今回の参考・引用文献は『Q.E.D.-証明終了-』と『暗号学園のいろは』です。
1
昼休みのざわめきのなか、ハジメは美雪とふたり連れ立って職員室へと続く廊下を歩く。
「くっそ~。八尾のヤツ、全部あたしに押しつけやがって!」
「八尾君は部活の昼練なんだから仕方ないでしょ。こうして手伝ってあげてるんだから文句言わないの」
クラス全員分の提出課題はそれなりにかさ張るし重い。数歩進むたびにズレるそれを抱え直し、ハジメは隣から聞こえてくる小言に唇を尖らせた。手伝うという言葉通りに荷物をきっちり半分持ってくれる美雪の優しさはありがたいが、この真面目な幼馴染の目がなければ、日直の仕事などとんずらしようと思っていたので素直には喜べない。
まったく、入学早々クラスの副委員長に選ばれる優等生な幼馴染を持つと大変である。
「ねぇ、はじめちゃん。今日は天気もいいし、冴子たちとお昼は屋上で食べようって話してたんだけど、はじめちゃんも一緒に行くよね?」
「うん。あっ、でもあたしもう弁当食っちゃったから、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「……休み時間の外出は校則で禁止されてます。金田一さん、コンビニじゃなくて校内の売店でお買い物しなさい」
「固いこと言うなよ、美雪。売店なんてチャイムと同時にダッシュしないとろくなもんねぇじゃん。お土産にアイス買ってきてやるからさ」
四月下旬とはいえ、降り注ぐ日差しはもうずいぶんと暖かい。正午を過ぎたこの時間は屋外ならブレザーの下が汗ばむくらいの陽気だ。屋上で食べるアイスはさぞ美味しいことだろう。
こちらの提案に美雪が少し悩んだように口ごもったところで職員室へと到着した。
両手が塞がっているのを理由に、ハジメは形ばかり「失礼しまーす」と声を上げ、行儀悪く足でドアを開ける。
「どっちがやったんだっ!!!」
その瞬間、耳をつんざくような怒声が響いた。思わず一歩後退るほどの大声。強い非難を含んだその内容よりも、発せられた声量の大きさにハジメはとっさに顔を顰めていた。廊下に面した窓ガラスが振動でカタカタと小さく震えるのが目に入る。
視線を職員室のなかへと移せば、怒鳴り声の主はすぐに見つかった。
(げぇ、嶋田じゃん)
自慢の筋肉をアピールするためにか、年中ぴっちりしたTシャツを着ている体育教師は『頭ごなし』という言葉の例としてイラストにでもされそうな態度で、ふたりの男子生徒を叱りつけている。
一回目と同じく、嶋田のパワハラ体質は健在なようだ。
見回した職員室内には運悪くと言うべきか、嶋田を止められそうな年かさの教師はいない。大声を上げ続ける嶋田以外はいっそ不自然なほどに職員室は静かだった。
聞こうとしなくとも耳に入ってくる罵声にまみれた言葉から、どうやら嶋田のコピーしていた書類が一枚紛失し、それを彼の前に立たされている男子生徒のどちらかがやったと疑っている状況らしい。
コピー機は島のように集められた教師陣の机からは少し離れた位置にあり、嶋田がコピーをしている間そこの近くにいたのは男子生徒ふたりだけだった。ふたりはそれぞれに自分の犯行ではないと否定し、なくなったという書類も持っていないとしきりに弁解しているが、パワハラ教師のなかではどちらかが犯人であることはすでに確定事項となっているのだろう。相変わらず生徒の話を聞く気がない男だ。
この騒動に自分から関わりに行くのは正直面倒くさいが、嶋田の気がすむまでなんの非もない生徒を罵らせるのも業腹である。それに、ハジメはこういう手合いが嫌いだった。
反骨精神? 大いに結構。理不尽に迎合するなど冗談じゃない。
(――恥かかせてやる)
嶋田が騒いでいる書類のありかはその断片的な話だけでピンと来た。
この職員室にいるのは嶋田たち三人と、数人の教師、そしてハジメを含めたなんらかの用事でここを訪れた生徒複数人。聴衆は充分と言えた。そのなかに新聞部に所属している先輩がいるのも好都合だ。きっとこのあとの嶋田の醜態をきちんと周知してくれることだろう。
もちろんハジメには上手くこの場を収めることもできたが、その選択肢は最初から除外している。
嶋田は勘違いから生徒を叱っているのではなく、反抗できない相手に自分の怒りをぶつけて気持ちよくなっているだけだ。
「ちょっといいっスか?」
抱えていた提出課題を適当な机に置き、嶋田へと近づき声をかければ、思い込みと偏見を煮詰めた見当違いの説教を滔々と垂れ流していた男は、自身の演説じみたそれを止めたハジメを不愉快げに睨みつけた。
自分の言葉を遮ったのが小柄な女子生徒だとわかり、嶋田の瞳にかすかに嘲りの色が浮かぶ。怒った表情を作ってはいるが、その奥に隠れているのはまごうことなき弱者を甚振ることへの愉悦だった。
こちらを値踏みするかのような嶋田の視線はどこまでも不快で、心底気分が悪くなる。
「なんだ、お前は? 部外者は口を挟むんじゃない」
恫喝の意図を持ったそれは決して教師の言葉ではない。
ハジメの後ろをついて来ていた美雪が、小さく自分の名前を呼ぶ。動揺と恐怖が混じった幼馴染の声に振り返って笑顔で安心させてやりたかったが、ハジメはただグッと胸を張って嶋田を見返した。
相手の目にふてぶてしく映るのは承知の上で、意識して口角を上げ、歯を見せて笑う。
男の態度など少しも怖くないという言葉よりも明確なアピールは正しく伝わったらしく、嶋田は鼻白んだようにその唇を歪めた。
「話が聞こえちゃったんですけど、なんか書類がなくなったんでしょ? あたし、その書類の場所わかりますよ」
「なんだと?」
嶋田だけでなく、ふたりの男子生徒も驚いた顔でハジメを見る。
着慣れた制服からして新入生ではない。二年生か、三年生か。どちらもそこそこ身長はあるが、がっしりした嶋田と比べるとどこかひょろく感じる。
嶋田がからむにしては珍しいタイプだ。
ふたりとも迷惑そうではあるが、それほど萎縮した様子はなく、これなら自分が口を挟む必要はなかったかもしれない。
「あっ、その前に一応確認なんですけど、書類はちゃんと探したんですよね? コピー機の周りとか」
「当たり前だろう!」
「でも、書類は見つからなかった?」
「そうだ。書類がひとりでになくなるわけがない。だから、そこの大河か牛尾が盗むか、隠すかしたに決まってる」
「なんで俺らがそんなことしなくちゃいけないんですか!?」
「ポケットのなかまで引っ張り出して見せたんですよ。僕たちが盗んだなら、どこに持ってるって言うんですか?」
「うるさいぞ! 俺がコピーをしてたとき、近くにはお前たちしかいなかったんだ。どっちの仕業だ!? それとも共犯か!?」
あまりにも理不尽な叱責に、名指しされたふたりの瞳に苛立ちが宿る。それでも彼らは相手が教師だからか、感情のままに言い返したりはしなかった。
「まあ、たしかに書類が勝手にどこかに行くとは思えないっスよね」
再びヒートアップする嶋田をまずは会話へと引き込むため、ハジメは彼の言葉を肯定するようにうなずいた。今度は先ほどとは違う、挑発を含まない笑顔を嶋田へと向ける。
書類がなくなったとき、そのそばにいたのは誰か?
ハジメはピンと人差し指を立て、目の前の三人を順に見やる。
コピーを取っていた嶋田。なんの用事があったのかは知らないが、そのそばにいた大河と牛尾。紛失した際にコピー機の周囲を探したことから、書類がどこかの隙間などに落ちているという可能性は考えにくい。
つまり嶋田の言う通り、なくなった書類は誰かの手によって人為的に動かされたのだ。
「ほら見ろ。お前たち以外に容疑者はおらん。さっさと白状してしまえ」
嶋田はハジメの説明に鬼の首を取ったような表情を浮かべた。その他者からの追従に慣れた男の態度にハジメは内心舌を出す。
都合よく解釈してもらっては困る。ハジメが指摘した容疑者は
「ねぇ、嶋田先生。先生は何枚かの書類を順番にコピーしてたんでしょ? どうして、そのなかの一枚だけがなくなったりしたんですか?」
「話を聞いてたんじゃないのか。コピーをしてる途中で紙が切れたから用紙を補充したんだ。俺が書類から目を離した隙に、こいつらのどっちかが盗ったんだろうよ」
自明とでも言いたげな嶋田からすれば、それが真実なのだろう。
コピー機の一番近くにある、プリントやノートが乱雑に置かれている机にちらりと視線を向ける。ハジメの知っている嶋田という男は決して几帳面な人間ではなかった。このごちゃごちゃした机の上から書類が見つかったとしても、ハジメはなにも驚かない。
得てしてこの手の人間は自分の非を疑うことすらしないものだ。
「――なくなった書類は、たぶんコピー機のなかにありますよ」
容疑者はわずか三人。大河や牛尾がどんな人間かは知らないが、なくなった書類は職員会議で使うものらしいので、学生であるふたりがそれを盗む動機はない。嶋田を困らせるためという動機も一応考えられるが、書類のデータ自体はパソコンにあるだろうし、なにより職員室という場所は嫌がらせをするには学生にとってアウェイすぎる。もちろん、嶋田自身にも書類を紛失したと騒ぐ動機はない。
動機から推理できないのならば、辿るべきは彼らの行動だ。
なくなった書類に一番近かったのは、それに触れる機会が一番多かったのは、間違いなく嶋田である。そもそもが、生徒が教師の書類に触ること自体どうしても他人の目には奇異に映るし、注意を引きやすい。
「コピー用紙を補充したんでしょ?」
ほんの少し嶋田の行動を想像してみればいい。
大雑把な男はコピーする書類を机に広げて作業をしている。途中で紙切れの通知が表示され、舌打ちでもしながら新しいコピー用紙を取り出す。包装を破いて捨てるためにその取り出したコピー用紙をきっと机に無造作に置いただろう。そして、その下にコピーしようとしていた書類があることにも気づかず、そのまま用紙をまとめてコピー機へとセットした。
「あ!」
ハジメがコピー機の給紙トレイを開け、一番底にあった紙を引っ張り出せば、誰とも判別のつかない驚きの声が複数上がる。
いつの間にか、近づきこそしないが、職員室にいる全員がハジメたちのやりとりに注目していた。
手に持った書類を差し出すと、嶋田は一瞬怯んだように目を泳がせ、「はは。先生の早とちりだったな」と早口で言い訳らしき言葉を続ける。
「大河も牛尾も、違うなら違うとはっきり言ってくれないと。ああ、俺はまだ仕事の続きがあるから、お前たちも昼休みが終わる前に教室に戻れよ」
自分へと集まる非難の視線から逃げるように、結局ひと言も謝罪もしないまま嶋田はそそくさと職員室を出ていった。
――ざまあみろ!
2
思わぬ面倒ごとに首を突っ込んだせいで、昼休みにコンビニで買い食いするというハジメの予定は計画倒れに終わってしまった。
(腹減った……)
売店で売れ残っていたなんの変哲もないあんぱんと、美雪や冴子たちから恵んでもらった弁当のおかずだけでは一時の空腹をまぎらわすことしかできない。食べて三十分もすれば消化されてしまったのか、そこからハジメの腹は鳴りっぱなしである。
美雪の目が光っていたため五限をサボることもできず、午後からの授業は空きっ腹を抱え不貞腐れた気分でずっと机に懐いていた。
空腹で眠ることもできないのはなかなかにつらい。
だから六限の終了を告げるチャイムが鳴ったとき、ハジメは運動音痴の汚名を返上するかのような素早さでカバンを掴み立ち上がった。
「あっ、待って! はじめちゃん!!」
かかった制止の声に渋々と振り返る。
いまも昔も、べつに美雪と一緒に登下校しようと約束しているわけではない。美雪は部活だの委員会だの習いごとだのと忙しいし、ハジメも彼女とは被らない交友関係もあれば、この二回目に至っては説明しにくいあれやこれやもある。
要するに美雪は用事がなければ、ひとりで帰ろうとするハジメを呼び止めたりはしない。そして彼女が自分にわざわざ学校で伝える用事など、提出物の催促か教師の呼び出しかといった具合で、ハジメとしてはあまり聞きたい類の話ではなかった。
「なんだよ?」
幼馴染の気安さから不機嫌を隠しもせず言葉の続きを促すが、美雪も然るもので、ちゃんとこちらを会話のテーブルへと誘うカードを切ってくる。
「ここにクレープ屋さんの半額クーポンがあります」
「たく、しゃーねぇな。急いでるから十分だけだぞ」
それぞれ部活や帰路へと向かうクラスメイトたちを尻目に、ハジメはいましがた空いたばかりの美雪の前の席へと腰を下ろした。
前払いだと手を差し出せば、チラシから切り取ったのだろうクーポン券を渡される。切り取り線に沿ってハサミで切ったのがわかるそれが、なんだか美雪らしくておかしかった。
「はじめちゃんはもう部活って決めた?」
「部活ぅ~? あたし、どこにも入るつもりないよ」
「だと思った。でも不動高校ってわりと部活動盛んなのよ。演劇部は全国コンクールを目指すようなレベルだし、スキー部はインハイに何度も入賞するような強豪!」
「ふ~ん」
気のない返事をしながら、知ってると口には出さずつぶやく。
この不動高校がハジメの記憶と相違ないのならば、美雪が例に挙げた以外にもそれなりの活動実績を持つ部活動があるのはたしかだ。
美術部にはよく絵画のコンクールに入選する三人の女子生徒がいてそのうち『三女神』とか呼ばれるようになるし、写真部にはアマチュアコンテストを総なめにする天才高校生写真家なゲスい盗撮魔が誕生する。囲碁部だけは人数偽装が必要な弱小だったが。
(あれ? 海峰学は開桜学院に行ったはずだから、囲碁部ってひょっとして小角部長ともうひとりしかいなくなっちゃったんじゃ……)
ふと浮かんだ嫌な予想に妙な心苦しさを感じ、ハジメは心のなかで小角部長へと手を合わせた。もし今回もなにかの縁で開桜学院との合宿対戦に誘われたら、今度は快く引き受けよう。
「でね、あたしはミス研に入ろうかと思ってて」
「……なんでミス研なんだよ」
「色んなミステリ小説読んでたら、謎解きとかって結構面白いな~って。――それに、小説でもトリックとか知ってたら、ちょっとははじめちゃんの役に立てるかもでしょ」
少しだけ恥ずかしそうに、でもどこか得意げに笑う美雪は文句なしに可愛かった。なんの衒いもない好意がくすぐったくて、どうしようもなく叫び出したくなる。
幼馴染で、一番の親友。
自分たちの関係が変わる日はきっと来ない。異性のときにふたりの間にあった、あと一歩を進みあぐねるような微妙な距離感は、いまの自分には懐かしむにも遠すぎる気がした。
「まったく、美雪はあたしが大好きなんだから」
「なによ。はじめちゃんが心配ばっかりかけるからでしょ」
美雪の指が無意識にかその髪へとのびる。
一回目と違い、いまの美雪はようやく肩を越したかというセミロングだ。彼女は去年の五月に一度髪をバッサリと切り、ショートカットにしている。それが自分のせいだと自覚があるだけに、美雪の口にした『心配』という言葉に胸がツキンと痛んだ。
事件に巻き込まれた結果髪を切ることになったハジメを見て、この優しい幼馴染がなにを思ったのかはわからない。それでも髪型をハジメと同じショートカットにして「おそろいね」と笑った彼女は、誰よりも自分の身を心配してくれているのだろう。
一回目のときのように事件に美雪を巻き込むなんて冗談じゃないと思う。
怪我なんてしてほしくないし、死体だって本当は見せずにすませたい。しかし、ハジメには美雪の目を、耳を、塞ぐ気はなかった。心配する彼女に大丈夫だと嘘をついて、平凡な『金田一一』を演じるのはあまりにも不誠実だから。
美雪には心配する権利がある。ハジメに彼女を心配する権利があるのと同じように。
「もう美雪が心配するようなことはしないよ」
「どうかなー。はじめちゃんって意外と後先考えないところあるじゃない。男勝りなわりにどんくさいし、すぐ食べ物に釣られちゃうし、入学してまだひと月も経たないのにもう学校サボってるし」
「ひでぇ! 後半ただの悪口じゃん」
「全部ほんとのことでしょ。反論があるなら言ってみなさい」
もちろん反論などできようはずがない。
耳に痛い小言が飛び出さないうちに「それでミス研に入るの?」とそれかけた話題を修正する。まあ、美雪がつぎに口にする言葉はハジメにはおおよその予想がついていた。
「――はじめちゃんも一緒にミス研に入らない?」
やっぱり。
「あたし、ミステリどころか小説もろくに読まないけど」
「でも時田朋江とか、山之内恒聖とかは読んでるじゃない。ね? ひとりじゃ心細いし、部活見学だけでもいいから一緒に行こ?」
見学だけと言いつつ、ノコノコとついて行けば、なし崩し的に入部させられるのは目に見えている。ハジメとしてはミス研はもとより、どの部活動にも参加するはまったくない。
これから、あるいはもうすでにこの不動高校で起こっている事件の引き金となるトラブルの数々。それらを解決・回避するためにも自由な時間は必要だし、それとはべつに、以前交わした千景との約束を守るために週二で彼女のマジックバーでバイトをする予定だ。
盗撮魔のいる写真部は論外としても、美雪が挙げたのがミス研でなければ、ハジメは「子どもじゃないんだし、ひとりで行けよ」と素っ気なくこの話をスルーできたのだが……ミス研には大切な幼馴染をひとりで行かせたくない理由があった。
(真壁がいるんだよなぁ)
美雪が真壁を好きになることなど億に一つもないが、自分に気のない女をずっと待ち伏せするような男なので心配せずにはいられない。しかも真壁は無理やりことに及ぶような卑劣さはなくとも、相手の態度を都合よく解釈してベタベタと触ってくる図々しさは間違いなく持っている。
真壁誠と鷹島友代の関係がいつからのものなのかはわからないが、入学したてのいまの時期ならつき合っていない可能性は高い。それはつまり、真壁のストッパーがいないということでもある。
そんな場所に美雪をひとりで行かせるのは、それどころか入部させるのは危険すぎる。
葛藤した時間は短かった。
「で、部活見学っていつ?」
「行ってくれるの!? はじめちゃん、やっさしーい!」
「おー、おー。ちゃあんと感謝しろよ。なんならお礼に美雪の分の半額クーポンももらってやるけど」
「……調子に乗らない」
「イデデデデ!」
左の頬を思いっきり抓られて悲鳴を上げる。
涙目になるハジメに気づかず、美雪は「ヤダもちもち」とつぶやき右の頬にも手を伸ばしてきた。慌てて身体を仰け反らせ幼馴染の魔の手から逃げる。勢いがよすぎて、危うくそのまま後ろにひっくり返るところだった。
「もー、なにやってるのよ」
「おめぇのせいだろ!」
ヒリヒリと痛む頬を労わるようにさすり、元凶を睨みつけるが涙目ではいささか迫力に欠ける。無事な右の頬を指先でツンツンと突き、美雪はなんの遠慮もなしにハジメの肌の感触を楽しんでいた。
こういう女子特有の距離感はいまだに慣れない。
ハジメの思っていたよりもずっと『女の子』という生き物は同性同士の接触に抵抗がないらしい。男同士だって冗談で股間を掴んだり、カンチョーを仕掛けたり、バカみたいなおふざけはするが、あれはいたずらの延長であって女のそれとはなにかが決定的に違う気がする。
気恥ずかしいというか、ある種のテレのような感情を抱くのは、自分のなかにまだ男としての金田一一が残っているからなのだろうか。
「じゃあ、はじめちゃん。部活見学に行くためにも、一緒にこの問題を解きましょ」
ひとしきり人の頬を突いたあと、美雪はそう言って一枚のプリントをカバンから取り出した。ふたりで見られるように机の上にそれを横向きに置く。
『ミステリー研究会へようこそ!』というタイトルが踊るプリントは簡単な活動内容の紹介だった。パソコンのWordで文字を打ち込んだだけのシンプルさはいっそ潔い。ミステリ初心者も大歓迎と書いてはあるが、この部活紹介のプリント製作者に新規開拓するつもりがないことは、その愛想のなさが滲んだレイアウトからひしひしと伝わってくる。
美雪のいう『問題』はプリントの下半分に記されていた。
― ― ― ― ― ― ― ―
下記の問題を解いてミス研のミーティングに参加しよう。
Q:全員が一つずつ嘘をついている。
B君「四月三十日、十六時、三年二組」
C君「四月三十日、八時、二年五組」
D君「四月二十七日、十六時、二年五組」
― ― ― ― ― ― ― ―
ハジメはしばし問題を眺め、期待の眼差しでこちらを見つめる美雪へぽいっとプリントを返した。この問題を作った人間は少々意地が悪い。やはり初心者大歓迎というのは噓だなと苦笑する。
「美雪は解けたの?」
「自信があるわけじゃないんだけど……一応、解けたと思う」
「ん。じゃあ、答えは?」
「ミス研のミーティングが開かれるのは、四月三十日の十六時、二年五組の教室。――合ってる?」
「まあまあ、そう焦るなよ。まずは美雪探偵の推理を聞かせてもらおうかな」
プリントには答えである日付・時間・場所を表す言葉は重複するものをのぞけば六種類しかない。そして単純に組み合わせだけを考えるならばそれは八通りある。
「問題に“全員が一つずつ嘘をついている”ってあるから、それぞれの言ってることのなかに嘘が一つあるって考えたんだけど」
B・C・Dの三人が提示する情報のなかで、ほかのふたりと被らないものが嘘の情報であるというのが美雪の推理だ。自信なさげにその推理を口にしながらも、美雪の瞳の奥には「正解かもしれない」という期待の色が見える。
推理の読み自体は決して悪くない。
組み合わせだけなら八通りあるが、この問題の答えで挙げられるのは美雪の言った「四月三十日・十六時・二年五組」か、「四月二十七日・八時・三年二組」の二つだけだろう。
しかし正解は、残念ながら美雪の答えたものとは違う。
「本当に注目しないといけないのは、問題に出てくる登場人物がBから始まってることなんだ」
これで問題に書かれた名前が「たかし君」とか「マイケル」なら、美雪の推理が正解だった。そして多くの人は美雪と同じ推理を辿り、誤った答えへと導かれる。問題の製作者の狙いがそれなのだから仕方がない。これはいわゆる『引っかけ問題』で、正解の方に八時が入っているあたり、製作者の性格の悪さが滲んでいると思う。
「美雪も言ったけど、“全員が一つずつ嘘をついている”んだから、その一文自体が隠された語り部である“A君”の嘘ってことになる。つまり、導かれた答えが嘘となるから、それをのぞいたものが正答ってこと」
美雪はハジメの説明にどこかポカンとした表情を浮かべている。
正直ミス研のミーティングのために普段よりも三十分以上早く登校するなんて絶対にごめんなハジメとしては、美雪がこのまま入部を諦めてくれたらうれしい。
真壁にプラスして、意地の悪い先輩がいることも確定してしまったので、先ほどまでよりも入部への忌避感は上がっていた。
「はじめちゃんって、やっぱりすごいね」
「へ?」
「あたし、これでも結構悩んで解いたのになぁ」
「そんな落ち込むことないって! こういうのはなぞなぞとかクイズと一緒で、解くための考え方を知ってるかどうかだからさ」
「――うん。謎解きは練習あるのみってことだよね」
「そうそう……って、え? 練習??」
「さあ、ミス研に入ってしっかり推理力を磨かなきゃ!」
そう言って決意に燃える美雪に、ハジメはがっくりと肩を落とすことしかできなかった。