンタル号の中に久木以外にも政則への恨みを持つ人間がいるのだろうか。
「ねぇ、伊達さん。一人目と三人目の奥さんの身内とか、関係が深そうな人ってわかる?」
「久木の協力者か。……一人目の妻、
伊達刑事はハジメの質問に答えるために、ぼろぼろになった手帳を捲る。そこには老刑事の五年以上に及ぶ捜査の記録が記されていた。
政則が咲桜と結婚したのは二十九歳のとき。その結婚生活はわずか一年七か月で幕を閉じる。事故死したとされる咲桜には親兄弟はおらず、政則はこのときとくに疑われることもなく六千万円近い保険金を手に入れている。
「三人目の泰田春海との婚姻期間はたったの十か月だ。さすがに三度目で、結婚自体この短さ。かなり厳しく捜査したが……結局、泰田政則の犯行を決定づけるような証拠は見つからんかった」
「この春海さんの事故死を疑ったのは警察だけ?」
「あとは保険会社だな。この娘さんは両親が離婚していて、父親に引きとられたとかだったと思うが、その父親が娘の死に納得していなかったっていう話は出てねぇな」
そこまで言ってから、伊達刑事は何かを思い出すかのように目を眇めた。
「――いいや、違う。俺はそういや、この父親に会ってるな」
気の弱そうな、大人しい男だったという。
娘の死の説明をされ、その夫に保険金殺人の疑いがかかっていると聞かされても、ただただ茫然としているだけで、伊達刑事はその一回きりしか父親の姿を見ていないそうだ。
「娘が殺されたから復讐しようって男にも見えなかったがなぁ」
当時の書き込みをしたページを開き、苦々しい顔をする伊達刑事の横からその手帳をのぞき込む。
角張ったクセ字で、伊達刑事が抱いた春海の死の疑問点や政則の行動、事故死した状況などについて書かれているが、その父親についての情報は年齢や職業くらいとしか記されていない。
しかし、ハジメの目を引いたのは老刑事が事細かに書き留めた春海の事故の様子ではなかった。
「――旧姓、波多野春海」
八階のサンデッキで出会った機関士。
彼の落とした手帳には家族写真が収まっていて、そこには若い彼とその妻、ふたりの娘が写っていた。
家族写真を見つめる寂しげな波多野の顔を思い出す。あれは亡くなった娘を偲ぶ父親の顔だったのだろう。
新聞の切り抜きを見て春海の顔に既視感を覚えた理由に思い至り、ハジメはぎゅっと目を閉じた。
あの写真には彼女の面影があった。少し年の離れたふたりの娘たち……その姉のほうが、春海だ。欠けていたピースが形になろうとしている。
「連城警部」
「ん? なんだい。君には特等客室の乗客たちの聞き込みに同行してもらおうと思ったんだが、ダイニングスタッフのほうがよかったかい?」
こちらのやりとりを聞いていなかったらしい連城の問いかけを無視し、ハジメは自身の気づいたその事実を告げた。
――このオリエンタル号には少なくともふたり、『青髭』に恨みを持つ人間がいる。
22
「さっき連城警部に言ってた、睡眠薬の数とか指紋がとかってどういう意味?」
ハジメを先導するように歩いていた村上刑事がこちらを振り返りながらそう尋ねたのは、特等客室エリアの入り口が見えてきたときだった。
「ちょっと気になることがあったんで」
「えっと、じゃあ、波多野のもうひとりの娘さんについては?」
「それは……ほんとに、あたしの勘みたいなものっていうか」
言葉を濁すハジメに対してそれ以上聞くのは諦めたのか、村上刑事は少し気まずそうな顔で捜査用に渡されているカードキーを使い特等客室エリアへと入る。
特等客室の乗客の中で犯行時刻と考えられている時間帯のアリバイがないのは四人だけだという。
連城からその四人の話を聞いてくるよう指示されたハジメと村上刑事は、こうして連れ立ってここまで来たわけだが……。
「あー、どうしよう。なんて言ったらいいと思う?」
六〇一号室のドアの前で村上刑事が頭を抱えているのは、もちろんただの女子中学生でしかないハジメが同行する言い訳に苦慮しているからである。
「連城警部からはなにか言われてないんですか?」
「……なにも言わなくていいって」
「え?」
「変な顔されても“捜査に必要なことなので!”って態度でいろって言われた」
力技にもほどがある上に、この年若い刑事には少々不向きな方法でないだろうか。大した付き合いのないハジメにも、ちょっと突っ込まれただけでオロオロする彼の姿が見えるようだ。
せめてタローさんくらいの図太さがないと無理だな、と知り合いの天パ刑事を思い出す。村上刑事のほうは、うっかり余計なことを口にしがちのわりに根は小心者の慎重派らしい。
いまも受け答えのシミュレーションを必死に頭の中で巡らせている。
「とりあえず、入りましょう」
このまま待っていてもどうにもならない気配を感じ、ハジメは勝手に目の前のドアをノックした。隣から聞こえた非難と動揺の入り混じった声は黙殺する。
連城がハジメと村上刑事を組ませたのは、彼のこういうところが理由かもしれない。
少し間をおいて、ドア越しに落ち着いた男性の声で「はい」という応えがあった。若干しどろもどろになりながらも、村上刑事が再度事件のあった時間帯のことについて話を聞きたい旨を説明する。
「先ほどもお伝えしたように、私たちは事件についてお話しできることはなにもありませんが……それでもよろしければ、どうぞお入りください」
そう言ってふたりを部屋へと招き入れてくれたのは、老紳士という言葉がぴったりと当てはまる小柄な男性――
京一郎は村上刑事の横にいるハジメを見て二、三度瞬きをしたが、とくにハジメの存在に言及することはなかった。そんな相手の反応に村上刑事がほっと胸を撫で下ろす。
「この時間ではバトラーを呼ぶのも忍びないので、備え付けのコーヒーくらいしかご用意できませんが」
「いやいや、お構いなく。お話を聞かせてもらったら、自分たちはすぐに退散するので」
六〇一号室はいわゆるデラックス・スウィートと呼ばれる、このオリエンタル号でも二部屋しか存在しない超高級客室である。なんと部屋ごとに専任のスタッフがおり、もはやただの宿泊ではなく、生活を楽しめる空間となっている。
通されたリビングルームでは京一郎の妻・
夫よりもさらに小柄で円背ぎみのその老婦人は、やはりハジメを見て目を丸くしたが、なにも言わずに立ち上がりお茶の準備を始める。
「それで、私たちはなにをお話したらよいのでしょうか?」
四人分の飲み物がテーブルに並んでから、京一郎はそう話を切り出した。
美桜子はハジメの前にオレンジジュースを置くとき、「あとで歯磨きを忘れずにね」とクッキーを添えてくれた。小腹が空いていたのでありがたく頂戴する。
「何度もお聞きして申し訳ないんですが、昨日の二十時三十分から二十一時三十分のお二人の行動を教えてもらえますか? このお部屋にいらっしゃったんですよね? なにか変わったことはなかったですか?」
大友夫婦は昨夜二階のメインダイニングで夕食をとったあと、二十時少し前に自分たちの部屋へと戻ってきた。そのとき六〇一号室のバトラーに内線で部屋での入浴の意向を伝え、風呂の準備を依頼している。
バトラーがやって来たのは二十時過ぎで、風呂の準備を整えつつ夫婦との雑談に興じたのち、十五分ほどで退室している。
そのあとは夫、妻の順で風呂へと入り、二十二時には床のついた。
「――なにぶん、年寄なもので。事件が起きたことも、警察の方が訪ねて来られるまで気づきもしませんでした」
「二十二時頃に停電があったみたいなんですけど、そのときは?」
「眠っておりましたので……停電があったこと自体存じ上げません」
村上刑事の質問に答える京一郎は淡々としている。
このふたりにアリバイがないとされたのは夫婦だからであって、その証言自体に疑わしいところはない。年齢や身体能力的なところから考えても、七十を越えた老夫婦が人ひとり殺し、諸々の偽装工作をしたとは考え難かった。
「被害者の泰田政則さんについてはどうですか?」
「それは……もうこの船旅も折り返しです。何度かお見かけした際に挨拶ぐらいは交わしましたよ」
ハジメの問いにも、京一郎は淀みなく答える。
だが、彼が一瞬隣に座る妻のほうへと視線を向けたのをハジメは見逃さなかった。もう一度、今度は美桜子を見つめながら同じことを尋ねる。
「……っ、ですから」
「いいのよ、京一郎さん。別に疚しいことはないのだし、話してしまいましょう」
「美桜子さん」
「私たちは亡くなった泰田政則さんを知っていました。とは言っても、実際に会ったのはほんの数回で、それもずいぶんと昔のことです。彼のほうは、私たちには気づいてはいませんでしたしね」
「ど、どのようなお知り合いだったんですか!?」
村上刑事は驚きを隠せない様子で、勢い込んで美桜子へと問いかけた。彼女の口から重要ななにかが出てくるのではないか、と期待するように村上刑事の両手は強く握り込まれている。
「あの人の一人目の妻だった泰田咲桜は、私の――姪です」
捜査協力への礼を言って六〇一号室を出た村上刑事は、閉じたばかりのドアを見つめどこか呆然とした顔でつぶやいた。
「これって……どういうことなの?」
政則の元妻の関係者は久木、波多野に続いて、これで三人目だ。
大友美桜子は政則を恨んでいるとも、姪の死を不審に思っているとも言わなかった。ただ「あの子の名前の“桜”っていう文字は、私から一字あげたんですよ」と優しい顔をして笑っただけ。
あの老夫婦が今回の事件になにか関係があるのかはわからない。
しかし、政則の過去と関係のある人間がこのオリエンタル号にこれだけ集まっているのが、ただの偶然だとは思えないのも事実だった。
「大友美桜子が夫と共謀して被害者を殺したんだとしたら、ミステリーナイトから部屋に戻る被害者を見て部屋の入り口でこう後ろからガッと、とかないかな?」
「政則さんには刺傷以外の外傷はなかったんでしょ? ていうか、仮にその方法をとったとしても、あんな小柄なお爺さんと円背ぎみなお婆さんで政則さんをベッドまで運ぶのは無理だよ」
「じゃ、じゃあ、言葉巧みにお茶に誘って睡眠薬を飲ませたとか?」
「相手の寝室でお茶を飲もうって誘うってこと?」
それができるのはハニートラップが得意なセクシー系美女くらいではないだろうか。
あいさつ程度の顔見知りとも呼べない相手――実際は違ったわけだが――の寝室へと通してもらい、そこで一緒にお茶を飲むなど催眠術でも使えないと成立しそうにない。
村上刑事は降って湧いた『大友夫婦犯人説』を諦めきれないのか、あーだのうーだの言いながらハジメの反論に頭を捻っている。
「ほら、村上刑事。まだ聞き込みはふたり残ってるんだし、次に行こうよ」
背中を軽く叩いて促せば、村上刑事は「うん」と気のない返事をしつつも歩き出した。
目的地は隣の六〇二号室。
この部屋に宿泊している乗客の名前は
藤嶋は大友夫婦と同じデラックス・スウィートにたったひとりで泊っている。一泊いくらなのか知らないが、女性を連れ込み放題なのは間違いない。
「あれ? でもこの藤嶋って人、ミステリーナイトに参加してたけど?」
「うん。本人もそう主張してるよ。でも一緒にいたっていう女性の裏付けがまだとれないんだ」
ミステリーナイトのスタッフは藤嶋がイベントに参加していたことは証言できるが、問題となっている時間帯の彼の行動までは覚えていないという。ともにいた女性ふたりはどちらも特等客室の人間ではなく、下の名前しかわからないことから特定が進んでいないそうだ。
「ナンパした相手の名前もちゃんと知らねぇのかよ……って、うわっ!?」
話しながらも六〇二号室へと到着し、目の前のドアをノックしようとしたハジメは、急に開かれたドアに驚いてつんのめった。
こける!っと思いぎゅっと目を閉じ、衝撃に備える。
幸いドアを開けた人物がとっさにハジメの腕を掴んで支えてくれたため、床に倒れ込むようなことにはならなかった。
一瞬、かすかな甘い香りがハジメの鼻を擽る。
顔をあげれば、爽やかなイケメンが不思議そうな目でこちらを見ていた。ミステリーナイトのときとは違う、Vネックのサマーニットと白いチノパンという出で立ちのイケメン――藤嶋俊介だった。
「えっと、誰かな?」
「あ、すみません! 我々は山口県警のものでして――」
慌てていたせいか、シレッとハジメも山口県警の人間として紹介した村上刑事に、藤嶋は腑に落ちない顔をしながらも「どうぞ」と部屋へと通してくれる。
部屋の造りは先ほどの大友夫婦の部屋と大きな変わりはない。
案内されたのはやはりリビングルームだった。大友夫婦のところにあったのとは微妙にデザインの違うソファを勧められ、ハジメと村上刑事は並んで腰を下ろした。
「こんな時間にすみません」
「……いえ。それで、僕はなにを話したらいいんでしょうか?」
藤嶋は村上刑事の質問に一つ一つ丁寧に答えていく。
昨日は十九時頃から六階のダイニングでナンパした女性ふたりと食事をしたこと。
そのあともその女性ふたりとともにミステリーナイトに参加し、この特等客室エリアへと戻ってきたのは事件発覚後であること。
被害者の泰田政則は船内で見かけたことくらいはあるが、面識と呼べるほどのものではなかったこと。
「――ええっと、それではその一緒にいた女性ふたりの連絡先なんかはありませんか?」
「前に来た刑事さんにも言ったんですが、その日にナンパしてずっと一緒にいたので連絡先は聞いてなかったんですよね」
「ソーデスカ」
「あっ! でも、ちょっと待ってください。インスタを教えてもらったので、そこから連絡がとれるかも」
ふたりのやりとりを聞きながらハジメはじっと藤嶋を観察する。
一見、彼は女好きのナンパ男だ。
藤嶋の主張に特段怪しいところはない。それでも、ハジメは彼がプールサイドで夏帆を無視したことが気にかかっていた。
「?」
藤嶋はスマホを片手にナンパした女性のインスタを探している。
一回。二回。三回。
村上刑事と話していたときもそうだが、藤嶋はしきりに自分の左足首辺りに手を持っていっている。無意識にそこへと手を伸ばし、なにかに気づき元に戻す。短い間で繰り返されればそれなりに目につく動作だ。
「その、足首どうかしたんですか?」
「え、ああ。ちょっとかぶれたみたいでね。僕、わりとアレルギー体質なんだ」
「へー。大変ですね。自分は全然そういうのはないんですが、食物アレルギーですか?」
「そうです。あとは触れたりしても出ることありますね。――ああ、連絡がつきました。この人です」
女性の名前と部屋番号を手帳へとメモし、村上刑事は立ち上がった。これで藤嶋の証言の裏付けがとれるので、彼の心情を表すかのようにその動きはどこか軽やかだ。
先輩刑事たちがとれなかった情報を、自分が相手から引き出せたことが誇らしいのだろう。
心なしか胸を張って歩く村上刑事のあとを追いかける。
藤嶋もふたりを見送るつもりなのか、部屋の出入り口までついてきた。村上刑事が先に廊下へと出たとき、ハジメは振り返って藤嶋へと問いかけた。
「泰田政則さんの奥さん、知ってます?」
「……ああ。美人だよね。既婚者なのが残念だ。それがどうかした?」
「いいえ。別にたいしたことじゃありません」
藤嶋は夏帆を知っている。
ならば、あのときの藤嶋はプールサイドで夏帆を意図的に無視したことになる。それは――いったいなんのために?
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その男はハジメを見た瞬間、眉間に深いしわを刻みひどく真っ当な疑問を口にした。
「その子どもはなんだ」
尾野治の枯れ枝を思わせる痩身には似合わない迫力と詰問じみた口調に、鋭い視線を向けられているハジメではなく、村上刑事のほうがびくりと身体を震わせる。
六〇七号室のドアをノックするときの、刑事としての自信に満ち溢れた姿はもう見る影もない。
尾野は明らかに村上刑事の苦手なタイプだった。
さぁっと色をなくした顔で立ち尽くす村上刑事に代わり、ハジメは自分でこの聞き込みについて説明する。
「あたしは金田一一。この特等客室で起きた事件の第一発見者で、警察の捜査に協力しているんです」
「ほう。いつから警察は民間人にそんなことまで協力を要請するようになったんだ?」
「さあ? 今日からですかね?」
そう言ってにっこり笑えば、相手の眉間のしわがさらに深まった。
連城が村上刑事に言ったという“態度”とはこういうことだろう。たしかにこちらに正当性がない以上、堂々とした態度で押し切るしかない。
しかし……いまの自分の言い方がどことなく高遠っぽかった気がしてちょっとげんなりしてしまう。あんな物騒で常識のない男に似るなんて御免である。
「まあ、いいだろう。――入りなさい」
なにが功を奏したのかわからないが、とりあえず部屋の前で追い返されるという事態は回避できたようだ。
尾野の背中を追って六〇七号室へと入る。
立て続けにデラックス・スウィートにお邪魔したあとだからか、通された特等客室のリビングルームはどこかこじんまりして見えた。
夏帆の部屋にあったのと同じようなソファセット。
尾野は一人掛け用のソファに座り、自分に続きリビングルームへと入ってきた二人にソファを勧めるでもなく、不愉快そうな面持ちでこちらを見据えた。
ハジメはそんな尾野の態度に臆することなく、彼とローテーブルを挟んだ対面のソファへと腰掛ける。村上刑事はしばらくハジメと尾野の顔を見比べていたが、結局「失礼します」と小さくつぶやいてからハジメの隣へと腰を下ろした。
「それでなにが聞きたい?」
「昨日の二十時から二十二時のあなたの行動」
簡潔な問いかけに、こちらも同じように答える。
あえて少し死亡推定時刻に幅を持たせた時間を聞いたのだが、あまり意味はなかった。
尾野は昨日はほぼ一日中部屋で執筆をしており、その時間帯も一人この六〇七号室にいたという。もちろん、それを証言できる第三者はいない。
「なにか、その時間帯に物音なんかを聞いたりはしなかったですか?」
「ほかの客室がどうかは知らないが、この特等の防音はなかなかのものだ。この船上での生活で物音に煩わされたことはほとんどない」
「二十二時頃の女性の悲鳴は聞こえました?」
「さすがにそれは聞こえた」
「六〇三号室の被害者との面識はありますか?」
「どうかな。廊下ですれ違うくらいはあったかもしれないが……個人として認識するほどの接触はない」
不愉快そうな表情こそ変わらないが、尾野はハジメの質問に素直に答えてくれる。
彼の話に気になる点はない。
政則や夏帆についても本人の言う通りほとんど認識してもおらず、それはほかの特等客室の乗客に対しても同じだった。尾野自身はこのオリエンタル号での船旅を執筆作業場所が変わったくらいにしか思っておらず、食事や気晴らし程度の外出しかしていないらしい。そういう意味では、彼の存在は架空の人物である中村一郎とさほど変わりがなかった。
「さて、君たちのお役に立つ話はできたかな?」
皮肉たっぷりな言い方にハジメは苦笑を漏らす。
これ以上尾野から聞き出せる情報はないだろう。ハジメの横で空気のように存在感を消している村上刑事に声をかけ退散しようとしたとき、ふと聞いておきたいことがあったのを思い出した。
「停電が起きたのって、二十二時で合ってます?」
「ああ。そのときパソコン画面の時刻を確認したから間違いない」
「五分くらいで直りました?」
「そうだ。この船に乗り込んでいる担当編集者に連絡して、乗務員に停電を解消させるよう伝えた。彼がミステリーナイトとやらの会場にいるのは知っていたからな」
偏屈な小説家は最後に愚痴っぽく、自身の担当編集者を「作家を文字を打ち出す機械だと思っている腐れ外道」と評した。
ハジメの頭に山下の福々しい笑顔が浮かぶ。
どうも、この作家と編集者はなかなか難しい関係のようだ。
特等客室の乗客から話を聞き終えたハジメと村上刑事は、四等客室がある二階へとやって来ていた。藤嶋とミステリーナイトに参加した女性たちから彼のアリバイの裏付けをとるためだ。
藤嶋がナンパしたふたりは同室に泊まる友人同士だったらしく、刑事とともに自分たちを訪ねてきたハジメを見ても「えー、なんか可愛い子が来たんだけど!」と明るいノリで部屋へと入れてくれた。
「うん、そーだよ。藤嶋さんには七階のプールでナンパされたんだよねー」
「イケメンだし、お金持ちだし、ナンパしてきたわりには全然ガッついてなくて、いい人だったよ」
「なんかえっちぃことしたいって感じじゃなくて、ただ誰かといたい的な?」
「そーそー。大人な男なのに可愛いじゃんって思った」
女子大生だというふたりは、こちらの質問に一から十どころかまったく関係がないことまで明け透けに話してくれた。まさにその勢いはマシンガントーク。ハジメも村上刑事も、盛り上がるふたりの会話に口を挟む間がない。
彼女たち曰く、藤嶋には昨日の昼過ぎにナンパされ、そこからはほとんど一緒に過ごしたのだそうだ。藤嶋と別れたのは事件が発覚したあとだというのも彼の主張と一致する。
「ミステリーナイトの間は、藤嶋さんはずっとお姉さんたちといたの?」
「うん。だいたい一緒だったよね」
「あー、でも、仕事がどうとかでちょっといない時間はあったかも」
「そんなことあったっけ?」
「あったじゃん。アンタ、高いワイン頼んでいいって言われて飛び跳ねてたじゃん」
「あー、あのときか。たしかに二十分くらいいなかったねー」
「それって何時頃か覚えてる?」
ふたりは互いに顔を見合わせ、いつだっけ?と首を傾げる。
話を聞くかぎりふたりともそれなりに酔っぱらっていたようなので、くわしいことはわからないかと思ったが、なんとミステリーナイトの様子をインスタにこまめに投稿していたらしく、その投稿記録から藤嶋が席を外していたのはおおよそ二十時三十分から二十時五十分の間だと判明した。
藤嶋の完璧なアリバイにできた二十分程度の空白。
それは、ハジメが殺人二十面相の入れ替わりを疑っている時間でもある。
「藤嶋さん、たぶんタバコ吸いに行ってたんだと思うよ」
「え?」
「えー!? 藤嶋さんってタバコの臭いなんてしてなくない?」
「でもさ、アタシらのとこに戻ってきたとき、肩とか袖とか濡れてたし。あの雨の中外に出るとかタバコくらいしか用事ないっしょ。喫煙所って六階にはないしさ」
六〇二号室は灰皿もなく、タバコの臭いもしなかった。オリエンタル号は船内禁煙なのでそれ自体は別におかしなことではない。しかし藤嶋が二時間程度のイベントの最中にもタバコを吸いに行くほどの愛煙家だったのなら、自分の部屋でまったく吸わないというのも少々不思議な話だった。
もしも服が雨に濡れていたという理由が、殺人二十面相との入れ替わりに関係しているとしたら……?
外は海だ。
都合のいいことに天候は雨。それも時間帯を考えるとかなり本降りになっていたはずだ。屋根があるとはいえ、デッキはそれなりに雨風が吹き込んでいたことだろう。
警戒するほどの人目があったとは思えない。
「なにか……証拠を捨てた?」
凶器の包丁は六〇四号室で発見されている。
人に見られるリスクが低いとはいえ、いったい藤嶋はなにを海へと捨てたのだろう。
「ねぇ、君たち。ほかになにか気づいたことあるかな?」
「えー?」
「てゆーか、藤嶋さんってなんか疑われてんの?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……アリバイの確認っていうか」
「ふーん。けーじさんって大変なんだね。ドラマみたい」
「ねぇねぇ、やっぱこんな事件があったらさ、もうこの旅行って中止になっちゃうの?」
「う、うん。たぶんそうなる、かな」
村上刑事の自信のなさそうな返事に女性たちから盛大なブーイングが起こる。
それは、決して自分のせいではない村上刑事が思わず「ごめんなさい!」と謝るほどの剣幕だった。
「壱岐島で泳ぐの楽しみにしてたのに~」
「藤嶋さんにシュノーケリング教えてもらう約束してたんですけど?」
「へ、へぇ。藤嶋さんってシュノーケリングとかするんだ。イケメンだもんね」
ご機嫌斜めになったふたりを宥めようと、村上刑事がどこかズレたあいづちを打つ。
「イケメンは関係なくない?」
「は、はは。でもイケメンってほら、スポーツ万能なイメージあるしさ」
「そーかな?」
「藤嶋さん、別にそこまで運動は得意じゃないって言ってたよ。なんか幼馴染の女の子に猛特訓を強要されて、泳ぎだけはそこそこ得意になったんだって」
「あー、言ってた言ってた! ナンパしといてほかの女の話すんなよって思ったんだよねー」
キャッキャッと笑う彼女たちの機嫌はもう元に戻っていた。
そのあとも少し過激な女子トークが続き、村上刑事のメンタルがガシガシと削られていく。ついには、彼女たちの話題の矛先が村上刑事のスーツのセンスにまで及んだところで、それは突如として鳴り出した。
リリリリン、リリリリン。
初期設定のままだと思しきスマホの着信音。
村上刑事は天の助けとばかりに光の速さでポケットから自分のスマホをとり出し叫んだ。
「はい! 村上です!!」
『うるさい。君のスマホにかけてるんだから、通話の相手が君なのは知ってるよ。そこに金田一さんはいるかい? あの子に代わってくれ』
「俺に電話かけといてそれ!? 前半のイヤミっていりました??」
村上刑事はしばらく文句を言っていたが、その漏れ聞こえてくる会話から察するに彼は上司にまったく相手にされていない。
岡警部補の顔色は窺うのに、村上刑事はその上にいるはずの連城には比較的遠慮のない物言いをする。剣持警部も上司である明智警視に対してときどき口を滑らせることはあったが……仲がいいというわけでもないだろうに、ここもここで不思議な関係だなと思った。
納得したのか、言い負かされたんか、少しして村上刑事は「はい、連城警部から」とハジメにスマホを差し出した。
『君に言われていた睡眠薬の件だが、結果が出たよ』
「早いですね」
『急がせたからね。――結論から言おうか。ビンゴだ。睡眠薬の空シートからは被害者の指紋しか検出されなかった。殺してから指紋をつけたような偽装の痕跡もない』
「じゃあ、政則さんのピルケースの中身も?」
『君の予想通りだ』
嬉しそうな、どこか興奮したような声。
連城にももうこの事件の全容が見えてきているのだろう。
『ミステリーナイトのタイムスケジュールも裏付けがとれた。君の指摘通り、殺人二十面相の入れ替わりが行われたと思われる時間は、二十時三十分から二十時五十分の二十分間だ。ただ、まだ誰が協力者なのかはわからない』
「機関士の波多野さんは?」
『そこが一番疑わしかったんだけどね。彼はその時間電源室の勤務にあたっていたから入れ替わりの協力をするのは無理だ』
「電源室……あの、二十二時に起きた特等客室エリアの停電の原因ってわかりましたか?」
『船員の操作ミスだと報告が上がってきたよ。……停電は波多野が意図的に起こした? だが停電が起きたのは二十二時だ。それだと入れ替わりのトリックに間に合わない』
違う。
あの停電の目的は、警察が考えるような六〇三号室へと侵入手段ではない。そんなことをしなくても犯人はあの部屋のドアを容易に開けることができたのだ。
停電も、なくなった救命ボートや六〇四号室に置かれていた凶器と同じ。
犯人に――いや、
「泰田……いえ、波多野春海さんの妹についてなにかわかりましたか?」
『ああ。俄かには信じがたかったんだが……君はいったい、いつこのことに気づいたんだい? 名探偵というのは千里眼でも持っているのかな』
「あたしは、名探偵なんかじゃありませんよ」
千里眼なんて持っていない。
いつだって無力で、なにかが起きてからでないと気づくこともできない。
次に彼女の前に立ったとき、ハジメは彼女のうそを暴くことになる。悲しみに囚われ、苦しみ続けたその先で、彼女が選んだものは間違っているのだと証明しなければならない。
悲しい顔で「ごめんね」とハジメに謝る彼女が、前を向いて幸せになるために。
『泰田夏帆は――波多野春海の妹だ』
そう、欠けていた最後のピースが埋まり、謎はすべて解けた。