27
一連の出来事に疲れたような顔でダイニングのソファへと座り込み、大友美桜子は誰にいうでもなくつぶやいた。
「咲桜は……殺されたんでしょうか」
老婦人の身体はこの場所に集められたときから一回り小さくなったように感じる。徹夜だという状況を差し引いても、彼女の顔に滲む疲労の色は濃い。
そんな美桜子を夫は労わるようにそっと抱きしめた。
老婦人にとって姪の咲桜はとても大切な存在だったのだろう。
夏帆の話を聞き、彼女の中にやり場のない怒りと苦しみが渦巻いているのがわかる。
「夏帆さんが言っていたのは彼女の中の真実であって、政則さんが本当に三人の妻を殺していたのかはいまとなってはもうわかりません。……だから、別にあなたが政則さんを恨む必要はないと思いますよ」
ハジメは美桜子の疑問への答えを持っていない。
現代の青髭はもう死んでしまった。政則は釈明する機会すら与えられずにその命を奪われ、彼が犯したかもしれない罪が暴かれる日は二度と来ない。
政則はたしかに怪しかった。彼の過去にはやはりなにかしらの後ろ暗いところがあるのかもしれない。それでも、真相がわからない以上、なにを真実とするのかは残された人たちが決めたらいいと思う。
自分にとって優しい真実を選んだとしても、きっと美桜子の姪は怒らない。
「幸せな結婚をしたけど、不幸にも事故に遭ってしまった……いままでそう思ってきたんなら、それが真実なんですよ」
「あの子は、幸せだったと思う?」
「少なくとも、こんなにも自分のことを思ってくれている伯母さんがいたら、あたしは嬉しいですね」
「……ありがとう」
こちらを見て小さく微笑む顔には初めて会ったときと同じ温かさがあった。
美桜子の様子にハジメもほっと表情を緩める。
老夫婦は手紙の件でまだ事情聴取が必要だったが、連城から一度部屋へと戻り休むよう言われ、ふたり寄り添いあいながらダイニングを出ていった。
「私も部屋に戻ろう。少し休む」
「ええ、そうしてください。先生、もう執筆も佳境でしょう? 残りは帰りの新幹線か飛行機の中ででも……」
「そのことだが、ホラーはやめだ。一から書き直す」
もう用はないと言わんばかりの態度でこちらへと背を向け、尾野は挨拶もなく部屋へと去っていく。そのせかせかとした速足からは彼がもう一秒も無駄にしたくないと思っているのが如実に伝わってきた。
山下はそんな尾野の発言に「ええっ!?」と驚きの声をあげながらその背中を追いかける。
「ど、どういうことですか!? もうすぐ書き終わるんじゃなかったんですか!?」
「締め切りはそのままでいい。これからすぐに執筆を始めるからホテルを押さえてくれ。推理小説を書こうと思う。そうだな、タイトルは――」
ダイニングの扉が閉まる音とともにその声は途絶えた。
ただ分厚い扉越しにも山下が担当作家になにかを言い募っているのはかすかに漏れ聞こえてくる。担当作家の偏屈さに悩まされているという彼の話は本当だったようだ。
どこかコミカルにも感じる作家と編集者のやりとりから視線を戻せば、こちらを見ていたらしいエリート警部と目が合った。
「あの金田一耕助の孫に相応しい、素晴らしい推理劇だったね」
上司に同意するように、連城の隣にいた村上刑事がうんうんとうなずく。
「君はあの泰田夏帆を初めから疑っていたようだが、被害者との関係性を知っていたわけではないんだろう? 第一発見者を疑うのはセオリーといえばセオリーだが、なにか理由があったのかな」
「夏帆さんが政則さんの遺体を見つけて悲鳴をあげるまでに時間があったんです。そして、あたしが彼女の悲鳴を聞いて寝室に入ったとき、夏帆さんはベッドの右側に立ってた」
「ふむ。わざわざ回り込んでいたわけか。しかし、なんのために?」
「たぶんですけど、政則さんがなにかダイイング・メッセージを残していないか確認したんじゃないかな。いくら睡眠薬を盛ったとはいえ、手足を拘束していなかったんだし」
不安だったのだろう。
もし政則が今際の際に結婚指輪でも握り込んでいれば、完璧なアリバイがあったとしてもそこから自分に疑いがかかる可能性がある。
この事件の要は、如何に自分たちの関係を隠し通し、中村一郎という人物をスケープゴートへと仕立てることができるかにかかっていた。
「そう、そこも不思議だったんだ。なぜ、肺を刺すなんて回りくどい殺害方法を選んだのかな? 強い恨みがあったとしても、ほかにいくらでも痛めつける方法はあるだろう?」
「夏帆さんが第一発見者になるのはあらかじめ決まっていた。おそらくはその発見時刻も。死体の発見が早ければ早いほど、生前の被害者の行動と死体の状態から死亡推定時刻は限定される」
「なるほど。停電より先に死んだことが発覚するのがまずい、と」
悪魔の証明という言葉がある。
ハジメは夏帆たちに「中村一郎はいない」と言い切ったが、それを本当に証明することは容易ではない。
部屋に痕跡がないのは犯人が完璧に消し去ったからだ。終始手袋をつけ、体毛をすべて剃り落とし、夜は寝袋で眠った。排泄はオムツなどで行い、都度窓から海へと捨てた。そう言われたら、反論するのは難しかった。
そこまで徹底して痕跡を消す合理的な理由がないと訴えたところで、犯人がそれをしなかった証拠にはならないからだ。
夏帆たちの繋がりを立証できず、彼女たちの偽装工作の証拠がなければ、警察は中村一郎を探さざるを得なかっただろう。
「警察は君に感謝状の一つでも送るべきだな」
「そんなのいりませんよ。あと、あたしが関わったっていうのは……」
「わかっているとも。約束通り、君はただの死体発見者のひとりとして扱うよ」
連城のこういう物分かりの良さは助かる。
ハジメが事件に関わるのはここまでだ。名探偵の孫が事件を解決したと面白おかしく書き立てられるのも嫌だが、自分が関わったことで被害者や加害者に不必要な世間の耳目が集まることはなによりも避けたかった。
「勿体ないなぁ。せっかくの活躍なのに」
「おや、村上は素人を関わらせたと岡のクビを飛ばしたかったのかい? そんなに岡を嫌っていたとは知らなかったよ」
「ちょ、そんなこと言ってないでしょ!?」
「岡のクビはどうでもいいけど、今回は僕が責任者だから諦めてくれるかな」
「自分が岡警部補のことを嫌ってる前提で話を進めないでください!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ村上刑事を適当にあしらいながら連城はちらりとハジメに目配せする。その目は「もう行ってもいい」と言っていた。
マイペースなようで意外と人をよく見ている。
年若い刑事は自身が目にした名探偵の活躍について話したいことが山ほどあるらしく、岡警部補たちが被疑者たちを連行したあとからずっとキラキラした瞳でハジメを見ていた。
このままここにいれば、村上刑事に質問攻めにされることは想像に難くない。
彼の上司が注意を引き付けてくれている間に、ハジメはこっそりとダイニングをあとにした。
◆
部屋へと戻れば、ハジメの同行者は優雅にティータイムを楽しんでいた。
リビングスペースに置かれたローテーブルの上にはわざわざルームサービスで頼んだのか、ティーポットや二人分のカップ、フルーツやサンドウィッチが盛られた大きめな皿まである。
まだ湯気の立っているカップを前に、高遠はゆっくりと本のページをめくった。
「酷い顔色ですね」
男は読んでいる本から視線もあげずにハジメを嘲笑う。
「こっちは誰かさんと違って徹夜なんでね」
「そういうことにしておきましょうか」
「どういう意味だよ?」
高遠の前の椅子へとドカリと腰を下ろせば、ようやく男は持っていた本を閉じてこちらを見た。特等客室エリアで会ったときの不機嫌さはもうない。いや、もう読みとらせないといったほうが正しいのか。
逆にこちらを見透かすようなその視線に、ハジメは居心地の悪さを感じて小さく身動ぎする。
「事件を止められたかも、などただの君の思い上がりですよ」
「…………」
「整形までして復讐相手と結婚する女性を止める言葉などあるわけがない。ああ、それとも……」
すっとテーブル越しに伸びてきた指がハジメの首にかかる。
自分の体温よりも少し冷たいその指に身を震わせるよりも早く、そのまま首を絞められ「グゥッ」とハジメの口から苦しげな息が漏れた。
「三回目にチャレンジしてみますか?」
首にかかった手には呼吸を邪魔しても、息を止めるほどの力は込められていない。しかしハジメが少しでも躊躇えば、この男は容赦なくこちらの首をへし折るだろう。
どういう意図かはわからないが高遠は本気だ。
形だけの笑顔を浮かべる男を睨み据えて、ハジメは無理やり口の端を引き上げた。
「そんなの意味ないだろ。いまの夏帆さんがいなくなるわけじゃない。罪を償う以外に、やり直しなんてできねぇんだよ」
高遠が指摘したのはハジメの弱さだ。
夏帆たちが殺人を犯す前になにかできたのではないかとどうしても考えてしまう。違和感はあった。それを口に出して彼女に伝えていれば、そんな状況で犯行には踏み切らなかったのではないかという後悔もある。
それでも、高遠のいう『三回目』なんてものには意味がないとハジメは言い切れた。
仮定の話をしても仕方がない。もう事件は起こってしまったのだ。あとは彼女たちが自分の罪と向き合い、償うことでしか先へは進めない。いままでハジメが出会った犯人たちと同じように。
こちらの言葉を肯定も否定もせず、高遠はぱっとその手を離した。
先ほどまでの不穏な雰囲気などなかったかのように自分のカップに口をつける男は、ゴホゴホと咳き込むハジメをどこか楽しげに見つめている。
そんな相手に文句の一つや二つ言ってやりたくなったが、事件のあとからずっと自分の中にあった重石のような感情が少しだけ軽くなっているのに気づき、なんともいえない気持ちになる。
「あんたってさ――」
そのつぶやきが聞こえなかったらしい慰め方が不器用な男が、怪訝そうな顔で「なんです?」と聞き返しくるのを無視して、ハジメは自分のために用意されているサンドウィッチを頬張った。
28
不動山駅から徒歩十五分ほどのところにマジックバー『Jack‐in‐the‐box』はある。
びっくり箱と名付けられたその店は、十にも満たないカウンター席とボックス席が三つというこんじんまりした造りで、照明が絞られ薄暗い店内をカウンターに置かれたキャンドルの炎がおしゃれに彩っていた。
開店からまだ一時間も経っていないが、カウンター席はすでに半分ほど埋まっている。
マスターが出す酒とツマミを楽しみに訪れていた客たちは、自分のグラスが空になっていることも忘れ、誰もがその少女が生み出す魔法に見蕩れていた。
自分とは違う、子ども特有の丸みを残したハジメの指が鮮やかな手付きでトランプを切り交ぜるのを眺め、高遠が思い出すのはオリエンタル号での夜のことだ。
ハジメとふたりでしたトランプゲーム。
決して手を抜いていたわけでも、油断していたわけでもない。
それなのに、高遠はハジメが得意げな顔で自分のカードを捲って見せるまで、彼女のイカサマに気がつかなかった。ハジメがしたのはちょっとしたカードのすり替えだ。パームと呼ばれるマジックのテクニックの一つ。ただそれを自分にまったく気づかせずやってのけた少女に、高遠は素直に驚嘆した。もちろん、いいように欺かれた悔しさや腹立たしさはある。だがそれ以上に、目の前が開かれるような感動を覚えてもいた。
まるで初めてマジックを見たときのような純粋な驚き。
天才マジシャン・近宮玲子であっても、いまの高遠遙一をあれほどまでにうまく欺くことはできないだろう。
そのあと同じイカサマで少女をコテンパンに負かしたのは意趣返しというより、高遠のイカサマが見抜けないと悔しげな顔をするハジメが思いのほか可愛らしかったからだ。
あの顔を見れただけでも、わざわざオリエンタル号へと乗り込んだ甲斐はあった。
そう思う反面、別の手段で沈没事故を回避すればよかったとも思ってしまう。
船内で起きた殺人事件。それに巻き込まれたハジメが謎を解くこと自体は名探偵の宿命ともいうべきもので、いつもなら彼女の推理を、その裏にある苦悩を楽しむことができた。
事件のたびに傷つく少女は変わらず美しい。
だが、それだけでは満足できないのだと今回の件で思い知らされた。ほかの人間が起こした事件などではなく、高遠の用意した最高の舞台で平行線として金田一一と相対したい。その瞳が怒りに燃えるのも、苦しみに歪むのも、悲しみに曇るのも……すべて、高遠遙一の手によってなされるべきなのだ。
――あんたってさ、慰め方は不器用だよな。
ふいに脳裏に浮かんだのは、ハジメが落とした小さなつぶやきだった。
少しだけ気恥ずかしげに零されたその言葉が、自分の中のなにかを変えてしまいそうで、高遠はあえて聞こえないフリで誤魔化した。
「私が……君を慰めたいだなんて、思うわけがないでしょう?」
あのとき口に出さなかった言葉。それは正しく高遠の本心でもあった。
ハジメが傷ついているなら、より深くその傷を抉り、そこに自分を刻みつけたい。もしも彼女が泣いているのなら、高遠はその涙の理由を自分に変えてしまいたい。
だから、高遠がハジメを慰める、なんてことは起こるはずがないのだ。
十日間の予定であった旅程を四日残して帰ってきた少女を、このマジックバーへと連れてきたのもただの気まぐれでしかない。
高遠のショーが見たいと言った子どもは、自分がその前座をさせられることにひどく不満げな顔をしていたが、いまはいつもとは違う澄ました顔に内心の緊張を隠し、客たちへとそのマジックを披露している。
「あの子、いい腕してるわ。さすがは君の弟子ってところかしら」
客とともに少女のマジックに見入っていた高遠は、惰性で磨いていたグラスを棚に戻し、声の主へと視線を向けた。
「彼女は別に僕の弟子ではありませんよ」
「噓おっしゃい。カードを切る手付きなんて君にそっくりじゃない」
マジックバー『Jack‐in‐the‐box』のオーナー兼マスターである
千景のマジックを見る目は高遠も信用している。
そんな彼女が言うのだから、たしかにハジメのマジックは高遠のものと似ているのかもしれない。
「ダブルリフトも、フォールスカットも僕が教えたわけじゃない」
ハジメはもともと器用だし、祖父からマジックの基礎は仕込まれていた。
高遠がハジメに教えたことなどそれほど多くはなく、もし似ている部分があるのだとしても、それは少女が勝手に見て覚えたのだろう。
「ふーん」
「なんですか?」
「じゃあ、あの子はよっぽど君のことをよく見てるのね。細かな癖がうつっちゃうくらい」
その言葉に高遠は目を丸くする。
自分のマジックに他人が見てわかる癖があるというのも由々しき事態だが、ハジメが高遠を「よく見ている」などにわかには信じ難かった。
一回目のときから事件以外では抜けているところのあるハジメだ。少女が地獄の傀儡師・高遠遙一を警戒しているのは知っている。しかしそれはあくまでも、高遠が殺人や殺人教唆を犯すのではないかという理由からのものであって、それ以外のところを彼女が気にしているとは思えない。
千景の指摘を否定しようとした高遠の声をかき消したのは、客たちから上がった割れんばかりの拍手だった。
その惜しみない称賛に照れたように頭を掻きながら、ハジメは観客にペコリと頭を下げて、高遠のもとへと戻ってくる。
「人が慣れねぇマジック披露してるのに、自分は美女と楽しくおしゃべりかよ」
「あらやだ、美女だなんて。素直で可愛い子にはサービスしちゃう!」
千景からとびきりの笑顔を向けられ、ハジメのむくれ顔がデレっと崩れた。少女は自分の前に置かれたノンアルコールカクテルにうれしそうに口をつける。
「こーんな美人のマスターがいるお店ならあたしもバイトしたいなぁ」
「金田一ちゃんくらい腕のある子なら大歓迎よ。た、だ、し、高校生になってからね」
ハジメの軽口に付き合っているようにみせて千景は本気だ。週に一回来るか来ないかという不良バイトの高遠に代わる人材が、彼女はのどから手が出るほど欲しかった。ハジメならば申し分ないどころか、お得なセットのごとく高遠もついてきそうだと千景の勘が告げている。
そんな笑顔の裏にある雇い主の思惑を感じとり、高遠は小さくため息を吐いた。
千景が自身のマジックの才能に限界を感じ、このマジックバーを始めた数年前から高遠はときどきここでバイトをしているが、勤労意欲のなさを咎められることがしばしばある。
公園で子ども相手にマジックをするくらいなら店に来い、と何度となく叱られるが、マジックで金銭を得ることは高遠にとって優先順位の高い事柄ではなかった。
千景がマジックを堪能した客たちに新しい飲み物を提供しに行ったのを横目に、高遠はいつだって己を惹きつけてやまない相手へと話題を振る。
「先ほどネットニュースでやっていましたが、泰田政則殺害で正式に逮捕されたのは久木悠一と藤嶋俊介の二名のようですよ」
話題の豪華客船での殺人事件はそれなりに世間の注目を集めたが、被疑者がすぐに逮捕されたこともあり、事件から数日も経てばすでにその関心は薄れつつあった。
そして人知れず事件を解決した名探偵は、未だ癒えることのないその傷を抱えているというのがどこまでも嗤える。
「まあ、彼らは最初からそのつもりだったんでしょう。泰田夏帆には教えてあげなかったんですか?」
「……たとえ法で裁かれなかったとしても、夏帆さんはちゃんとその罪の重さをわかってるよ」
「たしかに、彼女にとっては協力者だけが罪に問われる方が苦しいかもしれませんね」
「久木さんも、藤嶋さんも……夏帆さんたち親子が幸せに生きる道を残したかったんだ。それを夏帆さんは絶対に喜ばないけど、それでも彼女に罪を背負わせたくなかったんだよ」
あの事件の計画を立てたのが誰だったのかははっきりしていない。
警察が調べたところで、久木も藤嶋も自分だと言うのだろう。彼らが守りたかったのは青髭によりその人生を狂わされた泰田夏帆であり、ふたりの娘を助けられなかった哀れな波多野洋二なのだから。
「しかし残念です。私にプロデュースさせてくれたら、もっと素晴らしい凄惨な舞台を用意できたんですがね」
「……っ、高遠っ!!」
強い怒りを宿した瞳が高遠を射抜く。
瞬間、高遠の中に沸き上がるのはどうしようもないほどの歓喜だった。いまこのとき金田一一の心を占めているのは被害者や加害者へのくだらない感傷などではなく、高遠遙一ただひとりに対する純粋なまでの怒りだ。
許せないと雄弁に語るその目がなによりも愛おしい。
高遠の戯言にも等しい言葉だけで苦しみに顔を歪めるハジメの、その内側に決して消えない傷をつけてやりたい。
本当はいつものように「冗談ですよ」と続けてやろうと思っていたが、ハジメの反応があまりにも高遠を満足させてくれるものだったので、ただ笑顔を浮かべるだけにとどめた。
遙一と自分を呼ぶ千景の声に応え、厳しい表情をしたハジメを残して客たちの前に立つ。
期待に輝く視線にもさほど感情は動かない。
高遠にとって今日のショーの観客はハジメだけだ。彼女のためだけに美しく完成されたとっておきの
直前までのやりとりのせいで険を含んでいたハジメの視線が、徐々に驚きと興奮に彩られていく。
高遠がマジックを終えて優雅に一礼をしたとき、誰よりも大きな拍手を送っていたのはハジメだった。
「君がご所望のマジックはいかがでしたか?」
「悔しいけど、あんたってやっぱり天才だよな」
言葉とは裏腹にハジメのその顔には悔しさなど微塵もない。
自分が見たいのはこんな顔ではない。そう思うのに……少女が自分のマジックを見て浮かべる笑顔は、たしかに高遠のなかのなにかを満たしていた。