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「藤堂さん……そんな、どうして……」
津島のそのかすれたつぶやきは広間に思いのほか大きく響いた。当の津島は自分が声に出していたことにも気づいていないのか、迷子の子どものような頼りない表情で藤堂を見つめている。
言葉にはしないが、ほかの面々も津島と同じ思いを抱いていることは、彼らの顔を見れば明らかだった。
藤堂の隣に座る舟木は、無意識なのか彼女の袖をぎゅっと握っている。その手はどこか縋りつくようで、藤堂が犯行を認めたいまも「冗談よ」と否定の言葉が続くのを待っているのが、ハジメにはわかった。そしてそれは、きっと藤堂にも伝わっているだろう。
「金田一さんは
こんな殺人にお誂え向きな状況で復讐すべき三人がそろうなど運命以外のなにものでもない、と藤堂は自嘲的な笑みをもらす。
「……伊依里ちゃん。ホントなの? 本当に伊依里ちゃんが……優芽乃先輩たちを殺したの?」
「そう。あの三人を殺した“冥府の使者”は私。……ごめんね、舟木ちゃん。怖い思いをさせて。舟木ちゃんはなんにも悪くないわ。私が勝手に巻き込んだだけ」
藤堂は落ち着いた表情でみんなを見回し「ごめんなさい」と謝った。それは、三人を殺したことに対する謝罪ではなく、ただ無関係な彼らを巻き込んでしまったことについてのもの。
本来の彼女は他者の感情を無視して自分の目的を優先するような人間ではないのだ。関わりの薄いハジメにすらそれが理解できるのだから、これまでともに過ごしてきたミス研メンバーからすれば、いまの気持ちは驚天動地といっても過言ではないのかもしれない。
「理由を聞かせてもらえるか? 俺は君が犯人だと知ってなおも、なんであいつらが殺されなきゃいけなかったのかわからん。相澤は……あいつは、それほど許されないことを君にしたのか?」
苦しさと疲れを滲ませた声で、近倉は尋ねた。
彼は「真相を知りたい」と口にしながら、実際は自分にはなに一つ受け止める覚悟などなかったことを痛感していたが、それを知らずにこの事件を終わらせることはできないとも理解していた。
藤堂の動機を聞いたところで、いまさらどうしようもないことなのは重々承知の上だ。
それでも、近倉は彼女の口からその理由を聞いてみたかった。
ハジメはそんな近倉の心情を汲み取り、仄暗い怒りを湛えた瞳で黙り込んだ藤堂へ「瀬々尚也さんは、あなたにとってどんな人だったんですか?」と話の水を向ける。
「彼は……私の尊敬する、大好きな先輩」
そう言って、藤堂は視線を下げた。伏せられた目元からは彼女の喪失の大きさが伝わってくるようだ。復讐を遂げてなお、彼女のなかにはやり場のない怒りと悲しみが渦巻いている。
この別荘を取り巻いていたあの不穏な旋律は彼女の心の悲鳴だったのだろうか。
ハジメたちが見つめるなか、生々しい傷口に自ら爪を立てるような痛みを堪えた顔で、藤堂はゆっくりと話し始めた。
◆
藤堂伊依里が瀬々尚也と出会ったのは、開桜学院二年生のときだった。
秀央高校と並び称される超名門のエリート校は右を向いても左を向いても勉強勉強の日々で、それをことさら苦痛に感じていたわけではなかったが、いわゆる“普通の高校生活”にそれなりの夢を見ていた藤堂は、入学して一年が経つ頃には言いようのない厭世的な気持ちを抱えていた。
学内に友人がいなかったわけではない。
ただ、その友人たちはときにあからさまなまでに『成績』という指標で自分たちの立ち位置を変えた。藤堂は幸い、目の敵にされるほどの優秀さも、人の輪から爪弾きにされるような拙劣さもなかったので、平穏といって差し支えない生活を送れていたが、ときおり垣間見える人間関係のなかには胸を重くするようなものがあったのは事実だ。
そして通う高校が違えば、自然と中学時代の友人たちとも疎遠になる。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、あの頃の藤堂は人恋しかったのかもしれない。
だから、第二図書室という少々寂れた場所でたびたび見かける男子学生に声をかけたのは、彼女のほうからだった。
「――なにしてるんですか?」
定年を過ぎた再雇用の司書は、利用者がほぼいない図書室でのちょっとした会話に目くじらを立てたりはしない。ガリガリとペン先がノートを削る音だけが響いていた静かすぎる室内では、定位置であるカウンターにいる老司書にも藤堂の言葉ははっきりと聞こえたはずだが、老人はこちらに視線一つ寄越さなかった。
ペンが動く音が止まり、「へ……?」といういささか間抜けな声とともに彼が顔を上げてはじめて、藤堂はその男子学生を正面から見た。上履きの色から彼が上級生であることはわかっている。普段の藤堂なら、一心になにかに取り組む上級生、それも異性に声をかけたりはしなかっただろう。あるいは彼が必死に向き合っているものが勉強であったならば。
しかし、このときの藤堂はこの開桜学院でなにやら勉強以外のことに一心不乱になっている男子学生が気になって仕方なかった。
明らかに藤堂の存在にも気づいていなかったと言いたげな彼の態度にもめげず、もう一度同じ質問を繰り返す。少しでも彼がこちらに興味を持ってくれるように、今度は自分の名前も一緒に告げてみた。
「あ、ご丁寧にどうも」
座ったままぺこりと頭を下げた彼の顔には困惑の二文字がべっとりと張り付いている。続けられた「三年の瀬々尚也です」という言葉には、藤堂が年下だとわかっても変わらない控えめな物腰も相俟って、なんだか好感が持てた。
彼――瀬々は自分のノートと藤堂を何回か見比べ、照れたように頬を掻きながら、相席を勧めてくれる。
「べつになにか面白いことをしてるわけじゃないんだけど……小説っていうか、脚本みたいなものを書こうとしてて」
「脚本、ですか?」
「うん。俺、ホラー映画が好きなんだよね。もちろん小説も読むけど、やっぱり視覚情報による恐怖演出ってやつが一番ホラーの魅力をストレートに伝えられると思うんだ」
小説は読み手側の知識や想像力を必要とするが、映画はそうではない。カメラワーク一つで、演出の仕方一つで、誰にでもその恐怖を伝えることができるのだと瀬々は熱く語る。
勢いのまま名作らしいホラー映画のタイトルをいくつか挙げられるが、藤堂にはあまりぴんと来なかった。ただまくし立てるようなその瀬々の熱量に圧倒される。小説ならもう少しわかるものもあるのに、ともどかしさを感じていると、藤堂が自分の会話について来れていないことに気づいたのか、瀬々はメジャーな映画のタイトルを口にした。
「あー。ええっと……それじゃあ、ホラーじゃないんだけど、スピルバーグ監督の恐竜映画って知ってる?」
「はい。シリーズは最新作まで見てます」
「おお、同士だ。あれの一作目に、恐竜の足音でグラスの水が波紋を立てるシーンがあるだろ。なんてことないような表現なのに、あれ?っていう登場人物の疑問から、近づいてくる恐竜への恐怖に繋がる流れなんか俺は最高の演出だと思う」
彼の夢は、いつかセンスのある監督と、腕のいいカメラマンとともに、自分の考えた脚本でホラー映画を作ることなのだと言う。
映画制作の要は監督な気がして、自分が監督をしなくてもいいのかと藤堂が問うと、瀬々は恥ずかしそうに向いてないのだと答えた。
「俺、ストーリーは考えられるんだけどさ。あっ、面白いかはべつとしてだよ? それをどう映像化したらいいとか、どういう見せ方が効果的かとかはさっぱりなんだ。それなりに映画も見てるし、誰かの手法を真似ることはできるけど、自分では考えつかないんだよなぁ」
彼はいま、短編のホラー小説を思いつくままに書いているそうだ。
はじめての会話から一か月が過ぎた頃。
そろそろいいか、と藤堂がよかったら小説を読ませてほしいと告げれば、彼は「いや、まだ実は小説ってレベルでもないし」とか「字が汚いからせめて清書する」とか、なにかと理由をつけて渋った。
実際に藤堂が彼の小説を読ませてもらえたのは、それからさらに一か月の時間を要した。
「先輩、これ……」
「ちょっと待って! まだ感想を聞く心の準備が……っ」
「めちゃくちゃ面白いじゃないですか!!」
「え? ……ほんと?」
正直どんなレベルの作品が出てきても、彼女に瀬々の小説を貶す気はなかった。藤堂にとってはすでに瀬々自身が魅力的な人物だったから。でも、瀬々の小説はそんな気遣いなど必要のないくらい素晴らしいもので、藤堂はただの一読者としての感動を作者へと伝える。
瀬々のはじめての読者で、最初のファンになれたことが藤堂はなんだか誇らしかった。
さすがに気恥ずかしくて、彼にそれを直接言いはしなかったけれど。
明確な約束のない、第二図書室の中だけの不思議な関係は、細々と、しかし途切れることなく瀬々が卒業するまで続いた。
瀬々と過ごした思い出を語る藤堂の口調はどこまでも穏やかで、その顔には滲むような懐かしさが浮かんでいた。
「先輩が大学に入って、私もその年は受験だったし、顔を合わせる機会はなくなっちゃったんだけど、ぽつぽつ連絡は取り合ってたの」
瀬々からの連絡が途絶えたのは、ちょうど去年の夏頃だったと言う。
「その直前にサークルの活動で忙しくなるっていうのは聞いていたから、はじめはそこまで気にしなかった」
季節が秋へと変わっても、瀬々から連絡が返ってくることはなかった。
高校の先輩と後輩。
言葉にしてしまえば、ふたりの間にあるのはたったそれだけの関係で、それは藤堂にそれ以上踏み込むことを躊躇わせた。
「もし電話して出てもらえなかったら、とか……私が気づかないうちになにかしたのかも、とか色々考えちゃって」
馬鹿みたいよね、というつぶやきには拭い切れない後悔が滲んでいる。
瀬々の最期を知っているだけに、彼女の抱く悔恨がどれほど深いものか理解できて、ハジメはそのやるせなさに唇を噛みしめた。喪った人が大切であればあるだけ、残されたものの痛みは大きい。唐突に訪れる死はときにあまりにも残酷で、人を捕らえて放さない。
苦しげに眉根を寄せた藤堂は吐き出すように言葉を続けた。
「私が先輩の自殺を知ったのはニュースでなの。……信じられなかった。でも、信じられないって言えるほど、自分が先輩を知らないことにも気づいてた」
「ひょっとして、東大を選んだのは……」
「そうよ。もともと志望校の一つではあったけどね」
瀬々の自殺の原因が大学にあるのかはわからなかったが、受験生の藤堂にできることは多くなかった。ただ、校内での自殺だったので、藤堂は原因は大学にあると半ば確信していたらしい。
「でも、どうやって先輩の自殺の真相を調べればいいのかはわからなかったの」
瀬々が映研に入っていたことは知っている。だからといって、警察が捜査しても出てこなかった自殺の原因が、自分が聞いて回ったところでわかりはしないことも藤堂は理解していた。
手詰まりだったと藤堂は自嘲気味に笑う。
「いっそ映研に入るべきなのかもって思ってた矢先に、あの映画を見たの。あの――許し難い『首くくりの家』をね」
そう言った彼女の目には強い怒りが浮かんでいた。
24
藤堂の告白は核心に迫ろうとしていた。
「あの映画は、瀬々尚也さんが考えたものなんですか」
ハジメのそれは質問ではなく確認だ。
瀬々の自殺の時期や殺された相澤たちの行動からも、自殺の原因に映画『首くくりの家』が無関係だとは思えなかった。この別荘に到着した日に見た映画のエンドクレジットには『監督・脚本:相澤氏輝』と記されていたが、本来その脚本の部分には瀬々の名前が載るはずだったのだろう。
「金田一さん、あの映画を見たあと、主人公の手が違うって言ってたでしょう?」
「……あのもうひとりの手は、瀬々さんなんですね」
「先輩って左利きで、しかもペンの持ち方が独特だから変なところにペンだこがあるの。演技なんかできないって言ってたのに、手だけなら映ってもいいって思ったのかしらね」
瀬々のことを語る藤堂の顔はひどく優しい。
しかしその表情は瞬きの間に消え去り、彼女は押し殺していた激情が噴き出したかのように叫んだ。
「あれは先輩の、瀬々尚也の作品だわ。――私が大好きだった先輩の小説を、あの三人は彼から奪いとったのよ!」
彼女が五月祭で偶然目にしたその映画。
エンドクレジットに瀬々の名前がないことで、藤堂はすべてを悟った。瀬々が去年の夏頃忙しくしていたわけも、それ以降連絡が途絶えた理由も……そして、なにが彼を自殺へと追い詰めたのかも。
「確証がほしくて、映研の部員だって嘘をついて先輩の家にお焼香に行ったときに、ご家族に先輩の遺品について尋ねたの」
瀬々は手で書いたほうが考えがまとまるからと言って、何冊もの創作ノートに小説やそのネタを書いていた。藤堂が瀬々の家に行ったとき、その創作ノートは一冊もなかった。彼の母親はサークルの友人が息子の意志を継ぎたいと持っていったと言う。
藤堂はその言葉を聞いて、目の前が怒りで真っ赤に染まった。
瀬々を自殺にまで追い詰めておいてまだ奪うのか、と。
「私は、まずは相澤に近づくことにした。映画を見ただけじゃあ、荒谷地や千葉が相澤の盗作を知っていたのかまではわからなかったから」
相澤はその頃すでに映研の部員たちとは不仲で、友人の近倉がいるミス研に顔を出すことのほうが多かった。藤堂はミス研に入ることで首尾よく相澤と接触を持つことに成功した。
瀬々の自殺に対してろくに罪悪感を抱いていない相澤から話を聞き出すのに、それほど時間はかからなかった。
そこで藤堂は知る。
最初は瀬々、相澤、荒谷地、千葉の四人で映画を撮り始めたこと。撮影が進むにつれ、瀬々と相澤の意見が食い違い、瀬々が「なら相澤たちだけで撮ればいい」と映画を下りたこと。彼らが黙ってそのまま『首くくりの家』を撮り続け、映画のクレジットから瀬々の名前を消したこと。
「酔った相澤が、なんて言ったと思う? ――“盗られる方がマヌケなんだ。俺が演出を手掛けたから、あんなありきたりなストーリーでも、あの映画はグランプリをとったんだ”、ですって」
許せなかった。
藤堂にはあの三人を決して許すことができなかった。
「人ひとりを自殺に追い込んだあいつらを許せとは言えないが……藤堂君、瀬々尚也の無念を晴らすには、盗作の事実を告発するだけでは足らなかったのか?」
「先輩は遺書も残してなかったんです。創作ノートもなくなっていて、あの人たちの罪を明らかにする方法は私にはなかった」
「だからといって、なにも殺さなくても……」
思わず、ともれた近倉のつぶやきに藤堂はきつい眼差しを向ける。
「じゃあ、先輩の……自殺しなければいけなかった先輩の無念はどうなるんですか!?」
怒りと悲しみが詰まった彼女の叫びが広間に響いた。
ひょっとしたら、藤堂が許せないのは瀬々の自殺を止められなかった自分自身なのかもしれない。大切な人が追い詰められていることに気づかなかった後悔も、せめてその死後になにかをしてやりたいと思う苦い決意も、ハジメには痛いほど理解できる。
彼女の選んだ手段は間違っていたけれど、瀬々への想いは決して誰にも否定できない。
そしてまた、言葉にできない感情を吞み込み顔を俯けた近倉の気持ちも、ハジメにはわかってしまった。近倉にとって、相澤はたしかに親しい大切な友人なのだ。
「――違うんだ」
星川がそう小さく声をあげたとき、ハジメはこの事件の終演が自分の想像した通りのものになることを確信し、小さく目を伏せた。
高遠がミス研に所属したのは去年の冬。
如何に地獄の傀儡師であっても、その時点で藤堂のうちに孕む“復讐の種”に気づき、サークルに潜り込んでいたとは言わないだろう。つまり、去年の冬にはもうあったのだ。この復讐劇へと繋がる火種となり得るものが。
「違うんだよ……あいつは、瀬々はちゃんと遺書を残してた。相澤たちの盗作を立証する手立てがないから、自分の死をもって糾弾することを選んだんだ」
――俺が、それを握り潰した。
星川は彫刻のような硬質な表情のまま、どこか虚ろな瞳で自らの罪を告白する。その視線は藤堂へと向けられているようで、ここにはいない亡くなった親友を見ているようでもあった。
「あいつは信頼する相手を間違えたんだよ。俺なんかに、遺書を託すべきじゃあなかった」
「なに言ってるんだ、星川。お前は瀬々って人の親友だったんだろう?」
「先輩の、親友……?」
「ああ。親友だったさ。少なくとも、あいつのほうはそう思ってた。――開桜学院にいる後輩の話は聞いてたよ。あいつ、“頭がいい”だの“指摘が適格だ”だの、そんなことしか言わないから、てっきり男だと思ってたよ。藤堂、君があいつの言ってた“名編集”か」
話しかけられた藤堂は内容がうまく呑み込めないのか、ひどく頼りない顔で星川を見つめ返す。
「先輩の遺書を……星川さんが、握り潰した?」
「そうだ」
「どうして……?」
「――荒谷地に脅されてたからさ」
言葉とともに星川が浮かべた笑顔はあまりにもいびつで痛々しかった。
「俺の人生、どこがケチのつき始めだったんだろうな。やっぱり開桜に落ちたところからか」
「星川って不動高校の出身じゃなかった?」
「そうだよ。開桜学院に落ちて不動高校にいったオチコボレだよ」
露悪的なまでの物言いが、自己嫌悪と罪悪感からくるものであるのは明白だ。
いびつな笑みを増々歪めて星川は語る。人が変わったようなその饒舌さからは彼の精神の均衡がひどく危ういことが伝わってくる。
「親友はラクラク開桜に行くし、俺はひとり落ちて不動高校。親からは大学受験の失敗は許さないってプレッシャーをかけられるし」
高校三年の冬のこと。
星川はどうしようもない閉塞感とストレスからコンビニで万引きをした。それ自体も褒められた行いではなかったが、その万引きには厄介なおまけがついてきた。
「偶然、それを荒谷地に撮られたんだ。あいつはちょうどその頃相澤の映画制作に付き合って、四六時中カメラを回してやがった」
ただその時点では、ふたりに接点はなかった。
荒谷地がビデオカメラに映った万引き映像に気づいたのは編集作業のときで、面識もないどこの誰とも知れない星川の弱みは彼にはなんの価値もないものだった。撮られた星川はそもそもそれ自体に気づいておらず、一時の気の迷いはそれ以上エスカレートすることなく、もとのストレスに耐える生活に戻った。
そんなふたりを引き合わせたのが瀬々だった。
「瀬々に連れていかれた映研で、荒谷地に会ったんだ。最初はお互いなんにも知らず、友達の友達くらいの距離感でつるんでたよ。まあ、荒谷地のほうは俺のこと、なんか見覚えがあるなって思ってたみたいだけど」
荒谷地が星川のことを思い出したとき、星川の平穏は終わりを告げた。
自分の万引き映像を見せられ、「バラされたくなかったら金を持ってこい」という捻りのない脅し文句は、それでも星川にとっては途轍もない恐怖だった。
――たった一度の、つまらない万引きなんかで人生を台なしにされたくない。
星川は荒谷地に言われるがまま金を融通した。それが根本的な解決にはならないことは理解していたが、自分にとっての確たる弱みを握られた星川にはそうするほかに道がなかった。
「瀬々を恨んだよ。あいつが俺を映研なんかに引っ張って行かなきゃ、俺は永遠に荒谷地とは会わずにすんだかもしれないってな」
「先輩は……あなたの親友だったんでしょ?」
「親友だったよ。俺が必死で勉強して入った東大に、小説なんて書きながらラクラク合格する……どうしようもなくむかつく親友さ」
星川の瀬々へと抱いていた鬱々としたコンプレックスは最悪の形で芽吹いた。
「瀬々が相澤たちと揉めてるのは薄々気づいてた。荒谷地からあいつの創作ノートを盗ってこいって言われたときも、それほど大事になるとは思ってなかった」
星川が相澤たちがしていたことを知ったのは、瀬々が自殺したあとだ。
瀬々にどうしようもないコンプレックスを持っていたが、星川は彼に死んでほしいなんて思っていなかった。彼を『親友』と呼ぶその声にたとえどれほどの苦々しさが滲もうと、星川にとって瀬々は紛れもない特別な友人だったからだ。
自分宛で届いた遺書を読み、星川は息苦しいほどの罪悪感に襲われた。
「でもな、同時に気づいたんだ。これは……この瀬々の遺書は、荒谷地にあの映像を消させるカードになるってな」
星川の考え通り、荒谷地は
癖のある角張った瀬々の字。
手書きの遺書は怒りにか、悔しさにか、ところどころ文字が歪み、何度も書き直したあとがあった。それを読み流した涙は決して嘘ではなかった。しかし、星川は結局その遺書を誰にも見せることなく破り捨てた。
後悔している。
自分にはそんな資格すらないのかもしれないけれど。
「な、なんだよそれ……。全部……全部、星川のせいじゃないか。 星川が瀬々君の遺書をちゃんと警察とかに渡してたら……相澤たちがしたことも露見して、藤堂さんがあの三人を殺すことだって、なかったんじゃないのかよ……?」
「お前の言う通りだよ、津島。だから、きっと本当に殺されるべきは俺なんだ」
星川はこれで話は終わりだとでもいうように小さく笑みを浮かべる。どこまでも苦い苦い笑みを。その目は誰も見ていなかった。彼はただ断罪されるのを待つように静かに虚空を眺める。
ふいに藤堂の目から一筋の涙が零れ落ちた。
「……馬鹿みたい」
それがいったい誰に向けられた、なにに向けられた言葉だったのかはわからない。嗚咽一つもらさずぽろぽろと涙を流し続ける彼女はもう、悲しい復讐者ではなかった。
遠くからパトカーの特徴的なサイレンが聞こえてくる。
窓の外を見れば、いつの間にか雪はやみ、積もった真っ白な雪が昼の日差しを受けてきらきらと輝いていた。