序章「入学」
1
連日降り続いた雨は今朝方ようやく上がり、道路にできたいくつもの水たまりが、久しぶりに顔を出した太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。そのなかを薄紅の花びらが風に吹かれてゆらゆらと漂っている。この長雨のせいで満開だった桜はもうだいぶ散ってしまっただろう。
見上げた空は澄みきった青と雲の白さのコントラストがとても美しかった。
高遠遙一が金田一一と再会してから七回目の春。
降り注ぐ暖かな日差しに目を細め、高遠はふとハジメと――
函館・旭川経由死骨ヶ原行き寝台特急のB寝台車。
後にも先にも、ハジメが高遠の差し出す薔薇を笑顔で受け取ってくれたのはあの一度きり。一回目の人生ではなんの価値もなかったその出来事を、なぜかいまになってときどき思い出す。性別が変わっても、ハジメには彼だったときの面差しが色濃く残っている。それでも、高遠が彼の笑顔を見る日はもう二度とやって来ない。
一回目と同じはずのこの世界は、どれだけ待ち望んでも十七歳の彼とだけは出会うことができない。
もとの関係には戻れないと自覚してから、その事実は高遠に一抹の寂しさと拭い難い喪失感を与えた。とっくに彼女と過ごした時間の方が長くなっているというのに、高遠のなかには消えることも、薄れることもなく十七歳の彼がいる。
それが、いわゆる『後悔』に起因するものだというのは自分でもわかっていた。
もう高遠にはハジメを喪うことはできない。他人の手はもとより、たとえ自分で手であっても、あの子どもの命が奪われるなど許せないと思ってしまっている。
ハジメとした取引の期限まであと二年もない。
彼女は相変わらず目の前の――否、過去の救えなかった人間たちへと手を伸ばすのに必死だ。高遠はそんな彼女の望むままに協力者としてそばにいる。必要ならハジメの取りこぼしたものも拾ってやるし、彼女にはできない解決策も提示する。
高遠が差し出した手を、ハジメはなんの躊躇いもなく握るようになった。信頼できる協力者などという立ち位置で満足する気は毛頭ないが、期間限定の関係はそうと割り切ってしまえばそれなりに心地よい。
それに自分の望む形でハジメを手に入れるための布石はすでに打ってある。
じわじわと外堀を埋めている高遠の真意に、彼女はいつ気づくのだろうか。高遠が自分の両親や幼馴染と関わりだしたことに疑問を抱きはしても、その行動を問い詰めては来ないのは高遠を「信じている」からなのか。
あの名探偵はたぶん肝心なところを読み間違えている。
一回目の記憶の弊害とでもいうべきそれのせいで、ハジメは高遠の望む『特別』が宿敵としてのものであると少しも疑っていない。そのことに気づいたとき、高遠はどうしようもなくうれしかった。彼女のなかには間違いなくまだ地獄の傀儡師が生きている。
ハジメは高遠を信じることはできても、この先もきっと許すことはできない。
そして、信じている相手を許せないことに苦しむのだ。いまの高遠遙一が罪を犯していない分だけ、彼女の苦しみは深い。
自分のせいで苦しむハジメを見るのは、この上もなく高遠の心を満たしてくれる。
以前は、愛されるよりも憎まれる方が彼女の心に残ると思っていた。だから高遠の犯した罪ではなく、高遠自身を憎ませたかった。
でも、いまは苦しんでほしいと思う。
苦しんで、苦しんで……それでもなお、自分とともにいることを選んでほしい。
決して交わることのなかった平行線の先になにがあるのか、なにを求めるのか、その答えにハジメよりも早く気づけたことは高遠にとって僥倖だった。
高遠は金田一一がほしい。
高遠のことを許せないと思う平行線のままのハジメが、頭のてっぺんから爪先まで余すところなく、そのすべてがほしかった。
彼女がこの手に入る日を、高遠は心待ちにしている。
◆
一回目と同じようにハジメは私立不動高校を受験し、学校が始まって以来の好成績で合格した。彼女の中学での成績や生活態度は相変わらず散々なものだったので、今回も不正行為を疑われたようだが、結局合格取り消しとはならなかった。
ハジメの両親や幼馴染はこの合格を高遠が勉強を教えたからだと思っているらしい。ハジメはそれを聞いて「なんで高遠の手柄みたいになってんの!?」と憤慨していたが、心置きなく遊ぶために受験勉強と称して高遠の部屋に入り浸っていたのは彼女自身なので自業自得である。
高遠としては、ハジメの身内から入学式への参列を打診されるような関係を構築できているので、自分のしてきた行動の成果を感じられてそこそこ満足だった。
「早いものですねぇ。金田一君も、もう高校生ですか」
目の前にある不動高校の正門を見てぽつりとつぶやく。
そういえば、高遠がハジメを女性だと知ったのは中学校の入学式のときだった。自分の動揺に気づかれたくなくてハジメを問い詰めたことはなかったが、あれは絶対に意図して隠していたといまでは確信している。少なくとも彼女は高遠の誤認を察していたし、それを訂正する機会は幾度もあったはずなのだから。
(君が、もしも少年のままであったのなら……)
自分たちは変わらずに平行線でいられただろうか。
それは意味のない仮定であるし、いまの高遠は本当に自分がハジメと平行線のままでいたいのかもわからなくなっている。
つまらないはずの日常が彼女とともにいるだけで意味を持つことに気づいてしまえる程度に、ふたりで過ごした時間は長くてどこか重い。たったひとりの人間にこうまで自分という存在が変えられてしまったことを悔しく感じる気持ちはあるが、相手がハジメなので仕方がないとも思ってしまう。
さてと高遠は入学式が行われている体育館ではなく、校舎へとその足を向けた。高遠のいまいましくも愛おしい生意気な名探偵は、どうせ屋上でサボりを決め込んでいるだろう。
人のいない校舎内を堂々と歩く。
不動高校は記憶のなかのそれとは少し違っていた。
まず裏門にあった木造校舎はとっくの昔に取り壊され、新しく建てられた鉄筋の校舎が『クラブ棟』の名で親しまれているらしい。木造校舎の取り壊しと前後し校内で発見された六体の人骨。その少々物騒な醜聞のせいで一時期はかなり生徒数が減っていたが、それもこの二・三年でようやくもとの賑わいを取り戻した。現在の不動高校は学生たちを呼び込むため、進学率や授業のカリキュラム、部活動にも一回目よりも力を入れて取り組んでいる。
生徒だけでなく教師も、幾人かはその顔ぶれが変わっていた。
高遠やハジメだけでなく、この世界自体もう一回目と同じだとは言えなくなっている。
「おや? 私としたことが……読み間違えましたかね」
屋上のドアを開けても、そこに少女の姿はなかった。
さすがのハジメも入学式くらいは参加しているのかもしれない。もともと入学祝いに昼食を奢れと呼び出されているので、このままここで待っていようと屋上へと出る。
雨のなごりを残したコンクリートに腰を下ろす気にはなれなかったが、屋上でひとり突っ立っているのもどこか間抜けだ。ハジメが来るまでの時間で、なにか彼女を驚かせる仕掛けでも用意できないかと転落防止のために張り巡らされたフェンスへと近づけば、後ろから「げぇ!」と嫌そうな声が聞こえてきた。
「なんでいるんだよ!?」
「君の母親から入学式を見に行ってやってくれと言われまして」
「……見てねぇじゃん、入学式」
「金田一君はてっきりここでサボっていると思ったんですよ。ちゃんと参加したんですね」
高遠が振り返ると、ハジメは少しバツが悪そうな顔をして頬を掻きながらそっぽを向く。“ちゃんと”は参加しなかったらしい。おおかた入学許可宣言あたりで抜け出してきたのだろう。閉会にはまだだいぶ早い。
「勝手に入んなよなー。不審者として通報されんぞ」
「そんなヘマはしませんよ」
こちらへと近づいて来る少女をじっくりと眺めた。
不動高校の女子制服を着たハジメはどこか新鮮だ。今日はわりと暖かいからか、十七歳のときと同じようにブレザーの袖を捲り上げている。スカートから伸びる足はいつの間にか女性特有の柔らかな曲線を描くようになっていた。
「なんだよ?」
すぐ隣まで来た少女はその大きな瞳で真っ直ぐに高遠を見る。
襟元の制服のリボンが曲がっていたのでそれを指摘すれば、ハジメは直すのが面倒だったようで、そのままリボンを外してブレザーのポケットへと無造作に突っ込んだ。
あとでなくしたと騒がれるのが目に見えていたので、少女のポケットからリボンを取り出してつけ直してやる。そのとき、胸元にある新入生のための造花がどうにも貧相なのが気に入らず、そっと忍ばせていた生花へと替えておいた。
血のように紅くはないけれど、小ぶりながら生命力に満ちたその薔薇はハジメによく似合っていた。
「金田一君。――高校入学、おめでとうございます」
改まってそう伝えれば、少女はちょっとはにかんだように笑う。
「精々頑張って悲劇を回避してくださいね」
「……なに他人事みたいに言ってんだよ。あんたも手伝うの!」
「でも、僕はここの学生ではありませんし。勝手に入ったら不審者と間違われてしまうかもしれないでしょう?」
「そうやって地味に根に持つのやめろ」
ブスッとむくれ顔をするハジメのご機嫌を取るために、高遠はすっと右手を彼女へと差し出した。空の手のひらを見せてからその上にハンカチを掛けて三つカウントする。「スリー!」のかけ声とともにハンカチを取れば、高遠の手のひらには小さなカップケーキが載っていた。チョコレートや飴よりも大きく隠すのに難儀したが、なかなかうまくいったと自画自賛する。
ハジメは渡されたカップケーキに、入学を祝う言葉が添えられていることに気づいて吹き出した。カップケーキからラッピングに至るまですべて高遠の自作だとわかったのだろう。
少女は高遠を凝り性だと笑うが、手間をかければかけるだけ喜んでくれる相手がいるのだから、趣向を凝らさなくてどうするのか。
高遠はハジメの笑った顔だけでは満足できないが、べつに笑顔を嫌いなわけではない。自分にだけ向けられるそれは、たしかにこの二回目でしか手に入れられないかけがえのないものだった。
2
荷物を後部座席へと放り込み、ハジメは助手席に座りシートベルトを締めた。
高遠はちらりとこちらを一瞥してから車をゆっくりと発進させる。高遠が今日連れていってくれるのは天ぷらが旨い店らしい。
「七瀬さんは一緒じゃなくてよかったんですか?」
「美雪は親がお祝いしてくれるんだって。なんかオシャレなイタリアンでお食事会だって言ってたぜ」
屋上でのやりとりのあと、ハジメは閉会の挨拶の途中で入学式へと戻った。
小学校や中学校とは違い全体的にゆるい式だったので、自分ひとりくらいちょっと姿を消しても、幸い誰も気にした様子はなかった。さすがに幼馴染はそんなハジメの行動をしっかり見咎め、眉を吊り上げて怒っていたが、それはわりといつものことなので問題ない。
「君はご両親とお祝いしなくてもいいんですか?」
「あー、うちはそんな外で飯食おうってガラじゃないから。母さんが夕飯に好きなもん作ってくれるくらいだな」
そう答えながら、母親が高遠を夕食に誘えと言っていたことを思い出し、形ばかりの誘い文句を口にすれば、どういうつもりか了承の言葉が返ってきた。
「え、来んの?」
「せっかくのお誘いですから」
「……昔誘ったときは断ったじゃねぇか」
「君も古い話を持ち出しますねぇ。家族団欒を味わわせてくれるのでしょう?」
古いと言いつつ、ちゃんとあのときの会話の流れを覚えているらしい。
再会した当初からずーっと面倒くさい男は、それでもあの頃のような不穏さやある種の不安定さをいつの間にか感じさせなくなった。相変わらず物騒だし厄介だし面倒なところはあるので、そのあたりも早急に改善してほしいと思う。
「なーんか母さんはあんたのこと気に入ってんだよなぁ」
「おや、それはうれしいですね。手土産が効いたのかな?」
「人の母親を買収してんじゃねぇよ」
「君たち親子は食の好みが似ていて助かります」
「え……いつの間に母さんの好みまで把握してんの? フツーに怖いんだけど」
むしろ引く。
娘の自分だって母親の好みなどろくに知らないというのに、なぜ他人の、それもたいした付き合いのない高遠が知っているのか。
ひょっとして高遠の持つなぞの情報源は幼馴染ではなく母親なのかとジト目で男の横顔を睨むが、胡散くさい笑顔を浮かべられただけで終わった。
相手の考えが読めなくてなんとなく腹立たしい。
不貞腐れた気分で背もたれに身体を預け、ずりずりと尻を滑らせて座席に深く身を沈める。いっそダッシュボードに足でも乗せてやろうかと思ったがそれはさすがに自重した。
「お腹が空いたから気が立ってるんですか?」
「人を野生動物みたいに言うなよ」
差し出されたチョコレートを受け取りながらではあまりにも説得力のないセリフだったが、食べ物に罪はないのでありがたく口へと運ぶ。
(こいつって、食べ物とマジック与えてりゃ俺の機嫌がとれると思ってるよなぁ)
野生動物というよりペットのような扱いだ。
そんなに単純じゃないと文句を言ってやりたい気持ちもあるが、機嫌をとろうという発想を持っただけ進歩したのだと、ハジメは賢明にも口を閉ざすことにした。
それにここでもし「ワンパターン」とでも言おうものなら、絶対につぎは想像もできないような面倒くさいものが出てくる。
ハジメはだらけた姿勢のままぼんやりとフロントガラスから空を見上げた。どこからか飛んできた桜の花びらが、そのガラスの端にちょこんと張りつくのが目に入る。
「あーあ。結局今年も花見に行ってねぇ」
「この辺りの桜はもうほとんど散ってしまったでしょうね。青森や北海道ならこれからが見頃ですし、行ってみますか?」
「そんな遠出できねぇよ。学校あるもん」
正確には校内外で起こる諸々の事件やその火種の回避だが、そうでなくとも、入学早々「花見をしに旅行」などいくら放任主義なハジメの両親でも許さないだろう。
「暖かくなる前に温泉にも行きたかったのにな~」
「君……結構な確率で事件に遭遇するのに懲りませんねぇ。また温泉に死体が浮いていても知りませんよ」
「やなこと言うなよ。てか箱根のとき宿を選んだのは高遠だろ。あんたのチョイスが悪いんじゃねーの」
「宿だけじゃなく道中でも事件に首を突っ込んでいた気がしますが。……ふむ。いっそ日に一組限定のような宿にしますか? 関わる人間は確実に減らせますけど」
「……そういうお高い場所、俺が苦手なの知ってて言ってるだろ」
「もちろん」
楽しさすら滲ませて答えられてはもう腹も立たない。
どうにもこの男はハジメが怒ったり、嫌がったりするのを見るのが好きらしい。悪趣味の極みだし、そんな感情を向けられて非常に迷惑している。しかも気づけば、甘やかすのとはべつのベクトルでちょこちょこと挟まれるこの手のなぞの嫌がらせにも、恐ろしいことにすっかり慣れてしまっていた。自分で言うのもなんだが、順応力が高すぎるのも考えものだ。
「格式ばった店は嫌だと言いながら、食事には毎回文句も言わずついて来るじゃないですか。今日の店もそれなりの料亭ですよ」
「だって、旨いんだもん」
それとこれとは話がべつだ。
ハジメは高遠のせいで、絶対に一回目の人生よりも舌が肥えたと思う。祝いの席だとしても『料亭』など普通はただの高校生には縁がない場所である。
「どうせ食べ始めたら他人の目なんて気にしないでしょう? 最初から好きに振る舞ったらいいのに」
「人の目が気になるわけじゃねぇよ。ただ、ああいう雰囲気は背中が痒くなるっていうか、なんかゾワゾワすんの」
「その感覚は少しも理解できない」
「あんたってわりとお坊ちゃんだもんなー」
自分たちは趣味も嗜好も価値観も、重なるところを探す方が難しい。
それでも不思議と息が合う瞬間みたいなものがあって、ほかの誰とも違うなにかをハジメはこの男と共有している。同じ一回目の記憶を持っているだけでは説明のつかないその感覚が、意外とハジメは嫌いではなかった。
一緒にいて特別楽しいわけではないのに、高遠の隣はどういうわけか居心地がいい。
「そう言えば、入学式は一回目と変わりなかったんですか? 生徒や教師の顔ぶれは多少変化があったでしょう」
「式自体はたぶん同じような感じだった。クラスメイトも二・三人初めて見る顔がいるなってくらいかな。先生たちはまだしも、さすがに全校生徒の顔は覚えてねぇし」
「教師陣だと朱鷺田忍や白樹紅音、的場勇一郎がいませんでしたね。……ああ、小田切進はちゃんと
高遠の言葉にハジメはきゅっと唇を噛みしめた。
自分がしてきたことのその先をハジメはほとんど知らない。ハジメが介入したことで的場勇一郎のように犯罪者として逮捕されていれば、その判決や刑期を調べることはできたが、それ以外の人物に対しては知るすべがないと言った方が正しかった。
彼ら彼女らがどこでどんな風に過ごしているのか気にならないと言ったら嘘になる。だが、そこまでは自分が関わるべきではないのもわかっていた。
悲劇を回避した先に必ず幸せが用意されているとは限らない。でもそれは、ほかのどんな人にも言えることだ。ハジメにはただこの人生では出会えなかった大切な人たちの幸せを祈ることしかできない。
「ふふ。気になるんでしょう?」
「…………」
「調べてあげましょうか?」
「――いらねぇよ」
「おや、君の友人たちのいまを知らなくてもいいんですか?」
「知ってどうすんだよ。幸せでも、そうじゃなくても、俺にできることなんてなんもねぇよ」
ハジメの脳裏に浮かぶのはひとりの少女だ。
時田若葉。
六角村の住人は、六つの館の主たちは、全員がすでに逮捕・起訴されてなんらかの判決を受けている。若葉の父親である時田十三はもともと心臓が弱かったこともあり、その刑期を終えることなく亡くなってしまった。
父親が犯罪者となってしまった若葉は、その後どんな生活を送っているのだろう。
六角村は事件発覚からもう九年近くが経とうとしているのに、未だにインターネット上には『悪徳の村』としてその名前が残っている。逮捕された六人の館主たちだけでなく、彼らの家族や親類の詳細な個人情報も正義の名のもとに晒され続けているのだ。
ハジメはそれを知っている。知っていて、なにも若葉のためにしてやることができない。
どうか若葉の周りにいる人たちが善良でありますようにと、どこまでも無責任な祈りを捧げている。
「怖いですか? 自分がしたことの先を、正しいと信じて選んだものの先を知ることが……君は、怖いんですか?」
怖い。
他人の人生なんて自分に背負えるものじゃない。運命を捻じ曲げた先で誰かが不幸になっても、ハジメには責任をとることすらできない。
自分が選んだ先が「正しい」だなんて、どうして自信を持って言えるだろうか。
もしハジメのしたことが間違っていたとしても、この世界にはそれを糾弾する人も、止めてくれる人もいないなんて、恐怖以外のなにものでもなかった。
「金田一君。君がしていることは、ひどく傲慢で自分勝手だ」
「……知ってるよ」
「君は自分の物差しだけでことの善悪を判断し、命という君にとってもっとも価値のあるものを選び取っているにすぎない。死んでいったものたちのなかには、命よりも愛を選んだものもいると、君は知っているのにね」
「……っ、そうだよ。俺は命を選んでる。たとえ愛する人と出会えなかったとしても、誰にも殺したり殺されたりする人生を歩んでほしくないんだ」
人の命は等しく尊いものである。
それが金田一一の信じる『正義』だ。だから誰であっても、どんな理由があっても、その命が無理やりに奪われるなんてことは決して認められない。
「ふぅ。べつに君を責めてるわけじゃないんですけどね。人間なんて誰しも自分勝手なものでしょう」
「あんたがいうと説得力が違うな」
「減らず口もすぎると可愛くないですよ」
「ヘッ。可愛くなくてケッコーだよ」
ハジメの言葉に高遠は心底楽しげに笑う。
先ほどまで悪意たっぷりに話しかけてきていた男とは思えないほど、その笑顔は柔らかかった。明らかにいまの会話にはハジメを追い詰める意図があったのに、どういう心境の変化なのかわからなくて怖い。
あの問答のなにがそんなに高遠のお気に召したのか。
「――ねぇ、金田一君。もしも君が過ちを犯したなら、そのときは宿敵たるこの私が、ちゃんと君に相応しい地獄を用意してあげるので、心配しなくても大丈夫ですよ」
「なに一つ大丈夫じゃねぇわ」
高遠へとげんなりした顔を向けてから、ハジメは男が自分の背中しか見えないようにその身体を丸めた。
相変わらず慰め方が不器用な男だ。
素直に「間違ったら自分が止めてやる」と言えばいいのに。高遠はハジメのことを理解しているくせに、こういうときこちらの望む言葉は絶対に口にしない。
面倒くさい男のこんな不器用な慰め方が嫌じゃないなんて、それこそちっとも大丈夫じゃないな……と自分に呆れながら、ハジメは目的の料亭に到着するまでふて寝を決め込むことにした。
お高い天ぷらは衣がサクサクで当然のように美味しかった。