平行線機能不全   作:キユ

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 この作品には“金田一少年の事件簿”の小説『オペラ座館・新たなる殺人』の犯人や被害者、その動機などについてのネタバレがあります。未読の方はご注意ください。
 作中の事件のトリックは『探偵学園Q』と『推理クイズ 金田一少年の事件簿 ライバルたちからの挑戦状』よりネタをお借りしました。


第二章「劇団幻想①」

 

「おお、可哀相なエリック。せめてあなたのために歌をうたわせて!」

 

 舞台から響くその澄みきった声に、高遠は作業の手を止めた。

 悲劇の幕はまだ開けていない。

 薄汚い嫉妬により自殺するクリスティーヌ――黒沢美歌は、自身へと忍び寄る悪意に気づくことなく、その輝く才能を舞台の上で遺憾なく発揮している。

 

「すまん、バイト君。二幕で使う小物の修繕って終わってるか?」

「はい。言われたようにリハーサルで使う用の箱にまとめました」

「助かるよ。もう初演まで半月もないからな」

 

 事件が起こるのは劇団幻想の『オペラ座の怪人』第二回公演の前。

 おおよその予測は立てているものの、明確な日時が不明なため、高遠はこうして劇団へとバイトとして潜り込んでいた。

 女性を犯しその姿をビデオに撮るような外道の近くを、現在は女子中学生であるハジメにうろちょろさせるわけにはいかない。あの名探偵はいつだって警戒心が足りないのだ。

 

「高遠さんは役者には興味ないの? ケッコー雰囲気あるし、イイ線いくんじゃないかなぁ」

「なんだよ、理央。お前、こういうのタイプだったの?」

「違うわよ。役者としての興味ってやつ。あたしの好みは、もっと才気に満ちあふれた――」

「談笑中にすまない」

 

 劇団仲間の言葉に、大きな瞳をうっとりと潤ませ、頬を少し上気させた加奈井理央を現実へと引き戻したのは舞台監督の正木佳浩だった。

 

「正木監督!」

 

 加奈井を筆頭に他の劇団員たちもピシリと姿勢を正す。

 少々強面だがいつでも役者たちに的確なアドバイスを出し、感情的な態度をとらない正木は劇団員からそれなりに慕われ尊敬されている。

 目を見張る非凡さはないが、一定のクオリティを保つことのできる仕事人といった印象だ。

 

「奥の休憩室のエアコンが壊れてしまってね。業者を手配したが直すのに数日はかかるそうだから、それまでは小ホールやもう一つの休憩室を使ってくれ。公演前だ、体調管理はしっかりしなさい」

 

 それだけ言うと正木はあっさりと去っていった。

 ほかの劇団員にも同じことを伝えて回るのだろう。さほど大きな劇団ではないとはいえ、監督・演出を務める人間にしてはフットワークが軽い。

 正木の姿が見えなくなると、劇団員たちの間にどこか緩んだような雰囲気が漂う。

 

「あー、奥の休憩室使えないのかぁ」

「じゃあさ、たまにはドニーズにでも行かない? ちょうどお昼時だし」

「いいな、それ。バイト君も一緒にどうだ?」

「お邪魔でないなら、ご一緒させてください」

「邪魔なわけないじゃん。行こ行こ!」

 

 加奈井の言葉にそこかしこから賛同の声があがった。

 十数人の大所帯となった一団の後ろをゆっくりと追いながら、高遠はその中のひとりの男の背中を見つめる。

 緑川由紀夫。

 のちに『オペラ座館』という名のホテルで起こる連続殺人事件の被害者のひとりだ。

 背は低く、少し肩を丸め猫背ぎみに歩く姿からはどこか陰鬱な印象を受ける。不健康そうな顔色に似合わない派手な色のポロシャツが浮いて見えた。

 卑屈で気が小さく、ひとりではなにもできないような男だが、美歌を地獄へと突き落とすその一端を担っている。

 

「……暑いな」

 

 建物の外へ一歩出ると容赦のない日差しが降り注いでくる。

 梅雨が明け、本格的な夏の到来を感じさせるそれに不愉快げに眉をひそめ、高遠は二週間前のことを思い出していた。

 

 

 ◆

 

 

 大学進学を機に、高遠は義父が所有していた家を出た。

 無駄に広い家を管理するのが面倒だったというのが一つ。もう一つは、物理的なハジメとの距離を縮めるためだ。彼女の行動範囲内に家があるほうが今後のことを考えるとなにかと都合が良い。

 実際、合鍵を渡せば簡単に入り浸るようになった。

 

「おかえりー」

「……来ていたんですか?」

 

 ひとり暮らしのはずの部屋から、こうして出迎えの挨拶が聞こえるのにはまだあまり慣れない。

 ハジメは家主よりよほど寛いだ様子でリビングの一角を我が物顔で占拠している。ものは試しと買い与えた『人をダメにするクッション』は絶大な効果を発揮しているらしく、その姿はおおよそ女子中学生が知人男性の前でしていい格好ではなかった。

 ハジメ曰く「外では一応気をつけている」らしいが、彼女の幼馴染から聞かされる話からするとその発言の信憑性は低い。

 

「相変わらず殺風景な部屋だよなぁ。あんたって、明智さんと一緒で億ションの最上階とかに住んでるイメージだったんだけど」

「高層階はなにかあったときの脱出手段がかぎられてきますからね」

「発想が逃亡犯のそれなんだよな〜。てか、いつぞやみたいに風船で逃げればいいじゃん」

「あんなもの高層ビルやマンションが建ち並ぶ市街地では使えませんよ」

 

 そもそも目立ちすぎる。

 元指名手配犯として安全な逃走経路の確保は嗜みだ。

 

「――なあ。オペラ座館で起きた事件についてはどこまで知ってる?」

「私が把握しているかぎりで、あそこでは少なくとも三回は連続殺人が起こったと思いますが……ああ、いまの時期だと黒沢美歌の件ですか」

 

 日本一呪われたホテルだと思う。

 一年程度の間に合計で九人もの人間が殺害され、最後には劇場そのものが焼け落ちている。『オペラ座の怪人』はなかなか惨劇に相応しいモチーフだが、金田一一と縁がありすぎて逆に使いにくく感じてしまうほどだ。

 

「安岡保之と真奈美のときのように犯行現場を直前で押さえればいいでしょう?」

「あんときはあんたが事件の日にちだけじゃなくて正確な時間まで知ってたからよかったけどさ」

「能条光三郎からは聞いていないんですか?」

「たぶん、能条さんもそこまでは知らなかったんじゃねぇかな。問題のビデオ自体破棄したし……あとから掘り起こす必要なんてないだろ」

「ふむ。おおよその時期はわかりますがね」

 

 高遠の口にした期間に、ハジメも同じだというように頷いた。

 黒沢美歌の身に悲劇が降りかかるのは、劇団幻想の舞台『オペラ座の怪人』の公演初日から二回目の間。そして美歌の自殺まではさらに幾日かの猶予がある。

 単純にオペラ座館での惨劇を防ぐだけなら美歌の自殺を止めるだけで構わない気もするが、ハジメはその案には同意しないだろう。

 

「まさか……滝沢や緑川を自分で見張る気ですか」

「それが一番確かだろ」

「君は頭がいいが、本当に愚かだ。自分が被害者のひとりになることはありえないとでも?」

 

 金田一一のこのある種の無鉄砲さはいまにはじまったことではないが、もう少し自分の価値を理解してもらいたいものだ。有象無象のためにハジメが傷つくことはない。

 

「……あんたが、協力してくれたら」

 

 高遠の言葉に少し時間を置いてから、こちらを強い瞳で見返しハジメはそう答えた。

 この少女はその言葉が高遠にとって脅迫にも等しいと知っているのだろうか。断れば、どうあっても自分ひとりで行動するのはわかりきっている。

 地獄の傀儡師たる自分をこうまで利用する報いは必ず受けさせると心に誓いながら、高遠はハジメの提案に諦めを含んだため息を返した。

 

 

 ◆

 

 

 女三人寄れば姦しいというが、人間がそれなりに集まれば騒々しいものだ。

 劇団幻想の面々も周囲の喧騒に負けず、演劇論から劇団内の人間関係、果ては自身の恋愛観に至るまで取り留めもなく話している。

 

「いやー、お前最低だわ。不能になればいいのに。少しは能条さんを見習ったら?」

「そこまで!? まだ二十三なのに結婚しようっていう能条さんのが少数派じゃね!?」

「能条さんと美歌ちゃんの結婚までもう二か月もないのか〜」

「美歌のウエディングドレスめっちゃ素敵ですよ!」

 

 劇団の若手人気俳優である能条と、今回の舞台の主役を務める美歌の結婚は、劇団内でもお目出度いこととしてすでに祝福ムードが漂っていた。

 同性でも目を見張るほどの美しい容貌と、長身の力強い体格を持つ能条光三郎。

 活発で社交的な性格の、誰からも愛される才気あふれる美貌の少女である黒沢美歌。

 どちらも異性から好意を抱かれやすいものの、ふたりの関係にそれほど嫉妬や反発がないのは彼らの人柄ゆえだろう。もっとも、そんな相手にでも悪意を抱く人間はいるのだが。

 

「でも……最近、聖子さんの機嫌スゲー悪いよな」

 

 少し声をひそめるように出されたその人物こそ、四年後へと続く悲劇の元凶である。

 

「真上寺さんがですか?」

「バイト君も薄々気づいてるかも知れないけど、聖子さんって能条さんのこと狙ってるんだよね」

「もう結婚の日取りまで決まってるんだから諦めればいいのに」

「あの人も自分の欲しいものは手に入れないと気がすまない質だから」

 

 真上寺聖子の劇団内での評判はあまり芳しくない。

 大財閥の娘であり、劇団幻想の理事長を父に持つことから一定数の取り巻きはいるが、どこか人を見下しているような雰囲気と、その自分勝手な性格からほとんどの劇団員からは少し距離を置かれていた。

 

「黒沢さんは、なにか嫌がらせでもされてるんですか?」

「いや、そこまではしてないと思うけど」

「でも聖子さんって過激なところあるよな」

 

 劇団員のひとりが漏らしたつぶやきに気まずい沈黙が落ちる。

 高遠も色々と仕込み(・・・)はしているが、ターゲットを見張る目は多いに越したことはない。こうして劇団員たちのなかに聖子に対する不信を植えつけることで、悪意ある者たちが少しでも行動し難くなればいい。

 美歌の身を守るにしても、高遠はただのバイトでしかなく、彼女との接点は他の劇団員以下だ。

 二十四時間護衛するわけにいかないし、そのつもりもない以上、ある程度周りの人間を効果的に使う必要があった。

 

「能条さんと美歌に気をつけるように言っておきます」

「ま、まあ、大丈夫だとは思うけどな」

「俺らも一応、気をつけて見とこうぜ」

 

 高遠とハジメの予想通りならば、悲劇まであとひと月もない。

 心優しい名探偵は状況が変われば聖子たちが罪を犯すこと自体なくなるのではないかと淡い期待をしているようだが、バカバカしい幻想を抱くはやめてもらいたいものだ。

 人はそう簡単には変わらないのだから。

 

 

 

 

 真上寺聖子の金切り声が薄暗い廊下に響いている。

 

「なんとかしなさいよ!!」

「なんとかって言われてもね。俺たちにどうしろと言うんですか、聖子さん」

 

 聖子へとどこか皮肉げな口調でそう言ったのは色白で小太りぎみの男だった。やや大げさに肩をすくめる動作がパフォーマンス染みていて、その男のナルシスティックな性格を表していた。

 滝沢厚。

 痩せれば二枚目といって差し支えない整った顔をしているが、顎や下腹についたブヨブヨとした肉がそれを台無しにしている。

 聖子の取り巻きの一人ではあるが、あくまで甘い汁をすするためだけの関係であるのか、聖子自身に対しての好意などは彼の言動からは感じられなかった。

 

「……別れさせてよ。能条さんとあの女を別れさせなさい!」

「で、でももう結婚するんじゃ」

 

 控えめに口を挟んだ緑川由紀夫を聖子はそのきつい眼差しでキッと睨んだ。

 

「だからなにか方法を考えなさいって言ってるのよ、このグズ!」

 

 彼女の剣幕にびくりと身体をすくませながらも、緑川はその引き攣る口元に媚びるような笑みを浮かべ、聖子の納得する名案はないかときょどきょどと周囲に視線を彷徨わせる。

 権威主義なところがある緑川は、たいていこうして聖子や滝沢の顔色を窺っていた。

 

「そう怒鳴られてもね。緑川だって困ってますよ」

「あ、俺は……」

「なんだかんだ言いながら、俺たちにさせたいことがあるからわざわざ呼び出したんでしょう?」

「…………」

「そうなんですか?」

「じゃなかったら、こんな時間に連絡があるわけねぇだろ、ばかやろう。もう黙ってろよ」

 

 滝沢のきつい口調に、緑川はいじけた様子でしゅんと黙り込んでしまう。

 ふたりは同じ聖子の取り巻きだが、決して仲が良いわけではなく、滝沢と緑川の間にも明確な上下関係が存在していた。

 

「あの女が、自分から別れ話を切り出せばいいのよ」

「あのふたりは相思相愛でしょう」

「だから……能条さんと結婚できない身体にしてやりなさい」

 

 その言葉に滝沢は少し目を見開き、緑川は聖子の意図が掴みきれないのかどこか不思議そうな表情で彼女と滝沢を見比べている。

 

「具体的には?」

「あんたと緑川のふたりであの女を犯してよ」

「え!?」

「はは、聖子さん。それは犯罪ですよ」

 

 口では聖子を非難しながらも、滝沢はその顔に厭らしい下卑た笑みを浮かべ、その光景を想像するかのように唇を舐めた。

 肉に埋もれたその目が興奮にギラギラと輝いている。

 

「それがどうしたって言うのよ。いざとなれば、真上寺の力でどうとでもしてあげるわ」

「聖子さんの頼みじゃ仕方ないですね。ちゃんとまずいときは庇ってくださいね」

「わかってるわよ。緑川、あんたもいいわね」

「え、で、でも……」

「このままうだつの上がらない役者を続けるつもり? もちろん報酬は払うわよ。パパに頼んでそれなりの役を回してあげてもいいわ」

 

 緑川はごくりと唾を飲み込んだ。

 聖子が本気なのはその顔を見ればわかる。滝沢はどう考えても乗り気だ。犯罪に手を染めることは小心者な緑川には足が震えるほどに恐ろしいことだったが、自分の望むものを提示され、ここで自分だけ断ることのリスクを考えれば頷くしかなかった。

 

 

 

 蒸し暑いその夜。

 こうして、悲劇の幕開けを告げるブザーはおぞましい悪意を持った三人の手で鳴らされた。

 欲にまみれた罪人たちは気づかない。

 この会話の一部始終を聞いていた人物がいたことを――。

 

 

 ◆

 

 

 高遠は回収したそれ(・・)を聞きながら、自分の手札がおおよそ出揃ったことに小さく満足のため息を漏らした。面倒なことも多かったが、この音声が手に入ったことは大きい。

 

(思ったより簡単だったな)

 

 聖子たち三人に劇団以外での接点はなく、後ろ暗い話を自身の家や人目のあるところでするとは思っていなかったが、こうもあっさり切り札が手に入ったことには少々拍子抜けしてしまう。

 品性が卑しい連中は犯す罪も美しくなければ、計画そのものも杜撰で見どころがない。

 つまらない事件に関わらせられた鬱憤をどうハジメで晴らそうかと考えていると、休憩室の扉が規則的に叩かれた。この几帳面なノックは正木のものだ。

 手に持っていた盗聴器を隠しポケットにしまい返事をすれば、きっちり一拍置いてから扉が開かれた。

 

「高遠君、休憩中にすまない」

「いえ。なにかありましたか?」

「昨日聞いた不具合が出ているというライトはどれだったかな。昨日のうちに確認しようと思っていたのに忘れてしまってね」

「稽古場の後方二列目のライトです。大道具の間宮さんとも話しましたが、あれは配線系統のトラブルみたいです」

 

 公演までもうあまり時間がないせいだろうか。劇団の誰よりも精力的に動き回っている正木の顔にはかすかに疲労の色が窺えた。

 高遠の言葉に礼を言って事務所へと歩いていく後ろ姿は、そのピンと伸びた背筋も相まって厳格な教師のようだ。真面目であまり業界人らしくない男だが、十代の頃から演劇一筋だと聞いている。

 公正な人物なので今回の件を劇団内部のいざこざとしてすませるのなら、正木を使うのもいいかもしれない。少なくともハジメは穏便な解決を望んでいる。……高遠とは違って。

 

 もしも、能条光三郎にこの音声を聞かせたら?

 

 かの青年は最愛の婚約者を守るために再び悪魔となるだろうか。

 憎しみも、悲しみも、そのすべてを胸のうちに押し隠して復讐のために悪魔になりきった男は、黒沢美歌へと伸ばされる卑劣な手を振り払うために残酷な殺人者となることを選ぶかもしれない。

 地獄の傀儡師のマリオネットとしての素質を、能条光三郎は持っている。

 高遠がその耳元で悪意を吹き込み、その胸にある聖子たちへの憎悪を燃え盛る業火へと変えれば、彼は素晴らしいマリオネットになれるはずだ。

 その光景を目の当たりにした名探偵の顔を想像すると、この甘い誘惑に身を任せてしまいそうになる。

 

 金田一一が高遠遙一を信頼するのなら、彼女が一番傷つく形で裏切ってやりたかった。

 

 

 ◆

 

 

 パンパン、と手を打つ音が響いた。

 

「そこまで、そこまでだ」

 

 その言葉に役者たちは動きを止めて正木へと視線を向ける。

 主役の黒沢美歌だけでなく、誰もが額に汗を浮かべ、あがっていた息を整えようと呼吸を繰り返していた。公演が近づくにつれ日々の練習にも一層熱が入るようになっている。そんな役者たち一人ひとりの顔をゆっくりと見回してから、正木はもう一度パンッと軽く手を鳴らした。

 

「いまのところは非常によかった。その感覚を忘れないよう」

「はい!」

「よろしい。……さて、ここらで一旦休憩にしよう」

 

 文句のない称賛に笑顔を浮かべる者、休憩という言葉にほっと肩の力を抜く者とそれぞれ反応こそ違うが、正木の言葉に稽古場の空気が緩む。

 

「…………」

 

 今度の舞台では出番のない緑川は、スポットライトからはずれてもなお輝いているような少女を見つめ、自身の胸にある後ろ暗さにその口の端を震わせた。

 昨夜の聖子の言葉が頭のなかをぐるぐると回っている。

 

 ――黒沢美歌を犯す。

 

 緑川はその小心な性質から恐怖と興奮で一睡もしていなかった。

 聖子や滝沢は怖くはないのだろうか。緑川とて年の近い少女を犯すというある種の興奮はある。しかし、それ以上にその罪が露見したときのことを考えてしまう。

 緑川に自身が犯罪者となる度胸はない。

 かといって、聖子に逆らうつもりもない。

 金と将来を約束されて、いざというときは真上寺の権力で助けてもらえるのなら……と、緑川がひとり悶々と悩んでいると正木から声をかけられ思わずその場で飛び上がった。

 

「緑川君」

「は、はい!」

「昼頃から聖子君の姿が見えないんだが、彼女はいつもの休憩室かな?」

 

 聖子は気に入らないことがあるとわざと練習に遅れたり、ほかの劇団員たちを無理難題で振り回すことがあった。今日も来て早々に苛立たしげに休憩室へと引っ込んだままだ。

 さすがの正木も、劇団理事長の娘であることを盾に我を通す聖子には手を焼かされている。

 

「次の幕、聖子さん出番ですよね。俺、呼んで来ましょうか?」

「悪いね。頼めるかな」

 

 正木の言葉に頷いて、緑川は聖子がいる休憩室へと足を向けた。

 機嫌の悪いであろう聖子のところに行くのは嫌だが、監督である正木に媚びを売っておいて損はない。

 稽古場を出て、半地下となっている事務所や休憩室がある廊下を進む。窓がないため夏特有のムッとした空気が溜まっていて、緑川はいつもここを通るときはなんとなく息を止めてしまう。

 廊下の突き当りから二つ目の部屋が聖子の使っている休憩室だ。

 

「聖子さん」

 

 怒鳴られないように心持ち控えめに扉を叩いてみるが返事はない。

 無視しているのか、聞こえていないのか判断がつかず、緑川はもう一度先ほどよりも強く扉を叩き聖子へと呼びかけた。

 

「聖子さん!」

 

 目の前の部屋からは怒鳴り声一つ返ってこない。

 ひょっとしてもう帰ったのだろうか。自分勝手な聖子はそういうところがある。

 扉を開けて確認してみるべきかと悩んでいると、戻ってこない緑川が気にかかったのか正木がこちらへと歩いてきた。

 

「どうしたんだ?」

「あ、正木監督」

「聖子君は中にいないのか?」

「呼んでも返事がなくて……」

 

 正木は少し眉をひそめ、先ほどの緑川よりもずっとしっかりした力で扉を叩き、聖子へと声をかけた。

 

「聖子君」

 

 やはり返事はない。

 いくら聖子でも正木を無視したりはしないはずだ。稽古をすっぽかして帰ってしまったのだろうと緑川は内心その振る舞いに呆れる。

 しかし正木はそう思わなかったのか、「入るぞ」と念を押してから休憩室の扉を開いた。

 

「……っ!?」

「せ、聖子さん!?」

 

 部屋の中に真上寺聖子はいた。

 うつ伏せに床へと倒れ、その背中の左側――心臓のあたりに深々とナイフが刺さった変わり果てた姿で。

 

 

 

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