平行線機能不全   作:キユ

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 本文中に出てくる「改悛の情」は筆者が調べるかぎり、正しくは「改悛の状」だと思うんですが、ここでは原作に合わせております。


終章②

 

 はーっと手に吐きかけた息は白く煙るだけで、ろくな温かさも感じさせてくれずに空気へととけていった。

 二月上旬。

 一年でもっとも寒い時期の、夕暮れというにも遅い時刻。

 ハジメはひとり人目につかない暗がりから毒島陸のアパートを見つめていた。彼が父親から受験勉強のためにと借りてもらっている部屋は、一回目と同じように数週間前から多間木や魚崎のたまり場となっている。ハジメがこのアパートを窺うようになってから、毒島本人がここを訪れたことはなかった。

 多間木と魚崎は毒島の部屋を体のいい宿泊場所として利用しているのだろう。

 観察しているかぎりでは外で好きに遊び、家に帰りたくないときに立ち寄っているという印象だった。

 ふたりはいま十神まりなを浚うために出かけている。

 事件の裁判記録や警察の調書には被害者であり、当時死亡していたまりな自身の言葉はない。そこに書かれていたのは、加害者である少年たちの一方的な――ひょっとしたら自分たちに都合のいい――言い分だったのかもしれないが、あの剣持警部も捜査に加わっているので、証言の裏付けはしっかりとされているはずだ。

 多間木たちがバイト終わりのまりなを強引にこの部屋へと連れ込むまであと十数分。

 彼らの性格やまりなの今後の安全を考えると、ここで少女監禁未遂の現場を押さえるしかない。まりなには怖い思いをさせてしまうことになり心苦しいが、未遂とはいえ事件が起これば警察の介入が期待できる。

 それに万が一を考え、佐藤刑事にも事情をぼやかして説明した上で協力をとりつけている。指定した時間になってもハジメから連絡がなければ、彼が巡回を装い毒島の部屋を訪ねてくれる手はずになっているので問題ない。

 

 ――いーよねー。「少年法」ってヤツは!

 

 一回目のときに聞いた多間木の言葉が蘇り、ハジメはギリッと奥歯を噛みしめた。

 犯罪をするのなら二十歳前だと笑った多間木の顔を覚えている。あれは強がりや虚勢ではない。本人の申告通り、彼は『改悛の情』など持ってはいなかった。被害者への罪悪感や反省なんてレベルの話ではなく、自分がしていることがなんなのかすら、多間木は本当の意味で理解していなかったのだろう。

 だから、いまハジメがしようとしていることはただの自己満足だ。

 仮に今回、まりなの悲劇を回避できたとしても、多間木や魚崎が改心しないかぎり、結局のところ被害者がべつの誰かに変わるだけで、ハジメの行動に意味なんてないのかもしれない。

 

 人は罪を犯しても必ずやり直せる。

 たとえ殺人者であっても、人の心には温かい部分、善なる部分が必ずある。

 

 ハジメはそう信じている。

 それでも多間木や魚崎に対する苦い思いは消えないし、彼らがこのまま一回目と変わらぬ人生を歩めば、同じように彼らに傷つけられる人が出てくることも理解している。

 どんな人でもきっと変われる。

 けれど、それは他人でしかないハジメの介入では難しい。ただの女子中学生の言葉が彼らの心に響くと思えるほど、ハジメは自信家でも楽観的でもなかった。

 

「……はぁ」

 

 重いため息は自分らしくない。

 わかっている。でも、自分だけが知る“先”を考えると……その心細さに身がすくみそうになってしまう。

 寒さにかじかむ手をズボンのポケットへと突っ込み、少しでも風を避けようとコートの襟元に首を引っ込めた。こういうときにマフラーを巻いてくれる準備のいい男がいないことが恨めしい。

 

「あの、毒島君の用事って?」

「まーまー。いいから、いいから」

「言ったろ? ここ、毒島のアパートなの。ちょっとここであいつを待ってようよ」

「……っ、あの、やっぱり今日は帰ります!」

 

 人通りの少ない場所とはいえ大胆なことだ。

 ハジメの視線の先で、多間木と魚崎は彼らの言動を怪しみ抵抗しようとしたまりなを、ふたりで半ば抱えるように毒島の部屋へと引っ張っていく。

 まりなの不安と困惑に彩られた顔。

 記録で読んだ残虐行為の数々。

 ハジメはいますぐにでも飛び出したい気持ちを堪えて、ギリギリとこぶしを握り締めた。まだダメだ。まだ早い。現場を押さえるのならば、まりなが部屋へと無理やり連れ込まれる瞬間。できれば、彼女自身の口から助けを求める言葉が出てからだ。

 アパートの階段を上がる三人の姿を確認して、ハジメは彼らに気づかれないようにその後を追った。

 多間木たちはここまで来れば人目を気にする必要はないと判断したのか、まりなの口を手で塞ぎ、そのまま強引にふたり掛かりで必死に抵抗する彼女を引きずって廊下を進む。

 ハジメはその光景を階段の陰からそっと窺った。

 緊張からか呼吸は浅くなり、自分の鼓動の音がいやに耳につく。

 

(……大丈夫)

 

 毒島の部屋は二階の突き当りなので階段からは一番距離があるが、彼らがドアを開けてから全力でダッシュすれば充分に間に合う。

 多間木たちの目的はまりなを殺すことではない。

 もしも自分が止めに入ることで状況が悪化したとしても、すぐさまとり返しのつかないような怪我を負わされる可能性はかぎりなく低い。

 ちらりと左手首のGショックに視線をやれば、現在の時刻は裁判記録や調書で知ったものとほとんど相違なかった。

 少し離れたところからガチャリと鍵を開ける音が聞こえてくる。

 

「嫌……っ! 誰が、助けて……っ!!」

 

 そのくぐもった悲鳴を合図に、ハジメは階段の陰から飛び出した。

 

「なにしてるんだ、あんたたち!?」

 

 思わぬところから詰問じみた言葉がかけられ、多間木と魚崎はその肩をびくりと震わせる。彼らはまりなの口を再度強く手で塞いで、見咎められた気まずさや疚しさを押し隠すようなきつい視線で辺りを見回した。

 悪意に濁った四つの瞳がハジメを見る。

 

「あん? なんだ、このガキ」

 

 自分たちを制止したのが子どもだとわかり、多間木たちはあからさまにほっとした顔をした。余裕をとり戻したようにニヤニヤと笑みを浮かべるその顔はどこまでも醜悪だ。

 ふたりの背に隠されながらも、まりなは自分を助けに入ったのが幼い子どもだと気づいてサッと顔を蒼褪めさせた。必死に目だけで「逃げて」と伝えてくる。

 

「驚かせやがって。ボウズ、怪我したくなかったらさっさとママんとこにでも帰んな」

「そーそー。俺たちはちょっとこの子が体調が悪くなったから、カイホーしてやろうってだけなんだよ」

「ふざけんな! さっきその人が助けてって言ったのが、聞こえなかったとでも思ってんのかよ!!」

「チッ。うるせぇな」

 

 多間木は威嚇するようにハジメの胸倉をつかみ上げ、「だったらどうだって言うんだよ!」と怒鳴った。自分をつかむのとは反対の手が振り上げられたのを見て、ハジメはとっさにぎゅっと目を瞑る。ちょっと殴られるくらい大したことじゃない。明確な暴行の証拠はむしろ願ったりだし、いっそ大声で泣き喚いてやろうか。

 

「……?」

 

 ハジメは予想していた痛みがいつまで待っても来ないことに内心首を傾げ、そろそろと目を開けた。思ったよりも近くに多間木の顔があり、うげっと精一杯身体を仰け反らせる。多間木はそんなハジメの反応を気にもとめず、まじまじとこちらを観察してぞっとするような下卑た声で笑った。

 

「はは。魚ちゃん、こいつボウズじゃなくて女だわ」

「え、マジ?」

「どーする? 顔も身体も全然好みじゃねぇけど……この、反抗的な目はケッコーいい感じじゃね?」

「……っ」

「おー、ビビってるビビってる」

 

 自分を値踏みする男の視線に背筋に冷たい汗が滲む。

 ハジメの本能が警鐘を鳴らし、「逃げろ」と大声で叫んでいる。

 

 ――怖い。

 

 いままで晒されたことのない悪意を、欲望を向けられ、口の中がカラカラに干上がっていた。それでも、ハジメは生理的に浮かんだ涙を散らすように目の前の男を強く強く睨んだ。

 こんな相手に屈したくない。

 恐怖に囚われてしまわないために、必死で思考を巡らせる。状況は最初に想定していたものとさほど変わりはない。多間木たちがこのまま自分も一緒に部屋の中へと引きずり込むつもりなら、今度はハジメ自身が監禁の被害を訴えられる。

 助けが来るまで、佐藤刑事が到着するまで、耐えていればいい。

 たかだか数十分の我慢だ。

 だから、ハジメは多間木の手が自分の口を覆い、身体を抱き込まれるように抱え上げられてもじっとしていた。塞がれた口は男の手のひらの下できつく引き結ばれている。そうしていないと、自分の意志に反して悲鳴が口をついて出そうだった。

 

「――さすがに、それは自己犠牲がすぎるのでは?」

 

 その声が聞こえたとき、自分のなかにわき上がった感情がなんなのか……ハジメは、知らない。

 胸の奥の、自分の一番深いところをぎゅっと引き絞られるような痛みがあるのに、泣き出してしまいたいようなどこか温かなそれは、少しだけ安堵や喜びに似ていた。

 

「……高遠」

 

 気づけば、男の腕の中にいた。

 拘束されているのは先ほどまでとなにも変わらないのに、ハジメは自分がいまなに一つ恐怖を抱いていないことを実感せずにはいられない。

 その声だけで、コート越しに伝わるその体温だけで、不思議と身体から余分な力が抜ける気がした。

 ハジメが名前を呼んだときだけ、ほかの誰にもわからないほど小さく反応した男の腕は、それでもハジメの胴へとがっちり回されたまま動かない。

 

「あんた、ひょっとしてタイミング見計らって出てきた? そういうの、カッコ悪ぃぞ」

「これでも演出プランを考えていたんですがね。君のせいで台無しですよ。まあ……減らず口が叩けるようで安心しました」

 

 少しだけ速いこの心音は、自分のものか、高遠のものなのか。

 

「……っ、なんだよ、あんた!?」

 

 まずいと顔に書いた多間木は、ハジメと高遠を見比べながらも、ちらちらと中途半端にドアが開いたままの毒島の部屋を窺う。そのなかにはハジメよりも先に連れ込まれたまりながいる。彼女の声が聞こえないところからすると、魚崎が口を塞いでいるのだろう。

 そんな多間木の視線を遮るように高遠がハジメを自分の背へと庇う。

 

「警察か!?」

「いいえ、違いますよ。しかし、あなた方がその部屋の中にいらっしゃる十神まりなさんを返してくださらないのなら、市民の義務として通報することになりますが」

 

 高遠が「どうしますか、多間木匠君」と脅しのように名前を付け加えれば、多間木は口の端を引きつらせながらも、部屋の中の魚崎へと声をかけてまりなを解放させた。

 気遣いなどない乱暴さで廊下へと押し出されたまりなを、ハジメは慌てて受け止める。ずっと抵抗していたからか、彼女の息はひどく荒かったが、ぱっと見るかぎり怪我などはしていないようだ。

 

「なんか勘違いしてるみたいだけど、俺らはべつになんにもしてないぜ? ちょっとナンパに熱が入っちまったってだけでさ」

 

 ヘラヘラと笑った顔には悪びれた様子など一切なかった。

 わかっていたことだが悔しい。多間木も魚崎も、まりなが感じていた恐怖など一つも理解していない。

 廊下の床に座り込み、まだかすかに震えるまりなの身体をハジメはぎゅっと抱きしめる。膝をついた床の冷たさにか、それとも彼女の恐怖が痛いほどに伝わるからか、知らずハジメの身体も小さく震えていた。

 

「君はこんな連中が改心すると本気で思っているんですか?」

「…………」

「ふふ。ここで安易に即答しないだけの冷静さを持っている君が好きですよ」

「バカにしてんだろ」

「まさか! むしろ褒めているつもりなんですがね。まあ、今回は賢いくせに人への期待をやめられない哀れな名探偵君に少しサービスしてあげましょう」

 

 こちらを振り返った男は場違いなほど穏やかに微笑んでみせる。

 しかし、その目の奥にあるのが冷たく研ぎ澄まされた殺意に感じられて、ハジメは弾かれたように立ち上がった。

 

「高遠……っ!」

「おい、あんたら、なにわけのわかんねぇこと言って――」

 

 ハジメの伸ばした手は、相手へと届くことなく無情にも目の前でバタンと音を立てて閉まったドアによって阻まれる。慌ててドアノブを捻るが、鍵をかけられたのかガチャガチャと無意味な音を奏でるだけでそれはちっとも開いてくれなかった。

 古いアルミ製のドアからはもちろん悲鳴なんて聞こえてこない。

 

「殺すな、高遠!!」

 

 ドン、ドンとドアを叩きながら声を張りあげる。

 脳裏に浮かぶのはどこまでも冷たい男の瞳だ。自分でもなぜこんなにも不安なのかわからない。ただの殺人を「美しくない」というあの男が、こんなにも直接的に人を手にかけるはずがない。そう頭では理解しているのに、先ほどの高遠の様子に常にない怒りを、彼らしくない激情を感じて、ハジメはその不安を拭い去ることができなかった。

 なにかに急き立てられるようにドアを叩き続けていれば、驚くほど簡単にそのドアは内側から開いた。まるで自分の部屋であるかのような気軽さでドアを開けた男は、力を込めて叩ぎ過ぎて真っ赤になったハジメの両手を見て小さく眉根を寄せる。

 

「高遠……」

「殺しません」

「え?」

「殺しませんよ」

 

 いままでの高遠遙一ならこのあとに「いまはまだ」とか「今回は」とか、物騒で面倒くさい言葉をつけ足したはずだ。それなのに自称犯罪芸術家はどういうわけかそのまま黙ってハジメを見つめている。

 

「信じられませんか?」

「……信じるよ」

 

 それは推理やなんらかの根拠に裏付けされたものではなかったけれど。

 ハジメは信じたいと思った。

 自分の言葉にちょっとだけ優しさを滲ませた苦笑を返す、この男を信じたいと、たぶん初めて心の底からそう思った。

 

 

 

 

 多間木匠は自分の身になにが起きているのか、自分がいったいなにに巻き込まれたのか、微塵も理解できなかった。

 毒島の同級生だという十神まりなを少々過激なアソビのターゲットに選んだのは、なにか問題が起きたときにいつものように便利な友人にすべてを擦りつけるためだ。だからこんな風に魚崎が、ましてや自分が、トラブルの渦中に引きずり込まれるなんて想像もしていなかった。

 多間木の目の前で、魚崎は高遠と呼ばれていた男にバスタブの中へその頭を突っ込まれている。魚崎は多間木と違いなに一つ拘束されていないのに、男は必至で抵抗する魚崎をその細い腕で軽く押さえ込んでいた。魚崎を眺める瞳にはぞっとするほどなんの感情も浮かんでいない。

 狭い浴室内には男が魚崎を押さえつけているのとは反対の手で、腰掛けたバスタブのふちをカツカツを規則正しく叩く音が響いている。

 少しずつ魚崎が水の中で吐き出すごぼごぼという泡が小さくなっていくと、男はふっと腕の力を抜き、彼の頭を水面から持ち上げた。しばしの間、バスタブのふちを叩く音も途切れる。

 後ろ手に拘束された状態で廊下にへたり込み、開け放たれた浴室のドア越しにそちらを見ている多間木には、魚崎の「ハーッ、ハーッ」という荒い息でしか友人がまだ生きていることを実感できない。

 

 拷問だ、と思った。

 

 息が整うのを待つことなく再び魚崎の頭を水の中へと押しつけた男がしているのは、まぎれもなく拷問だった。

 カツカツという音が再開される。

 それが自分たちの命のカウントダウンのようで、多間木は恐怖に歯をガチガチと震わせた。視線の先で徐々に徐々に魚崎の抵抗が弱くなっていくのがわかる。

 魚崎の次は、やはり自分の番なのだろうか。

 

「な、なあ。俺たち、あんたになにかしちゃった……?」

 

 男は一言も発せず、意を決して話しかけた多間木に視線一つ寄越さない。男の指が奏でるカツカツというリズムが、多間木の精神をどんどん削っていく。

 その音に急き立てられるように知らず知らずのうちに呼吸が浅くなり、視界は薄暗くなっていく。息が苦しい。肺いっぱいに空気を吸い込みたいのに、自分の周りから酸素がなくなったような閉塞感で頭まで痛くなってきた。

 

「金! 金ならあるぜ! 俺の父親はでっかい病院の院長なんだ。息子の俺のためにだったら、いくらだって払うよ!」

 

 男の目的がなんなのかわからなくて怖い。

 怒鳴るでもなく、脅すでもなく、男はこの部屋へと押し入ってきたときから終始淡々としている。多間木が謝っても、喚いても、まるで聞こえていないかのように男は少しも動じなかった。

 男が自分たちを痛めつけることに興奮しているのならまだ理解できた。

 しかし、この男にはそんな人間らしい感情があるようには見えない。

 アパートの廊下でも多間木は男と会話したはずなのに……もうそれがどんなものだったのか思い出せなくなっている。

 カツカツという音が止まり、だんだんと弱っていく魚崎の荒い息づかいが浴室に響く。

 多間木はもうなにも考えたくなくて、感じたくなくて、必死に目を閉じて精一杯身体を縮めようとその場に蹲った。

 

 

 ◆

 

 

 完全に魚崎の抵抗がなくなったのを確認して、高遠はその身体を浴室のタイルの上に放り投げた。ガムテープで身体をぐるぐる巻きにしてバスタブにつけるほうがはるかに簡単だなと、自らの過去のトリックを思い出しため息をつく。

 

「やれやれ、金田一君にはとても見せられませんね」

 

 殺さないと言った自分を真っ直ぐに見つめ、信じると答えた少女。

 彼女にこの惨状を見られれば前言撤回されかねない。

 念のため、うつ伏せに倒れた魚崎の呼吸を確かめようと、靴を履いたままの足で雑にその身体をひっくり返す。酸欠のせいか顔色こそひどいものだが、一応きちんと息はしているので大丈夫だろう。

 拷問まがいの行為で人ひとり殺しかけても、自分がされる側に回れば、こんなにも脆いとは呆れてしまう。一か月もの間嬲られ続けてもなお、他人を思いやれた十神まりなのほうが強靭な精神を持っているに違いない。

 魚崎葉平はその素行以外はおおよそ平凡な人間で、変に弱みを握って脅すよりも、圧倒的な暴力で恐怖を植えつけるほうが手っ取り早かった。修復に時間がかかる程度にはその精神を叩き折ってやったので、もう魚崎が一回目と同じようなことを仕出かすのは難しいはずだ。彼が起きたらダメ押しにトラウマを植えつけてやろう。

 

 さて、と浴室から出れば、廊下で待機させていた多間木がガタガタと震えながら蹲っていた。

 

 この部屋の前で、多間木に抱えられ連れ込まれそうになっていたハジメを見たとき、高遠のなかにわき上がったのは自分でも驚くほどはっきりとした怒りだった。不快さを伴うそれは、いまも高遠をチリチリと焼いている。

 ほかの男が彼女に触れている――それ自体も、決して愉快なものではなかったが、それよりもはるかに許しがたかったのは、少女が多間木に恐れを抱いているらしいことだった。

 恐怖に吞まれまいとするハジメはいじらしくて可愛らしいが、それを目にするのが高遠だけではないのはいただけない。そもそも自分以外が彼女を深く傷つけることそのものが罪だとさえ思う。

 

「いっそ、今回も火あぶりにしてしまいましょうか」

 

 予定とは違う上に、諸々の準備が無駄になってしまうが気分は多少スッキリしそうだ。

 相手の態度から恐怖で気でも触れたのかと疑ったが、きちんと高遠の言葉は理解できたようで、多間木は蹲った姿勢のまま一度大きく身体を震わせてすすり泣きを始めた。

 

「……もう……な、さい」

 

 小さなつぶやきは呪文か念仏のようにも聞こえるが、嗚咽まじりの言葉はどうやら謝罪と懇願らしい。まあ、高遠の目的は彼に反省を促すことではないので、そんな言葉はどこまでも無意味で無駄でしかない。

 多間木や魚崎が改心するかなど、本当のところ高遠にはどうでもよかった。

 べつに彼らが一回目と同じような罪を犯そうが、より醜い行為に手を染めようが、そんなことに興味も関心もない。ただ彼らがハジメの視界に入らなければそれでいい。

 救えなかった、と少女のなかに後悔として残りさえしなければ。

 

「こちらの希望としては、せめて君に不動山市からは出て行ってほしいんですよね」

 

 高遠の要望が想像よりもずっと簡単なものだったからだろうか。

 多間木は怯えながらもそろそろと顔を上げてこちらを見た。真っ青な唇のその奥でガチガチと歯がぶつかり合っているのがわかる。

 せっかく準備したのだからやはり当初の予定通り進めようと高遠はパチンと指を鳴らし、袖の仕込みからB5サイズの紙を取り出した。

 そこに書かれている内容はありふれた告発文だ。

 多間木のこれまでの所業が子細に書き連ねられているそれを「どうぞ」と差し出してから、そういえば拘束を解いていなかったと気づき、後ろに回って左右の親指につけていた結束バンドを切ってやる。多間木は拘束を解かれたことに驚きながらも、恐る恐るといった様子で高遠から紙を受けとり、きょどきょど落ち着きなく動く目を必死に紙面へと走らせた。

 

「な……なんだよ、これ」

「おや? なにか記載に誤りがありましたか?」

「ど、どうやってこんな……いや、なんでこんなもんが……っ」

「君のお父上にそろそろ不出来な息子さんを切り捨てていただきたいと思いまして」

 

 多間木匠の父親は医療法人多間木記念病院の院長で、彼はそのひとり息子だ。一回目の『女子高生死体遺棄事件』のあとも、多間木院長は息子をアメリカ留学させたのち、ほとぼりが冷めてから自分の手元へと呼び戻している。

 多間木自身をどうこうしようと、彼は実質父親の支配下からは逃れられない。

 そうであるならば、多間木院長には息子のことで婉曲な脅しをかけるよりも、潔くその存在ごと縁を切ってもらう方が都合がよかった。幸い、父親が絶縁の意志を固めるだけの“やらかし”は多間木本人がたっぷり用意してくれている。

 

「お父上の病院と各関係者方へ同じものをお配りしておきました」

 

 高遠がそう告げれば、まるでタイミングを計っていたかのように多間木のスマホが鳴り出した。固まったまま動かない多間木に代わり、彼のポケットからスマホを取り出してその画面を見せてやる。

 そこに表示された『父』の文字に多間木の顔が歪む。

 この着信が自身を救うためのものではないとわかっているのだろう。

 彼がその電話に出ることはなかった。

 鳴り続けるスマホの電源を落とし、高遠は殊更にゆっくりと優しさすら滲ませた穏やかな口調で、項垂れる多間木のその耳元へと囁く。

 

「もう、君を助けるものは誰もいない。父親という後ろ盾をなくしてしまっては、これまでのように罪をなかったことにはできません」

「罪……」

「そう。誰もが明るみになったいままでの君の行いに眉を顰め、そのあり方を糾弾しようとするでしょう。被害者の顔が思い出せますか? 彼ら彼女らはどんな顔で君を見ていますか? 侮蔑? 怒り? あるいは――憎悪?」

 

 自分が覚えていなくても、されたほうは決して忘れないのだと、報復をほのめかせる。フローリングの床を爪でカツカツと叩けば、面白いほど従順に多間木の呼吸はそのリズムに合わせて浅くなっていく。いま彼のなかに蘇るのは死への恐怖だ。

 

「犯した罪は、どこまでも君を追ってくる」

 

 多間木の目の焦点はほとんど合っていない。酸欠で朦朧とし始めている意識に、自らが犯した罪への、罰への恐怖を塗り込んでいく。

 反省や後悔、罪悪感などを植えつけたところで、土壌となる性根が腐っていれば、大した効果は望めないだろう。それよりも、こういった手合いにはわかりやすい自分への悪意や危機のほうがよほど脅しとしては役に立つ。

 

「もしも、それに捕まったら――どうなってしまうんでしょうね?」

「い、嫌だ……っ」

「ええ。きっと恐ろしいことが起こるでしょう。とてもとても恐ろしいことが。……捕まらないためにはどうしたらいいと思いますか?」

 

 答えを求める縋りつくような目。

 それは高遠を見ているようで見ていない。軽いトリップ状態だが、深層心理へと刷り込むのなら、これくらいがちょうどよかった。

 

「――逃げるんですよ」

 

 自分のことを知るものが誰もいない場所へと逃げればいいと告げてやれば、多間木は「そうだ。逃げなきゃ……早く遠くへ」と高遠の言葉を繰り返すようにつぶやく。

 高遠は多間木や魚崎に改悛の情など期待しない。

 彼らに真っ当な生活や安らぎが必要だとも思わない。

 だから、これが高遠にとっての最適解だ。

 

「さあ、次は魚崎葉平を起こしますか」

 

 たった一時間足らずの間で別人のようなげっそりとした顔つきになった多間木を尻目に立ち上がる。

 くだらない連中に、つまらない結末。

 すべてが予定通りに運んでも残念ながら達成感など微塵もないが、これもハジメのためだと思えば、それほど嫌な気がしないのが自分でも少しだけ不思議だった。

 

 

 

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