平行線機能不全   作:キユ

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終章③

 

 ハジメはアパートの廊下に座り込み、高遠が部屋から出てくるのをひとり待っていた。廊下を照らす古ぼけた白熱電球がときおりジジッと音を立てて、床に映った自分の影が陽炎のように揺らめく。

 

「……おっせーな」

 

 高遠が部屋に入ってからかれこれ三十分は経っただろう。

 何度も心配そうにこちらを振り返るまりなの顔を思い出す。まりなはハジメをここに残していくことをかなり渋っていたが、恋人の青井零児が迎えにくれば、緊張の糸が切れたのかその腕の中で泣きじゃくり、疲れ切った様子で肩を抱かれて帰っていった。

 強い女性だと思う。

 自分だって怖い目に遭ったのに、ハジメを気遣ってか恋人が来るまで涙一つ見せなかった。

 青井にはまりなに代わり、ハジメから簡単に経緯を説明してある。とは言っても「質の悪い男たちに部屋に連れ込まれそうになった」くらいで、とりあえず警察に被害を訴えるのなら証人になる、と連絡先を交換しておいた。まあ、まりなは剣持警部と親しくしているので、そちら経由で相談を持ちかけるのかもしれない。

 当初の予定とだいぶ変わってしまった現状にハジメは小さく目を伏せた。

 

(なんで、来たんだよ)

 

 自分で地獄の傀儡師だと、平行線だと言ったくせに……と言葉にせず口の中でつぶやく。

 すでに本来の協力者だった佐藤刑事にも連絡を入れたので、ハジメの行動を読んで高遠も彼にコンタクトを取っていたことは本人から聞いた。佐藤刑事が言うには、ハジメが喫茶店で彼に協力を取り付けた翌日にあの男から連絡があったらしい。続けられた「それで、仲直りできた?」という言葉で、おおよそ高遠がなんと言って佐藤刑事を言いくるめたのかはわかった。

 協力する気があったのならハジメに直接連絡してきたらいいのに、本当にどこまでも面倒くさい男だ。

 

「…………」

 

 視線の先にあるドアはまだ開かない。

 正直、いったい部屋の中であの男がなにをしているのか不安でしかないのだが、それでもハジメはただ静かに高遠を待つことを選んだ。

 自分のなかの高遠への信頼と疑心はいまもオセロのようにくるくると反転している。

 ハジメは元来、人を疑うのは好きじゃない。

 いままで高遠のそばにいると感じる苦しさは、あの男の疑わざるを得ない言動のせいだと思っていた。疑いたくないのに、疑わなくてはいけないから苦しいのだと。しかし、高遠に「信じる」と答えてから気づいた。自分はべつに高遠を疑うことが苦しかったわけではない。

 

 信じて――裏切られるのが、怖かったのだ。

 

 誰にも抱いたことのないこの感情はいったいなにに起因するものなのだろうか。

 ハジメは思考の上では疑っていても、心情的にはいつだってその相手を信じている。だから友人が殺人者となってしまっても「裏切られた」とは思わないし、友人の苦しみに気づけなかった後悔はあっても、怒りなどは少しも感じたことはない。

 人を信じるという行為は、ハジメの心のなかの根っこのような部分に揺らぐことなく存在している。

 それなのに高遠にだけ感じる恐怖にも似た感情。自分の一番柔らかいところを脅かされるようなそれが、ハジメにはどうしようもなく苦しい。

 高遠遙一を信じきれないのは一回目の記憶のせいだ。

 では、裏切られることを怖いと感じているのは――?

 

「くしゅんっ! ……うー、寒ぃ」

 

 盛大なくしゃみで、ハジメの思考はそこで霧散した。

 背もたれにしている転落防止用のフェンスは縦格子になっていて、容赦なく冷たい風が吹きつけてくる。コンクリートの床の冷たさは言わずもがな。むしろ、そんなところに座っているほうが寒いかもしれない。

 垂れそうになった鼻水をズズッとすすり、ハジメはコートの前をかき合わせる。気休めにもならないが少しでも寒さをしのごうと、立てた両膝を抱え精一杯身体を縮こめたとき、ガチャリと鍵が開く音がして、ハジメは弾かれたように伏せかけていた顔を上げた。

 

「ここで待っていたんですか?」

 

 ドアを開けてするりと部屋から出てきた高遠は、ハジメを見て珍しく困った顔をする。見つめ合った相手の瞳に怒りや激情の色はない。

 しばしの沈黙のあと、そっと伸ばされた手をハジメは拒まなかった。

 長く外にいた自分よりも少しだけ温かいその手の持ち主は、びっくりするほど優しくハジメの頬を両手で包み込む。ほっとする体温は、しかしどこか居心地が悪い。

 優しい触れ方とは裏腹な不機嫌な声で、高遠は小さく「冷たい」と感想なのか文句なのかわからない言葉を漏らした。

 

「あんたが遅いからだろ。なにしてたんだよ?」

「ちょっとした話し合いですよ」

 

 噓くさい上に「立証可能な証拠は残していません」と続けられた言葉が不穏すぎる。

 いつまでも離れていかない男の手から首を振って逃れれば、そこにふわりとマフラーを巻かれた。見覚えのあるそれは、あのミス研の合宿で失くしたと思っていたものだ。

 高遠が持っていたのか。

 巻かれたマフラーをきゅっと掴む。あの合宿の日まで当たり前だったこの距離感がどうにも気恥ずかしい。壊れてしまうのかもしれないと危惧していたものが、なに一つ変わらないまま差し出されたような、どこか擽ったさのある喜び。

 この男との関係がなにか解決したわけではないのに、それでもたしかに自分のなかを満たすものがある。そしてそれは、高遠がハジメに与えてくれたもので、自分たちが築いてきた曖昧な関係の証でもあった。

 

 ――ちゃんと、変わっている。

 

 ハジメも、高遠も、一回目とは違う道を歩んでいる。これから先、自分たちがどんな関係になるのかはまだわからないけれど。もう、どうしようと『宿敵』なんてわかりやすい関係にも、『平行線』なんてうまく距離をとった関係にも戻れやしない。戻ってなんてやらない。

 

「疑うなら自分で確認してみますか?」

 

 続く沈黙をどう受けとったのか、自分が出てきたドアをもう一度開けた高遠の言葉に、ハジメは立ち上がって部屋の中をのぞき込んだ。短い廊下の奥に八畳ほどの和室があるだけの小さな部屋だったが、その廊下に多間木と魚崎の姿が見えてぎょっとする。

 多間木はなにやら紙のようなものを握り締めて暗い顔で蹲っているし、魚崎は上半身がびちゃびちゃに濡れているのも構わず頭を抱えて震えている。ふたりともハジメが部屋に入ってきたことにも気づいていない。

 

「えーっと……大丈夫ですか?」

 

 明らかに大丈夫そうではなかったが、一応そう問いかけた。

 彼らの尋常とは言い難いその様子は肉体というよりは精神に異常を来しているように見える。こういう場合も救急車は対応してくれるのだろうか。

 

「命に別状はありませんよ。そのうち正気に戻るはずです」

「……ホントかよ?」

「おや、信じてくれないんですか?」

 

 ハジメの疑惑を含んだ視線に楽しげな笑顔を返す男は大概面倒くさい。

 まあ、高遠がここでつまらないうそをつくとも思えないし、ハジメ自身も彼らにそれなりに含むところがあるので、それ以上関わることはせずにそっと部屋のドアを閉めた。

 彼らがこれからどうなるのかは、結局のところ本人たち次第なのだろう。

 それでもハジメは、彼らに自分たちの行いを反省してほしいし、もう誰かに恨まれて殺されるような人生を送らずにすむようにと祈ってしまう。

 隣を歩く男は、そんなハジメを甘いと言うのかもしれないけれど。

 

「なんです?」

「べっつに~」

 

 あんただって俺には甘いよ、といつか指摘してやろう。

 そんなことを考えて、ハジメは高遠が巻いてくれたマフラーの下で小さく笑った。

 

 

 ◆

 

 

 星が瞬き始めた空の下をハジメは高遠とふたり、ゆっくりと並んで歩く。

 吹きつけてくる風は冷たいし、吐く息も変わらず真っ白だが、不思議と寒さは和らいでいるような気がした。道路に映る淡い影はまるで寄り添っているかのようにぴったりとくっついている。

 こぶし一つ分ほどだけ空いた距離。

 ふいに隣を歩く男が足を止めれば、そのまま数歩進んだハジメの影と男のそれが交わる。振り向くと、高遠は静かな目でこちらを見つめていた。

 

「――満足ですか?」

「なにがだよ?」

「自分の思い通りになって」

 

 それが多間木や魚崎を指してのことではないのはわかった。

 

「あんたが俺の思い通りになったことなんて一度としてねーよ。てか、そんな殊勝なタマじゃないだろ」

「そうですか? でも、僕の部屋に色々と自分のものを置いていくのは意図してのことでしょう。まったく、人の日常にずいぶんと勝手に入り込んでくれたものだ」

「それこそ、お互いさまだろ」

 

 たぶん、ふたりとも離れてみて初めて自覚したことがある。

 ハジメには高遠がなにを思ってここに、自分の隣にいることを選んだのかはわからない。でも、自分がこの男との関係に悩んだように、高遠の心情にも何某かの影響があったのならばいい気味だと思う。

 振り回されるばかりはわりに合わない。

 

「なあ、この際だから俺も聞くけど……なんで俺に執着すんの? 同じように一回目の記憶を持ってるから? あんたのいう平行線だからか?」

「君が……金田一一のまま、存在しているからですよ」

「答えになってねぇぞ」

「わがままですねぇ。べつに言葉通りの意味なんですが。私が君に向ける感情に名前をつけてほしいんですか? ……ふむ。“愛”だと言えば納得します?」

「無理」

「でしょうね。――世界でたったひとり、君にだけ向けるこの感情に名前なんて必要ないんですよ。既存のどんなものを当てはめたところで、ぴったり一致することはないんだから」

「……重たすぎんだろ」

「ふふ。私の執着の理由を知って、それを断ち切りたかったんですか? 無駄だと思いますけどね。死すら、僕たちを(わか)つことはできない」

 

 饒舌な高遠はどこか機嫌がよさそうに、自分たちは『愛』よりも強固なもので結ばれているのだと言う。

 ハジメからすればそんな感情を向けられるのは迷惑極まりない。クーリングオフ先を教えてもらえたらいますぐにでも叩き返してやるところだ。それが無理でも、せめてもっと一般的な情緒を身につけてほしい。

 

「あんたは一回目の記憶なんてもんがあって嫌じゃねぇのかよ。先がわかってるのなんて、つまらねぇってタイプだろ?」

「……だって君、私に記憶がなかったら、どうせほかの犯人たちと同じようにその罪を許してしまうでしょう」

 

 高遠の言わんとすることが理解できてしまって、ハジメは「ああ……」とその肩を落とした。

 なるほど、たしかに自分たちは平行線だ。

 ハジメはこの男にすべてを忘れて、ただの高遠遙一として生きてほしいと願っている。しかし、地獄の傀儡師である高遠はそうじゃない。ハジメの願うそんな人生にはなに一つ価値を感じないのだ。ハジメに「許されない」ことこそが特別だと信じている。

 悲しい、と思う。

 そんな価値観はどうしようもなく悲しい。人から与えられる優しさや温もりで満たされないのは、ハジメにはあまりにも哀れなことに感じられる。これが高遠という男の生来の気質ならば、あるいは仕方がないと思えたのかもしれない。だが、そうではないとハジメは知っている。

 一回目の記憶が……金田一一という存在が、この男を歪めてしまった。

 

「なんで……なんで覚えてるんだよ。全部忘れて、普通に幸せになれよ」

「人を勝手に不幸にしないでもらえますか。それに私は……君を忘れては、生きていけない」

 

 それは地獄の傀儡師としてなのか、高遠遙一としてなのか。

 

「君はきっと、忘れていたほうが幸せだったんでしょうね」

 

 高遠の言葉に、ハジメは苦い笑みを浮かべる。

 一回目の記憶を持って生まれたこの人生を恨んだことはなかった。「どうして」という詮ない疑問があることは否定しないが、記憶を持っていなければよかったとは思っていない。

 ハジメに記憶がなければ救えない人たちがいるから。

 記憶を拒否することはとりもなおさず、そんな彼らの命を否定することになる。ハジメは誰に言われるでも、請われるでもなく、自らの意志でいまの生き方を決めたのだ。

 

「ねぇ、金田一君。私と取引しませんか?」

「取引?」

「そうです。君が一回目の自分自身に区切りをつけるまで、私は君のそばにいてその意志を、目的を尊重しましょう。善良で品行方正な協力者にも、便利で優秀なマリオネットにもなりますよ」

「……見返りはなんだよ。タダじゃねぇんだろ?」

「話が早くて助かります。君がただの金田一一になったそのときは、平行線という私たちの関係に決着をつけたいんです」

「! ……っ、高遠、おまえ!」

「ああ。べつに惨劇に招待しようというわけじゃないですよ。君が望んでくれるのなら、地獄の傀儡師として舞台に上がるのもやぶさかではありませんが」

 

 ぐっと睨みつければ、笑って否定される。

 

「君が決めていいですよ。選択肢は与えますから、そのなかから君が、君自身の意思で選んでください」

「その選択肢がどれも気に入らなかったらどーすんだよ?」

「そうですねぇ。警視庁に脅迫状でも送りつけましょうか」

「脅しじゃん。んな面倒くさいことしねぇで、希望があるなら言えばいいだろ」

 

 それを受け入れられるかはわからないが、もう一度この男を地獄の傀儡師にさせるわけにはいかない。

 

「いまはまだダメです」

「なんで?」

 

 有無を言わせぬ笑顔を浮かべた男は、それ以上なにも教えてくれなかった。自分で推理しろなどと言わないあたり、ハジメに探らせる気もないらしい。

 以前、高遠はハジメを自分の完全犯罪(マジック)で跪かせたいと言っていた。だが男に地獄の傀儡師をするつもりはなさそうなので、たぶん血腥い感じのものではないのだろう。これでもし、高遠の提示する選択肢とやらが「アリバイトリック」か「密室トリック」かみたいなものだったら、絶対にその場でキレて暴れてやる。

 

(これって、結局現状維持ってことなのか?)

 

 とりあえず、その日までは高遠が地獄の傀儡師にはならないと確約を得られただけ、前進したと言えないこともない。

 変わったようで変わっていないのか。変わっていないようで変わったのか。

 

「もう遅いし、君の自宅まで送りますよ」

 

 そう言って、また自分の隣まで来た男をハジメは信じてみようと思う。

 いつか高遠に裏切られるときが来るのかもしれない。ハジメに「許されない」ことを望むこの男との先になど、真っ当な人生や幸せが用意されていない可能性のほうがずっと高い。

 それでも、この厄介で面倒な男との関係をもう少しだけ続けよう。きっと、信じた先でしか見つからないものだってある。

 

「俺のど渇いた。ずっと外にいて冷えたし、温かいもん飲みたい」

「なら、どこかに寄って帰りますか。なにが飲みたいんです?」

 

 寒い星空の下で、高遠と交わした取引。

 もしもこの決断を後悔する日が来たとしても、そのときは未来の自分が盛大に悩めばいい。いまのハジメはただ高遠の言葉に笑ってこう返してやる。

 

「――紅茶! 牛乳たっぷりのやつ!」

 

 

 




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