18
――大丈夫だ。
ここまですべてがうまくいっている。いや、うまくいきすぎなくらいだろう。まさか雪崩で警察が来られない、なんてことになるとは思いもしなかった。
彼が自分の後押しをしてくれているのかもしれない。
復讐者『冥府の使者』として、あの許しがたい連中に裁きを下す――きっと、彼もそれを望んでくれているのだ。
この状況で一番避けなければならなかったのは、警察が来るまでを全員一緒に過ごすという事態だったが、まるで神に導かれるかのように舞台が整えられていることに身震いしてしまう。
憎い連中が全員この合宿に参加することになったのも。
合宿先が人里離れた雪山だったことも。
なにもかもが、自分の復讐を肯定しているように感じられる。
ただ、あの名探偵の孫だけはイレギュラーな存在だった。高遠が連れてきた少女は、どうやらいままでにもいくつもの事件を解決へと導いてきたらしい。ひょっとして、今回のトリックについてもすでになにか勘づいているのだろうか。
(いや、ミスはなにもない)
もともと警察に捜査されることは念頭に置いていた。トリック自体は誰にでも実行可能なもので、容疑者をしぼりきることは難しいはずだ。指紋などはもとより、証拠となるようなものを残すヘマもしていない。
(大丈夫)
心の中でもう一度強くそう唱えた。
そっと気配を殺し、目的の部屋へと向かう。幸い廊下には誰もいなかった。まあ、誰かとかち合ったところで、トイレにでも行くふりをしてやり過ごせばいいとは思っていたが、一度でうまくいくに越したことはない。
ポケットに入れていた手袋を装着し、誰かに見られないかを気に留めながら、すばやく硬貨でドアの内鍵を開けて部屋の中へと滑り込んだ。自分の後ろで音もなくドアが閉まったことを感じ、ターゲットへと視線を向ける。
荒谷地弦太はベッドのヘッドボードへと背をもたれかけて眠っていた。その手には充電ケーブルに繋がれたスマホが握られている。
(よかった。薬が効いてる)
賭けとしては五分五分……いや、荒谷地の性格を考えれば、七三くらいの勝算はあったが、実際に眠っていてくれてほっとした。事件後に渡せば口にしなかった可能性もあったが、それを見越して荒谷地の部屋には初めから睡眠薬を仕込んだ飲料水を準備しておいた。いくら警戒していても飲まず食わずで一夜を過ごせるタイプではない。ぱっと見で口が開いていなければ「平気だ」と判断する思慮の浅さもこういうときは役に立つ。
荒谷地が眠るタイミングだけが問題だったが、中毒的にSNSをしている相手なので、男のアカウントを監視していればおおよその動向はつかめた。この状況でもネットを介して他者とトラブルを起こせる彼はある意味ではたいした男なのかもしれない。
服の下に隠していたロープをとり出して天井の梁へと通す。
ロープの片側を眠る荒谷地の首へと回し、重さがかかればそのまま首が締まるように結ぶ。何度も練習したのに緊張のせいで手が震えて少し時間がかかってしまった。
ここまでくれば失敗などしない。
そう理解していても、手は氷のように冷え切っているし、耳の奥で自分の心音がどきん、どきんとうるさいほどに鳴り響いている。努めてゆっくりと息を吐き出した。二度三度と手を握っては開く。
じんわりと指先に血が通うのを感じながら、もう片方のロープの端を手に取る。間違っても途中で手を放さないように厳重に握り締め、渾身の力でそれを引っ張った。
「――っ」
眠っている荒谷地の身体は思ったほどの抵抗もなく、ぎいっとロープに吊られ持ち上がった。静かな室内にロープの軋む音がやけに大きく響く。
なにかの小説で読んだが、首吊りの場合、頚椎がはずれ即死するケースと、首にロープが食い込んで窒息死するケースがあるらしい。
ぎりぎりとありったけの憎しみを込めてロープを引っ張りながら、自重に首を絞められている荒谷地を窺い見る。
「……っ」
「!?」
睡眠薬の効きが甘かったのか、荒谷地は意識を取り戻しこちらを見て驚愕に目を見開いていた。だが、もう遅い。視線の先で、荒谷地は必死で首を絞めるロープへと手を伸ばしているが、きつく締まったそれは決してはずれない。男の首にいくつもの傷ができていく。滲む血は、掻き毟って破れた皮膚から出たものか、それとも剥がれた爪から流れたものか。
荒谷地の顔が徐々に赤黒く染まっていく。
悲鳴すら上げられない口からは溢れた唾液が漏れていた。
彼も――瀬々尚也も、こんな風に苦しんだのだろうか。
瀬々の葬儀は自殺ということもあり、身内だけですまされたから、彼の最期の顔がどんなものだったのかは知らない。遺影の中でこちらを見る彼は生前となに一つ変わらない顔をしていたから、余計に彼の死に様を想像することは難しかった。
もしも、瀬々が最期の瞬間までこんな風に苦しんだとしたのならあんまりだと思った。
彼にそんな決断をさせた連中が許せない。
ぎりぎり、ぎりぎり、とロープを引っ張る手に力をこめ続ける。荒谷地が死に至るそのときまで、少しもその力を緩めなかった。
「はあ……っ、はあ……っ」
五分か、十分か。
荒谷地の四肢が完全に力をなくしてだらりと垂れ下がったときには、激しく肩で息をしているようなありさまだった。あえぐような呼吸を繰り返しながら、引っ張っていたロープの端をベッドの足へと括りつける。梁を通しているとはいえ、ロープ自体にかかる荒谷地の重さで、固定できたときには額に汗が滲んでいた。でも、これですべて終わりだ。
安堵か、満足からか、自分でもわからない気の抜けた息がふーっと漏れる。
そこで男がその右手を握り締めているのに気づいた。
(なんだ……?)
スマホはベッドの上にある。
荒谷地がほかになにかを手に持っていた様子はなかった。しばし、男の手を開いて確認するか悩む。爪がはがれ血に染まった指先を無理にこじ開ければ余計な痕跡が残るかもしれない。ただ苦しみから手を握っただけなのだろうか。
必死に藻掻きながらもこちらを見つめていた荒谷地。
この手に握られているのが、自分を示すダイイング・メッセージだったら?
「…………」
無視しきれない不安がぐるぐると頭の中を回る。
あの状況から彼になにかができたとは考えにくい。いや、ひょっとして手のひらに血文字で名前でも書いたのか。もしそうなら致命的だ。自分の痕跡を残すどころの話ではなくなる。
唾を吞み込もうとしたのに、口の中はカラカラに干上がっていて、ぐっと息がのどに詰まるような苦しさだけを感じた。
意を決して、荒谷地の右手を開く。
人差し指と中指をこじ開けたところで、それはポロリと荒谷地の手から落ちた。本当になにかを持っていたとは思わず、わずかに反応が遅れる。コロコロと床を転がり、部屋の隅でその動きを止めたそれは――指輪だった。
「……?」
指輪に近づき、手を触れないように気をつけながら観察する。
たぶん荒谷地が左手につけていたゴツめのファッションリングだ。なにかの折に「特別なブランド」だとか自慢していた記憶がある。
なんだか拍子抜けしてしまった。
きっと苦し紛れに握り締めただけなのだろう。少なくとも、この指輪から自分へと繋がるなにかなどあるとは思えない。
しかしそうなると、今度は血で汚れた手袋に苦い思いがわき上がってくる。
この手袋に染み込んだ血は自分の指先についただろうか。手を洗ったくらいでは警察に調べられればルミノール反応などが出てしまうものなのか。
手袋自体は当初の予定通り燃やして証拠隠滅してしまえばいいが、さて、この手についたかもしれない血についてはどうするべきか……。
◆
話し声で目が覚めた。
「――ええ、舟木ちゃんはまだ寝てるみたいです」
「近倉部長はさっき一度ここに来たから、もう起きてるはずだよ」
「じゃあ、近倉部長にも声をかけてみましょうか」
この声は藤堂と高遠だ。
津島は突っ伏していたローテーブルからのろのろと顔を上げて、ふたりを仰ぎ見る。いつの間に眠ってしまったのかは定かではないが、寝ていた姿勢のせいで肩やら腰やらが痛い。凝り固まった身体は少し動かすだけでボキボキと不穏な音がした。
「起きたんだ。おはよう、津島」
「ごめんなさい。声がうるさかったですか? 津島さん、おはようございます」
寝起きのすっきりしない頭で「おはよう」と機械的にあいさつを返す。
どれぐらい眠ってしまったのだろうと自分の左手首を見るが、いつもそこにつけている腕時計は部屋のサイドチェストの上に置きっぱなしだったことを思い出し、尻ポケットに仕舞っていたスマホで時間を確認する。
時刻はそろそろ七時なろうかとしていた。
「ごめん。僕、途中で寝ちゃったんだね」
「気にしなくてもいいんじゃない? 発案者はこの通りまだ寝てるわけだし」
そう言う高遠はハジメにソファを譲り、津島と同じようなスツールに座っている。彼の視線の先にいる少女はソファの上で毛布に包まり、気持ちよさそうな寝息を立てていた。寝言なのか、もにょもにょと動くその口元に高遠は少しの呆れを含んだような笑みを浮かべる。たぶん彼は津島とは違い一晩中起きていたはずだが、その顔に疲れの色などは微塵も見当たらない。
自分の部屋で少し眠ったと話す藤堂はどこか疲れた寝不足顔だ。鏡を見なくてもわかる。きっと自分も彼女と同じような顔をしている。
普段なら徹夜くらいどうということもないのだが、この状況のせいだろう。身体も心もひどく疲れていた。
それでも、朝は偉大だと思う。
遊戯室の分厚いカーテンを開け、昇り始めた太陽を見れば、不思議と気分が前向きになる。まだ雪は降っているようだが、空を覆う雲はずいぶん薄くなっているし、この様子なら天気が荒れるということもなさそうだ。
「津島さんも朝ごはん食べますか?」
「あっ、て、手伝うよ!」
昼過ぎには警察も到着する。この天候ならそれこそヘリコプターでも飛ばして早めに救出に来てくれるかもしれない。それまで各自の部屋に籠っているのも気が滅入るし、みんなで食事でもしながら警察を待つというのは悪くない案だった。
それに朝食作りくらいなら津島も役に立てる。
高遠はまだ眠っているハジメのそばについているらしく、津島と藤堂のふたりでキッチンへと向かう。近倉には食事ができてから声をかけることにした。
「食パンとかロールパンがあるし、付け合わせには目玉焼きとウィンナーくらいでいいですかね?」
「うん。それで充分じゃないかな」
「あっ、でもサラダはほしいかも。あとフルーツも」
「サラダなら昨日の分が残ってるんじゃない? でもフルーツなんかあった?」
「リンゴがあるんですよ」
「えっ、皮むけるの?」
「……頑張ります」
藤堂はどこか自信がなさそうに眉を下げながら、その決意を示すように身体の前でぐっとこぶしを握る。彼女にしては子どもっぽいその仕草にドキッと津島の胸は高鳴った。
殺人事件が起きているのに不謹慎だなとか、事件さえ起きなければこんな風に学生らしい合宿になったのかもとか、埒もない考えが浮かぶ。
でも事件がなければ、藤堂とふたりで朝食の準備をするなんて状況にはならなかったのも事実で。
津島はキッチンで隣に立つ彼女の体温を感じながら、もう少しだけみんなが起きてくるのが遅ければいいと願ってしまう。
そう、津島は油断していたのだ。
無事に夜を越すことができて。
警察の到着を待つ時間が“まだ”から“もう”に変わって。――すべてが、終わった気になっていた。いや、たしかにもうこの時点で事件は終わっていたのかもしれない。
この連続殺人事件の最後の犠牲者である荒谷地弦太は、このときすでに自室で事切れていたのだから。
19
夢を見ていた。
たぶん、それは決して悲しいものではなかったのに、目を開けた瞬間にすべてが幻のように消えてしまって、どうしようもない喪失感だけがハジメのなかに残った。
夢の残滓を手繰り寄せるように、身体にかけられていた毛布を頭まで引き上げ、薄暗闇の中もう一度ぎゅっと目を瞑る。
「もうすぐ朝ごはんだそうですよ」
「メニューってなに?」
「さあ? 製作者は津島と藤堂さんのふたりなので、それほど凝ったものは出てこないと思いますが」
かけられた声に毛布から顔を出し相手へと視線を向ければ、高遠はスツールに腰掛けて優雅にティーカップを傾けていた。男を見てのどが渇いていることに気づいたが、ローテーブルの上に置いていた飲み物やスナック菓子の類はすでに片づけられている。
高遠から紅茶を奪ってもよかったが、もう朝食ができるのならこのままキッチンに行こうと、ハジメはソファから起き上がった。固まった身体をグッと伸びをしてほぐす。
「起きてんのって津島さんと藤堂さんだけ?」
「六時前くらいに近倉部長が一度顔を出しましたよ」
「……荒谷地さんは?」
「少なくとも悲鳴の類は聞いていませんね」
荒谷地弦太は一晩中部屋に閉じ籠っていたのだろうか。
彼は昨日の夕食もとっていない。さすがに空腹なり口渇なりを感じているはずだ。もう窓の外は日が昇っている。ここまで来れば、あとは警察の到着を待つだけ。全員で集まって過ごそうと再度提案するにはいい頃合いかもしれない。
一階へ下りる前に荒谷地に声をかけよう。
それとも、ほかのメンバーも集めてからのほうがいいだろうか。昨夜の彼の頑なな態度からすると、ハジメだけで行くよりも近倉や藤堂がいたほうが成功率は高そうだ。
やはりまずは朝食の手伝いをして、できたそれを理由にほかのメンツを集めるか、とハジメは高遠と連れ立って遊戯室を出て階段を下りる。
「あんたはずっと起きてたのか?」
「ええ。君は早々に寝てしまいましたが」
「ゔ。しゃーねぇだろ。成長期はなにかと眠いんだよ」
高校生のときは二時や三時でも平気で起きてゲームをしていたが、まだいまのハジメは中学生で、普段は夜更かしをしてもせいぜい日付けが変わるまでだ。それでも自分ひとりでいたのなら、決して眠れはしなかったと思う。
ほっとするとか、気が緩むとか。
隣を歩くこの物騒な男相手にそんなことを感じる日が来るなんて自分でも信じられない。高遠を疑う気持ちはあるのに。この男が地獄の傀儡師であることを忘れたわけではないのに。いつの間にか馴染んでしまった彼の体温がそばにあることにたしかにハジメは安堵している。
頼もしい、とは少し違う。
明智警視や剣持警部に感じていたような安心感や信頼があるわけじゃない。そもそも高遠はハジメと一緒に事件を解決しようなんて思ってはいない。考え方や価値観も真逆と言っていい。
それでも、この二回目の人生でハジメのもっとも近くにいる男は、ほかの誰とも共有しえない記憶を持っていて、ものすごく不本意だがたぶん誰よりもハジメのことを理解している。
「君は高校生のときもよく寝てたじゃないですか」
「高校生も成長期だろ」
「寝過ぎは脳細胞の死滅に繋がるなどデメリットも多い。君、悪夢をよく見るでしょう。良質な睡眠がとれていない証拠ですよ」
「ケッ、悪夢の原因がなに言ってんだ」
「それはそれは……君の悪夢であれるなんて光栄ですね。夢の詳細を聞いても?」
「マジでうれしそうな顔してんじゃねぇよ、犯罪者!」
やっぱり高遠の存在に安堵するなんてなにかの間違いだ。それか勘違い。
くだらないことを話しながらキッチンのドアを開ける。パンでも焼いているのか、室内は食欲をそそる香ばしいにおいが漂っていた。
「だ、大丈夫!?」
「大丈夫ですよ。ちょっと切っちゃっただけなんで」
津島は見るからに焦った様子で手を出したり引っ込めたりしている。対する藤堂はなんでもないことのように笑い、右手に持ったティッシュペーパーでその左手を押さえていた。
どうやら料理の最中に藤堂が負傷したらしい。
ハジメの位置からでも彼女の手元のティッシュペーパーがじわじわと血で赤く染まっていくのがわかった。
「大丈夫ですか?」
「あら、金田一さん。おはよう」
よく眠れた?と優しく問いかけてくれる藤堂にあいさつと笑顔を返し、ハジメはふたりに近づきちらりと患部の状態を窺った。藤堂の言う通り傷自体はさほど深くないのか、もうその血は止まりかけている。汚れたティッシュペーパーをゴミ箱へと捨て、藤堂は絆創膏を貼ってくるとキッチンを出ていった。
残された津島は困った顔で彼女の負傷の原因と思われるリンゴを見つめ、意を決した様子でその隣に置かれた包丁を手にとる。包丁を持つ手つきがすでに危なっかしい。
「津島さん。こういうのは適材適所だって」
見かねたハジメはむきかけのリンゴと包丁を津島から奪い、それをそのまま高遠へと渡す。高遠はなにも言わず渡されたそれらをさっと水で洗い、あっという間に三つあったリンゴをすべてむいてしまった。
器用に動く手をなんとなく見つめていると、口元にくし形切りされたリンゴが一つ差し出された。反射的にあっと口を開ければ、ひょいと瑞々しいリンゴを放り込まれる。
甘酸っぱくてなかなか美味しい。
ハジメがもぐもぐと咀嚼している間に、高遠は手早く使った包丁やまな板を洗い、切り分けたリンゴを小皿に盛っている。
朝食の準備は粗方終わっているようで、目玉焼きとウィンナーはそれぞれのプレート皿に盛られ、昨日の残りらしいサラダは好きにとり分けられるようにか、大きめのボウルに入れられていた。そこに高遠が切ったリンゴが添えられる。
チーン!とトースターが高らかな音を立てたとき、藤堂がキッチンへと戻ってきた。彼女は切り分けられたリンゴを見て状況を察したのか、的確に高遠へと礼を言う。
津島と藤堂にみんなで朝食をとらないかと提案すれば、ふたりともとくに否はないらしく笑顔でうなずいてくれた。全員で集まって食事をするというシチュエーションはどうしても千葉の事件を連想してしまうので、それならば集まるのは食堂よりも広間のほうがいいだろうと、皿やコップを載せたトレーを持って広間へと向かう。
ハジメたちがローテーブルに皿を並べたり、キッチンから追加の飲み物を持って来たりと細々と準備を進めていると、ひょっこり広間に顔を出したのは星川だった。ろくに寝ていないのか、彼の目の下にはくっきりとした隈ができている。それでも、昨日の相澤の死体を見たときよりは幾分その顔色はマシに感じられた。
「星川……」
「はは。さすがに腹が減ったよ。悪いな、昨日に引き続き手伝いもしないで」
「気にしないでください。ちょうどみんなを呼びに行こうと思ってたところなんですよ」
藤堂に勧められてソファへと腰を下ろしたあと、星川は周りを見回して「まだ近倉さんは寝てるのか」と意外そうにつぶやいた。彼の言葉に津島が少し気まずそうな顔をする。昨日の近倉の言葉は津島にとってもショックなことだったのだろう。
「あたし、近倉さんたちに声かけて来ますね」
「私も行くわ。舟木ちゃんもそろそろ起きてるかもしれないし」
ふたりで二階へと上がる。舟木を起こすのは藤堂に任せて、ハジメはまずは近倉の部屋のドアをノックした。短い沈黙のあと、ドアは開かれることなく簡素な応えだけが返ってくる。ハジメがドア越しに要件を伝えてから、近倉が部屋から出てくるまでゆうに三分はかかった。
「おはよ、近倉さん」
「……おはよう、金田一探偵」
その顔色は星川に負けず劣らず悪い。それでも、もう昨夜のようにひとりで部屋に籠る気はないのか、苦い笑みを浮かべてハジメの提案に乗ってくれる。荒谷地の部屋へと向かいながら、全員がそろったら警察に一度こちらから連絡を入れてみようと話す姿は、ハジメの知る頼れるミス研の部長そのものだった。
「荒谷地、そろそろ部屋から出てきたらどうだ? これから何時頃こっちに到着するのか警察に電話を入れてみるつもりなんだが、そのときに俺たちのいまの状況も説明したい。その間だけでもいいからちょっと顔を出せ」
ノックとともにかけられた言葉に返事はない。
嫌な予感がした。
ふいにこの別荘についてから何度となく耳にした不穏なピアノの音が聞こえた気がして、ハジメは目の前のドアにぴたりとその耳を押し当てた。予想に反して部屋の中からは物音一つしない。それなのに、ハジメの不安は消えるどころか徐々にその質量を増していく。
ハジメの様子からなにかを感じとったのか、隣で近倉ははっと息を吞んだのがわかった。
荒谷地の名前を呼び、もう一度強くドアをノックする。
「…………」
答える声は、ない。
隣の部屋から藤堂が舟木を伴い「荒谷地さん、どうかしたの?」と廊下へと出てきたが、それに答える余裕はハジメにはなかった。暑くもないのに滲んだ汗がつーっと身体をつたう。
ドアノブへと手をかけ、ゆっくりとそれを回せば、そのドアはなんの抵抗もなく開いた。
「……っ!?」
暖房の効いた室内は廊下よりもずっと暖かいはずなのに、その空気に触れた瞬間ハジメは全身に鳥肌が立ったような気がした。
死臭。
血や汚物のにおいとはまた違う。まだ腐敗がはじまったわけでもないのにどうしてか感じとれる死者のにおい。
部屋のほぼ中央に
四肢は力なくだらりと伸びている。長く苦しんだことを示すようにその首にはいくつもの傷ができ、温度を失った血が生々しくこびりついていた。恐怖と苦痛に歪んだ顔はあまりにも無惨なもので、その顔から生前の荒谷地弦太を想像することは難しいほどだった。
――ぎい。
閉め切った室内には風一つ吹いていない。
だが、ハジメは死と憎悪が漂う部屋の中からたしかにロープの軋む音を聞いた気がした。
20
警察の到着を待つことなく、ハジメたちは荒谷地の遺体を吊るされていた梁から下ろした。誰も「現場保存を」とは言わなかった。それほど、荒谷地弦太の死に様はひどいものだった。
「縊死ですね」
荒谷地の部屋にいるのはハジメと高遠、そして津島の三人だ。荒谷地の遺体を前にパニックを起こして気を失った舟木は論外にしても、近倉や藤堂、星川も決して知人の遺体に触れられるような状態ではなかった。津島もその点ではほかのメンバーと大差はなかったのだが、なるべく遺体の状態を変えずに動かすとなるとそれなりに人手がいる。医学生であり、少なからず事件に興味を持っている彼を捜査に引っ張り込むのは心苦しいが仕方ない。
それに津島はほぼ犯人ではないことが確定している。
遺体の状態から割り出した荒谷地の死亡推定時刻は二時から四時の間。津島は二時過ぎの時点で遊戯室におり、それ以降はずっとハジメたちと一緒だったことが高遠の証言でわかっている。
荒谷地の部屋と同じエリアにいた近倉・藤堂・舟木の三人に明確なアリバイは当然ながらない。星川の部屋は彼らとは遊戯室を挟んだ反対側にあるが、彼が自室で過ごしていたという確証がないのでまだその容疑を晴らすわけにはいかない。もし星川が自室にいるフリをして一階のどこかに隠れていたのなら、階段があるのは荒谷地たちの部屋の側なので、遊戯室を通ることなく犯行に及べるからだ。
「首を絞めてから吊り下げたわけじゃねぇのか」
「犯人がどのような方法をとったのか断定はできませんが、索状痕が頸部に対して斜めについていますし、死体の状態から見ても縊死で間違いないでしょう」
「縊死ってことは……自殺?」
津島のその疑問はある種の希望的観測が多分に含まれている。
他殺ではなく自殺だったら。一連の事件の犯人が荒谷地で、彼の自殺でもってすべてが終わったのなら、と。
「いや、それはないと思う。部屋の中に踏み台になりそうなものもないし。こんなロープ、事前に準備してなきゃフツー持ってないでしょ」
首の索状痕とそれをはずそうとできた傷以外に荒谷地の遺体に目立った外傷はない。
これが絞殺であったなら、油断した荒谷地の後ろからロープをかけて首を絞めたと考えればいいのだが、縊死ではそうもいかない。犯人はいったいどうやって荒谷地に首を吊らせたのか?
「……?」
ベッドへと横たえた荒谷地の遺体を前に、ふとその右手に違和感を覚えた。
どちらの手も同じように力なく開いている。死後に弛緩したのか、あるいは頸部の圧迫により脳虚血や窒息状態へと陥り脱力したのか。
剥がれかけた爪や破けた皮膚の残滓。
彼の首と指先に残る生々しい苦しみの痕。
「――血が、かすれてる」
右手の指先に付着した血が一部不自然に薄くなっている。掻き毟ってできた血のこすれではなく、乾きかけた血になんかが触れたような――。
(握り込んでいた手をあとから開けたのか?)
そう思って見れば、わかりにくいが手のひらにも偶然にできたとは考えにくい跡がある。途切れ途切れではあるが、この丸い曲線は大きさからすると指輪かなにかだろう。「なあ、これって」と話しかけると、同じところを見ていた男は少し不可解そうにしながらもハジメの言葉にうなずいた。
「荒谷地弦太がつけていた指輪でしょう」
「指輪って、これ?」
「ええ。……ああ、ほらここにも不自然な血の跡がある」
高遠が遺体から抜きとった指輪を見ると、たしかにその裏には血痕がついている。指輪がはまっていた左手の人差し指にはそれほど血がついていないので、流れた血が指輪を汚したとは考えにくい。つまり、荒谷地は死の間際に自分で指輪を抜きとりそれを右手で握り締めた。そして、彼の死後そのことに気づいた犯人が右手をこじ開け、指輪をもとのところへとはめ直したと考えるのが自然だろう。
ハジメが最初に違和感を抱いた右手指先の血のかすれは、おそらく犯人がその手をこじ開けたときについたものだ。
(荒谷地は犯人を見たのか?)
ならば、握り締めていたと思われる指輪は彼のダイイング・メッセージなのか。
少しゴツいが指輪自体はただのファッションリングに見える。内側に文字が刻まれていたので、おっと思い高遠に聞いたがただのブランド名だった。
容疑者の中でこの指輪から連想できる人物は……と頭をひねる。なにも思い浮かばない。そもそもハジメが知っている指輪なんてせいぜい結婚指輪くらいだ。
「金田一君」
高遠の呼びかけに振り返れば、男はサイドチェストに置かれたペットボトルを指差していた。手にとってみれば、高遠の言いたいことはすぐにわかった。
空になったものも含めればペットボトルは全部で三本。
そのペットボトルはすべて飲み口の近くに極々小さな穴が開けられていた。少し中身が残っているミネラルウォーターのキャップを開けて鼻を近づけるが、とくに変わったにおいはしない。
「睡眠薬か?」
「おそらくは。まあ、毒を仕込むならわざわざ吊るす必要はないでしょうからね」
「誰かが差し入れとして持ってきたのかな?」
「いいえ。そのミネラルウォーター自体は初めからありましたよ。相澤氏輝を探しにこの部屋に入ったときに見かけましたから」
「どっちだと思う?」
「ふむ。アルコールの類ならまだしも、ミネラルウォーターを持参するタイプには見えませんし、事前の仕込みでしょう」
「だよな」
荒谷地が都合よく持ち込んだ飲み物にあとから睡眠薬を仕込むというのは難しい。酒や嗜好飲料なら別荘到着後早々に飲まれてしまう可能性もあるが、ミネラルウォーターならそのリスクも多少は下がる。そして、事件前から自分の部屋にあったなら、ほかのメンバーが出入りするキッチンにあるものよりは口をつけやすかったかもしれない。
やはり、この一連の事件の犯人はかなり入念な準備のもと犯行に及んでいる。
「犯人はどうやって荒谷地さんが眠ったか確認したんだ?」
「え、電話したとか?」
自分のつぶやきに返された津島の自信のなさそうな声に、ハジメはベッドの上に置かれていた荒谷地のスマホへと視線を向けた。
電話やメッセージは証拠としてスマホにその痕跡が残る。この犯人がそんな迂闊なことをするだろうか? それに疑心暗鬼で部屋へと閉じ籠っている相手に下手に連絡を入れるのは警戒心を上げる可能性がある。
充電ケーブルに繋がれたままのスマホ。
荒谷地はたぶんこの夜眠るつもりなんてなかったはずだ。しかし、殺されるかもしれない恐怖を抱えながらまんじりともせず過ごしたとは思えない。ただ耐えるには夜は長すぎる。
(俺ならどうする?)
スマホが手元にあるならソシャゲでもして時間を潰す。動画や音楽の類は眠くなりそうだから、敬遠するかもしれない。
そういえば、荒谷地はこの合宿中も暇があればスマホに触っている印象だった。
記憶のなかの彼のスマホを触る指の動きは、ハジメのよく知るソシャゲなどのそれとは違う。あれは――。
「SNS?」
いわゆるインターネット上のコミュニティサイト。
ハジメ自身は写真を撮るのも、身近な日常をつぶやくのもあまり興味はないので、ときどきゲームなどの情報収集に使うくらいで、ろくにアカウントも持っていない。究極の筆不精で年賀状の返事も書かない身としては、色んな人と繋がる楽しさよりも面倒臭さが勝ってしまうのだ。それに直接会って騒ぐほうがハジメの性に合っている。
「荒谷地はインスタとかエックスとか、なんか色々やってたと思う」
津島はそのあと「僕はくわしくないけど」と恥ずかしそうに続けた。
たしかにインターネット上ならリアルタイムでやりとりでき、その匿名性は高い。身元を隠して荒谷地と接触することも可能だろう。
荒谷地のスマホを手にとり、電源ボタンを押す。
当然のように画面ロックが設定されていた。
「顔認証じゃなくて助かりましたね」
「へぇ、さすがのあんたも顔認証は突破できねぇの?」
「人を欺くよりは簡単そうですけどね。変装には事前にそれなりの準備がいるんです。言っておきますが、剣持警部のときもわりと手間暇かけていたんですよ」
犯罪の苦労を語られてもちっとも共感できなかった。あと、オリエンタル号で勝手にいつき陽介の姿を利用したことをハジメはまだ許していない。ジッと睨みつければ、男はどこまでも腹立たしい顔で笑って、早く解除しろとばかりにハジメの持つスマホの画面を指で叩いた。
荒谷地がスマホを触るときの出だしの指の動きは覚えている。まるで指で十字を切るようなその動き。パスワードの桁はわからないが、その動きから予想できる数字は多くない。
とりあえず、と思い当たる四桁の数字を入力すれば、運のいいことに一度でロックを解除できた。
通知が一番新しいSNSのアイコンをタップすれば、犯人がどうやって荒谷地の状態を確認したのかは自ずと理解できた。荒谷地はそのアカウントで一時過ぎまで数分から十分おきになにかしらのコメントを投稿し、いいねなどの反応をつけている。ほかのSNSも確認するが一番使用頻度の高いアカウントはそれだったようで、犯人が荒谷地のアカウントを知っていたのならば睡眠薬が効いて彼が眠ったと判断するには充分な材料となったことだろう。
せっかくスマホという個人情報の塊を手にしたので、なにか事件の動機や人間関係を知る手掛かりはないかと、ハジメは悪いと思いつつもその中身を確認していく。
そして、何気なく開いたアルバムのなかにそのフォルダはあった。
――“メダルトリオ”。
そう名付けられたフォルダの中には荒谷地・相澤・千葉の高校時代らしき写真が収まっていた。制服姿以外にも私服やなにかのコスプレのような写真もある。写真の中の彼らはいまよりも少し幼く、どれも楽しくて仕方がないと言わんばかりの満面の笑みを浮かべている。
それが三人の最期の姿とはあまりにもかけ離れていて、胸が詰まった。
この中の誰ひとり、自分があんな風に殺されるだなんて想像もしなかっただろう。なぜ彼らは殺されなければならなかったのか。その理由は荒谷地のスマホからは見つけられなかった。
しかし、フォルダの中の写真にすべて目を通して、ふとある疑念が頭をもたげる。
(――なんで、高校時代の写真しかないんだ?)
ハジメはこのフォルダの名前を、彼らが日本アマチュアシネマ祭でグランプリを受賞したことからつけたのだろうと考えていた。三人で受賞したから『メダルトリオ』なのだと。だが、このフォルダの中には高校時代の彼らしかいない。
アルバムの中を探せば、大学入学以降と思われる写真もある。ただ新しい写真を分けていないだけなのか? しかし、グランプリを受賞したのは去年だ。わざわざ過去のフォルダをそれにちなんだ名前に変えるというのもおかしな話だ。
「……メダル」
どこかでカチリと欠けていたピースがはまる音がした。
荒谷地のこれまでの言動がざあっと頭の中で再生されていく。
(俺と高遠が“部外者”で、津島さんが“仲間はずれ”……)
こんなヒントでは自分にはわからないはずだ。
スマホで調べた検索結果はハジメの推理が正しいという裏付けをくれた。そうなると、荒谷地のダイイング・メッセージである指輪の意味は――。
「って、あれ? 荒谷地さんって金属アレルギーって言ってなかった?」
「うん。そうだよ。シルバーアクセとか好きなのに全然つけられないってからまれたことあるから」
津島が言うには、金属アレルギーとは汗などによってとけ出した金属がイオン化し、身体のたんぱく質と結びつくことでかゆみやかぶれなどを引き起こすことらしい。アレルゲンとなる金属の種類は多く、一般的にはクロムやニッケル、銅などがアレルギーになりやすい素材だと教えてくれる。
「じゃあ、この指輪って銀じゃないんですか?」
「アクセサリーのことは全然わからないんだけど、荒谷地がつけてたなら銀ではないと思うよ」
「それならたぶんチタンでしょう。金、銀、プラチナもアレルギーが起こりにくい素材ではありますが、アクセサリーの場合はほかの金属が混ぜられていることが多いですから」
高遠の説明にハジメは津島と一緒になって「へぇ~」と驚きの声をあげた。相変わらずよくわからないことまで知っている男だ。自分はアクセサリーなんて身につけもしないくせに。
念のため指輪に彫られていたブランド名で検索し、サイトで素材を確認するがやはりチタンで間違いなかった。サイトで見た荒谷地の指輪は思った以上に高額でちょっとびっくりしてしまう。バイトでもして貯めたのか、はたまた家が金持ちなのか。
「さて、そろそろ推理も大詰めですか」
「ああ」
「しかし証拠が少々弱いのでは?」
「いや……たぶん、犯人も気づいていない決定的な証拠がある」
「ほう?」
その意外そうな顔に苦々しい気持ちがわき上がる。
「でも、それを確認する前にもっかい千葉さんの部屋に行くよ。――俺の、見落としていたものを見つけないとな」
決意を込めて高遠を見つめれば、男はともすれば穏やかにも感じられる笑顔を浮かべてハジメの瞳を見つめ返す。
たぶん、高遠はハジメよりも前に気づいていた。気づいていて、あえて黙っていたのだ。
なぜだと問い質したくなる。どうしてだと詰め寄ってしまいたい。しかし、それはいますべきことではない。
言いたいことをすべてぐっと呑み込んで、ハジメは千葉の部屋へと足を向ける。
三度訪れた彼女の部屋の床にはハジメの予想通りなんの傷もついていなかった。落ちていた割れた花瓶の欠片を拾い上げる。そう、証拠はずっとここにあったのだ。
「――謎はすべて解けた」