作中の事件のトリックは『推理クイズ 金田一少年の事件簿 ライバルたちからの挑戦状』からネタをお借りしました。未読の方はご注意ください。
1
その日、警視庁捜査一課は秋の午後に相応しい、穏やかでどこかのんびりとした雰囲気に包まれていた。もちろん事件は日々起こっているわけだが、殺伐としたこの職場にもときおりこうしてぽっかりと穴が開いたように平穏が訪れるときがある。
換気のために開けた窓から吹き込む心地よい風に、剣持勇は正面に座る部下の目を気にしつつ、こっそりとあくびを噛み殺した。
眠い。
ただでさえ苦手なデスクワークに取り組んでいるというのに、こうも締まりのない空気が漂っていては仕事に集中などできるはずがなかった。一文字たりとも進まない書類を前に時間だけが刻々と過ぎてゆく。
「剣持君」
不意にかけられたその声に、何度目かのあくびを見咎められたのかと、剣持は反射的に首を竦めた。いっそ聞こえなかったフリをしたいが、立場上そうもいかない。気まずい内心を押し隠し、わざとしかつめらしい顔を作り、自分を呼びつけた相手の机の前へと歩いていく。
「お呼びですか、明智警視」
この男の部下となって早数か月。
キャリアだ、エリートだ、という諸々の事情をべつにしても、剣持は明智健吾というこの年下の上司が嫌いだった。
剣持とて自分が若い連中から見て『古いタイプ』の刑事であることは自覚している。それでも刑事とはなによりも足で稼ぐものというのが剣持の信条で、合理主義だのなんだのと従来のやり方を無視して、周りとの軋轢など気にもとめずに自らのやり方を貫くエリート面の若造を快く受け入れられるわけがない。
そして、そういう明智の組織の輪を乱すスタンドプレーのお目付け役に自分が選ばれたことも気に入らなかった。
「この、不動山市で起きた先週の事故の件ですが」
「はっ。その事故につきましては、通報を受けた不動山署の刑事とともに現場を確認し、事件性なしと判断致しました」
ありふれた交通事故だ。
車を運転していた男性がひとり亡くなっているが、幸い巻き込まれた人間もおらず、場所が事故が起こりやすいカーブだったことから、ただの運転ミスとして処理をした。
偶然剣持が近くにいたので関わったが、本来なら所轄署で対応するレベルで、実際報告書の作成などは向こうが請け負っている。わざわざこちらに書類が回ってきたのは不動山署の刑事が気を利かせたのだろう。
「つまり、この死亡した男性の周辺の人間関係やトラブルなどは捜査しなかったわけですね?」
「それは……ただの交通事故でしたので」
剣持の言葉に明智はその秀麗な眉をぴくりと動かした。
自分と彼の相性はまさに水と油である。言葉にされずとも、上司にとって剣持の返答がお気に召すものでなかったことは手に取るようにわかった。
毎日のように婦警たちから熱い秋波を送られている美貌のエリート警視サマは、彼女らには決して見せない冷たい笑みを浮かべ、手に持っていた書類を机に放り投げた。剣持がすれば粗野でしかないそんな仕草も、明智がすれば芝居のワンシーンのように様になるのだから腹立たしい。
「これを
「なっ!」
怒りで頭の芯がかっと熱くなった。
剣持があと十歳若ければ、目の前の若造に怒りのままに殴りかかっていたかもしれない。とっさに握り締めた手のひらに爪をたてることで湧き上がった衝動に耐える。脳裏に妻や三人の子ども、家のローンなどを思い浮かべ、大きく吐き出した息とともに燻る怒りを散らした。
「警視はこの事故が人為的に引き起こされたものだとお考えですか」
口に出した言葉は、自分でも棒読みだと思うほど温度のないものだった。怒って自分の役目を放り出すこともない。逆に相手の言動に萎縮することもない。こういう忍耐強さがお目付け役に抜擢された理由だということを剣持だけが知らない。
明智はこちらの質問に答えることなく、上着を手に取り立ち上がる。彼が自分の行動について説明しないのはいつものことだ。ここで「勝手にしろ」と席に戻れたらどんなにいいだろう。提出期限が迫った報告書がいまばかりは恋しい。
(ああ、宮仕えの悲しさよ……)
剣持はすり減った靴底を鳴らし、振り返りもしない上司を足早に追いかけた。
◆
こと現実において刑事ドラマのような事件などそうそう起こるものではない。
たしかに近年、理解に苦しむ動機で人を殺す異常者や、自分に社会の注目を集めんとするいわゆる『劇場型犯罪』も増えては来ている。しかしそんなものは全体のごく一部だと言ってよかった。剣持たち捜査一課がその解決へと尽力する殺人事件の多くは、家族や近しい人間による怨恨や金銭トラブルを発端としたものがほとんどである。
地道な聞き込み捜査で被害者を殺す動機を持った人間を探し、裁判で立件可能な物的証拠を集めるのが、正しい刑事の在り方だと剣持は信じている。
だから“トリック”なんて言葉は、刑事ではなく推理小説家などの範疇ではないかと思うのだ。
(ブレーキオイルが入っていたリザーバータンクへの細工だぁ~?)
理屈はわかる。
不動山署の刑事たちとともに聞いた明智の説明には剣持が疑問を挟む余地はまったくなかった。ただ言い訳を承知で言わせてもらうなら、件の事故を起こした車は運転手が死亡していることからもわかるようにかなりの破損具合で、事故前からリザーバータンクが壊されていたことに気づけという方が無理がある。
もちろん、ブレーキオイルが空だったのなら剣持も事件性ありと判断した。
だが事故現場には破損したリザーバータンクから流れ出たと思われるブレーキオイルがあったのだ。どうしてそこから犯人によるトリックへと結び付けられるのかがわからない。
すべてを疑ってかかるのが刑事の仕事とはいえ、上司のそれは自分たちの“捜査”とはどこか一線を画しているように感じられた。
そう、言うなれば捜査ではなく、それこそ刑事ドラマか探偵小説のような“推理”――。
「被害者のマンションへ向かってください」
「はっ! 了解しました」
四十七にもなって一回り以上も年下の若造に顎で使われる我が身を嘆きつつ、剣持は後部座席に腰を下ろした明智の言葉にアクセルペダルを踏み、車をゆっくりと発進させる。
被害者の自宅は事故現場と同じく不動山市内にあった。
当然ながら先ほどまで殺人事件ではなくただの交通事故として処理されていた案件だったため、これから不動山署の刑事たちが俗に地取りや鑑取りと呼ばれる聞き込み捜査を行うことになっている。そのため現時点で判明しているのは被害者の名前や年齢くらいだった。
てっきりトリックを解き明かしたあとの地道な捜査は所轄に任せるつもりだとばかり思っていたので、このように明智が自ら被害者宅へ出向くというのは少々意外な展開である。たとえ捜査一課に持ち込まれた事件であっても、自身の興味がわかなければ手を抜いたり他人任せにしたりする御仁にしては珍しい。
(ったく、いったいどういう風の吹き回しなんだか)
はたして明智はこの事件のどこに興味を惹かれたというのだろうか。
行き先を告げたきり黙ってしまった上司をバックミラー越しに窺っていると、剣持の視線に気づいた明智が窓の外を眺めたまま「なんですか?」と問いかけてきた。
「いえ……」
「私が自分からこの事件の捜査に関わることが意外ですか?」
「そ、そういうわけでは!」
「たしかに本来ならこの程度の事件、トリックさえわかってしまえば、あとはあなたたちだけでも十分対応できるレベルでしょう」
イヤミを言わにゃ話せんのか。
「ただね、少し気になるんですよ」
「気になるとは?」
明智はこちらの質問には答えず、逆に剣持にいまの時点でわかっている事件の概要を説明してみろと返してきた。
スッと答えを教えてくれたらいいのにと気がくさくさしてくる。この上司は自分の頭のよさをひけらかしたいのか、こうした妙にもったいぶったやりとりを好むところがあった。
「被害者は
「ほかには?」
「ほ、ほか? ……ああ、あの若いのが言っていたことですか」
剣持は不動山署で自分たちの対応をしてくれた若手刑事の顔を思い浮かべながら、彼の話にそんな大層な情報があっただろうかと首を傾げる。
遺体を引き取りにきた被害者の両親と顔を合わせたらしいその刑事は話好きなのか、こちらが尋ねもしないうちからベラベラと色んなことを話してくれたがその大半はただの雑談だった。被害者の出身地が新潟だの実家が農家だのという情報がこの事件にそれほど関わりがあるとは剣持にはどうにも思えない。
「石井光雄は大学進学を機に上京し、以降はひとり暮らし。実家は決して裕福ではなく、失職後彼の両親が再三地元へ戻るよう促したということからも仕送り等の援助はなかったと考えていいでしょう」
「はぁ、それが……?」
「遺留品をよく確認しましたか? 服や腕時計にスマホ、どれも比較的新しいものだった。被害者が着ていたジャケットに至っては有名ブランドの新作です」
「…………」
「つまり、被害者は二年近く就業していないにも関わらず金銭的にはまったく困窮していなかったことになる。もちろん株やFXなどから収入を得ていた可能性もありますが……」
明智はそこから先を明確な言葉にはしなかったが、ここまで言われれば剣持にも上司がなにを疑っているのかはわかった。
定職を持たない男が金に困らず生活できていた理由。
事故を装って殺された被害者の現状を考えれば、導き出されるそれはおのずと剣吞なものになってしまう。
(――恐喝)
剣持はふと浮かんだその言葉のきな臭さに、知らずハンドルを握る手に力を込めた。
2
石井光雄の住まいはありふれた鉄筋コンクリート造りの七階建てマンションだった。
突然訪ねてきた警察官ふたりを前に、七十代後半と思しき管理人はこれからの季節には寒そうなほど髪が薄くなった頭をしきりに撫でながら、どこか不安そうに剣持を窺い見る。
「いえね。石井さんのご両親は先日息子さんの部屋には来られたんですが、なにせ急なことだったでしょう? 今月分の家賃はもういただいていましたし、次の借り手が見つかってるわけでもないので、まだ彼の部屋はそのまんまになってるんですよ」
「ほかに恋人や友人を名乗る人物が部屋を訪ねてきたりはしませんでしたか?」
「さあ、私の知るかぎりは……」
あまり社交的な男ではなかったと話す管理人からマスターキーを受けとり、明智と剣持はエレベーターに乗って石井の部屋である五〇三号室へ向かう。
単身者向けのマンションは平日の午後ということもあってかずいぶんと静かだった。
石井が亡くなってからまだ一週間も経っていないはずだが、帰る人のいなくなった部屋からはなんとなしにうらぶれた印象を受ける。剣持はドアを開けた瞬間のこもった空気に鼻を鳴らし、玄関脇にあった照明スイッチへと手を伸ばした。パチッという音とともに室内が明るくなる。電気はまだ通っているらしい。
ぱっと見たかぎり部屋が荒らされた様子はない。
それなりに物は多いが、二十代の男の部屋にしては十分片づいている方だろう。自炊はしないタイプだったのか、キッチンのゴミ箱にはファストフードのロゴが入った紙袋やコンビニ弁当の空箱が無造作に突っ込まれていた。
剣持は夏場でなくてよかったと心持ちしっかりゴミ箱のフタを閉め、キッチンを素通りしていった明智を追いかけてダイニングに入る。
「剣持君はそちらの寝室をお願いします」
ローテーブルの上に放り出されていたノートパソコンを立ち上げながら、人の顔を見もせずに指示を飛ばす若造の言葉に従うのは非常に癪だったが上司命令ならば仕方がない。それにパソコンの方を任されても困る。自慢じゃないが剣持は精密機器に弱いのだ。若者からバカにされる『ガラケー』すらいまだ電話とメール以外の機能を使いこなせる気がしない。
(ふん。パソコンなんぞをカタカタ触っただけでなにがわかるっていうんだ)
被害者の生活していた空間からだって多くのことがわかるはずだ。
刑事ならばまずは足を動かせ。手を動かせ。効率重視だかなんだか知らないが、ここは絶対に明智よりも先に重要な証拠を手に入れて、叩き上げ刑事の意地を見せつけてやる。
熱い決意を胸に、剣持は寝室のドアを開け、安物のパイプベッドやカラーボックスが押し込まれた狭い室内を鋭い目つきで睨めつけた。
ほどなくして剣持は石井の通帳を発見した。
そこに記された金の動きからはどうやら一年ほど前から石井へ定期的な入金が行われていること、その入金を行っている者はひとりではなさそうなことが読み取れる。一つ一つの金額はさほど大きくはないし、これをすぐさま恐喝に結びつけることはできないが、ここに来て俄然“金銭トラブル”という動機が真実味を帯びてきた。
悔しいことにここまですべて上司の推理通りである。
明智のやりかたを肯定する気はないが、従来の捜査方法ではこれほど早く事件の核心に迫ることは難しかったのも事実だ。正直腹立たしいし、受け入れがたい面も多々あるが、明智が優秀な刑事であることはもはや疑いようがなかった。
(まっ、こうして証拠を手に入れたのは俺だがな)
あの頭でっかちな上司も少しは自分を見直せばいい。
そう剣持が意気揚々と明智に自らの成果を報告しに行ったとき、彼はひどく温度のない目でパソコンの画面を見つめていた。小さく漏れ聞こえる音声から察するに動画かなにかを再生しているようだ。
見慣れぬ無表情の明智には、強面の剣持とはまた違った迫力というか近寄りがたさがある。
ダイニングに剣持が戻ってきたことに気づいていないはずがないのに、明智はこちらに反応一つ返さない。無視とは違う奇妙な沈黙。剣持はなんとなく常にない上司の雰囲気に気後れしつつ、彼の後ろへと回りそっとのぞき込んだパソコンの画面を目にして思わず絶句した。
「――いわゆるハメ撮りと呼ばれる動画です。隠し撮りに近いアングルが多いことや、明らかに意識のない女性に無体を働いているものがあることから、動画内の女性たちがこの映像を許諾しているとは思えません」
「……レイプ、ですか」
「断定はできません。性行為自体は同意を得ているように見えるものもある。いま再生しているような動画が、ざっと確認できるだけでこのパソコン内に十数本。これはまだ三本目ですが、映っている女性は違えど男たちの方は毎回同じメンツです」
男たちは全部で四人。
そのなかのひとりはこの部屋の主である石井光雄だ。剣持は遺体と報告書に添付されていた免許証の写真で石井の顔を知っていたが、動画に映っている男はそれよりも五つ六つは若く見えた。動画の内容が内容なのでくわしいことはわからないが、これはどうも石井が大学生の頃に撮影されたものらしい。
石井がこの動画を利用して女性たちから金銭を得ていたのなら殺されても文句は言えないだろう。
剣持が寝室で見つけた通帳の件を伝えると、明智はしばし難しい顔で押し黙った。
長く刑事を続けていると犯人に同情したくなるような事件に遭遇することもままある。いま年若い上司が抱えているであろう感情には剣持にも覚えがあったし、ここは年長者としてなにか声をかけてやるべきか――。
「剣持君。この事件はそう単純なものじゃないかもしれませんよ」
「へ?」
「まずは至急、この動画に映っている男たちの身元を洗ってください」
◆
「それで結局、石井光雄に金を払ってたのはその男たちだったんですか?」
その部下のどこか他人事のような問いかけに剣持は「ああ」といささか無愛想なあいづちを打った。
目を通していた捜査資料を机に放り出し、代わりに眠気覚ましにと入れたコーヒーのカップを手にとる。剣持はすでに冷え切っていたそれをすすりながら、いまだ見えてこないこの事件の全容に内心頭を抱えたい気分だった。
明智の方はなにやら独自の考えがあるようだが、意図のわからぬ指示に振り回されるこちらはいい迷惑である。
「石井に金を振り込んでたのは大学時代の友人で、
「水島明って最近話題のイケメン俳優ですよね。この冬公開の映画、たしか水島が主演じゃなかったっスか?」
「ああ、そうらしいな。あとこっちの比賀ってヤツも一応俳優で、水島とは同じ事務所に所属しとるんだと」
沼田は大手テレビ局のカメラマンで、亡くなった石井は元広告代理店勤務。四人とも大学時代は同じ演劇サークルに所属しており、ずいぶんと派手な学生生活を送っていたらしい。聞き込みで上がってきている過去に彼らが起こしたトラブルのなかには“若さゆえの”や“羽目を外した”ではすまされないものがいくつもあった。石井のノートパソコンに入っていた動画もそういったものの一つで、これ以外にも方々から恨みを買っている可能性は非常に高いと思われる。
ただ、動画に映っていた女性たちはそもそもそんな動画を撮られていたこと自体知らなかったり、石井たちの振る舞いに思うところはあれど、学生時代の自分の過ちと捉えている人がほとんどだった。
「石井は友人たちから金を脅し取っていたんですか?」
「それは間違いない。ケータイの通話履歴からも定期的にやりとりしていたことはたしかだし、なんだ、あのライソ?とかいうやつにも記録が残っとる。どうも水島が売れ出したタイミングで、過去のやらかしなんかを公表するぞと脅しとったようだな」
「ブレイクしてる水島はわかりますが、ほかのふたりにもそんな脅しを? 映像自体の違法性は微妙なんでしょう? それで金なんて払いますか?」
「まあ、そこは社会的な信用とか立場の問題かもな。少なくとも勤め先や所属事務所にバラまかれたら居づらくはなるだろう。石井が要求していた額がそれほど大したものじゃないのもあるかもしれん」
小遣い程度の金額で自分の生活に波風が立たないなら、そちらを選ぶ人間は決して少なくない。
「じゃあ、これから水島たちを任意で引っ張るんスか?」
「そうしたいのは山々なんだがな。べつに示し合わせたわけじゃないんだろうが、いま三人とも番組の撮影とやらで北海道にいるらしいんだ。正野、おまえ背氷村って知っとるか?」
「背氷……? って、ああ! あの『氷室一聖成り代わり事件』のとこですね。二・三年前でしたっけ? 当時は結構話題になりましたよねぇ」
「バカヤロー! フリーライターだかなんだか知らんが、ただの一般人に事件を一から十まで記事にされたんだぞ! 記事が出てから捜査する羽目になった
結局その事件は逮捕者四人を出した上に、有名画家への成り代わりという珍しさもあってかなり世間の注目を集めることになった。件の記事がなければいまも事件自体発覚していなかったかもしれないことは剣持も承知しているが、当時は警察組織に対するバッシングが強く、この警視庁にも連日非難の電話がかかって来ていたのだ。正野のように懐かしむ気には到底なれない。
「まっ! 任意聴取するにしても、まずは水島たちがこっちに戻ってきてからだな」
「――いいえ。いまから北海道に向かいます」
「警視!?」
「えっ! 身柄を抑えるんですか?!」
明智は正野の質問に短い否定を返し、説明の言葉を続けることなく自分のカバンへと手を伸ばした。そんな彼の態度がまた、剣持の癇に障る。
「わざわざ北海道まで出向く、その理由をご説明願えますか」
「わかりませんか?」
「わからんから聞いとるんでしょう! そもそも、この案件は所轄のもので、我々がこれ以上介入するのは――」
「不動山署の刑事たちは今回の事件の犯人を水島・比賀・沼田の三名のうちの誰かだと考えています」
「そ、れは……そうでしょう。石井の交友関係などから考えても、現状一番疑わしいのはその三人です。恐喝されていたという動機もある。それとも、警視はほかに犯人がいると?」
「…………」
「警視!」
「腑に落ちないんですよ。この事件が被害者の行っていた恐喝を発端とした殺人事件であるなら、石井光雄のスマホやパソコンがそのまま放置されていたのはなぜです? 一度はただの交通事故として処理されていたんです。処分する方法も時間も、犯人にはいくらでもあった」
明智の指摘を的外れだとは思わないが、だからといってなぜ上司が北海道まで行く必要があるのかがわからない。仮に犯人がその三人以外だったとしても、それは今後の捜査で自ずと浮かび上がってくるはずだ。
「剣持君。あなたも不動山署の刑事たちも、一つ大きな見落としをしている」
そこで明智は一度言葉を切った。
こちらを見つめる理知的な視線に、剣持はどうしてか自分が不甲斐ない生徒にでもなったような心地がして、無意識にその身を竦めていた。
「もしも今回の事件の原因が現在ではなく過去のトラブルにあったのなら、この犯人にはまだほかに殺すべきターゲットが存在している可能性がある」
すべては明智の憶測にすぎない。
それなのに、剣持はどうしてか上司の言葉を否定することができなかった。
北海道背氷村。
東京から遠く離れたその地にはすでに冬の足音が聞こえつつあった。もう二か月もすれば吹雪によってすべての交通が遮断されてしまうだろう。
しかし、いまはまだ澄んだ青空が広がる平穏な村である。
『雪夜叉伝説』が伝わるその村を舞台にした恐ろしい殺人計画が進行していることを知るのは、絶望と怒りにその身を焦がすひとりの夜叉だけ。