平行線機能不全   作:キユ

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第二章「サマーバケーション③」

 

 海のなかはハジメが想像していたよりもずっと明るかった。降り注ぐ日差しと波が作り出す陰影が、海底に光のカーテンを生み出している。

 

(すっげぇ……)

 

 自分の目の前に広がる光景にただただ言葉を失う。

 海に入る前だって、その蒼色の美しさに感動した。どこまでも続くような水平線の広大さに圧倒されたし、ボートからのぞき込んだ海の透明度の高さに驚いた。それでも、海のなかは別格だと思う。

 まさに別世界。

 ここでは自分が吐き出したポコポコという空気の音すら特別に感じられた。シュノーケリングなんて草凪を助けるための口実でしかなかったはずなのに、いまこの瞬間だけはそれすら忘れてしまいそうだ。

 ハジメの視界の端を、鮮やかな色をした魚が通り過ぎていく。

 

 糸満市某所。

 

 沖縄でダイビングやシュノーケリングと言えば、真栄田岬にある『青の洞窟』と呼ばれるスポットが有名らしいが、ハジメたちが訪れたここはあまり観光客に知られていない穴場であった。

 

「ねぇ、はじめちゃん、見た!? さっき向こうを泳いでたのウミガメだよね!」

 

 ぷはっと同時に海面に顔を出した美雪が興奮したように話しかけてくる。ハジメも彼女に自分の見たものを伝えようと口からシュノーケルをはずすが、タイミング悪く顔に波をかぶり盛大に海水を飲み込んでしまった。

 

「ゴホッゴホッ」

「ちょっと、大丈夫!?」

「うえぇ~。しょっぱい……」

 

 ペッ、ペッ、と海水を吐き出すが口のなかの塩っ辛さは変わらない。

 ふたりのやりとりを見守っていたガイド兼インストラクターの比嘉邦美子(ひがくみこ)が笑いながら一度ボートに上がるよう提案してくれる。邦美子は地元の出身で、このボートを運転している夫とふたり、ダイビングやシュノーケリングの体験ツアーガイドをしているそうだ。三十代半ばくらいの細身で健康的な小麦色の肌をした女性だが、「遠泳が得意」と豪語するだけあり、その腕にも脚にも引き締まった筋肉がついていた。

 先にボートへと上がった邦美子はその力強い腕で、モタモタとするハジメを引っ張り上げてくれる。続いて美雪がひとりでさっとボートに上がってくるのを見て、なんだかしょっぱい気持ちになった。いまさら幼馴染にいいところを見せたいとは言わないが、美雪から「おっちょこちょいね」という視線を向けられるのはつらいものがある。ちょっと着慣れないウェットスーツや足ひれに手こずっただけだ、とこっそり己を慰めておいた。

 

「七瀬さんは筋がいいわね。水泳は得意なの?」

「えへへ。中学まではスイミングスクールに通ってました」

「じゃあ、怖くないならもう少し潜ってみる? サンゴももっと近くで見れるわよ」

「わぁ! 行ってみたいです! ……あ、でも、はじめちゃんが」

「おー、おー。気にせず行ってこいよ。あたしはちょっと休憩してるから」

 

 こちらを気にする美雪にひらひらと手を振りながら答える。さっきのいまで彼女たちについて行く気にはなれない。運動音痴は大人しく留守番していよう。カナヅチの汚名返上はできても、残念ながらハジメには泳ぎが得意だと胸を張れる力量はないのだ。

 美雪と邦美子は水分だけ補給してから、再び海に入っていった。

 燦々と輝く太陽はそろそろ真上に差しかかろうとしている。海水でほどよく冷えた身体がジリジリと焼けるのを感じて、ハジメは日除けの布を張ってある後部デッキの休憩スペースへと移動した。そこにポツンと置かれた折りたたみのアウトドアチェアは空で、座面には読みかけの本が無造作に残されている。

 

「あれ? どこ行ったんだ、あいつ」

 

 ここに座っていたであろう男が見当たらないことにハジメは首をひねる。

 ひとりでシュノーケリングを楽しんでいる、というのは高遠の性格的に考えにくい。ひょっとして、もう祝木たちの船が来たのだろうかと慌てて辺りを見回していると、高遠は見慣れぬスマホを片手にバウデッキの方から歩いてきた。

 

「おや、もう上がって来たんですか?」

「俺はちょっと休憩。美雪はまだ潜ってるよ。――そのスマホ、あんたの?」

「いいえ。これは足のつかない飛ばしです」

「……なんで、そんなもん持ってんだよ」

「違法行為を自分のスマホでするわけにはいかないじゃないですか」

 

 間違っても、爽やかな笑顔を浮かべて言うセリフではない。

 続けられた「草凪蓮のスマホに仕込んだ位置情報把握アプリ」については必要なことだと納得できるし、余計なトラブルを回避するためにその手のいささか非合法なスマホを用いることも理解している。しかし、少しは自分の真っ黒な前歴を隠したらどうなんだ。善良な一般市民のハジメとしてはそんなことを赤裸々に教えられても反応に困る。

 

「我々がここにいることで、万が一彼らが泳ぐ場所を変えてしまったら、君の願いを叶えることができませんから」

「わかってるよ」

 

 祝木たち四人はガイドやインストラクターをつれずに自分たちで船を出し、なおかつそこが人目の少ない場所であったことから、草凪の水難事故は死亡という最悪な結果を招いてしまうことになった。もしも彼らがシュノーケリングの場所に有名な観光スポットを選んでいれば、この事故はべつの結末を迎えた可能性が高い。

 祝木たちにとって草凪の事故はあくまでいたずらであるが、その一方で自分たちの行為に多少の疚しさは感じているだろう。ハジメたちがいることで事故が起こる場所が変わってしまうことが一番の懸念事項だった。

 

「で、草凪さんたちは予定通りここに来んの?」

「いまのところ、彼らの行動に変化はありません。あと十分もすれば彼らの船が見えてくるはずです」

 

 よく晴れた空と穏やかな海からは、これからここで起こるかもしれない悲劇など想像することもできない。

 無言で凪いだ水面を見つめていれば、すぐ隣まで来た高遠が静かに問いかけてくる。

 

「不安ですか?」

「そりゃあ、な」

 

 失敗すれば、人ひとりの命が失われてしまう。

 自分の目的のために他人の命を危険に晒している自覚があるだけに、ハジメの胸中を覆う不安は大きい。

 未来を知っているというこの驕りが、判断を狂わせているのではないか。自分がしようとしていることは、本当に人の命を賭けてまでするべきことなのか。

 どれほど考えたところで答えなどでないと知っているけれど、そこから目を背けることは許されないとも思っている。緊張からか、きつく握りしめた指先はずいぶんと冷たくなっていた。

 

「君は……この私が、失敗するとでも?」

 

 投げかけられた言葉に横目で相手を見れば、高遠はどこか不機嫌そうに口の端を歪めて、肯定も否定もしないハジメをハッと鼻で笑う。

 こちらを嘲る顔は本来とてもムカつくもののはずなのに、それがいつぞやの自分が思い描いた通りの姿すぎて、つい堪えきれずに噴き出してしまった。そのまま腹を抱えてゲラゲラと遠慮なく笑ってやる。

 

 あの頃と、自分たちはなにが変わったのだろう。

 

 物騒な協力者は相変わらず物騒で、厄介で、面倒臭い。地獄の傀儡師として殺人や殺人教唆はしないという確約こそあるが、それだって期間限定の話だ。高遠はその気になれば、いまも顔色一つ変えずに人を殺すことができる。人の死をショーのテーマだと嘯く男の本質は、そう簡単には変わらない。

 それでも、ハジメは先ほどの高遠の言葉が、この男なりの「心配するな」だということをもう知っている。

 器用なくせに性根が捻じれているせいで、善意の伝え方だけがとんでもなくヘタクソな男。一回目では知ることもなかったそんな高遠の一面が、ハジメは意外と嫌いではない。

 

「笑われる覚えはないんですが」

 

 ムスッとした表情はなかなかに珍しい。

 これ以上男の機嫌を損ねるとあとが大変だとわかっているのに、その表情にさらに笑いを誘われてしまう。

 冷え切っていたはずの指先は、いつの間にか温かさを取り戻していた。

 

 

 

 

 彩世泉は悠々と泳いでいる憎い男にスマホのレンズを向けながら、その顔に意地の悪い笑みを浮かべた。

 これは制裁だ。

 勇気を出して告白した乙女に、その気持ちを考えようともせず、「ごめん」の一言ですげなく断ってきた男に対する正当な報復。そう、恥をかかされた自分にはその権利がある。

 

(無様に溺れるところをネットに晒してやる)

 

 高校生のときに水泳でインターハイ出場経験があるだけあって、草凪の泳ぎは大したものだ。裕福な実家に、人目を引く整った容姿と優秀な頭脳。誰もが羨むような恵まれた男だが、自分の手に入らないとなれば、その高スペックもどこまでも腹立たしく感じられる。

 無様に溺れて、焦った顔をすればいい。

 みっともない姿を世間に晒されて、少しはこれまでの己の態度を振り返ったらいい。

 

「彩世さん、その動画アップするんですか?」

「あったりまえでしょ」

「女は怖いねぇ。一度は告白した男に対してこの仕打ち。華形、お前も気をつけろよ。って、そもそも告白なんてされねぇか」

「ひどいっスよ、祝木さん!」

 

 こんな風に言う祝木と華形だって、草凪を妬んでこのいたずらに参加しているのだから、所詮彩世と同じ穴の狢だ。

 いまも、三人で草凪が溺れるそのときを楽しみに待っている。

 

「そろそろじゃね?」

 

 祝木の言葉に期待でスマホを持つ手に力がこもる。

 決定的な瞬間を撮り逃さないために彩世はスマホを構え直した。画面に映る草凪はライフジャケットの異変に気づいたのか、慌てたように手を上げて助けを求めている。

 

「やった!」

「いい気味!!」

 

 ブクブクと泡を上げて沈んでいく姿に溜飲が下がった。

 あとは、みんなで草凪を助けに行けばいい。調子に乗っているからこういう目に合うのだと教えてあげよう。彼が真剣に謝るのなら、この動画を消してあげてもいいかもしれない。

 

「さて、カッコつけ男を助けに行ってやりますか」

「あんだけ溺れてるのにカッコつけもなにもないでしょ……って、あれ? おかしいな。エンジン、かかんないっスけど」

「え!?」

「エンジンがかかんないってどういうことだよ!?」

「そ、そんなこと、俺にもわかりませんよ……!」

 

 束の間、なにが起こっているのかわからなかった。

 慌てる自分たちの視線の先で、草凪の姿は完全に海へと沈んでしまっている。ブクブクと吐き出されているあの泡がなくなったら、彼は――。

 

(ひょっとして、死んじゃうんじゃ……)

 

 考えもしなかった事態に心臓が嫌な音を立てる。

 祝木に怒鳴られ急いで動画を消しながら、彩世はスマホを持つ手の震えを止められなかった。

 草凪が溺れたのは自分たちが彼のライフジャケットにいたずらをしたからだ。中身を高分子吸水ポリマーに入れ替えるなど故意以外のなにものでもない。

 これがバレたら、自分たちはなんらかの罪に問われるのか?

 ちょっとした、いたずらだったのに?

 

「おい! マジでヤバいだろ!! なんとかしろよ!?」

「俺にどうしろって言うんスか!?」

 

 醜く言い争う祝木と華形に呆れる余裕もない。

 彩世の頭のなかも「ヤバい」と「どうしよう」で埋め尽くされている。

 

(ちょっと恥をかかせてやろうと思っただけなのに! どうしてこんなことになるのよ!?)

 

 イライラと爪を噛みながら、草凪がなんとか自力で浮上してはこないかと海を睨みつけていると、彼ではないべつの人影が視界に入った。

 そういえば、大して気にしていなかったが、自分たちから少し離れたところでシュノーケリングをしているツアー客らしき人間がいたことを思い出す。こちらのアクシデントを察知して、草凪の救助に来てくれたのだろうか。

 祈るような気持ちで現れた人影を見つめていると、その人物は草凪に負けず劣らずの見事な泳ぎで、あっという間に彼を抱えて海面へと上がってきた。

 

「あ、え? 助かった、のか……?」

 

 呆然とする自分たちとは対照的に、向こうのボートではインストラクターらしき男女が手慣れた様子で草凪をボートへと引き上げている。遠目にも慌ただしい雰囲気が伝わってきて、草凪が救命処置を受けているのがわかった。

 草凪を助けた人物がちらりとこちらを振り返った気がして、彩世は知らず唇を引き攣らせた。見えもしない相手の視線に非難を感じたのは自分が抱える疚しさのせいだ。

 

(ち、違うわよ。あたしたちだって、ちゃんと助けるつもりだったもの)

 

 誰に聞かせるでもない言い訳を心中でつぶやく。

 草凪を乗せたボートはほどなくして陸へと向かって動き出し、何事もなかったかのように静けさが戻った海には彩世たちだけが取り残された。

 

 

 ◆

 

 

 溺れてパニックになっている人間を助けるのは容易なことではない。

 そのため、高遠は彼を救助するにあたってまずは相手の意識を奪った。大量の海水を吸い、もはや重しでしかないライフジャケットは事前の細工もありすぐにはずせたのだが、草凪が思った以上に水を飲んでいたことだけが誤算だった。

 ボートのデッキに寝かされ、救命処置を受ける草凪の顔色は土気色をしている。

 とはいえ、すでに心拍や呼吸は再開しているので、このまま病院へ搬送してしかるべき治療を受ければ、後遺症などが出ることもないだろう。十全な結果である。

 

「金田一君」

 

 草凪への処置がひと段落したところで声をかければ、ハジメは硬い表情のなかに小さな安堵を滲ませて、高遠のもとへと近づいてきた。人の命がかかっている以上ハジメの反応は仕方がないとは理解しているが、こうまで不安や緊張を表に出されると、自分の能力を信じていないのかといささか不愉快だった。

 

「失敗しないと言ったでしょう」

「うん。……ありがと」

 

 ぽつりとつぶやかれた感謝の言葉だけで、なんでも帳消しになってしまうのはあまりにもズルい。しかし、ハジメが高遠の行動をきちんと自分のためだと認識しているようなので、いまのところはそれでよしとしよう。

 まだ、彼女を自分のものにすることはできない。

 余所見ばかりする高遠の名探偵は、いまだってどうでもいい人間たちのこれからを案じて、その顔を曇らせている。

 難儀な子どもだと思う。

 静かにたたずむハジメが抱える悩みも、恐れも、葛藤も、高遠には手にとるようにわかる。だからこそ、肯定も慰めの言葉もかけてはやらない。自らの善性ゆえに悲しみ、優しさゆえに傷つき、正義感ゆえに正しくあることをやめられない彼女は、高遠の知る誰よりも美しかった。

 波を切って進むボートの上で、しばしの間ハジメの愁色の濃い横顔を心ゆくまで堪能する。

 少し伏せられた目。

 悲しみに染まっても決して輝きを失わないそれが、高遠はたまらなく好きだった。こうして見る横顔は、驚くほど()だったときと変わらない。そのことに少しだけ胸が苦しくなる。

 

「――なんだよ?」

 

 じっと見つめすぎたのか、訝しげな顔で問いかけられてしまった。

 ふと、君に見惚れていたのだと伝えたらどんな顔をするだろうかと思いを巡らせる。嫌そうな顔か怒った顔の二択しか与えられそうになかったので、真意は伝えず無難な話題を口にすることにした。

 

「陸についたら、僕は警察に事故についての説明をしなければいけませんが、その間君はどうします?」

「事情聴取って結構時間かかるよな?」

「さて、事故の当事者ではなく目撃者ですからね。さほど拘束時間は長くないことを願いたいところではありますが……事故の内容が、内容ですからね」

 

 事故というより事件である。

 草凪を助けるついでにと、一部を切り取って持って帰ってきたライフジャケットを見せれば、ハジメは驚いたように目を丸くした。

 

「これが事件だと立証するには、物証はあった方がいいでしょう?」

「あんな短時間でよくそこまでできたな」

 

 この『証拠』が必要になるかは、被害者である草凪の判断次第だ。

 状況から考えても、草凪自身が被害を訴えなければ、警察はこの事故を事件として立件はしないだろう。祝木たちの行いは悪質ないたずらではあるが、被害状況からしてもギリギリ当事者間での話し合いですむレベルといえる。

 

「君の望む結果が手に入るといいですねぇ」

「ケッ。心にもないこと言いやがって」

「おや、これでも本心からの言葉だったんですが」

 

 嘘臭いと悪態をつかれるが、まごうことなき本音である。

 苦しむ少女は美しいが、いつまでも高遠以外のことに囚われているのは面白くない。

 

「警察の事情聴取には興味ないでしょう。草凪蓮と話をするタイミングができたら連絡しますから、君は七瀬さんと好きに過ごしたらどうです?」

「部外者なのに、草凪さんと話すチャンスなんてあるかな?」

「こちらは一応命の恩人です。彼へのお見舞いくらいはできるはずですよ。――直接、話したいんでしょう?」

 

 小さくうなずくハジメに、ホテル内にあるスパとエステのチケットを渡す。ハジメはもとより美雪の方も、こんな事故を目の当たりにしたあとでは観光を楽しむ気分にはとてもなれまい。

 それに時間を潰すならホテルのなかの方が都合がいい。

 昼が近いので食事もするだろうとクレジットカードも差し出せば、なぜかハジメは顔を引き攣らせた。

 

「フツー、クレカを人にぽんって渡すか?」

「現金の方がよかったですか?」

「そういう問題じゃねぇよ。……はぁ。まあ、いいや」

 

 人の気遣いにため息で返すのはいかがなものか。

 少女の反応に腑に落ちないものを感じつつ、高遠は近づいてきた陸地へと視線を向ける。港には通報によって到着した救急車と数台のパトカーが見えた。

 このつまらない騒動にまだもう少しだけ付き合わねばならないことに嘆息し、高遠は海水で濡れた髪をかき上げた。

 

 

 

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