平行線機能不全   作:キユ

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第一章「ミステリー研究会⑤」

 

「水原、話があるっていうから来てみれば……いったい、これはなんなんだ?」

 

 大河昭晃は口ではそう言いながらも、自分がこの三年四組の教室に呼び出された理由を半ば察していた。今日がミス研の活動日だと知っていたら、頭の切れる友人が学校に来ていると知っていたら、今日という日を選びはしなかったのに。

 幾度も試行錯誤し、悩んだ末に実行した『いたずら』は思わぬ結果を生み、大河を大いに慌てさせた。間違っても警察が介入するような大事にしたかったわけではない。学校の方針で通報は免れたが、それに安堵することはできなかった。

 自分の行為が、嫌いな相手とはいえ、人ひとりに救急搬送させるほどの怪我を負わせたのだ。

 大河は怪我をした嶋田の姿は見ていない。しかし、こっそりとのぞいた柔道場の畳に染み込んだ血の跡は、いまもこの目に焼きついている。

 

「悪いね、大河。もう家に帰ってたのに、わざわざ出て来させて」

 

 水原はこちらの問いかけには答えず、いつもと変わらぬ調子で謝罪の言葉だけを口にした。彼はあとを任せるかのように半身を退け、後ろにいた女子生徒へとその場所を譲る。

 上級生である大河と相対する形になっても、その女子生徒には少しも緊張した様子はない。大きな目が真っ直ぐに自分を射抜いていることに、疚しさからか大河の方が知らず一歩退いてしまう。

 嶋田の件で昼間にミス研メンバーが話を聞きに来たので、大河はそこで初めて彼女の名前を知った。二週間ほど前、じつに華麗に自分の冤罪を晴らしてくれた女子生徒――ハジメは、あのときと同じようにその瞳に強い意志を宿してこちらを見ている。

 ハジメはすぐには口を開かなかった。ただ大河の言葉を待つような、あるいは心の内側まで見透かすような、穏やかさすら感じる沈黙はどうしようもなく居心地が悪い。

 自白する直前の犯罪者とはこんな気持ちなのだろうか。

 

(まだ、僕がしたことがバレたと決まったわけじゃない)

 

 彼女の瞳に映る自分がひどく醜悪な表情をしている気がして、大河は顔をうつむけた。本当は自分がなにをすべきなのかはわかっている。それでも、バレないのならこのまま口を噤み、すべてがうやむやになることを願わずにはいられない。

 自分たち三人しかいない教室は、夕暮れ時特有の物悲しさと、小さな緊張を孕んだ静けさに満ちていた。

 壁に掛けられた時計が時間を刻む音がやけに耳について、それが余計に大河の気持ちを焦らせる。

 

「――嶋田先生は、出血のわりには軽傷だったらしいですよ。もう病院での手当ても終わって、そのまま自宅に帰れたそうです」

 

 ハジメが話し出すのがあと一秒でも遅かったら、抱えた後悔と罪の意識からすべてを告白してしまっていたかもしれない。

 深く息を吸い込み、ドキドキと落ち着かない心臓を宥める。

 嶋田が軽傷だったと聞いて、現金なことだが大河はむしろ罪悪感よりも保身の気持ちが強くなった。大した怪我ではないのなら、当初の予定通りいたずらですまされても問題ない。

 脳裏に浮かんだ血痕の生々しさには気づかないフリをする。

 口のなかに広がる苦々しさを飲み下し、大河は自分の反応を見ているだろうふたりに、精一杯の平静を装って答えた。

 

「よかったって言うのも変だけど、大怪我じゃなかったんならなによりだ。要件はそれだけ?」

「さすがにそんなことで呼び出したりはしないよ」

「だよな。――じゃあ、ミス研で調べてたこの事件の犯人でもわかったのか?」

 

 あえて自分から本題に触れたのは心が決まったからだ。この状況に呑まれて自白したりはしない。疑われているのはわかっているが、それが『疑い』の段階であるならいくらでも言い逃れしてやる。

 そもそも本当に自分が使ったトリックがバレたのかは、呼び出されたときから半信半疑だった。

 たとえ警察に捜査されても、大河にはこのトリックから自分の犯行がバレることはないと自信を持って言える。まあプレッシャーには弱いし、怪我をさせた罪悪感もあるので、実際に捜査が始まり詰問でもされようものなら、あっという間に自白してしまうだろうが。

 

「この事件の一番の問題は、犯人がどうやって柔道場へボールを投げたのかということでした」

「窓が割れたとき校庭には誰もいなかったんだっけ?」

「そうです。柔道部員たちの証言を信じるなら、窓ガラスを割ったバスケットボールは、柔道場から五十メートルは離れた本校舎から飛んできたことになる」

 

 大河はハジメの言葉に小さくうなずく。

 バスケットボールの重さは六百グラム以上ある。これが野球ボールであったのなら、ただの男子高校生にも五十メートルくらいは投げられるはずだが、重く大きいバスケットボールでは不可能だ。

 

「幸いというか、今日本校舎にいた人物で容疑者となり得る生徒は三人しかいませんでした」

「そのひとりが僕?」

「ええ。そして、あたしはあなたが――大河さんが、犯人だと思っています」

 

 きっぱりとした口調には迷いがない。

 そのハジメの態度に誤魔化そうと決めた心がぐらぐらと揺れる。彼女が抱いているのは『疑惑』ではなく『確信』らしい。

 

「僕が五十メートルも遠投できるような強肩自慢に見えるってことかな。君たちが捜査しに来たときにも言ったけど、十二時頃はこの教室にいたんだけど」

「この教室にいたのは間違いないんですか?」

 

 念を押すように尋ねられ、一瞬答えるのを躊躇った。

 ここで肯定するのは、もしもハジメがトリックに気づいているのならば、自分の犯行を自白するのに等しい。しかし、大河は先のやりとりですでにそれを自分から口にしている。いまさら否定はできないと、少女の表情を窺いながら浮かんだ不安をかき消すように大きく首を縦に振った。

 

「あたしは最初、どうやってボールを本校舎から飛ばしたように見せかけたんだろうと考えていたんです」

「見せかけた……?」

「あー。知り合いにマジシャンがいるんですけど、そいつがよく言うんですよ。不可能を可能にするんじゃなくて、如何にそれを不可能に見せるのかがトリックの肝だって」

「僕を犯人だって言うのは、その方法がわかったってことかい?」

「いいえ。あのだだっ広くて見晴らしのいい校庭で、柔道部員たちの目を欺く方法はあたしには思いつきませんでした」

 

 そこで停滞していたハジメの思考を進めたのは、意外な『噂』だったと言う。

 三年四組の落書きが話題になるのは仕方がないと思っていたが、まさか自分が何度かした『練習』がそんな風に噂になっているとは知らなかった。

 これでもかなり慎重にことを運んでいたつもりだっただけになんだかショックだ。

 ダメ押しのように、バツ印を隠すために貼ったポスターの違和感を指摘され、ハジメの目敏さに驚くよりも呆れてしまった。

 

「ミス研で集めていた噂は、その一つ一つにはなんの繋がりも感じられなかった。でも、どの噂もゴールデンウィーク直前に出てきている」

「……ただの偶然じゃないか?」

「なにも最初っから噂をくっつけて考えたわけじゃないですよ。この教室で、床に書かれた落書きの上に立ってみたとき、なにかトリックを使ったら、ひょっとしてバスケットボールを五十メートル飛ばすことができるんじゃないかと思ったんです」

 

 人の力では無理なことを実現させるのもまたトリックなのだと少女は笑う。

 それはトリックを解き明かしたという得意げなものではなく、面白い方法を考えたなという称賛に近いもののように大河には感じられた。

 

「それで、君は僕がどうやったって言うんだ?」

 

 くわしく説明されなくとも、もうハジメに自分のトリックを暴かれてしまったのは理解している。しかし、大河はどうしてかこの少女の推理を聞いてみたかった。

 大河の期待に応えるように、名探偵は自らが導き出した答えを語る。

 

「――まずは、教室の床に書かれたバツ印の上に立つ。そして、廊下のポスターの下に隠されていた印に、力いっぱいボールをぶつける」

 

 そう、そうすればバスケットボールは壁や床にぶつかりながら勢いよく階段へと入り、そのまま衝突を繰り返して一階へと落ちていく。高い位置から落とす力が加わることで、ボールは人が投げたとは思えない勢いで、第二玄関から真っ直ぐに柔道場の窓へと飛んでいったのだ。

 

「本校舎で聞こえる謎の音はボールが壁や床に当たる音で、用務員室のベニヤ板が柔道場の裏にあったのは、事前にうまくできるか実験したときに窓を割らないように使ったんでしょ?」

「……まるで見てたみたいに言うなぁ」

 

 なに一つ間違っていないところが恐ろしい。

 

「大河……なんで、こんなことしたんだ?」

「言い訳にしかならないけど、あんな怪我をさせるつもりはなかったんだ」

 

 もちろん、大河だって大多数の生徒の例に漏れず嶋田のことは嫌いだった。

 このトリックを思いついた時期が、ちょうどあの冤罪で怒鳴られた直後だったこともある。一年の女子生徒に己の間違いを指摘され、スゴスゴと職員室を出て行った嶋田の姿にはかなり溜飲が下がったことも無関係とは言えない。

 

「さっきその子が“実験”って言ったけど、僕はたぶん自分が考えたトリックを使ってみたかったんだろうな」

 

 ボールを当てる場所や角度を計算し、何度もシミュレーションした。

 人の少ない放課後に実行して、計算上のこの理論が実際に可能なのか検証してみた。そして、うまくいくことがわかれば、トリックの有用な使用方法はないかと考えてしまった。

 

「ボールが飛んでいく先が柔道場じゃなければ、こんないたずらはしなかったよ」

 

 言ってしまってから自分のどうしようもなさに苦い笑みが浮かぶ。

 そんな理由で人ひとりに治療が必要なほどの怪我を負わせたことが恥ずかしかった。疚しさや後悔を抱えながら、保身のために罪を告白できなかったことも。

 

(退学……は、ないとしても、停学くらいはなるかもしれないな)

 

 大河はそれなりに真面目で模範的な生徒だった。保護者の呼び出しや反省文提出どころか、教師からの個人的な叱責すら受けたことはない。高校三年生にもなって情けないが、これから自分が背負う起こしたことへの『責任』を思うと足がすくんだ。

 親はなんと言うだろうか? これからの学校生活は? 受験への影響は? もしも嶋田が事件として自分を訴えたら?

 湧き上がる不安を止めることができない。それでも……不思議と、罪を暴かれて安堵している自分がいる。

 もう、大河は自分が犯した罪に怯えなくていいのだ。

 

 

 

10

 

 翌日。

 

 美咲蓮花の温室カフェ『パーフェクト・ブルー』は不動山市から車で一時間ほどの閑静な住宅街にあった。ごみごみとした都心部と比べ緑が多く、辺りにはどこか長閑な雰囲気が漂っている。

 こじんまりした可愛らしい外観の一軒家と、その家が丸々ふたつは建てられそうな大きさの庭園。そして、庭園の奥にある小さな温室がカフェスペースとなっている。客へと開放されているのは庭園と温室だけだが、美咲親子が住む家も含めてそこにはひとつの世界ができていた。

 

「可愛い~。まるで絵本のなかに入ったみたい!」

 

 美雪の言葉に同意を返しながら、ハジメは目の前の建物が薔薇十字館とはまた違った印象であることにほっと胸をなでおろした。あの館自体にあまりいい思い出がないこともそうだが、持ち主が意図してああいう造りにしたことを考えるとどうしても警戒してしまう。ここももとは高遠の実父が所有していた場所だと聞けばなおさら。

 

「本日はようこそいらっしゃいました。どうぞ、世界初の完璧な青薔薇を心ゆくまでお楽しみください」

 

 スタッフの女性に招待状代わりのカードを見せて、ハジメと美雪、高遠の三人は庭園へと足を踏み入れた。石畳のアプローチに沿って歩く。

 右を見ても、左を見ても、薔薇・薔薇・薔薇だ。赤やピンク、白に黄色、紫とその色はさまざまだが、ここの目玉である青薔薇はぱっと見たかぎりでは庭園のなかに咲いている様子はない。それでも、そこに咲く薔薇たちの美しさや芳香はやはり見事で、大して花に興味のないハジメも気づけば見蕩れてしまっていた。

 

「――遙一君!」

「ああ、蓮花さん。今日はお招きいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、来てくれてありがとう。こうしてこの青薔薇をお披露目できるのも、あなたのおかげだわ。ジゼルはカフェの方にいるから、よかったら声をかけてあげて」

「ええ」

 

 高遠の返答に笑顔を浮かべた蓮花は、彼の横にいたハジメと美雪に簡単なあいさつと「楽しんでいってね」という言葉を残し、ほかの客への対応をするためにか入り口の方へと去っていった。

 カフェはまだプレオープンということで、業界関係者らしき人の姿がちらほら見えるが、招待客自体は多くない。

 ハジメたちは誰かに急かされることもなく、ゆっくりと薔薇を鑑賞しながら温室までのアプローチを進む。

 

「そういえば、大河昭晃の件は“いたずら”と報告したんですね」

 

 気に入った薔薇にスマホを向ける美雪を尻目に、高遠は少し抑えた声で話しかけてきた。ちなみにハジメは昨日起きた事件についても、その顛末もこの男に教えた覚えはない。

 

「大河さんのことは水原先輩に任せたから知らね。それに、べつに“いたずら”でも間違ってはねぇだろ」

「悪意を持った計画的な犯行はいたずらの範疇を超えているのでは?」

「見解の相違ってやつじゃね? 俺は大河さんが悪意なんて大層なもんを持ってたとは思わねぇよ。そりゃあ、起きた結果を無視するわけにはいかないだろうけどさ。あの事件に真摯な反省以上のなにかなんて必要ないんじゃないの」

 

 あとは被害者である嶋田と、加害者である大河の問題だと思う。

 悪いことをしたのなら怒られて謝ればいい。しかし、自分のしたことが誰にも知られていなければ、自ら罪を告白しないかぎりその罪悪感はずっとついて回る。それはきっと、どうしようもなく苦しい。

 誰に頼まれたわけでもないのにハジメが事件の真相を暴いたのは、大河が苦しそうだったからだ。

 

(まぁ、余計なお世話だった気もするけど)

 

 大河の人なりを知らなかったからああいう方法をとったが、あの様子なら数日もすれば意外と自分から真相を話しに行ったのかもしれない。

 

「入部二週間足らずで流血事件に遭遇とは……知ってはいましたが、物騒な学校ですねぇ」

「てめぇ、他人事だと思いやがって」

「おや、心外ですね。君の身に起こることで、私に関係のないことなど一つもないというのに」

「面白がってるだけだろーが!」

 

 かみつくハジメに、高遠はくすくすと笑う。

 この男の言動はどこまで本気なのかわからない。そして、実はどこまでも本気そうなところが怖い。ハジメはもう相手をしていられるかとばかりに歩調を早める。

 さほど長くないアプローチの先。

 到着したガラス張りのその温室のなかは、海を思わせるような深い青で満たされていた。

 

「すっげぇ」

「きれい……」

 

 思わず漏れた感嘆の声が、美雪のそれと重なる。

 外の庭園とは打って変わり温室にあるのはすべて青薔薇だった。植え方に工夫があるのか、青薔薇がまるで波打っているようで、見ていると波の音まで聞こえてきそうな気がする。

 先ほどまで嗅いでいた甘く華やかな香りとはまた違う、森林のような爽やかで深みのある香りを胸いっぱいに吸い込めば、目の前に広がる光景と相まって、別世界へと迷い込んでしまったようだ。

 この色を見れば、多くの人がなんとか青薔薇を作り出そうとした理由がわかる。それほどまでに蓮花の青薔薇は美しく、神秘的だった。

 

「いらっしゃいませ。カフェをご利用ですか? お席にご案内しますね」

 

 スタッフの案内に従って五つしかないテーブル席の一つに座る。

 高級感のある鋳物製のガーデンチェアの座り心地は決してよくないが、温室の雰囲気にはとても似合っていた。温室の作り込まれた世界観に圧倒されながらも、ハジメは椅子と同じ鋳物製の丸テーブルに置かれたメニューへとさっと手を伸ばす。

 ハジメの行動に美雪が呆れた顔をするが、薔薇のソフトクリームがあると伝えれば、一緒になってメニューを覗き込んできた。それほど多くないメニューを見ながら、ああだこうだとふたりで言い合い、薔薇のソフトクリームと飲み物をそれぞれ注文することにした。

 注文したものが来る前にトイレに行くという美雪を見送り、ハジメは再び咲き誇っている青薔薇へと視線を向ける。

 

「ほんとに海みたいな青なんだな」

「この青薔薇が原因で五人もの人間が死んだと思うと、なかなかに罪深い色ですねぇ」

「……なんで、そういう嫌なこと言うの?」

 

 人の感動に水を差すな。

 

「君が一々可愛らしい顔をするから、つい」

 

 すみませんと口だけでも謝罪するなら、もう少し申し訳なさそうな顔をしてほしいものだ。ここで睨んだり怒ったりしても、相手を余計に喜ばすだけなのは過去の経験からわかっている。ハジメは小さくため息をついて高遠から視線を逸らせた。

 高遠のせいで、美しいばかりだった青薔薇のなかに悲しみが混ざっているように感じてしまう。湧き上がったやるせなさを振り払うためにぎゅっと目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのはあのときの犠牲者たち。そして――どこぞの犯罪者のふざけた所業だった。

 

「つーか、そうだ! あんときは言わなかったけどな、人に協力させといて早々に脱獄するってどういうことだよ!!」

「約束は守りましたよ? ちゃんと警察に出頭したじゃないですか」

「屁理屈だろ!」

「言葉の裏を確認しない君が甘いんですよ」

「ガーっ! ああ言えばこう言うぅ!!」

 

 ガシガシと髪を掻きまぜれば、心底楽しそうな笑い声が聞こえてきて本気でむかついた。なんで自分はこんなやつとの付き合いを未だに続けているのだろう。

 

「私としてはむしろ、あのとき連絡するまで自分のカバンに携帯電話を入れられたことに気づかない君に驚きましたが」

「ヘッ。逃亡犯のくせに油断して一般人に見つかった挙句、脅迫状送られたやつに言われたくねぇわ」

「…………」

「な、なんだよ? 怒ったのか?」

「いえ、君は本当にどうしようもなく可愛らしいなと感心していました」

「……可愛らしいって思ってる顔じゃねぇんだけど」

「おや、ではどんな顔だと?」

「どうしてやろうか、みたいな顔……?」

 

 自分で言ってからなぜだかドキリとした。

 少し目を細めたその顔は、笑っているようにも怒っているようにも見える。ハジメの言葉に高遠はなにも答えない。

 続く沈黙は妙な圧迫感を持って、この場の空気を重くしていく。

 怒りとも異なる、相手のこの態度がなにに起因するものか判断がつかず、なんとなく焦る。それでもハジメはどうしてか高遠から視線を逸らせなかった。

 色素の薄い瞳にはハジメが映っている。

 ゴクリと唾を飲み込んだ音がやけに大きく響いた。

 

「君は……警戒心があるんだか、ないんだか、わからないですね」

 

 その言葉とともに緩んだ空気にほっと息をつく。

 恐怖にも似た息苦しいような緊張感。張り詰めた糸がぎりぎりと引き絞られるみたいな雰囲気は心臓に悪い。

 ハジメが手のひらに滲んだ汗をそっとズボンで拭ったところで、タイミングよく美雪が席へと戻ってきた。というか、高遠は美雪が戻ってくるのがわかったから先ほどのやりとりを切り上げたのだろう。

 間を置かずに注文した飲み物やソフトクリームが運ばれて来る。

 美雪と食べた薔薇のソフトクリームは美味しかった。

 

 

 

11

 

 プレオープンで客が少ないとはいえ、長居するのは迷惑だろうと三十分ほどでカフェをあとにする。

 

「ねぇ、はじめちゃん。トイレに行ったときにスタッフさんに聞いたんだけど、ここってお土産が売ってるんだって」

「へー。さっきおまけで食べさせてもらった薔薇ジャムとか?」

「ジャムも売ってるみたいだけど……それより、青薔薇の香りをイメージしたハンドクリームがあるんだって! 一緒に買おうよ!」

 

 物販スペースは温室のすぐそばにあった。

 折り畳みテーブルの上にいくつかの商品を置いただけの簡素なそれの前で、美雪はハンドクリーム以外にも香水やアロマオイルなどがあるのを見てむむっと唸る。

 これは長くなりそうだと、ハジメは心持ち幼馴染から距離をとった。そのときテーブルの上にプリザーブドされた青薔薇が目に入り、ハジメはちらりと高遠を窺う。

 高遠は蓮花に言われたことを思い出したのか、胡散臭い笑顔でジゼルに話しかけていた。

 プリザーブドフラワーは決して安価ではない。自分で買うとなるとそれなりにハジメの財布は打撃を受けることになる。しかし、いま思いついたことをやってみたい気持ちが勝った。

 さっき高遠から謎の緊張を強いられた悔しさもある。それに、この美しい青薔薇に過去のこととはいえ『罪』の色を見てしまうのはもったいない。

 ちょっとしたいたずら心も相まって、ハジメは少々お高いその青薔薇を手に取った。

 

 

 ◆

 

 

 高遠が形ばかりのあいさつをすれば、異母妹はなんとも言えず嫌そうな顔をした。

 ハジメは高遠がわざと相手に嫌われるような言動をとっていると思っているが、べつにそんなことはない。単純に自分と異母妹は相性が悪いのだ。

 高遠は早々にジゼルとの会話を終わらせ、ハジメの姿を探す。少女は幼馴染を見守るように物販のテーブルから少し離れたところに立っていた。

 

「金田一君」

 

 声をかければ小さく肩を跳ねさせる。常にない反応は先ほどのやりとりのせいだろう。

 気安さからの挑発的な言葉も、警戒を孕んだ探るような視線も、かすかな怯えを滲ませた顔も……思い出しただけで自然と口角が上がる。

 彼女の意識がすべて自分に向いているというのはとても気分がいい。

 高遠はまだ自分の望みをハジメに悟らせる気はないし、今後のことを考えれば、ああいう態度は控える方がいいこともわかっている。わかっているが、どうにも最近は自制が利かないことが増えた。

 おおむねハジメのせいだが、高遠自身も気をつけねばなるまい。

 高遠の心情など知りもしない少女は、少し気まずそうにこちらを振り返った。

 

「ジゼルさんとちゃんと話したのかよ?」

「あいさつはしましたよ」

 

 お気に召す返答ではなかったからか、ハジメは高遠の言葉に小さく唇を尖らせる。ぶつぶつと不満をこぼすが、表情ほどには不機嫌な様子はない。この間「お節介をするな」と言ったことはしっかりと覚えているらしい。

 

「青薔薇、さ。やっぱ見れてよかったよ。……ありがと」

「どういたしまして」

「そんで、さっきスタッフさんに教えてもらったんだけど、あんたこの青薔薇の花言葉って知ってる?」

 

 ハジメの問いに高遠は首を傾げる。

 本来の青薔薇の花言葉は“不可能”だったはずだが、こうして完璧な青薔薇が誕生した以上、その花言葉は相応しくないだろう。

 花の名前や花言葉などは登録者に決定権がある。美咲蓮花がこの薔薇にどんな名前や意味を持たせるのかは、高遠が興味を惹かれるところではなかった。

 高遠としては自分よりもずっと花言葉などに興味も関心もないハジメが、わざわざそんなことを言い出した理由の方がよっぽど気になる。

 

「どんな花言葉なんですか?」

「不可能が実現したから――“奇跡”、あるいは“願いが叶う”なんだって」

「まあ、妥当でしょうね」

 

 高遠の言葉にハジメはニッと笑う。

 いたずら好きの子どものようなその笑顔は、不思議と十七歳の彼を彷彿とさせて、高遠は湧き上がった思いにぐっと奥歯を噛みしめた。

 ハジメはいつだって不意打ちみたいに高遠の心を揺さぶる。

 もう不愉快だとか、腹立たしいなんて言葉で自分を誤魔化すことはできない。このどこまでも苦しくて甘い感情を、高遠はわずかに残るいまいましさとともに飲み下す。

 いつか必ず、目の前の子どもにも自分と同じだけの強さで、このどうしようもなく厄介な想いを、その心の一番深いところに刻んでやる。

 ハジメは己がいずれ相対することになるものの正体に気づきもせず、得意げな表情で高遠へと右手を差し出した。

 

「――奇跡のように青い薔薇をどうぞ」

 

 言葉とともにこの温室カフェの招待状を指に挟み、ハジメはぎゅっとこぶしを握る。そして彼女がくるりと手首を捻れば、そこには一輪の薔薇が握られていた。

 それは、高遠が初めて彼に見せたマジック。

 

「…………」

 

 受け取った青薔薇をじっと見つめる。

 少女があのときのマジックを覚えていたことに、どうしてか胸が締めつけられる気がした。悲しさとも、喜びとも、怒りとも違うこの感情がなんなのかは、本当のところ自分でもよくわからない。

 ただ、高遠の反応に気をよくして楽しそうに笑うハジメを、自分は決して手放すことなどできないのだろう。

 

 ――いつか彼女に自分が差し出した薔薇を、もう一度笑顔で受け取らせてみたい。

 

 そんな自分らしくない望みとともに、高遠は渡された青薔薇を強く強く握り締めた。

 

 

 

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