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姿見に映る自分を眺め、七瀬美雪は「よし!」とその出来栄えに満足げな笑みを浮かべた。
シンプルなTシャツと、この旅行のために買ったマキシ丈ワンピース。観光で歩き回ることを想定し、靴は足首をストラップでしっかり固定できるスポーツサンダルを採用した。
「う~ん。髪は下ろしてると暑いかなぁ」
ヘアクリップでまとめてしまってもいいが、それでは今日のコーディネートも相まって少し大人っぽすぎる気がする。一応日除けのための帽子も持っていくので、あまり凝った髪型にはできない。美雪は鏡のなかの自分としばしの間にらめっこし、結局は後頭部の真ん中あたりで髪を一つ結びにして三つ編み風のアレンジを加えることにした。友人の神津さやかから教えてもらったのだが、初めてにしてはなかなか上手にできたと自画自賛する。今度ハジメにも教えてあげよう。
「やばっ! もう行かなきゃ!!」
部屋の掛け時計は六時をずいぶんと過ぎてしまっていた。
化粧はしないので、最後の仕上げに軽く色付きリップだけを塗り、美雪はこれまた旅行のために新調したキャリーケースを手に慌ただしく家を出る。向かうのは隣――幼馴染の家だ。
人様の家を訪ねるにはいささか早い時間だが、金田一母には事前に了承を得ている。それでなくても、生まれたときから家族同然の付き合いなので、美雪はなんの気兼ねもなく玄関のチャイムを鳴らした。
「はいはーい! おはよう、美雪ちゃん。わざわざ悪いわねぇ。うちのバカ娘はまだ寝てるのよ」
「おはようございます、おばさま。大丈夫です。はじめちゃんはあたしがしっかり起こしますから!」
迎え入れてくれた金田一母に笑顔を返し、美雪は足早に幼馴染の部屋を目指す。階段を上がってすぐ、見慣れたドアを開ければ、部屋のなかはカーテン越しにもれる陽の光で薄っすらと明るかった。
小学生の頃からレイアウトが変わらないハジメの部屋は、いつ来てもごちゃごちゃと物が溢れている。昨日美雪が口を酸っぱくして準備させた旅行用のボストンバッグの上に漫画が積まれているのは、いったいどういうことなのか。
(もうっ、はじめちゃんったら)
いつまで経っても子どもみたいで呆れてしまう。
いまだってハジメは、ベッドの上でタオルケットを跳ねのけ、よだれを垂らして眠っている。ハジメを起こすのは小さいときから美雪の役目だった。べつに誰かから頼まれたわけでも、なにか言われたわけでもない。ただ美雪が、ハジメと一緒に「幼稚園に行きたい」「学校に行きたい」「遊びに行きたい」と思うからそうしている。
ふたりの関係を傍から見ると、美雪が一方的にハジメの世話を焼いているように感じるらしい。でも本当は違う。美雪はハジメの、ハジメは美雪の、お互いに足りないところを補い合っているのだ。
姉のような、妹のような、誰よりも特別で大好きな美雪の自慢の幼馴染。
女の友情は男がからむと脆いと冴子たちからいらぬ情報をもらっているが、まだハジメは高遠よりも美雪を優先してくれる。
(でも、はじめちゃんももう高校生になったんだもの。そろそろ関係が進展してもいいはずよね)
以前から美雪はハジメが高遠を好きなのだと思っていた。ただの食事も含め、ふたりの旅行やお出掛けに付き合うこと十数回。美雪は気づいてしまった。
どうやらハジメは自分の想いに無自覚らしい、と。
そして、実は高遠の方がちゃんとハジメを
実際ハジメと高遠のやりとりをそばで見ていると、幼馴染が彼からの好意を取り違えているなと感じるときが多々ある。そんなとき、美雪はそっと高遠の顔を窺いみるのだが、彼はたいてい目配せやジェスチャーで「言わなくていい」と、穏やかな微笑だけを浮かべていた。
たぶん、ハジメが気持ちを自覚するのを待ってくれているのだろう。
正直いつまでも進展しないふたりに、最近では美雪の方がじれていた。
やっぱり大切な幼馴染には幸せになってほしい。しかし子どものときからそばにいると、なかなかべつの新しい関係へ進むことに二の足を踏む気持ちも理解できる。
だから、今回の沖縄旅行はいい機会だった。
いつもと違う環境とか、ちょっぴり大人っぽさのある水着とか、夏らしい可愛いファッションとか。高遠にハジメの魅力を見せつけてやりたいし、ハジメに少しでも恋を自覚させてあげたい。そんな野望に美雪は燃えているのだ。
そのためにもぐーすか寝ている幼馴染を叩き起こすべく、美雪は部屋の電気をつけ、カーテンをさっと開けた。
「はじめちゃん、起きて!」
声をかけたくらいでは起きないことは百も承知なので、容赦なく気持ちよさそうに眠るハジメの身体をガクガクとゆする。
「ゔー。美雪ちゃんぁ……あと五分」
「きゃっ!」
もそっと起き上がったハジメが抱き着いてきてバランスをくずした美雪は、小さく声を上げて尻もちをついた。寝ぼけているのか、ハジメはそのまま美雪の胸にぐりぐりと顔を押しつけてくる。出発予定時間が迫っていることもあり、美雪は「こら! 寝ぼけないの!」とハジメの耳をつまみ上げた。
「イデデデデ!」
「ほら、早く起きて顔洗ってきて」
「……美雪?」
「? どうしたの、はじめちゃん?」
「あ……いや、なんでもない」
ハジメが一瞬だけ見せた、驚いたような、戸惑ったような表情が気にはなったが、美雪は面倒くさがる幼馴染の背を押して洗面所へと送り出した。
そのあと五分もせずに戻ってきたハジメに色々と物申したいことはあったが、まずは着替えさせようと事前に準備していた服を手渡す。
美雪と色違いのTシャツ。ハジメはスカートをあまり好まないため、合わせるのはワンピースではなくキャミソールタイプのビスチェにした。麻のショートパンツは股下が短いものを選んだので、お尻にかかるくらいの丈のビスチェとも相性はバッチリだ。
大人しく着替えたハジメを椅子に座らせ、次はヘアアレンジに取りかかる。
「テキトーでいいよ。テキトーで」
「はいはい。いつもみたいに一つくくりにするだけだからじっとしてて」
気に入っているのか、なにかこだわりがあるのかは知らないが、ハジメは小学生くらいからずっとこの髪型だった。これ以上髪を伸ばすことも短くすることもしない。
せめてものオシャレとして、いつもの素っ気ないヘアゴムではなく、去年美雪が誕生日プレゼントにあげたヘアカフスで髪を結ぶ。
「はい! 完成!」
その言葉を待っていたかのように一階から金田一母のふたりを呼ぶ声が聞こえてきた。朝食ができたらしい。「メシだ!」と駆け出していくハジメは、やはり子どもの頃となにも変わらない。それでも、いつもよりもうんと可愛くできたことに満足しながら、美雪はハジメを追いかけて階段を下りた。
◆
那覇空港。
ハジメは約三時間ぶりとなるの地面を踏みしめて、ぐっと大きく伸びをした。
「あ"ーっ! 疲れた!!」
多くの客でざわめく到着ロビーでも一際響いたその声に、近くにいた人たちがクスクスと笑う。
ハジメの少し前を歩いていた幼稚園児くらいの男の子がこちらをちらりと振り返り、真似をするように「あー!」と声を上げて万歳のポーズをとる。その姿は伸びというより、まるでレッサーパンダの威嚇である。こちらの様子を窺う男の子の視線にハジメも負けじと応戦した。
「あーっ! ……痛ぇ!? なにすんだよ、美雪!!」
「それはこっちのセリフよ!」
小声で恥ずかしいことをするなと怒る美雪の頬はその言葉通り羞恥からかわずかに紅潮している。男の子の方も母親に「やめなさい」と頭を叩かれて、エレベーターへと引っ張られて行った。母親に手を引かれながらもチラチラと何度もこちらを見るので、バイバイと手を振ってやる。やんちゃそうな顔に似合わず、ちょっとだけうれしそうに小さく手を振り返してくるあたりが可愛い。
「子どもと仲良くなるのが上手ですね、君」
「いまのって仲良くなったっていうのか?」
「はじめちゃんの場合、精神年齢が同じくらいなんですよ」
「さすがに幼稚園児レベルではねぇわ!」
「あら、この間授業中にねるねるねるねを作ってるのがバレて、廊下に立たされたのは誰だったかしら?」
「ゔ。さ、最近は大人のねるねるねるねとかもあるし……」
「お菓子がお子様レベルだって言ってるんじゃないの!」
あのときはちょうど理科室で授業が行われていた。手元に件の菓子と水があったら、しかも割り当てられた座席が教師から一番離れた場所なら、誰だって食べたくなると思う。実際、しばらくの間ハジメたちのクラスでは『ねるねるねるね』がブームになって、フレーバーの食べ比べどころか、重曹とクエン酸を使って自作する生徒も出てきたのだ。授業中に作ったのはまずかったが、決してハジメが子どもっぽいわけではないと主張しておく。
「それだけ学生生活を楽しめるのも、ある種の才能ですよ」
二回目なのに、という副音声が聞こえてきそうな物言い。
いまも昔も日常のなかに楽しみを見出せないらしい男は、本当にどこか感心した様子でそんなことを言うから困る。
自分はたぶん、高遠をどこかで憐れんでいるのだろう。
殺人者としての記憶を持ち、そのせいでハジメなんかに執着し、当たり前の幸せを知らない……知ろうともしないこの男を、不憫だと感じている。これがひどく傲慢な考えだとは自覚しているが、それでもハジメは高遠に自分と同じ『日常』を生きてほしかった。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「先にホテルへ行くんだっけ?」
「いいえ。チェックインは十五時からですし、レンタカーを手配しているので、荷物を気にせず観光できますよ」
那覇空港内にはレンタカーの会社カウンターがないため、高遠に連れられ玄関口へと向かう。
今回の旅行の目的である草凪蓮の水難救助には事前の仕込みはほとんど必要ない。当日草凪を助けるのは高遠に任せればいいし、ひょっとしたら、なんらかの関係性の変化などで祝木たちがいたずらを行わない可能性もある。
泊まるホテルは草凪たちが利用する民宿から遠すぎないところを選んだ。旅行一日目の今日は、飛行機の到着が昼過ぎになることからホテルのある南部を中心に観光しようということになっている。
一歩空港の外に出れば、東京よりもはるかに強い日差しにくらりとめまいがした。
4
レンタカーを借りたあと、ハジメたちは昼食をとるために国際通りへと来ていた。
ハイシーズンということもあり、那覇のメインストリートでもある国際通りは人・人・人で埋め尽くされている。歩行者のなかには明らかにハジメたちと同じ観光客とわかる人もいれば、ラフな格好をした欧米人やアジア人もいて、まるで見知らぬ国にでも迷い込んでしまった気がした。
土産物屋から流れてくる沖縄の民謡に耳を傾けながら、観光マップを片手に美雪と一緒に目的の店を探す。名物が多くて大いに悩んだが、まずは定番の沖縄そばを食べるつもりだ。
旅行サイトでおすすめとして名前が挙がるような有名店なので、目的の場所は思ったよりもあっさり見つかった。昼には少し遅い時間だったためか、さほど待たされることなく店内へと案内される。
「あっつ~」
さすがのハジメもメニューを見る余裕はなく、出てきたお冷を一気に呷る。冷たい水が干乾びた身体に浸透していく。コップ一杯ではとてもじゃないが足らない。
そういう客の要望を見越してか、各テーブルにはセルフサービスでおかわりできるようにピッチャーが置かれていた。ハジメは空になったコップになみなみと水を注ぐ。その中身をゴクゴクとのどを鳴らして飲み干したところで、ようやく人心地つくことができた。
「ほんと暑いわね」
「いまが一番気温の高い時間帯ですからね」
美雪の言葉に相づちを打つ高遠の額にも薄っすら汗が滲んでいる。シレッとした表情をしていても、この男もそれなりに暑さを感じているらしいことは、ハジメと同様に手元にある空になったコップを見ればわかる。
「美雪はなんにする? あたし、ソーキそば!」
「えー、どうしよっかなぁ。……うん。ゆし豆腐そばにしよ」
「じゃあ、高遠は沖縄そばな」
ハジメの勝手な決定にも高遠は異を唱えない。美雪の咎める声に「構いませんよ」と答える程度に食に興味がない男は、暑いとさらにそれが顕著になる。高遠はハジメが注文しなければ、この昼を水のみですましかねない。
メニューにある説明を読むかぎり、ソーキそばと沖縄そばの違いはトッピングのみのようだ。ハジメは沖縄そばの三枚肉も食べたいし、ソーキそばのスペアリブももちろん食べたい。しかし、そばを二杯分食べるにはまだ先ほどの暑さが尾を引いている。となれば、高遠から肉をもらうのが一番合理的だった。
注文すればあっという間に出てきたそばを食べながら、美雪とこのあとの行き先について話し合う。ハジメは事前に調べたり、計画を立てたりするのは性に合わないので、観光プランはほとんど美雪に一任していた。
「ごはん食べ終わったら、予定通り首里城公園に行きましょ」
「琉球菓子が食べれるお茶屋さんがあるんだよな。あたし、
「さんぴん茶とはいわゆるジャスミン茶のことですよ。君、香りの強いお茶は苦手でしょう?」
「美味しくなかったらあんたにやるからいいよ」
そう言いながら、高遠の皿に乗っている肉をもらっていく。
ハジメの注文したソーキそばは、つるっとコシのある麺と鰹などの魚ベースの出汁がめちゃくちゃ旨かった。甘めの味付けで肉がトロトロになったスペアリブとの相性も完璧で、ハジメはスープの一滴まで残らず平らげた。
胃に食べものが入れば、暑さに参っていた食欲が戻ってくる。
ハジメは隣に座った美雪からゆし豆腐そばを少し分けてもらったり、半分ほどで手を止めた高遠から皿を強奪したりしてその腹を満たした。
「それで、首里城公園まではなにで行くんですか?」
「へ? 車じゃねぇの? レンタカーあるじゃん」
「車でもいいですけど。那覇には沖縄で唯一の鉄道がありますから」
「え……沖縄って電車走ってねぇの!?」
驚きの事実である。
呆れ顔の美雪に沖縄は基本的に車社会で、鉄道路線は『ゆいレール』と呼ばれるモノレールしかないと教えてもらう。ゆいレールは那覇空港駅からてだこ浦西駅までを結ぶ総延長十七キロメートルのモノレール路線で、これを利用すれば、この国際通りから四十分ほどで首里城公園につけるらしい。
「でもモノレールを使ったら、あとでここまで車を取りに戻らないといけませんよね?」
「べつに僕がひとり先に戻って、首里城公園まで車を回しても構いませんが……この国際通りも見るところは多いですし、首里城の観光を終えたあともう一度ここに戻って来たらどうですか? その時間帯なら少しは日差しがマシになって散策しやすくなっているはずですよ」
意外とまともで建設的な提案をするなと、ハジメは最後に残ったスープをすする。観光になんて微塵も興味がないだろうにどういう風の吹き回しなのか。
訝しげに男の顔を窺えば、ひたりと目が合った。
胡散臭い笑顔を浮かべて口パクで「サービスですよ」とハジメの疑問に答えた高遠の足をテーブルの下で蹴りつける。なにがサービスなのか。観光ガイド気取りか、この男。
腹立たしさのまま高遠の靴をゲシゲシと踏んでいると、視線の先で男の笑みが深くなるのがわかった。そのくせ、瞳はちっとも笑っていない。
本能的に身の危険を感じたハジメが高遠の靴の上から足を退けるのと、男の手がハジメの素足を撫で上げるのは同時だった。
「ぎゃっ!」
触られたことよりも、高遠の手の冷たさにびっくりして、思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「もう! なにしてるのよ、はじめちゃん。ほんとに落ち着きがないんだから」
美雪のお説教が耳を素通りしていく。
なぜだろう。
高遠の手は冷たかったはずなのに……自分とは違う体温が肌に残っている気がして、ハジメはそれを上書きするみたいに男が触れた場所を擦った。驚きにかドキドキと心臓が音を立てている。
こちらの様子に小言をやめて、寒いのかと心配そうに問いかけてくる美雪に大丈夫だと返事をして、ハジメは元凶たる男を睨みつけ口パクで「変態」と罵ってやる。高遠はハジメの罵倒にちょっとだけ目を丸くしてから、珍しく本当に楽しそうに笑った。――ドMか!
◆
首里城公園には約二時間半ほど滞在した。散策の途中でハジメがバテてしまい茶屋で休憩したり、美雪が行きたがっていた写真屋で琉球王朝時代の衣装を羽織って撮影したりと、思いのほか時間が経つのが早く、なんだかんだと宿泊するホテルについたときにはとっぷりと日が暮れていた。
「あー、疲れたーっ!」
ベッドに倒れ込めば、自室のそれとは違う素晴らしいスプリングが優しくハジメの身体を受けとめてくれる。シワ一つなく完璧にベッドメイクされたシーツは、ものの数秒でクシャクシャになってしまった。
満腹になった腹と歩き疲れた身体は、いまにも睡魔に負けてしまいそうだ。
「はじめちゃん、お風呂に入らなきゃダメよ」
「んー。……わかってるよ」
くっつきそうになる瞼をこじ開けて、ハジメはベッドから身を起こした。左手首にはめたGショックを見れば、時刻はもう二十一時を回っている。
このホテルから草凪たちの民宿までの距離を考えると、そろそろホテルを出ないと間に合わない。
祝木・彩世・華形の三人は今夜、草凪が翌日使う予定のライフジャケットの中身を、自分たちが泊まる民宿の倉庫にある『高分子吸水ポリマー』と入れ替えるといういたずらを決行する。ハジメは今回事故が起きてから介入するつもりではあるが、高分子吸水ポリマーは水を吸うと約五十倍の重さになるので、こちらも事前にライフジャケットが外れやすいよう細工をしておく必要があった。
とはいえ、実際にその細工をするのは高遠で、ついて行ったとしてもハジメにできることはなにもない。それでもハジメは、高遠だけにすべてを任せるのは嫌だった。
高遠を信頼していないわけではない。助けられるという確信があっても、草凪の命を危険に晒す決断をしたのは自分だからだ。もしも、万が一、草凪が命を落とすことがあったら……その責任の一端は、間違いなくハジメにある。
だから、ハジメは自分の目ですべてを見届けなければならないと思う。
「はじめちゃん? どうかしたの?」
「あー、ちょっと夜風にあたって来よっかなって」
「え、ひとりで? どこまで行くの?」
「大丈夫だって! 迷うと困るから高遠連れてくし」
「……ふ~ん」
「な、なんだよ?」
「べっつに~。じゃあ、あたしは先にゆっくりお風呂に入ってるからね」
妙に「ゆっくり」に含みを持たせた言い方が気になったが、深く突っ込まれると説明に困るのはこちらの方なので、着替えを抱えてバスルームへと入っていく美雪を大人しく見送る。
とくに持ち物はいらないだろうと、ハジメはスマホだけを手に持って部屋を出た。ドアが閉まった瞬間に、このホテルが全室オートロックだったことを思い出してハッとするが、あとの祭りである。
(まあ、さっさと帰ってきて美雪に開けてもらえばいいか)
高遠に声をかけようと隣の部屋に足を向けたところで、こちらの行動を予測していたようなタイミングで部屋のドアを開けて、高遠が廊下に出てきた。
ハジメの顔を見て、男はふっと仕方なさそうに笑う。
「疲れてるなら、寝ててもいいんですよ」
「……うるせぇよ」
民宿の正確な場所は知らないので、高遠の隣を一歩分遅れて歩く。
てっきり車を使うのかと思ったら立地的に徒歩で行く方が速いという。美雪にした言い訳通り、本当に夜風にあたることになってしまった。海が近いので風に乗って波の音と潮のにおいが漂ってくる。
陽が沈んでも、真夏の沖縄は暑い。
ホテルを出てしまえば、たちまち汗がこめかみをつたった。
無言でも特別気詰まりということもなかったのだが、なんとなくなにかを話していたい気分で、ハジメはぽつりぽつりと高遠に言葉を投げかける。
朝早くに美雪に叩き起こされたこと。
さんぴん茶は思ったよりも飲みやすかったが、やっぱり好きな味ではなかったこと。
夕飯を食べ過ぎて、実はショートパンツのボタンが閉まらないこと。
それは独り言に近いものだったが、高遠がときおり相づちを打ったり、クスリと笑ったりするので、ハジメは目的地につくまでそのどうでもいい話をやめなかった。
翌日の晴天が約束されたような星空は、東京で見るそれよりもずっときれいだったのに、不思議と毒島陸のアパートからの帰り道に見た夜を思い出してしまって、ハジメはそんな自分を小さく笑う。
高遠とふたりで過ごす時間が、自分のなかに『思い出』として残っていることが、なんだか少しだけくすぐったかった。