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五月になったばかりだというのに日々強さを増す日差しに目を細め、高遠は読んでいた本を鞄へとしまった。この時期、穏やかな読書を楽しむには陽の下は少々暑すぎる。
「高遠君!」
早めに講義室へ向かおうと歩き出せば、後ろから呼び止める声がかかった。振り向けば同じ学部の女子生徒が笑顔で近づいてくる。
声をかけられる心当たりはない。
ただの一学生として過ごしているはずなのに、なぜかこうして高遠に興味を示す人間が一定数いる。いわゆる異性としての好意だということはわかるが煩わしい以外の感情はわかなかった。
もし某名探偵の孫が聞けば、キャンパスライフを無駄にしていると嘆いたかもしれない。
「次、同じ講義とってたよね? 一緒に行こう」
「……別にいいけど」
拒否されるとは思ってもいないその顔に内心感心する。
彼女のアプローチに応えたことはないはずだが、高遠の態度をどう解釈しているのか。
「高遠君って秀央出身なんでしょ? そのわりにはあんまり仲良くしてる子いないよねー」
「そうかな」
「いっつもひとりじゃん。サークルにも入ってないし」
「そういうの興味ないんだ」
「えー。じゃあさ、カノジョとか……」
「ごめん。電話だ」
このやりとりが講義室まで続くのかと辟易しているところで鳴った携帯電話を理由に会話を中断させる。
ディスプレイに表示された名前に小さく口角があがるのがわかった。あちらからかけてくるとは珍しいこともあるものだ。
「もしもし。……ええ、いまは大学ですよ」
電話越しに聞こえるその声はいつの間にか少女のものになっていた。
口調も、話す内容も、なにも変わらないのに……もう十七歳の彼の声を聞くことはないのだと思うと、どうしてか胸が小さく痛む。
性別など些細な違いでしかない。
高遠遙一の宿敵は正しく平行線としてあるというのに、自分が相手へと向ける感情にいままでとは別の意味が出てきてしまったことが問題だった。
「わかりました。すぐに向かいますよ……では、あとで」
電話の内容はおおよそ予想通り。
探偵のもとには謎が舞い込むものと相場が決まっている。日本の警察にはもう少し独力で事件を解決してもらいたいものだ。
「じゃあ、僕は用事ができたからこれで」
「あ、うん」
あっさりとした挨拶を口にして去っていく高遠には聞こえなかった。
「あれは……カノジョいるわぁ」
という、女子生徒のつぶやきは。
◆
指定された喫茶店へと行けば、不動山署刑事課のその刑事はなにやら楽しげにハジメと盛り上がっていた。刑事のやや大げさな動作に合わせて天パぎみの癖毛がぴょこぴょこと跳ねるように動く。
佐藤太郎。
平凡すぎて逆に怪しく感じる名を持つこの刑事と知り合ったのは約一か月前。例に漏れずハジメが事件に遭遇し、その真相を解き明かしたことからなにかと相談を持ちかけられるような関係が続いている。
「タローさん、課金しすぎじゃね?」
「いやいや。これが大人ってものだよ、金田一さん。家賃までは大丈夫だって偉い人が言ってたし」
「タローさん実家住まいじゃん」
「だからそのぶんも課金に回してる!」
佐藤刑事の言葉に「やべぇ」と笑うハジメは、制服を着ていることもあって少年には見えない。
不動中等学校入学式の衝撃はまだ記憶に新しい。
金田一一が女性であったことも、それにまったく気づかなかった自分にも愕然とした。女子の制服に身を包んだハジメを前に、自身の動揺を悟られないようにするので精一杯だったのは一生の不覚である。
「お、たかとー」
「高遠君! 呼び出してごめんね」
「いえ。……ずいぶん楽しそうでしたね」
ハジメの隣に腰かけながら、なにを話していたのかと水を向ける。
彼女の前には空になった皿がいくつもあるので、すでに報酬は支払われたあとらしい。
「いやー、ちょっとソシャゲの話を。……ゴホン。高遠君も来たことだし本題に入るよ」
会話の内容を聞かれていたことに気まずそうに頭を掻き、佐藤刑事は今回の相談事について話し始めた。
事件が起きたのは昨夜二十二時十五分。
現場近くのコンビニでバイトをしている大学生がその帰宅途中、作りかけのビルから突き出したクレーンの先でサーチライトのようなものを動かす人影を発見する。
なにをしているのかと目を凝らして見ていると、その人影はまるでこちらに気づいたかのようにライトを振り、そのクレーンから飛び降りた。
大学生はとっさに自殺だと思い、その人物が落ちたとおぼしき場所へと駆けつける。
そこには仰向けで倒れるひとりの男の姿があった。
即死したであろうことがわかる無惨な死体を前に、大学生は震える手で警察と救急車へと連絡を入れる。そこに「何かあったのか?」と顔を出したのが会社員Aだった。のちの事情聴取でわかることだが、Aはこの死亡した男の同僚で、男が発見される一時間ほど前まで一緒に飲んでいたらしい。
Aとほぼ同時に「なんだ。酔っ払いの自殺かよ」と現れたのが、近所に住んでいるというブロガーのBだ。Bは第一発見者の大学生と同じように飛び降りた人影を目撃し、ここまで見に来たと話している。
ちなみに、三人の発見者はいずれも事件発生から五分とかからず現場に到着しており、人影が飛び降りたと思われるクレーンから現場まではどれだけ急いでも十分以上かかることが警察の検証でわかっている。
「で、これがその死んだ吉岡昭雄」
「警察は自殺と断定しているのですか?」
「遺書がなかったから一応自殺と事故の両方で調べてるけど、このままだと自殺で決まると思う」
大学生が目撃した“こちらに気づいたかのようにライトを振る”姿が酔った上での衝動的な自殺という見方を強めているらしい。実際、吉岡昭雄は事件の直前までかなりの量のアルコールを摂取していた形跡がある。
「でも、なんかおかしい気がするんだよね〜」
「事故だとしてもそんな場所に行くのは少々不自然です」
「他殺」
「でしょうね」
ハジメの言葉に短く同意する。
しかも、間違いなく発見者のなかに犯人がいる。
「やっぱり!? 俺もそうだと思ってたんだよ。こんな陽キャパリピが酔ってたからって自殺するわけないって先輩にも言ったのにさぁ」
そう言って佐藤刑事が見せたのは吉岡昭雄のSNSのアカウントだった。
髪を明るい茶髪に染め、恋人と思しき女性と楽しげに笑うその姿はたしかに自殺を図るような精神状態には見えない。年齢に不似合いなブランド物の時計を自慢げに掲げている男からは自己主張の強そうな性格が窺えた。
まあ、ハジメと高遠がこの事件を他殺だと断定するのは本人の性格からではなかったが。
「タローさん、飛び降りたのに死体が仰向けで倒れているのはおかしいでしょ」
「へ?」
「佐藤刑事ならどうやって飛び降りますか?」
「そりゃ、こう、前に……あっ!」
どこか呆れたようなハジメの指摘でも気づかないポンコツ刑事に助け船を出せば、さすがにハッとした顔をした。
そう、正面から飛び降りたのなら、死体はうつ伏せで発見されなければおかしいのだ。
「違和感の正体はそれか〜」
「発見者のなかにおかしな発言をしている人物もいますしね」
「え、どの人?」
「それもあるけど……タローさん、現場の写真もう一回見せてよ」
「う、うん。あんまり気分のいいもんじゃないけど」
いまさらなことを言う佐藤刑事から受け取った写真を、ハジメは真剣な表情でしばらく見つめてから小さくつぶやいた。
「やっぱりない」
「腕時計ですか……よく気づきましたね」
SNSに投稿された写真では必ずつけているそれが、死体となった吉岡昭雄の左手首から消えている。
たしかによく見れば手首に不自然な血の擦れたあとがあり、その周囲にはごく小さいがガラスの破片のようなものも見受けられた。状況から考えて、死後奪われたことは間違いない。
「ふむ。犯人が持っていれば物的証拠になりますね」
「まだ持ってると思うか?」
「犯人がミスに気づいたのは犯行後でしょう。自分へとつながるかもしれない証拠は、意外においそれと処分できないものですよ」
なにせ昨日の今日だ。
警察が自殺と考えているこの状況であえてリスクを負う必要はない。かなり高い確率で犯人はこの物的証拠をまだ所持しているだろう。
「ちょ、ちょっと待って! ふたりだけで納得してないで、俺にもわかるように説明しくれない?」
慌てたような佐藤刑事の言葉にハジメと顔を見合わせる。
あんたから説明したら、という彼女の視線は無視した。事件の真相を解き明かすのは探偵の仕事だ。
「あー、だからさ」
犯人は事件現場に現れたブロガーのBだ。
まずBは吉岡昭雄をビルの屋上へと呼び出し、そこから突き落として殺害する。そして下へと降りて吉岡の死亡を確認したあと急いで屋上へと戻り、事前に準備していたバンジージャンプ用のゴムを自分にしっかり固定し、いつものようにバイト帰りの大学生が近くを通りかかるのを見計らってサーチライトで彼を照らした。
偽の飛び降り自殺の目撃者とするためだ。
大学生が自分に視線を向けたのに気づいたBは、まるで別れの挨拶のようにライトを振ってアピールし、クレーンから身を躍らせた。
あとはバンジーの固定を解いて地面に降り、大学生が駆けつけてくるのを待ってから、あたかも自分も自殺を目撃したかのような顔で現場に現れればいい。
万が一他殺を疑われたとしても、飛び降りたクレーンから死体発見現場までは十分以上かかることから、飛び降りの時間を誤認させることで自分のアリバイを手に入れることができる。
「でも犯人は吉岡昭雄の死体を見たときあるミスに気づいたんだ」
「ミス?」
「腕時計だよ」
吉岡昭雄の腕時計は彼が突き落とされて死んだ時間で壊れて止まってしまっていた。
Bは焦ったことだろう。このままでは自分のアリバイトリックが無意味になってしまうのだから。
「死体の左手首についてる血が擦れたようなあとと、その周りに散った小さなガラスの破片がわかる?」
「うーん。言われてみれば……?」
「割れたガラスなんかはある程度拾ったんだろうけど、夜で暗かっただろうし、死体の発見が遅れると偽装工作の意味がなくなるから諦めたんだと思う」
「そこで計画を変える臨機応変さが足りませんね」
「そんな臨機応変さはいらねぇよ」
「で、でもなんでBなんだい? 会社員のAだって条件は同じじゃないか? 吉岡とも知り合いだし」
この事件の犯人が目撃者にしたかったのはバイト帰りの大学生だ。
Bは自分のアリバイの証人としてこの大学生を選んだわけだが、その現場に被害者の知人が現れたのはBにとって幸運とも呼べる出来事だったに違いない。
トリックが見破られた際に、容疑者となりうる人物が増えたのだ。あるいはその幸運が、Bの口を緩ませたのかもしれない。
――なんだ。酔っ払いの自殺かよ。
なぜBは吉岡昭雄が酔っ払っていたと知っていたのか。
飛び降りる姿を見たのなら自殺だと考えるのは普通だが、その人物が酔っているのかまではわからない。まさか死体の顔が赤らんでいたわけでもあるまい。
「だから、犯人はBだと思うよ」
「はー。じゃあ、高遠君が言ってた“おかしな発言”っていうのはそれか」
佐藤刑事は感心したようにため息をついて天を仰いだ。
このトリックは見破られても、実際にそれが使われたと証明するのは難しい。しかし、そこに死体が身につけていたであろう腕時計が出てくれば話は別だ。
「よし、ちょっと先輩に説明してくるよ! あっ、二人はゆっくりしていってね。ここは俺のオゴリだから!」
爽やかな笑顔で手を振って去っていく佐藤刑事を見送りながら、高遠は捜査情報を漏洩しまくって上司に怒られないのだろうかと疑問に思う。
まあ、一回目のハジメも警視庁捜査一課や不動山署の刑事課にその名を轟かせていたのだから、それが少し早まるだけなのかもしれない。
「つまらない事件でしたね」
「殺人事件につまるもつまらないもねぇだろ。でも……あー、なんかこういうの懐かしいな」
「剣持警部ですか」
「そうそう。オッサンもよくこうやって俺んとこに事件持ってきてさ」
いまはまだ警部補だったはずだ。
年の離れた親友のような相手を思い目を細めて笑うハジメはどこか寂しげに見える。井沢研太郎にも、常葉瑠璃子にも、和泉さくらにも……もう、金田一一が出会うことはない。そして、もし出会ったとしてもそれはハジメの知る彼らではないのだろう。
のちの悲劇を回避するために、ハジメ自身がその運命を変えてしまったから。
もしも……もしも、高遠遙一が一回目の記憶を持っていなかったら?
自分は金田一一のことなどなにも知らず、勝手に変えられた運命に気づくことすらなく、ただのマジシャンとしての道を歩んだのだろうか。
彼との――いや、彼女との出会いすら与えられずに?
「……冗談じゃない」
なにを犠牲にしても君に出会いたいという人間がいることなど、ハジメは想像もしていないに違いない。