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刑事に連れられてダイニングへとやって来た泰田夏帆は、集められたほかの面々を見ても顔色一つ変えなかった。それはあくまでも、ここに集められた人たちと自分は無関係だというスタンスなのか、あるいは追い詰められていることを認めまいという強がりなのか。
「金田一さん……?」
連城の横に立ったハジメと目が合ったとき、彼女は少しだけ不安そうな、戸惑ったような表情を浮かべた。彼女にとって、ハジメの存在だけがイレギュラーだとでもいうように。
「こんな時間に、そんな子どもまで呼んで……事件の捜査にしても、もう少し配慮とかないんですか? それに、犯人は六〇四号室の中村って人じゃなかったの?」
夏帆の疑問に答えたのはこの場の責任者でもある連城だった。
マイペースなエリート警部は美人から非難を多分に含んだ視線を向けられても、まるで道でも尋ねられたかのような調子でにこやかに微笑んでいる。
いっそ場違いなほど朗らかな連城の様子に夏帆はその視線を強めた。
「こんな時間にというお怒りはわかります。ほかにも僕の部下が不躾にも何度もお話をお伺いして、ご不快に思われた方もいるでしょう。申し訳ございません。ただ、これもすべて事件を解決するためだというのはご理解いただきたい。――もっとも、この事件を解決するのは我々警察ではなく、ここにいる名探偵のお孫さんですが」
「え……名探偵の孫?」
「おや、ご存知なかったんですか。この子はかの名探偵・金田一耕助のお孫さんなんですよ」
連城が出した“金田一耕助”の名に、あるものは純粋な驚きを見せ、あるものは隠し切れない不安をその顔に滲ませる。
ハジメを見る夏帆の瞳に初めて恐怖がよぎった。
自分と同じ第一発見者のハジメが、なぜ夏帆の隣ではなく、捜査する警察の側にいるのかがわかったのだろう。
小さく震える唇を噛みしめて、夏帆は憎しみすら感じさせる視線でハジメを射抜き、相対するように身体ごとこちらを向いた。それは、いまから『真相』を暴かれる彼女の本能がそうさせたのかもしれない。
「じゃあ、金田一さんがミステリーナイトのときみたいに事件を解いてくれるんだ。でも、犯人はその中村って人なんでしょ? なにを推理するの? 事件の動機とか?」
「事件の動機は、夏帆さんのほうがよく知ってるんじゃないですか」
「……どういう意味?」
「いいや、夏帆さんだけじゃない。ここに集められた人の大半は被害者・泰田政則さんを――“現代の青髭”と呼ばれた彼を知っていたはずだ」
今度は、夏帆は動揺しなかった。
さすがに警察にもそれくらいは調べがついていると思っていたのだろう。波多野洋二も、久木悠一も軽く目を伏せる程度の反応しか見せない。
「現代の青髭、聞いたことがあるな。たしか保険金目的で妻を三人ほど殺した疑いをかけられていたんだったか」
興味深そうに口を挟んだのは尾野治だった。
作家という職業柄か、彼は政則の過去に心当たりがあったらしい。自分の隣で不思議そうな顔をする山下昭夫に簡単な事件の概要を話してやっている。
「夏帆さんは、政則さんが殺された心当たりはないって言ってたよね」
「ええ。もちろん、あの人の元奥さんが三人とも亡くなってるのは知ってたわ。でもその原因はすべて事故。あの人はただ不幸にも立て続けに奥さんを亡くしただけでしょう。それが殺される理由になるの?」
「政則さんを殺した犯人は、それをただの事故死だとは考えなかった」
そこで言葉を切り、ハジメはダイニングへと集められた顔ぶれを見回した。
泰田夏帆。
波多野洋二。
久木悠一。
藤嶋俊介。
大友京一郎と美桜子の夫婦。
尾野治とその担当編集者の山下昭夫。
そして、刑事の伊達靖之。
この事件の本当の始まりはいったい何年前なのだろう。政則の最初の妻が死んだとき? それとも、伊達刑事が政則へと強い疑惑を抱いたときからなのか?
一見なんの関係もない顔をして並ぶ面々を繋ぐのは、殺された泰田政則その人だ。犯人は巧妙に自分たちの繋がりを隠し、困難を分担することでそれぞれに強固なアリバイを手に入れた。
ハジメはこれからその繋がりを暴かなくてはならない。
「犯人は中村一郎なんて架空の人物じゃない。真犯人は――この中にいる!」
◆
ハジメの宣言にその場の空気は凍りついていた。
数瞬、誰もが隣の人物の出方を窺うような奇妙な沈黙が続く。そんな彼らの視線のやりとりすらも見逃さないように、ハジメは注意深くその様子を観察した。
こちらが握っている証拠は実はそれほど多くない。
この事件の犯人はとても慎重で、物証となりえるようなものはたった二つしかなかった。それは犯人すら気づいていない、ちょっとした偶然が引き寄せたもの。
犯人を追い詰めるにはいささか弱いそれをいつ使うのか。
真相を暴くための道筋は、もうハジメのなかにある。
「架空の人物って……中村って人はちゃんと乗船してるんでしょう。そりゃ偽名かもしれないけど、まだ見つけられてないだけじゃないの?」
沈黙を破り、反論の口火を切ったのは夏帆だった。
「乗船受付をしたスタッフによると、中村一郎はこの真夏に少々暑苦しいスーツを着て、中折れ帽を目深にかぶり、顔を分厚い眼鏡とマスクで隠した人物だったそうだ」
「この船はそんなあからさまな不審者を乗せたのか」
「まあ豪華客船のバカンスには不似合いな人物だが、乗船を拒否するほどではないでしょう。眼鏡とマスクもわざわざはずしてくれと頼むには微妙なラインだ」
連城の説明に尾野が顔を顰める。
中村一郎を乗せたのはスタッフの怠慢だとはいえない。連城の指摘通り、犯人はあからさまなまでに怪しく、それでいて乗船拒否などのトラブルには発展しない人物像をあえて作っている。
「でも、乗船の手続きをしたということはその人物はいたってことではないんですか?」
自信なさげな波多野の問いかけを否定するものはいなかった。
皆の視線が説明を求めるようにハジメへと集中する。
「中村一郎のいた六〇四号室で被害者殺害に使われた凶器が見つかっています。でも、逆にいうと凶器しか見つかっていないんですよ」
「それのなにが変なの?」
「指紋や毛髪など自分へと繋がる証拠を残さないのは、慎重な人間ならばそれほどおかしなことではないだろう」
それだけで架空の人物というのは少し乱暴だ、と続けた尾野に何人かが同意するようにうなずいた。
「そうでしょうか? 六〇四号室の乗客を犯人だと仮定するなら、その人が被害者と同じ特等客室を選んだのは偶然じゃあない」
「殺害する機会を隣室で窺うためだろうね」
「ええ。そして、乗船してからの中村一郎の姿を他の乗客もスタッフも誰ひとりとして見ていない。つまり犯人は、被害者を殺害するまでの五日間をその部屋にこもっていたことになる」
「それがどうしたのよ。人を殺そうっていうんだから、姿を見られたくないのはフツーでしょ」
「あれ? おかしいと思いませんか、夏帆さん。中村一郎は五日間も部屋の中で生活していたはずなのに、そこには凶器以外のなにも残されていなかったんですよ?」
いつぞやの連城たちにもした説明を繰り返せば、皆がはっとした顔になる。
そもそも、指紋にしろ毛髪にしろ、それがすぐさま個人への特定に繋がるわけではない。もしも六〇四号室で凶器が発見されなかったら、中村一郎という人物が被疑者として捜査対象に上がったかすら怪しいのだ。
徹底的に自身の痕跡を消しながら、犯人である証拠ともいうべき凶器を置いていく理由など一つしかない。
「六〇四号室で見つかった凶器も、一艘だけなくなってる救命ボートも、中村一郎という架空の人物を犯人に仕立て上げるための偽装工作なんだ」
誰もがしばしハジメの推理に呆然としていた。
「理屈はわかった。しかし、停電を起こしたり、救命ボートを海に流すのはこの船にくわしくないと難しいだろう」
「えっ、先生、それってつまり……」
尾野の指摘に、山下が細い目を丸くして波多野へと視線を向ける。
釣られるように皆の目が自分を見ていることに気づき、波多野は蒼ざめた顔で首を振った。額に浮かんだ冷汗を拭うこともせず必死に弁明する。
「ち、違います。私は、この夜はずっと電源室で勤務していて……っ」
「そう。波多野さんに政則さんを殺すことはできません。――でも、停電を起こしたのはあなただ」
「 あれはちょっとした操作ミスなんです! そ、それに、なぜ私がわざと停電を起こさないといけないんですか!?」
波多野の反論には答えず、ハジメはゆっくりと全員の顔を見回した。
「偶然か、必然か……このオリエンタル号には、政則さんに恨みを持つ人間が複数いる」
そうですよね?と尋ねたハジメへのその人物たちの反応はそれぞれまったく違っていた。
一人目の妻の伯母である大友美桜子は失った相手を懐かしむかのような瞳で、「私はあの子の死は事故だと思っております」と静かに語った。
隣に立つ大友京一郎がそんな妻の手をぎゅっと握る。
それに励まされたのか、美桜子はこの船へと乗ることになった経緯について話してくれた。
「――ある日、手紙が届いたんです。その手紙には、この船に“青髭”が乗るとだけ書かれていました」
チケットも同封されており、美桜子はそれをどうするべきか悩んだ。
彼女はこれまで姪の死を事故だと思って過ごしてきた。その姪が死んだのも、もう十年以上前のことだ。今更そのことを蒸し返すのは気が進まなかった。
「でも、彼には……泰田政則さんにはもう一度会ってみたかった。咲桜が亡くなったあと、彼が奥さんをふたり亡くしたことは知っていましたから」
「会って、本当に事故だったのか問いただしたかったんですか?」
「いいえ。そんなことをしても、あの子が帰ってくるわけではありませんし……ただ、こんな風に呼び出される以上、なにかが起こるのかもしれないとは思っておりました」
殺されてしまうのなら声をかければよかった、と美桜子はつぶやくように言葉を続ける。
警察に経緯を正直に申し出なかったことを詫びる老夫婦に、最初に彼らの聞き込みをした岡警部補が渋い顔で口を開きかけたが、上司の「黙っていろ」というジェスチャーにぐっと言葉を呑み込んだ。
連城から証拠としてその手紙の提出を求められ、美桜子は肩の荷が下りたようなほっとした顔でうなずく。
「久木さんの妹さんは政則さんの二人目の奥さんですよね。そして、波多野さんの娘さんは政則さんの三人目の妻だ」
「ええ、そうです」
「…………」
ハジメの言葉をきっぱりと肯定した久木と、無言で目を伏せた波多野。傍目にはふたりはとても対称的だった。
久木からは夏帆とはまた違った覚悟のようなものを感じる。そして、波多野にあるのは罪悪感か、ある種の申し訳なさなのだろう。
彼らを繋ぐピースがなにかはわかっている。彼らが最後に守りたいものがなんなのかも。
すべてを暴いた先にある彼らの『真実』をハジメは受け止めなければならない。
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「自分が泰田政則を殺す動機を持っていることは認めます。実際、妹の死が事故だったとはいまも思っていません。妹はあの青髭に殺されたんです」
久木の言葉に、伊達刑事は苦しげにその顔を歪める。
警察が政則の罪を暴いていれば今回の事件は起こらなかった。そのことで誰よりも後悔しているのは、間違いなく青髭を追い続けていたこの老刑事だった。
「……だから、本当に殺しちまったのか」
「自分には犯行時刻のアリバイがあります。そこの波多野さんと同じように勤務中だったとお話したはずですが」
「そのからくりは、そこの嬢ちゃんが解いちまったよ」
伊達刑事の言葉とともにダイニングに置かれていたモニターへと二枚の写真が映し出される。いつき陽介がミステリーナイトで撮影した殺人二十面相の写真だ。
殺人二十面相を演じた久木本人も、ほかの人たちと同様不思議そうにその写真を見つめる。
「この写真をよく見てください。なにか気づくことはありませんか?」
「なにそれ、間違え探し?」
「ええ、そうです。この二枚の写真には決定的に違うところが一つだけある」
撮られたポーズも違えば、場面も違う二枚の写真。
間違え探しというには少々不親切だったが、見なければいけない場所は多くない。ハジメが答えを言わずとも、「マイクの位置?」というつぶやきはすぐに聞こえてきた。
「マイク?」
「そうですよ、先生。ほら、右の写真は襟にマイクがついてますけど、左の写真は胸ポケットですよ!」
「意外と目敏いな、君。だが、それがどうしたというんだ」
「え? えーっと、それは……なんなんでしょうかね?」
山下は困った顔でハジメに助けを求める。
この場でマイクの位置の違いがどんな意味を持っているのか理解しているのは、ハジメと刑事たちを除けば、たったふたりしかいない。
夏帆ですら、マイクの位置が違うからなに?という顔をしていた。ミステリーナイトでの彼女の頓珍漢な推理はフリではなかったのだ。そのことにハジメは内心ほっとする。
そう、決してすべてがうそだったわけではない。
「この二枚だけじゃわかりにくいかな」
いつきやほかのイベント参加者から提供されたいくつもの殺人二十面相の写真を、ハジメの言葉を受けて村上刑事がモニターへと映してくれる。手の空いている刑事たち総出で、写真が撮られた時間を特定して時系列で並べてくれたので、こうして見るとそれは一目瞭然だった。
「殺人二十面相がマイクを襟から胸ポケットにつけ替えているのは、だいたい二十時三十分から二十時五十分の間です。ねぇ、久木さん。どうしてこの時間だけマイクをつける場所を変えたんですか?」
「…………」
「答えられないなら、代わりにあたしが言いましょうか。それは――あなたがこの時間だけ、別の人物と入れ替わっていたからだ!」
久木は、ただ黙ってハジメと向き合っている。
彼は顔色を変えこそしなかったが、ハジメにはその姿が必死に動揺を押し殺しているように見えた。
「ま、待ってよ! マイクの位置だけでそんなことっ! それに、その人はずっとミステリーナイトで司会をしてたのよ。そんな二十分も別人と入れ替われるわけないじゃない!!」
「そうですよ、金田一さん。そこの久木さんは体格だけなら似た人はいるだろうけど、声や話し方まで同じ人を探すのはさすがに無理があるでしょう。それとも、ミステリによくある双子だとでも言うんですか?」
夏帆に続いて疑問をぶつけてきたのは山下だった。
ミステリーナイトのときも思ったが、山下は結構な推理マニアに違いない。イベントで出題された問題も答えを知っていたのではなく、ネタ出しの時点で山下自身が監修をしたのではないだろうか。
不動高校のミス研にもたしか似たタイプの部員がいた。
「ふむ。ミステリ的にいうならここで久木悠一が双子だと判明するのは“ノックスの十戒”違反じゃないかい?」
「え!? やっぱり双子なんですか!?」
「ちょっと、連城警部! ややこしくなるんで黙っててもらえますか」
余計なことを言う連城と、それに食いつく山下を慌てて止める。
ハジメを関係者に“名探偵の孫”と紹介したときから薄々感じてはいたが、このマイペース警部は捜査責任者のくせに傍観者を気取りすぎだ。
視界の端で「ごめんね」とこちらを拝む村上刑事が見えた。
「――ゴホン。久木さんは入れ替わっている間も、ちゃんと司会を務めていたんですよ」
マイクが胸ポケットについていた理由を考えればいい。
もしも入れ替わった相手が久木と同じ声を持っているのなら、マイクは胸ポケットにつける必要はなかった。
「胸ポケットに入れたスマホ越しに話していたんでしょう。久木さんがある人物と入れ替わったのは二十時三十分頃。それはミステリーナイトではちょうど二問目が出された時間帯だ。しなければいけない説明は決まっていて、イレギュラーは起こりにくい」
「でも問題の説明は二十分もなかっただろう? そのあとのシンキングタイムだって彼は普通に司会役をしてたじゃないか」
「ええ。雑談を交えたヒントを話しながら客席の間を歩いていましたね」
そう、殺人二十面相はヒントを口にしながら歩き回ることで、逆に参加者から質問されるリスクを減らしたのだ。黙って立っていれば、問題に頭を悩ませた参加者からヒントをくれとせがまれたかもしれない。だから先にヒントを伝えた。そして、もし仮に話している途中に参加者から声をかけられても、それを理由にほかのスタッフへと対応を振ることができる。
「あのとき殺人二十面相と
「…………」
「ちょっと待ってくれ。仮に君のいう入れ替わりの事実があったとしても、その彼はどうやって被害者の部屋に侵入したんだ? 犯人が二十一時に起きた停電を利用して部屋に入ったんだとすると、君の推理とは矛盾が生じるように思うんだが」
無言の久木に代わり、尾野が入れ替わりと停電の時間差を指摘してくる。
尾野が言うようにハジメの推理では一見そこの辻褄が合わないように感じられる。しかし、それこそが犯人の狙いだった。
「だから、停電を起こしたんでしょう?」
六〇三号室に入るための手段を
本来は起こさなくてもいい停電を起こすことで、警察に「犯人はなぜ停電を起こしたのか」を考えさせることそのものが、この停電の理由なのだ。
その役割は救命ボートや凶器と同じミスリード。
「わざわざ停電なんて起こさなくても、カードキーがあれば部屋には入れるんだ」
「金田一さん。忘れてるのかもしれないけど、六〇三号室のカードキーは二つしかないの。一つは殺されたあの人が持っていた。ミステリーナイトから帰って自分で部屋に入ったんだからこれは当然よね。そして、もう一つはもちろんあたしが持ってる。君の前であの部屋の鍵を開けて入ったでしょう?」
夏帆はどこか張りつけたようなぎこちない笑みを浮かべる。
彼女は気づいているだろうか。自分がこの場に来てから政則のことを「あの人」としか呼んでいないことに。指輪のあとだけが残るその左手の薬指に。
「犯人にカードキーが必要だったのは犯行時刻の間だけだ。その二十分程度だけ借りて、また返せばいい」
「借りるって、そんな……いったい誰から」
「それは――夏帆さん、あなただ」
動揺と怒りを隠し切れない彼女の瞳を見つめながら、ハジメは言葉を続ける。
「夏帆さん、あなたが言っていた亡くなったお姉さんっていうのは、政則さんの三人目の妻である泰田春海さんですよね。そして、夏帆さんはそこにいる波多野洋二さんの娘でもある」
「……そっか。調べたらそんなことまで簡単にわかっちゃうんだ」
夏帆はその事実をあっさりと認めた。
警察が捜査すればいずれは発覚することだと、初めから覚悟していたのかもしれない。それでも、夏帆がその軽い口調ほどには平気でないことは、かすかに震える彼女の唇から伝わってくる。
「あんた、復讐のために姉を殺した男と結婚したのか!?」
「なんの話? お姉ちゃんを大事に思っていたもの同士が、その喪失を慰め合ううちに愛し合ったって、別におかしなことじゃないでしょう」
口にした夏帆自身がきっと誰よりもその言葉を信じていない。そう思わせるような白々しい態度だった。政則へと愛を語る目はどこまでも冷め切っている。
「まあ、そうやって疑われるのは仕方ないわ。でもね、金田一さん。あたしはミステリーナイトの間ずっと君と一緒にいたんだよ。どうやってカードキーを誰かに渡すことができるっていうの?」
「ミステリーナイトで、あたしたちの席に資料を配りに来たのは殺人二十面相でしたよね」
「……そうだったかな」
最初に殺人二十面相が資料を配りに来たとき、通路側に座っていたハジメは資料を受けとろうと手を出した。
「あのとき、あたしたちには一人ひとり資料を手渡ししたのに、そのあとのグループからはひとりにまとめて渡していた」
「効率が悪いって気づいたんじゃない?」
「あたしもそう思いました。そのあともずっと同じ配り方をしてたから」
だが、本当に大事だったのは配り方ではない。
ハジメ、夏帆、政則へと配られた資料。三人の中で夏帆だけが違う行動をした。二部配られていたと言って、殺人二十面相へと資料を返したのだ。
「あの資料に自分のカードキーを挟んで返したんでしょう」
「…………」
「二度目に資料を配られたときは、夏帆さんがちょうどトイレから戻ってきた直後で、あたしと座る場所が入れ替わってた。だからあのときは夏帆さんが資料を受けとるだけでよかったんだ」
「たしかに、そうすればカードキーを受け渡すことは可能かもね。でも、あたしがそれをしたっていう証拠は? 殺人二十面相の入れ替わりだってそう。マイクの位置が違うからって、それが入れ替わっていた証拠にはならない。そうでしょう?」
夏帆は強気な姿勢を崩さなかった。
彼女はハジメが積み上げた状況証拠では、自分たちの犯行を決定づけるには至らないと知っているからだろう。
それならば、ハジメは彼女が知らない証拠を突きつけるしかない。
「夏帆さんは政則さんが睡眠薬を飲んでいたのを知ってました?」
「? 当たり前でしょう」
「殺された政則さんからは睡眠薬が検出されたそうです。変だと思いませんか。酔って疲れたと言って部屋に帰った人が、睡眠薬を飲むなんて」
「……さあ、そういうこともあるんじゃない。あの人、いつも薬を飲んでたから習慣で飲んじゃったのかも」
「じゃあ、政則さんのベッドの近くにあったっていう睡眠薬の空シートはあの日彼が飲んだもので間違いないんですね」
「ええ、そうよ。いつもはちゃんと自分でゴミ箱に捨ててるはずだけど、やっぱり酔ってたのね。そのままにしてるなんて」
ハジメの意図がわからないのか、夏帆は不思議そうな顔をしながらもそう断言した。
彼女はいま自分が犯したミスに気づいていない。
隣から小さな声で「お見事」という連城の称賛が聞こえて、ハジメは沸き上がったその苦い気持ちを押し殺すかのように一度強く目を閉じた。
一瞬だけ弱さに揺れた己の心を立て直す。
再び目を開けたハジメは、高遠が“平行線”と呼ぶ――名探偵の顔になっていた。
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「夏帆さん、あの睡眠薬を政則さんが飲んだっていうのはありえないんだ」
「え?」
「あの日の午前中、あたしは偶然このダイニングで政則さんと会って一緒に食事をしたんです。そのときちょっとしたアクシデントがあって、政則さんの持ってたピルケースの中身が床に散らばった」
ハジメの話がどこにつながるのかわからないのだろう。
夏帆は訝しげな顔をしながらもこちらを見つめるだけで、その話を遮ろうとはしなかった。
「その薬を拾ったのはあたしです。睡眠薬が二種類と降圧薬が一種類。政則さんは九錠あった頓服の睡眠薬を、船での生活が思ったよりも快適で使わずにすんでるって教えてくれました」
「頓服まで飲んでたからおかしいって言いたいの? そんなの、お酒のせいで間違えたのかもしれないじゃない」
「違いますよ。殺害現場にあった薬の空シートに
もしも本当に政則自身が睡眠薬を飲んだのなら、その薬のシートにはその日の午前中にそれを拾ったハジメの指紋もついているはずだ。しかし、警察の調べでは空シートからは政則の指紋しか検出されていない。
「あのときあたしが拾った薬の数は五錠・六錠・九錠だった。そして、事件後の政則さんのピルケースのなかに入っていた薬の数は……五錠・五錠・九錠。減っていたのは降圧薬だけだ」
なら、殺害現場にあった薬はどこから出てきたのか。
政則のピルケースに残っていた薬からはハジメの指紋も検出されている。
睡眠薬の数が減っていないピルケースの中身。政則の指紋しかついていない空シート。その二つから導き出される答えは一つしかない。
「政則さんが飲んでる薬を知らべて、同じものを手に入れることはほかの人にも可能かもしれません。でも、政則さんの指紋がついたそれをこの船に持ち込めるのは、彼の妻であるあなただけなんですよ、夏帆さん」
夏帆はその顔を蒼褪めさせたまま、その場に立ち尽くしている。
思いもしないところから出された証拠に彼女が動揺しているのは明らかだった。
「被害者が持ってきていた薬が、君が拾ったものだけとは限らないんじゃないのか」
久木は自分で言いながらも、その反論が些か苦しいものだとわかっているのか、ハジメへと向ける視線にいままでのような意志の強さは感じられない。
「ええっと、つまりどういうことなんですか? 被害者の妻である夏帆さんと、そちらにいる久木さんが共謀して事件を起こしたっていう認識であってます?」
「いや、待て。その久木と入れ替わっていた人物もいるのだろう。それに、停電を起こしたのはそこの機関士だ」
山下と尾野は互いに疑問を整理するように口に出し合い、答えを求めてハジメを見た。
「この事件には四人の人間が関わっているんですよ」
入れ替わりトリックを用いて政則を殺害したのは久木悠一だ。
泰田夏帆は自分たちの部屋のカードキーを久木へと秘密裏に渡し、彼が犯行を行いやすいように夫へと睡眠薬――たぶんミステリーナイトの前の食事のときだ――を盛った。そして政則をこの船旅へと誘い出したのも彼女だろう。
波多野洋二はミスリードのための停電を起こし、事件の前に救命ボートを海へと流した。
「そして――藤嶋俊介さん。四人目の共犯者はあなただ」
これまで一言もしゃべらなかった男はただ困ったような顔で笑う。
「僕は被害者の泰田政則さんって人をほとんど知らないんだけど。僕がそこの三人に協力する理由なんてないと思うよ」
「そこは僕も知りたいね。君はこの藤嶋さんが、久木さんとの入れ替わりトリックの協力者だと考えているんだろう。それはなぜだい?」
「えっ、連城警部は真相を全部聞いたんじゃないんですか!?」
「いいや。先に全部聞いてしまうと謎解きのときの楽しみがなくなるかと思って、そこは遠慮しておいたんだ」
詳細を聞いてこないと思ったら、そんな理由だったのか。
どうにもこのエリート警部は事件に対する真剣みが足りない気がする。彼のどこかふざけた物言いが本心からのものなのか、あるいは一種のジョークなのか、付き合いの短いハジメにはまだ判断できなかった。
「たしかに、あたしは藤嶋さんが入れ替わりトリックに協力してると考えています。でもその根拠について話す前に、一つ聞いてもいいですか――久木さん」
「……なんでしょう」
「ミステリーナイトで二問目のシンキングタイムのとき、あたしとぶつかったのを覚えてますか?」
「…………」
「答えられない? あたしが鎌をかけてるのかもしれないって警戒してますか?」
ある意味その態度こそが答えである。
しかしハジメはあえてそこを指摘せず、もう一度別のこと問いかけた。
「久木さんのその格好って、殺人二十面相のときのものですよね」
「ええ。さすがにマントとマスクははずしましたが、事件の聴取などで着替えるひまがありませんでしたから」
「なら、ちゃんとそこについてるはずですよ。あたしとぶつかった証拠が」
ハジメの視線の先。
久木の黒いスラックスはもう濡れてはいない。ハジメが殺人二十面相にデトックスウォーターをかけてしまったのは六時間以上前のことだ。仮にあのときの殺人二十面相が久木だとしても、そんなものはとっくに乾いてしまっているだろう。
もしもハジメが手に持っていたのがただの水だったなら、きっとそれはなんの証拠にもならなかった。
「あのデトックスウォーターには苺やタイム、ミント、そして食用の薔薇が入っていた」
乾いてしまったとしても、そこに含まれていた成分を検出することは充分に可能だ。
「さあ答えてください、久木さん。あたしがデトックスウォーターをかけちゃったのは、あなたのどっちの足でしたか?」
「……あーあ」
問いかけられた久木ではなく、藤嶋のほうが完敗だと言わんばかりに両手をあげる。
久木はどちらの足だとも答えられない。二択で正解を答えたところで、調べられればそこになにも付着していないことがわかってしまうから。
「ねぇ、僕も一応アリバイがあったんだけど。そんなに怪しかった?」
「藤嶋さんがナンパした女性たちが教えてくれましたよ。二十時三十分から二十時五十分の二十分間姿が見えなかったって。ミステリーナイトの様子をインスタにこまめに投稿してたので物証もあります」
「結構酔ってたから、適当に証言してくれると思ったんだけどなぁ」
「海になにを捨てたのか聞いてもいいですか?」
「そんなことまでわかっちゃうの? 君はもうある程度予想がついているんだろう。久木さんが犯行のときに身に着けていた手袋とマントだよ。万が一、血痕でもついていたらことだから、僕が着ていたのと入れ替えてそっちを海に捨てたんだ」
自分たちの罪を暴いたハジメと軽いノリで話す藤嶋に一同はポカンとした表情を浮かべる。
「僕の左足首がかぶれたのは薔薇のせいか」
「あっ、それはホントにすみません。わざとじゃないんです」
藤嶋の言葉に慌てて謝罪した。
彼から感じた甘い香り。かぶれたという左足首。それはハジメの中の藤嶋を入れ替わりトリックの協力者だとする推理の補強にはなっていたが、決して狙ってやったことではない。
「かぶれたって……ちゃんと薬は塗ったの?」
そんなハジメと藤嶋のやりとりに、黙っていた夏帆がぽつりとつぶやいた。
蒼褪めていたその顔色は少しもとに戻っている。
「あー、ムヒは塗ったよ」
「はあ? アレルギーの皮膚症状にムヒ塗ってどうすんのよ。あれは虫刺されとかのやつでしょ」
「いや、ちゃんと効能にかぶれとか蕁麻疹って載ってるから」
そのあともポンポンと言い合うふたりは、ハジメの目にはたしかな絆を持った幼馴染――あるいは互いを思い合う恋人同士に見えた。
藤嶋と話す夏帆は憑き物が落ちたように明るい顔をしている。
「ねぇ、金田一さん。なんで俊介があたしたちの共犯者だってわかったの?」
自分たちのつながりはどうやっても隠し切れない。それでも、たとえ警察がどれほど調べようと藤嶋との関係まではわかりっこないと思っていたのに、と夏帆は不思議そうに問いかけてくる。
「藤嶋さんが……プールサイドで夏帆さんとすれ違ったときに無視したのが気になったんです。夏帆さんのこと知ってるはずなのに、お互い見えてもいないみたいに無視したのはなぜだろうって」
知っているのに知らないフリをするその理由を考えたとき、ハジメが導き出した答えは一つだった。
過去と現在を繋ぐピースを握っていたのは夏帆だ。
そして、藤嶋は夏帆とだけつながりがあった。
藤嶋の存在に気づけなければ、久木のミステリーナイトでの入れ替わりは証明できない。ハジメがこの事件にあとから関わった第三者なら、真相には辿り着かなかったかもしれない。
「あーあ、ツイてない。よりにもよってこんな名探偵さんをアリバイの証人に選んじゃうなんてね。こんなことなら……自分の手で殺すんだった」
夏帆が何気ないように口にした言葉の重さに、ハジメはなにも言えなくなる。
そう、彼女は三人の人間と共謀して自分の夫を殺したのだ。いや……それ以前に、彼女は姉の復讐のために仇である男の妻になって二年もの時間を過ごしていた。
それはいったいどんな覚悟で、どんな憎悪なのだろう。
言葉を失ったハジメに優しく微笑みかけながら、夏帆は「聞いてくれる?」と自らの過去を話し始めた。
◆
両親が離婚して、あたしは母親に引きとられた。
お母さんはお姉ちゃんも一緒に引きとるつもりだったけど、お姉ちゃんが自分から「お父さんが心配だから」って断ったの。
あたしは大好きなお姉ちゃんと離れ離れになるのが嫌で、かなりごねたんだけど……結局たかが十二歳の子どもにはどうしようもなかった。
離婚してすぐ、お母さんは仕事の都合でアメリカに行くことになった。もちろん、あたしも連れていかれたわ。最初は外国なんて嫌だって思ってたけど、行ってみるとあたしには合ってたのね。毎日すごく楽しかった。
日本とアメリカで、お姉ちゃんとは全然会えなくなっちゃったけど、メールとか電話はこまめにしてたのよ。あたしが二十歳になったら一緒にお酒を飲もうって約束したのもたしかこの頃だった。
でも、この約束が果たされることはなかった。
お姉ちゃんが死んじゃったからじゃないの。
本当は、最初に約束を破ったのはあたし。お姉ちゃんは「成人式は日本に帰ってきてお祝いしよう」って言ってくれたのに、そのときは大学とか友達とかバイトとかほかに楽しいことがいっぱいあって……わざわざ日本に戻る気なんておきなかった。「お姉ちゃんがこっちに来てよ」って我儘言うあたしに、「じゃあ、休みがとれるように頑張るね」なんて応えてくれる優しい人だったのに。
どうして、あたしはあのとき会いに行かなかったんだろう。
それから少ししてだった。
お姉ちゃんから結婚したい人ができたって聞いたのは。
あたしは最初からその結婚には反対だったの。別にあの男の所業を知ってたわけじゃない。ただお姉ちゃんより一回りも年上で、亡くなってるとはいえふたりも奥さんがいたなんて、そんな男絶対にお姉ちゃんに相応しくないって思ってたんだ。
でも、お姉ちゃんの意志は固かった。
あたしがいくら反対しても「会ったらきっと夏帆も政則さんの良さがわかるよ」なんて言って……結局あの男と結婚しちゃった。
めちゃくちゃ反対した手前あたしも意地になっちゃって、結婚式にも出なかったし、一度も会いに行かなかった。
そんな結婚からわずか十か月後。
お姉ちゃんは事故で死んじゃった。お父さんからその電話をもらったとき、ただただ頭が真っ白になって……どうして、ってずっと考えてた。
世界から音が消えて、味とかなーんにも感じなくなって、あたしの体重が四十キロを切っちゃった頃。俊介が訪ねてきたの。
お姉ちゃんはあの男に殺されたのかもしれないって教えてくれた。
あのとき、俊介はちょっとでもいいから、あたしに生きる希望みたいなものを持ってほしかったんだってわかってる。
実際初めからあの男に復讐しようと思ってたわけじゃない。
あたしは自分の体調を整えて、まずは日本に戻った。あの男が一部で『現代の青髭』なんて呼ばれて、お姉ちゃんを含めた三人の妻の保険金で億単位のお金を手に入れたこともそこで知ったわ。
でも、あの男が本当に妻を殺しているのかはわからなかった。
当たり前よね。警察が調べてもわからなかったことが、ただの素人にわかるわけない。
だから――あの男に近づいたの。
あたしはあの男と直接の面識はなかったけど、お姉ちゃんは自分の部屋に家族写真とか飾るタイプだったし、もしかしたらあの男はあたしの顔を知ってるかもしれない。そう思って整形までした。
身内のいない女として近づけば、あの男はちょっとずつあたしを口説くようになった。
変な話だけど、人を殺しそうな人間には見えなかった。
自分のしていることに意味なんてないんじゃないかって思ったりもしたけど、あたしはどうしてもお姉ちゃんの死の真相が知りたくて、結局はあの男と結婚したの。
最初にあれ?って思ったのは、ヒールが折れやすくなったことだった。
駅の階段でピンヒールが折れて、危うく転げ落ちるところだった。そのときは買ったばかりだったのに変だなとしか思わなかったわ。でも、そんなことが短期間で二度、三度と続いたの。
次に違和感を覚えたのはお風呂場の洗剤だった。
買い物はあたしがするから、最初は自分が間違えたんだと思ってた。塩素タイプと酸性タイプを一緒に買っちゃったんだって。
スキーもスノーボードも、サーフィンもシュノーケリングも、行く先々で機材トラブルとか、天候のトラブルに巻き込まれやすくなった。大怪我をしそうになったのも一度や二度じゃない。
結婚して一年も経つ頃には気づいたわ。
ああ、お姉ちゃんはこうやって殺されたんだ……って。
◆
夏帆のその長い長い独白を聞いた面々は、誰一人として言葉を発することができなかった。
現代の青髭と呼ばれた泰田政則は、いくらかの偶然性に頼るものの、決して罪にはならない方法で狙った相手の死ぬ確率を高める――いわゆる『プロバビリティの犯罪』を企てて己の妻を殺していた。
これは相手を殺すという確実性には乏しいが、犯行がバレることはなく、あるいはバレてもその罪を立証しようがない完全犯罪。
「たいして法律にくわしくないあたしでも、あの男の罪を立証するのが難しいのはわかったわ。たとえ警察に訴えてもどうにもならないって」
だから殺してやったの。
夏帆が続けなかった言葉がそれであることは明白だった。
彼女はもうなにも言うことはないとばかりに晴れやかな顔で笑い、近づいてきた岡警部補にその両手を差し出す。
ガシャン、と手錠の掛かる重々しい音が辺りに響いた。
藤嶋も、久木も、波多野も、同じようにその拘束を受け入れる。
刑事に促されてダイニングを出ていく夏帆の背中はぴんと伸びている。後悔など一つもないようなその背中を見てハジメが思い出したのは「ごめんね」と苦しげに謝る彼女の顔だった。
やっぱりこんなのは間違っている。
復讐を果たして、人を殺して、よかったなんて夏帆に笑ってほしくない。
「夏帆さん! ……約束、覚えてますから!」
気づいたらそう叫んでいた。
ミステリーナイトでハジメと夏帆が交わした約束。
あのときの言葉はうそじゃない。夏帆は自分たちの罪を暴いたハジメなどとは、もう関わりたくもないかもしれないけれど。
知っていてほしかった。
彼女はたしかに罪を犯してしまったけれど、それを償って、これから先幸せに生きていく未来があるのだと。やり直して、幸せになってほしいと願っているのだと。
夏帆はハジメの声に泣きそうな顔で振り返り、震える唇を小さく嚙みしめて……なにも言わずに刑事たちに連れられていった。
雨はもうほとんどやんでいた。
いつの間にか日の出の時間も過ぎている。ダイニングの窓から見える外はずいぶんと明るくなっていた。薄くなった雨雲の隙間から太陽の光が漏れ、光線の柱が放射状に海面へと降り注いでいる。
そのどこか神秘的な光景に、ハジメは亡くなった政則とその三人の妻たちの冥福をひとり静かに祈った。