7
目が覚めたとき、草凪蓮は自分の置かれた状況を理解するのに数分の時間を要した。身体が重い。意識は覚醒しているのに、まるで脳みそに分厚い膜でも張りついているかのように思考が鈍る。
見覚えのない白い天井。
自分はどうやらベッドに寝かされているらしい。そのまま視線だけをゆっくりと動かす。ピ、ピ、と鳴っているのはそばにある心電図モニターのようだった。左腕には点滴がくっついている。
「ここは……っ」
声を出そうとして、思わぬのどの痛みに咳き込んだ。口のなかがひどく乾いている。ざらりとした掠れた声とのどの痛みにどうしてか息苦しさを感じ、そこから気を失う前の記憶が蘇ってきた。
息のできない恐怖。
藻搔くほどに沈んでいく感覚を思い出し、全身に怖気が走る。
(俺……溺れたのか)
そして、助かった。
肺が軋んで痛むほど大きく息を吸い込む。息ができる。たったそれだけのことに、涙が出るほど安堵する自分がいた。ついで脳裏に浮かぶのは恋人や家族の顔だった。
子どもができたとはにかむように笑ったかえで。
生きていてよかったと、死ななくてよかったと、強く強く思う。
草凪はぎゅっと目を閉じて、もう一度大きく深呼吸してから、重たい身体をベッドから引き剝がすように起き上がった。
ここはたぶん病院だろう。
自分が溺れたことは祝木たちも気づいていたはずなので、彼らが助けてくれたのかもしれない。お礼を言わなくちゃな、と考えながら意識が戻ったことを知らせるため手元にあったナースコールを押す。
すぐにやって来た看護師は名前や持病の有無、いまの体調などいくつかの質問をしてから、草凪の様子を見て「大丈夫そうですね」と診断を下した。その言葉にほっと胸を撫で下ろしていると、念のため一晩は入院の必要があると説明される。母親くらいの年の看護師は、さらに「しっかり水分をとって」「気分が悪いときはすぐに知らせる」など、どこか子どもに言い含めような口調で続けた。
点滴の速度を調節して退室する際、彼女は無理をしなくていいと前置きしながら、病室の外で刑事らが草凪から話を聞くために待っていると教えてくれる。こういう水難事故でも警察の捜査があるものらしい。断る理由もないので、看護師に刑事たちを呼んでもらう。
看護師と入れ替わりで病室へと入ってきたのは一組の男女だった。糸満警察署の刑事だと名乗った彼らはあいさつもそこそこに切り上げ、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。事故の事情聴取にしては少々雰囲気が物騒だと、刑事たちの態度に腑に落ちないものを感じながら、草凪は問われるままに答えを返す。
この旅行の目的、同行者である祝木たちとの関係、シュノーケリングの経緯、事故当時の状況……と、そこまではよかった。
「――祝木たちとのトラブル、ですか?」
そんなことを聞かれる理由がわからず、戸惑いからオウム返しに答えていた。刑事が「形式的な質問です」と続けてくれることを期待したが、彼らはただ真剣な表情でこちらを見つめるだけで、その真意を教えてはくれない。
ふと心の内側をヤスリで撫でられるような小さな痛みと不快感が湧き上がる。刑事たちの様子に嫌な予感がした。
――なぜ、自分はここにひとりでいる?
友人らが助けてくれたのなら、彼らのうちひとりくらいは病院まで付き添っていてもおかしくない。先ほど訪室した看護師に氏名を尋ねられたのは問診の一部ではなく、彼女が正しく草凪の名前を知らなかったのだとしたら?
自分が溺れたのを見ていたはずの祝木たちがここにいない理由を考えたくなくて、草凪は溜まってもいない唾液を無理やり飲み込み、動揺の滲む声音で逆に彼らへと問いかけた。
「祝木は……彩世や華形は、どこにいるんですか?」
「あなたとシュノーケリングをしていた友人たちとはまだ連絡がついていません」
「まさか、あいつらもなにか事故に……?」
自分を助けようとして二次被害が出たのだろうかと不安がよぎる。しかし、それは希望的観測でもあった。なにか理由があったから友人たちはここにいないのだというある種の自分への言い訳に近い。
続けられた刑事からの否定の言葉に安堵したのか落胆したのかは、草凪自身にもわからなかった。一度浮かんだ嫌な予感はどんどんその質量を増していっている。
「草凪さんを救助したのは、あなた方の近くでシュノーケリングをしていた観光客の方です。あなたは彼が利用していたツアーガイドのボートで救命処置を受けながら陸に運ばれ、この病院へと搬送されました」
消防や警察への通報は草凪を助けた観光客側からのものが一件のみ。
祝木たちが乗っていたボートが事故のあとその場から動かなかったというのは、通報した観光客たちからの証言でわかっている。草凪が目覚めるまでの間で、警察への事故の問い合わせなどもないと言う。
「それと、これはまだ捜査中なのですが」
そこで一拍置いて伝えられた事実は、草凪にとってにわかには信じがたいものだった。
◆
草凪はベッドに腰掛け、ひとりぼんやりと窓の外を眺めていた。
心電図モニターは片付けられてしまったので、ときおり廊下から足音や話し声が聞こえてくるだけの病室は心細くなるほどに静かだった。
ずっと刑事たちの言葉が頭のなかをぐるぐると回っている。
――草凪が着用していたライフジャケットの中身が高分子吸水ポリマーに変えられていた。
それはとりもなおさず、この一件が事故ではなく事件であることを草凪に自覚させた。彼らはライフジャケットへの細工が祝木たちによるものだとは言わなかったが、友人たちがいま自分のそばにいないことが答えなのだと思っている。
不思議と怒りは湧かなかった。
まだ自分がされたことへの実感が薄いからなのかもしれないが、草凪としてはただ「なぜ?」という疑問の方が強い。もちろん、一歩間違えば死んでいたのだと頭では理解している。
自分と祝木たちの関係はサークルの友人だ。大学からの付き合いなので親友だなんだと大仰な相手ではないが、こうしてともに旅行する程度には仲がいい。少なくとも、草凪側には思い当たるトラブルの類いはまったくなかった。
(もしも、これが祝木たちが仕組んだことだったとして……)
自分はどうすればいいのだろう。
草凪はもやもやとした感情を持て余し、くしゃりと髪を掻きまぜる。無性にかえでの顔が見たかった。身重の恋人に心配をかけるわけにはいかないと思いながらも、彼女に「どうしたらいい?」と弱音を吐きたくなる。もっとも、シュノーケリング中に救急搬送されたので、手元にスマホはおろか着替えすらない現状では物理的に不可能だったが。
そういえば自分の荷物などはどうなっているのかと思考が現実的な方向に流れたかけたところで、病室のドアがノックされた。
コン、コン、コン。
規則的なその音に草凪はドアへと視線を向ける。看護師の巡視かと入室の許可を出せば、ドアを開けて姿を見せたのは自分と同年代の男性だった。隣に中学生くらいの少女を連れている。てっきり病室を間違えたほかの見舞い客だと思い、相手を気遣って笑みを浮かべれば、なぜか彼らは草凪のいるベッドへと近づいてきた。
「警察の方から意識が戻ったとお聞きしまして」
「え……あっ! ひょっとして、俺を助けてくれた方ですか?」
慌てて居住まいを正す。
勝手に警察官やレスキュー隊員みたいな筋骨隆々な人間を想像していたが、目の前の人物は草凪のイメージしていた恩人からだいぶかけ離れていた。高遠と名乗った男性は身長こそ高いが、かなりの痩身だ。自己紹介を返しながら、これでよく自分を助けられたなと密かに感心する。
「後遺症などもないと聞いていますが、体調はいかがですか?」
「ありがとうございます。念のため一泊は入院するように言われましたが、身体の方はどうもありません。医師からは適切な救命処置を受けられたからだと……本当に、ありがとうございました」
「そう畏まらないでください。実際に処置をしてくれたのは、僕らと一緒にいたツアーガイドの方たちなので」
「そんな! そもそもあなた方に見つけてもらえなければ、俺はあのまま……」
溺死していたかもしれない。
口にしなかったそれは純然たる事実で、自分を海の底へと引きずり込むライフジャケットの重さを思い出してゾッとした。
「草凪さんが溺れていることに、最初に気がついたのは彼女なんですよ」
「そうだったんですか。金田一さんも本当にありがとう」
草凪の言葉に恐縮する少女へと深々と頭を下げる。
自分のせいで彼らの旅行が台無しになったであろうことは想像がつく。それでも、わざわざ見舞いへと来てくれたふたりにそのことを謝罪するのは失礼な気がして、草凪はただ下げた頭に精一杯感謝の気持ちを込めた。
8
ボートで見たときの顔色の悪さを少しも感じさせない様子の草凪に、ハジメは心底ほっとした。大丈夫だと教えられてはいても、やはりこの目で見るまでは安心できない。
ベッドのそばにあった椅子を勧められ、高遠とともにそこに腰を下ろす。
草凪本人から「体調は問題ない」と言われても、相手が水難事故後であることを考えれば、あまり長居するわけにはいかないだろう。ハジメはさてどう話を切り出すべきかと、何度も感謝の言葉を繰り返す草凪を見つめながら思案する。
「あの、それで……あなたたちにこんなことを聞いてもいいのか、わからないんですが……」
言葉を濁しながらもその話題を口にしたのは草凪の方からだった。
彼は自分のライフジャケットに細工が施されていたことを警察から聞かされたらしい。ハジメたちが見た事故の状況をくわしく教えてほしいと頭を下げられる。
草凪の表情や態度から、彼が祝木たちを疑っていることは伝わってきた。友人たちの行いに怒っているのか、恨んでいるのか、悲しんでいるのか、そこまでは初対面のハジメには窺い知れない。ただ彼の瞳からは、自分の身に起こったことと向き合おうという決意が感じられた。
もとより事故の話をするつもりで訪れたハジメにも否やはない。
事故の当事者である草凪にはすべてを知る権利がある。それらを知った上でどうするかは草凪自身が考えるべきことで、ハジメにできるのはその決断を見届けることだけだ。
なるべく主観が入らないように気をつけながら、自分が見た事実だけを語って聞かせる。
草凪は溺れているのかと疑う間もないほどの短時間で海のなかへと沈んでいってしまったこと。
同行していた祝木たちは途中までその状況をスマホで撮影している様子だったこと。
草凪の姿が海中へと消えてから、祝木たちはなにか焦っているように見えたが、彼らのボートがそこから動くことはなかったこと。
「高遠が草凪さんを助けにいったとき――」
「明らかに沈んでいくスピードがおかしかったので、ライフジャケットを破いて救出しました。警察に提出したのはそのときにあなたの身体に付着していた破片です」
ハジメの言葉を引き継いでそう説明した高遠に、草凪はぐっとなにか苦いものを飲み込んだような顔をした。ぽつりと「高分子吸水ポリマー……?」とつぶやく。
「ライフジャケットの中身が偶然そんなものに替わってる、なんて……ありえないですよね」
「草凪さん……」
「あはは。足を攣った記憶はないから、なんで溺れたんだろって不思議だったんですけど。……そりゃ、そんなもの着てたら泳げませんね」
力なく笑う草凪は、改めて知った事実に打ちのめされているように見えた。
「友だちだと、思ってたんだけどな……」
人から悪意を向けられるのはつらい。それが友人や親しい相手であればなおさら。
ハジメは祝木たちがなにを思ってこのいたずらを行ったのかを知っている。彼らの行動の善悪は置いておいて、そこに草凪への殺意はなかったことはたしかだ。しかし、それをハジメの口から説明するわけにはいかない。
こういうとき自分はどこまでも無力だと思う。
気の利いた言葉なんて一つも浮かばないし、自分で運命を捻じ曲げたくせにそれが正解だと胸を張ることもできない。
部屋に落ちた沈黙にハジメはきゅっと唇を噛みしめた。
まだ伝えたいことが、言わなければならないことがある。ハジメがこれから彼に見せる『証拠』は、草凪をより深い悲しみに引きずり込むのかもしれない。仮にここで自分が介入をやめても、警察は祝木たちを調べるだろうし、その結果は彼らに何某かの後悔や反省を促すことになる可能性は高い。
だが、ハジメはこれを草凪と祝木たちの問題だと捉えている。彼らの間でなんらかの決着がつかなければ、それは本質的な解決にはならないのだと。
「草凪さんに、見てほしいものがあるんです」
それとわからないように小さく深呼吸してから、ハジメはそう話を切り出した。不思議そうな顔をする草凪にスマホの画面を見せる。
そこに映っているのはとある動画だ。
そう、例によって高遠が大きな声では言えない方法で入手してきた、彩世泉がサイトへとアップしていた動画である。ハジメが画面の再生マークをタップすれば、彼らの陋劣なやりとりが静かな病室へと響いた。
眼前に突きつけられた友人たちの悪意に、草凪は言葉もなく固まっている。
祝木が焦った声で映像を消すよう叫んだところで動画は終わっていた。ハジメは草凪の様子を窺いながら、彼へと差し出していたスマホをポケットにしまう。
「これは、あたしがあの人たちが撮影してたみたいだったって言ったら、高遠が見つけてきた動画です。……草凪さんの友だちで、間違いないですか?」
「金田一君がとめるので、まだ警察にはこの動画のことは話していません」
「これって……あいつらは、俺を故意に溺れさせようとしたってことですよね……?」
「動画を信じるなら、溺れたところを助けるつもりだったようですね。彼らのボートが動かなかったのはエンジンのトラブルによるもののようだ」
「草凪さんはこの動画をどうしたいですか?」
「え……?」
「これは草凪さんが言うように、彼らがあなたを故意に溺れさせようとした証拠です。でも一方で、高遠が言うように、助けるつもりはあったっていう殺意の否定でもある」
この動画が祝木たちへの心証をプラスにしているとは言い難い。実際、彼らは草凪を助けることも、助けられた草凪に対してアクションを起こすこともしなかった。多くの人は状況的に「逃げた」と感じるだろう。
警察に事件の『証拠』として提出すれば、祝木たちの罪はほぼ確定となる。まだいまの段階なら、ライフジャケットの中身が入れ替わっていたのは事実だとしても、それが祝木たちの手によるものだという証拠はなく、たぶん不可解な事故ですませることも可能だ。
それを踏まえた上で、ハジメは草凪にどうしたいのかをもう一度問うた。
「警察から話を聞かされたときも、どうしてって思ったんです。あいつらはなんでこんなことをしたんだろうって」
ただのいたずらだったんですね、と草凪は歪な笑みを浮かべる。
「あいつらわりと考えなしなところがあるし、たぶんここまで大事になるとは思ってもいなかったんでしょう。きっと今頃“やらかした!”って頭を抱えていますよ」
「――それでいいんですか?」
「だって、友だちなんですよ? 祝木はいま就活中だし、ほかのふたりだって警察沙汰なんてしたくないだろうし」
「あたしは……友だちでも、怒っていいと思いますよ」
ハジメの言葉にこそ、草凪はどこか怒った顔をした。
自分たちの関係を知らない部外者から無遠慮に口を出されて不快だったのかもしれない。草凪の胸のうちはわからないが、彼が本心から友人たちのいたずらを笑って流すつもりだとはどうしても思えない。
固く握り締められた拳には言葉にできない彼の感情が込められている気がした。
「なんてことするんだって詰ったらいい。いたずらだったのかもしれないけど、彼らはそれだけのことをしてるんだから。それに……なかったことにされたら、罪を償うこともできないじゃないですか」
「……罪?」
「そうです。一歩間違えたら人を殺していたんだ。それが罪にならないわけがない。草凪さんには彼らを糾弾する権利がある」
「でも、そうしたら、あいつらは……」
前科がつく。そうでなくても、もう友人関係には戻れない。
ぽつりとそう漏らし、草凪はその口元に自嘲を刻む。自分の言葉を打ち消すように頭を振ってから吐き出されたのは、彼の怒りであり、悲しみであり、迷いだった。
「そりゃ、腹は立つよ! なんでこんなことされなきゃいけないんだって思うよ! でも、結果的に俺は怪我一つしてない。一時の感情であいつらの人生を台無しにするかもしれない選択なんてできない」
自分がすべてを飲み込んで、流してしまうのが最善ではないのかと喘ぐように問われる。苦悩の色が浮かぶ草凪の顔を見つめながら、ハジメは小さくそれでもはっきりと否定の言葉を返した。
「自分の罪と向き合わなかったら、人は決して本当の意味で前に進むことはできないんです」
「祝木たちのためにも被害を訴えろって?」
「そう。そして、草凪さん、あなたのためにも」
「俺の……?」
「どうしてこんなことをしたのか、友だちに聞いたらいい。それで理不尽だと思うなら怒ったらいいんです。怒って、彼らが謝ってきたら……そこで、許すかどうか考えたらいい」
「許しても、いいんだろうか……」
「許すのだって、あなたの権利だ。彼らが罪を認め、あなたに謝罪するのなら、べつにそれを受け入れて友だちに戻ったっていいじゃないですか」
これは草凪が生きているからこそできる選択。
ハジメは草凪と祝木たちの関係修復を望んでいるわけじゃない。彼がされたことを考えれば、安易に許すように諭すこともできない。祝木たちの動機はとても身勝手で、その行為はどう言い繕ったって卑劣なものだ。
ハジメ個人としては、彼らはちゃんと立件までされた方が世のため人のためだとさえ思う。――でも。
「草凪さんが決めたらいいんですよ」
これだけ口出ししておいて、とハジメは自分の言葉に苦笑する。隣に座っている男は間違いなく、「答えに誘導しておいてなにをいまさら」と内心せせら笑っていることだろう。
自分勝手なのは百も承知である。
ハジメにできるのはここまでで、本当にこれ以上彼らに関わるつもりはない。言いたいことは言った。あとは草凪自身が決めるべきことだ。
ただ、願わくば……誰にとっても幸福な未来を選びとってほしい。
9
ホテルのすぐ後ろは海になっているから、窓を開けてベランダに出れば、風に乗ってかすかに潮のにおいと波の音が感じられた。
視線の先にある海は月の光を反射して、昼間とは違う淡い輝きをまとっている。
ハジメはベランダの柵に凭れながら身体を撫でる穏やかな海風に目を細めた。天上に浮かぶ満月には少し足らないそれをなんとなしに見つめる。
「――寝れないんですか?」
ふいにかけられた声に視線を移せば、高遠が隣の部屋からベランダへと出てくるところだった。ハジメはちらりと自分の後ろを振り返り、美雪がベッドで寝ているのを確認してから、心持ち抑えた声で問い返した。
「そういうあんたは?」
「月がきれいなので、月見酒でもと思いまして」
男はそう言って、手に持っていたグラスをちゃぷんと揺らす。
地元の酒造メーカーが造っている泡盛らしい。よく冷やされているのか、グラスのなかの液体は少しだけ白く濁っている。
「ひとりだけズッリーの」
「君も飲みます?」
力強くうなずけば、高遠はグラスを持ったまま一度部屋に戻ってしまった。べつにその飲みかけでもよかったのにと思いながら、わざわざハジメの分を用意してくれるつもりだろう彼が出てくるのを大人しく待つ。
月見酒だなんて、似合うんだか似合わないんだかわからないことを言うものだと、先ほどの高遠の言葉を思い出して小さく笑う。
あれは要するに「寝れないなら付き合いますよ」という不器用なお誘いだ。もっとも、彼が起きていると当たりをつけてベランダに出てきた自分が言えた義理ではなかったが。
「金田一君」
「ん?」
再びベランダへと出てきた高遠はなぜか手になにも持っていなかった。俺の分は?と首を傾げるハジメをちょいちょいと手招きで呼び寄せる。
互いのベランダの間には仕切りがあるので、ハジメはギリギリまでそこに近づき、柵から身を乗り出すようにして尋ねた。
「なんだよ……って、うわっ!?」
にゅっと伸びてきた手が自分の両脇を掴んだかと思ったら、一瞬の浮遊感ののち、ハジメは高遠側のベランダに立っていた。
わけがわからず、ぽかんと目の前の男を見つめる。
たぶん高遠はその腕力だけでハジメの身体を持ち上げ、自分のいたベランダへと引きずり込んだのだろう。ハジメはまあ小柄な方なので、この男にとっては難しいことではないと理解しているが……ここは七階だぞ? 落ちたらどうする?
「落としませんよ」
「人の心を読むなっつの。てか、言ってくれたら自分でそっちに行ったのに」
変なところで横着をするというか、なんというか。
あのタイミングで部屋に来るように言われたら、ハジメも柵を乗り越えることを選んだであろうことはこの際置いておく。ちなみに、一回部屋に戻って靴を履き替えて隣の部屋に行くのを面倒臭がる程度にズボラな自覚はある。
こういう思考を読まれた上での行動な気もするので、それ以上の抗議はしないことにした。
高遠のあとを追ってベランダから室内に入る。
ハジメたちと同じツインタイプの部屋なのでとくに目新しさはない。高遠相手にいまさらなんの遠慮もなく、ハジメは酒瓶とグラスが置かれたテーブルの前にある籐の椅子にどかりと腰掛けた。
「なにか頼みますか?」
ルームサービスのメニューを差し出され、いくつかの軽食やデザートを注文してもらう。ほどなくして届いた料理にハジメの腹がぐぅっと音を鳴らす。美味しそうなにおいというのはどうしてこう腹が空くのだろうか。
ぱちんと手を合わせて、当初の目的だった酒もそこそこにまだパチパチと油が跳ねているウィンナーにかじりついた。パキッと割れた途端に肉汁があふれてくる。熱いが旨い。ハフハフと口のなかの熱を逃がし、冷えた酒をぐっと呷った。
「……うっま」
思ったよりもずっと口当たりがよく飲みやすい。スンスンとグラスを嗅げば、バニラのような甘い香りがした。
「泡盛ってもっと癖の強い酒かと思ってた」
「種類によるとしか言えませんね。これはそれなりにアルコール度数はありますが、比較的飲みやすい部類かと」
ふーんと相槌を打ちながら、二杯目の酒をグラスに注ぐ。スッと高遠が炭酸水を渡してきたので、素直に受け取ってソーダ割りにした。やっぱり油物には炭酸が合う。
夏と海と酒。ついでに、高遠。
そこから思い出されるのは二年前のオリエンタル号での夜だった。
「トランプでもします?」
同じ思考に至ったらしい男の提案にベッと舌を出すことで答える。
こちらのそんな態度に笑ってグラスに口をつける高遠は、表面上はオリエンタル号のときとなにも変わりがないように見える。
沈没事故を回避したあと、この男は拳ふたつ分の距離を空けてハジメの隣にいた。あのときといまでは、自分たちの間にある距離はずいぶんと縮まってしまった気がする。そのことに焦りのような居心地の悪さを感じもするのだけれど。
(嫌……では、ねぇんだよなぁ)
それが、自分でも少しだけ不思議だった。
◆
テーブルに突っ伏すように寝落ちしたハジメを抱き上げ、高遠は少女を自分のベッドに運ぶ。アルコールの回った身体はいつもより温かい。
少女を故意に酔い潰した自覚はあった。
適当な理由を作ってハジメを誘ったのは、どうせ寝れないのだろうと思ったからだ。この子どもは普段の言動からは想像できないくらい繊細で感傷的な面を持っている。ハジメは酔わせても、追い詰めても、ろくに泣き言や弱音を漏らさない。高遠は少女のその強さを好ましく感じる反面、ときどきどうしようもなく泣かせてみたくなる。
「ねぇ、金田一君。君の泣き顔が見たいと言ったら怒りますか?」
答えがないのを承知で問いかけた。
深く寝入った子どもは夢のなかでもなにかを食べているのか、幸せそうな顔でもにゃもにゃと口を動かしている。自分を腕に抱く男がなにを考えているのか知りもしないで呑気なものだと笑う。
以前は腹立たしさすら覚えた少女の警戒心のなさは、こうなってみると高遠にとってはじつに都合がいいものだった。おかげで思う存分好き勝手できる。
そっとベッドに寝かせてやれば、冷えたシーツが気持ちよかったのか、ハジメはどこかうれしそうにそれに頬を擦りつけた。しばしの間ハジメの顔を見つめ、湧き上がった感情のままに高遠は少女の隣に寝転がり、その身体をぎゅっと抱き締めた。
この柔らかくて温かな身体が自分の腕のなかにあるとき、高遠はいつも不思議な充足感に満たされる。肉欲とも少し違う、この感情がなんなのかはもう知っている。そんなものに囚われてしまった己を滑稽に思うけれど、どうしたってハジメから与えられる温もりを手放すことはできない。
「……んん、あちぃ」
だというのに、この子どもは高遠の腕から逃れようと両手でこちらの身体を押し返してくる。
室温はそれほど高くない。しかし、高遠もそれなりにアルコールを摂取しているため、普段よりは体温が上がっている。たしかにくっついて寝るにはいささか暑かった。
ぐいぐいと自分から離れようとするハジメにため息を吐いて、高遠はベッドから身体を起こした。壁に設置されたエアコンのコントロールパネルに近づき、冷房の設定温度を十六℃まで一気に下げる。ついでとばかりに風量も『強』に変更しておいた。
ブオォと天井のエアコンが先ほどまでとは比べ物にならない冷風を吹き出し始める。
数分もすれば、室内は鳥肌が立つくらいに冷やされていた。ベッドの上のハジメが手探りで掛布を引き寄せるのを見て、高遠は少女の隣へと戻る。
自分の近くにある温もりに気づいたのか、ハジメの方から高遠に擦り寄ってきた。強めた冷房のせいで少女の肌は冷え切っている。自分の体温を分け与えるようにハジメをぎゅっと抱き締めてやれば、可愛らしいことに彼女も高遠へとその腕を回してきた。
――いま目覚めたら、この子どもはどんな顔をするのだろうか。
起こしてみたい気もしたが、やはり腕のなかの温もりを手放すのは惜しい。
トクントクンと伝わってくるハジメの穏やかな心音に高遠は目を閉じて、ゆっくりと訪れた眠気にそのまま身を任せる。
眠りに落ちるそのときまで、一回目の彼もこんな風に温かかったのだろうか、と埒もないことを考えていた。