8
ブツリと映像が途切れた。
真っ暗になったノートパソコンの画面には、隠しカメラからの通信が遮断されたことを伝えるメッセージだけが表示されている。カメラの向こうにいる人物――雪夜叉が壊したのだ。
「なんか、聞いてたやつと違わん? それとも実は“ドッキリ仕掛けられたんはボクらでしたー”ってオチやったりする?」
芝の言葉にハジメはふーっと止めていた息を吐き出した。
そうだ。落ち着け。あの雪夜叉は綾辻真理奈ではないし、この地にもう氷橋が架かることはない。一回目の記憶に引きずられるな。
(芝さんが言うようにドッキリの可能性だって――)
ある、とはどうしても続けられなかった。
現状でハジメにわかるのは、雪夜叉の衣装を着た何者かがベッドに向かって斧を振り下ろしたということだけだ。たしかにその瞬間に血が飛び散っていたようには見えたが、カメラの映像が粗かったので断言はできない。うつ伏せで寝ていたベッドの人物は後頭部しか映っていなかったし、あれくらいであればマネキンで代用できる。別館には比賀と沼田がいるはずなので、ふたりで協力すれば先ほどハジメたちが見た映像を作ることは可能だろう。
そう、現段階ではこれを殺人事件だと断じる方が難しい。
だというのに、ハジメはこれがドッキリなどではありえないと半ば確信していた。祖父から受け継いだ探偵としての勘が告げている。――恐ろしい殺人者“雪夜叉”の存在を。
「どうせ沼田さんのイタズラですよ! 向こうに残ったのだって、きっとこれためだったんだっ!」
「まあまあ。そう興奮せんと」
いきり立つ久瀬を芝が宥めていると、スマホを片手に芳野が談話室に戻ってきた。やはりというか、沼田は部屋にもおらず、電話にも出ないらしい。
芳野の話を聞いた久瀬が「やっぱり」と忌々しげに舌打ちする。
「なにかあったのかい?」
「それがなぁ。どうも沼田が向こうで勝手にドッキリ始めてしもたみたいやねん」
「ええっ!? どういうこと?」
芝からことの次第を説明された芳野は、ノートパソコンの前に座って件の映像を再生した。改めて見ると五分にも満たない粗い映像はやはりドッキリというにはいささか凄惨すぎる気がした。芳野もハジメと同じような感想を抱いたのか、画面を見つめるその顔に楽観の色はない。彼はしばし見慣れた困り顔で悩んでから今度は比賀へと電話をかける。しかし比賀も電話には出ず、スマホからは単調なコール音がむなしく響くだけだった。
二分ほど粘って芳野は電話を切った。
「――とりあえず、事情を聞きに別館へ行ってくるよ。なにかトラブルがなかったともかぎらないし」
「芳野さん!」
「まあ、ふたりとも電話に出んのやったらしゃーないわ。ここはボクがついて行って、ガツンと噛ましたろ」
「そうだね。もしこれがイタズラだったら、口頭での注意くらいじゃすませられないな。今後のスケジュールに支障が出てしまう以上、沼田君にはなんらかの処分を下すことになると思う」
「さすが芳野ディレクターやわ。頼りになるぅ」
「いやぁ、実際は私にその手の決定権はないから、上に報告をあげるだけなんだけどね」
両手を胸の前で組みわざとらしくしなをつくる芝と、友人の言葉に照れたようにはにかむ芳野。
そんな年長者ふたりのやりとりに、久瀬は口にしかけた不満をしぶしぶと吞み込んだ。上司たちの気遣いがわからない青年ではない。そのままくすぶる怒りと苛立ちを大きなため息とともに吐き出す。
「……わかりましたよ。沼田さんのことは芳野さんに任せます」
「ありがとう」
「べつにお礼を言われるようなことじゃないです。それで、俺はどうしたらいいですか? このあと向こうで段取りついたら予定通り撮影します?」
芳野はその言葉に手に持っていたスマホへと視線を落とした。
いつの間にか日付が変わっている。
これから別館に行って撮影の準備などを新たにするとなると、ほとんど徹夜になってしまいかねない。とはいえ、この二泊三日の弾丸低予算撮影に予備日なんて上等なものがないのもまた事実。最終日となる三日目は撤収作業もあるため、スケジュール上、どう頑張っても撮影と呼べるほどの時間をとることはできない。
「いや……今日はもう、撮影は中止しよう」
「え、いいんですか?」
「うーん。まあなんていうか、この番組って水島君の映画の番宣だからね。言い方はあれだけど、比賀君へのドッキリは最悪なくてもいいから」
「――なら、俺は機材片付けたら休みますよ」
「うおっ、ビビった! 青ヤン、いつからそこにおってん」
ぬっと背後から現れた青木に芝の肩がビクッと跳ねた。珍しく本気で驚いたらしい。
青木はちょうど芳野が映像を再生し出したあたりで談話室に戻ってきていたという。そういえば、あのとき柱時計の鐘の音と一緒にドアの開閉音が聞こえた気がする。
「気配なさすぎやろ、キミ。戻ってきたんやったらひと言くらい声かけーな」
「なんか真剣そうな雰囲気だったんで邪魔しちゃ悪いと思ったんですよ。――それで、トラブルで撮影は中止ってことでいいんですね?」
青木と久瀬は本館に残り、後片付けが終わればそのまま就寝ということになった。久瀬は上司に面倒事を押しつける形になってしまい、どこか居心地の悪そうな顔をしている。
「せっかく撮影を見に来たのにこんなことになってごめんね。でももう遅いし、金田一さんも早く休んでね」
「あの~、あたしも別館についてっちゃダメですか? さっきの映像がどうしても気になっちゃって。このままだと眠れそうにないっていうか」
「なんや、ホンマに人が殺されたんとちゃうかて思てるん?」
「金田一さん。君がああいう映像を見て驚いたのはよくわかるよ。だけど仮に、君が心配しているみたいに別館でなにか起こったんだとしたら、余計に君を連れていくわけにはいかないんだ」
実に真っ当な意見だった。
こういうとき、ハジメは自身が子どもであることの、とりわけ“少女”であることの、ままならなさを感じずにはいられない。もしもハジメが男のままであったのなら、芳野もきっとここまで子ども扱いをしたりはしないだろう。
まあ、芳野の性格的にこちらの提案に彼が首を縦に振らないことなど想定内である。もちろん、ハジメとて決して無策ではない。芳野のようなタイプを攻略するすべは、女として生きてきた十六年でちゃんと身につけている。
しかし今回、ハジメがそれを披露することはなかった。
「別にええんちゃう。夜更かしやいうたかて、金田一ちゃんも立派な女子高生なんやから、徹夜の一つや二つ大したことないやろ」
「典さん……」
「人生何事も経験やって。バイトとはいえ、こういう撮影に参加しとんねんから、普段できへん経験せなもったいないやん。それに子どもやいうて除け者にされんの、少なくともボクは嫌やったわ」
「まあ、そうですね。彼女が未来の敏腕ディレクターを目指すなら、そういう経験を積んでおくのも悪くないんじゃないですか」
「青木君まで」
「沼田に会ったら“カメラのアングルにはもっとこだわれ”って言ってやって」
「あー、たしかに。あいつは女の子にダメ出しされる方が効きそうやな」
いつきがハジメをこのバイトに潜り込ませるために作った『TV業界で働きたい女子高生』という設定が思わぬところで活きてきている。ハジメ自身はそんな設定すっかり忘れていたので、芸能人に興味のある言動など少しもできていなかったのだが、意外とウソだと見破られてはいないらしい。
小さくため息を漏らしたあと、こちらを見て「暖かい格好をしておいで」と言ってくれた芳野の気が変わらないうちに、ハジメは自分の部屋へと上着をとりに駆け出した。
9
本館の駐車スペースにはミニバンとステーションワゴンの二台が停められていた。
芳野と芝がステーションワゴンの方に乗り込むのを横目に、ハジメはそっとミニバンに近づく。番組が所有するのはこの二台だけ。もしも誰かが直前まで車を使っていたらボンネットはまだ温かいかもしれない。しかし、触れたボンネットは冷え切っていた。
「おーい! 行かんの?」
「行きます!」
芝の声にハジメは慌ててステーションワゴンの後部座席のドアを開ける。
エンジンをかけたばかりの車内は外と変わらないくらい寒かった。腰を下ろした座席の冷たさに小さく身震いしながらシートベルトを締める。
「芳野君、運転代わろか?」
「そんなアルコールのにおいをさせてなに言ってるの。代わるわけないだろう。酔っ払いは大人しく助手席に座っていなさい」
「それはそやけど……」
「僕は大丈夫だから」
相手への気遣いとどこか温かみを感じさせる言葉。
ふたりの会話だけ聞けば、芳野は運転が苦手なのだと判断するところだが、どうにもそういう雰囲気ではない。不思議に思ったハジメが運転席側を窺っていると、バックミラー越しに芳野と目が合った。
「昔、運転中に事故に遭ってね。大怪我をして、しばらくトラウマで車の運転ができない時期があったんだよ」
「事故……」
「ゆーて運転できるようになったんここ一・二年の話やん」
「でも、無事故・無違反の安全運転だよ?」
芳野の、というよりは芝の口調から、これ以上その事故については触れない方がいいと察する。芳野に話させたくないのか、ハジメに聞かせたくないのかはわからないが、当事者がトラウマで運転できなくなるほどの出来事なら、たしかに積極的に続けたい話題ではないだろう。
無理に聞き出すことでもないので、ハジメは事故とはべつの気になったことに口にした。
「芝さんと芳野さんって仲いいですよね。長い付き合いなんスか?」
「ん? そうだね、もう出会ってから二十年は経ったかな」
「二十年!?」
「そやなー。あれは大学生の時分やったから……二十二・三年くらいか?」
ちなみに芝が四十四歳で、芳野が四十二歳らしい。
勝手にTV業界関係の友人同士だと思っていたので、学生時代からの付き合いというのはなんだか意外だった。
「じゃあ、ふたりは大学の先輩・後輩ってこと?」
「ちゃうちゃう。えーっとな、ボクら知り合ったんは芳野君のバイト先でやねん。てゆーか、その頃のボク、大学中退してお笑い養成所に入っとったし」
「この人ね、一目惚れした女性の好みのタイプが“面白い人”だって知って、大学四年でもう就職先も決まってたのに全部放り投げて養成所に入っちゃったんだよ」
「それは、なんか……すごいっスね」
「情熱的やろ」
「せめて大学は卒業しておいてもよかったんじゃないかなー。そりゃあ、学歴がすべてとは言わないけどね。金田一さんは見習っちゃダメだよ?」
芝が通っていたというのはハジメでも知っているような東京の一流大学で、芳野がもったいないと嘆くのもわかる気がする。ただ、ハジメはどちらかというと芝と近いタイプだ。いまだって内申点や出席日数のことなど考えず、学校をサボってここにいるあたりがとくに。
「ふたりが出会った芳野さんのバイト先っていうのは?」
「僕はTVとか映像関係の仕事に就きたかったから、大学の近くにある小劇場で雑用係みたいなことをしてたんだ」
「そこがボクの行っとった養成所とも近くやってん。同期の連中と月に何遍か舞台に立っとったら芳野君から声かけられてな」
「え、芳野さんから?」
「いや、だってね――」
芳野の話によると当時の芝はコンビ漫才を目指しており、毎週のように舞台に上がって練習に励んでいたという。それ自体は「熱心な人だ」と感心していたのだが、芝の相方が毎回違うことが芳野には気になった。芳野がバイト中にのぞき見ているかぎり、芝の舞台は養成所生にしてはそこそこ面白い。早く相方を固定してちゃんと練習すればもっとよくなるのでは、なんて素人ながらに考えたりもしていた。
「なのに、典さんが“毎回相方にすっごいダメ出しして逃げられてる”って噂を聞いてね。その頃にはもうファンみたいな気持ちで応援してたから、過去いち面白かった舞台のあとで今回の相方のなにが気に入らなかったか聞きに行ったんだ」
「え、直接?」
「そう」
「芳野君の行動力もなかなかのもんやろ」
「お客さんっていうか、部外者からそんなふうに言われて芝さんは平気だったんですか?」
「いや、そこはボクも若かったからカチンときてん。しかもボク自身はおもんないと思ったもんを芳野君がよかったって褒めるわけやん? ぶっちゃけ素人は“黙っとれ!”って言いたなったわ。言わんかったけど」
「典さんも最初は怒ってたけど、途中からは悩み相談みたいになってね。話を聞いてるうちに、この人はコンビよりピンでお客さん巻き込んだ方が面白いんじゃないかなって思ったんだよ」
「そこからひとりで舞台に立つようになったんやけど、それがまあ……楽しかってん。だから芳野君はお笑い芸人・芝典夫の恩人みたいなもんや」
「大袈裟だなぁ」
しかし、続く“金に困った芝を新婚だった芳野が半年も自宅に住まわせた”というエピソードを聞くかぎり、恩人というのはあながち間違いではなさそうである。
そうこうしている間に別館が見えてきた。
ここまでで車の一台もすれ違わなかった。当然出歩いている人間もおらず、遠目に見える民家はどれも明かりが落ちている。過疎地な上に高齢化が進んだ背氷村には、明け方ならともかく夜中に起き出すような住人はいないのだろう。
暗闇の中、煌々と明かりがついた別館は奇妙な静けさを持ってハジメを待ち構えていた。
10
ステーションワゴンが完全に停車する前にハジメはシートベルトをはずして外に出た。
風が強くなっているのか、谷川からゴオッっと地響きのような音が聞こえてくる。別館の玄関には鍵がかかっていなかった。
暖房が利いているらしく室内は暖かい。
玄関を入って右側、奥から二番目が比賀の部屋だ。人の気配を探ろうと耳をすますが、玄関脇に置かれた柱時計が時を刻む音以外はなにも聞こえなかった。まずは例の映像が撮られた比賀の部屋に向かおうと、ハジメは居室が連なる廊下に一歩足を踏み入れ、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「……っ!」
「な、なんや、あれ……?」
ハジメに追いついた芝が同じものを見たのか困惑の声を上げる。
遅れて、かすかに鼻先をかすめたのは覚えのある鉄錆のにおい。内側へとドアが開けられた比賀の部屋は電気がついていないようで、ハジメたちの立っている場所からは室内の様子を知ることはできないが、廊下に残されたその痕跡を見れば、別館であの映像の通りの“最悪の事態”が起こったことはわかった。
廊下にはなにかを引きずったような血の痕がはっきりと残っている。近づいて確認したそれは内から外へと続くもので、その先は裏口に向かっているようだった。
ハジメの脳裏にパッと“死体の両足を抱えて引きずる雪夜叉の後ろ姿”が浮かぶ。かすれた血の表面はどれも乾ききっていた。
「…………」
「ホンマもんの血、なんか」
グッと奥歯をかみしめ、血痕を踏まぬよう慎重な足取りで比賀の部屋に入ったハジメは、手探りで照明のスイッチを押した。
室内には比賀はもちろん、沼田の姿もなかった。
右奥に置かれたベッドは枕元にべっとりと血痕が付着している。あの位置に斧を振り下ろされたとしたら即死は免れないだろう。部屋の床には廊下と同様の痕があり、乱れた掛布が中途半端に床に落ちていることからも、犯人が死体をベッドから引きずり落としたことが推察できた。
――凶器が、見当たらない。
部屋の入り口からザッと目視でそれだけ確認して、ハジメは血痕を辿って裏口に向かう。十歩もせぬうちに到着した裏口にもやはり鍵はかかっていなかった。乾いているとはいえ、重要な証拠である血痕を踏まないよう気をつけながらドアを押し開く。
途端、谷川から吹きつける風に前髪をあおられた。
室内から漏れる光と、裏口近くの外壁に申し訳程度につけられた照明の明かりだけでは、血の痕が谷川まで続いているのかは確認できない。
「金田一ちゃん。それ以上は出たらあかんで」
いつにない硬い声の芝は、そう言ってハジメの肩をグッと掴んだ。彼の両目は暗がりの先を見つめている。
「典さーん! 金田一さーん!」
「芳野君! ボクら裏口やー! 悪いけど車から懐中電灯持ってきてくれー!!」
芝とハジメを探す芳野の声に、芝が大声で返事をした。了承の言葉とともに小さく聞こえた悲鳴は、芳野も廊下の血痕を見つけたからだろう。
さほど時間をおかずに懐中電灯を持って裏口にやって来た芳野の顔は不安と恐怖でひどく強張っていた。もう芝も芳野も、この状況をドッキリだとは思っていまい。
芝は差し出された懐中電灯を受けとり、なめるように地面を照らした。
「谷川に向かっとるな」
「芝さん」
ハジメが促すと彼はしっかりとこちらの目を見てうなずき、血痕を懐中電灯の光に収めながら慎重に歩を進める。血痕は谷川の縁で途切れていた。ギリギリまで近づき谷底をのぞき込むが、ちっぽけな懐中電灯の明かりでは到底その暗闇を見通すことはできない。
「あかん。風も強いし、これ以上は危ないわ」
「この谷底に比賀君が……?」
「部屋から続いとるコレ、血は血でも動物のやったりせん? タチの悪い冗談の可能性とかどっかに残ってへんの?」
「……私、ふたりは比賀君の部屋に行ったんだろうって、二階に上がって沼田君と比賀君を探したけど、どこにもいなかったよ」
「せやんな。ドッキリやったらこのタイミングでタネ明かしせな意味ないもんな」
拭い切れない不安を胸に三人で別館へと戻る。
裏口から風が入り込んでいたせいか、血のにおいはずいぶんと薄くなっていた。ドアを閉めると身を切るような寒さがやわらぎ、三人の間に少しだけほっとした空気が流れた。
「沼田君は無事なのかな」
「わからん。そもそも、当の沼田が犯人かもしらんで」
「まさか!」
「この別館におったんは沼田と比賀のふたりだけやろ。消去法で考えたら、単純に犯人は沼田ってことになる気がするけど。……まあ、外部犯の可能性もあるけどな」
芝の言葉で廊下にしばし気まずい沈黙が落ちた。
(いや、外部犯の可能性はない)
一回目のときと同じだ。
犯人は殺害後に隠しカメラを壊している。もし外部の人間による犯行なら、そもそも隠しカメラの存在を知るはずがない。つまり、犯人はこの番組関係者の中の“誰か”――。
「で、どないする? 二階は芳野君が探したいうけど、一階も見て回っとく?」
「でも……その、万が一鉢合わせしたら危なくないかい?」
「そういや、比賀の部屋に斧がなかったな。……まだ犯人が持っとるんか」
「金田一さんもいるし、警察に通報したら一度本館に戻ろう」
「――沼田さんが別館にいないかだけは確認しておきませんか? 犯人に襲われてどこかで動けなくなってるかもしれないし」
ハジメの提案にどちらからも反対の声は上がらなかった。
念のため三人一塊になって、一度芳野が調べた二階も含めて別館のすべての部屋を回る。どの部屋にも鍵はかかっていなかったが、それはもとかららしい。
「部屋の鍵は全部この別館にあるんですか?」
「そう。本館も別館も談話室にキーボックスがあって、その中に入ってるはずだよ。あっ、玄関の鍵は私が一本持ってるけど」
本館・別館ともに玄関の鍵は二本ずつあり、一本は芳野が、残りの一本はそのとき必要なスタッフが所持することになっているという。別館に沼田が残ったため、もう一本の玄関の鍵はキーボックスにかかったままのはずだと芳野は言葉を続ける。
見て回ったどの部屋にも沼田の姿はなかった。
◆
別館から遠ざかる車の中。
助手席に座った芝が警察に通報する声を聞きながら、ハジメは固く組み合わせた両手を額に押しつけた。手の冷たさに思考が少しだけクリアになる。
(どうして……)
それでも滲む悔恨は拭い難くハジメの胸に居座っているけれど。
「あかんわ。最寄りの警察署からパトカー飛ばしても、こっちにつくんは一時間以上かかるそうや」
「市街地からはだいぶ離れてるからね。そういえば、背氷村には駐在所ってないのかな」
「なんか数年前隣の村と統合されて、そっちには駐在さんがおるらしいけどな。その人もかなり高齢で、殺人現場に村の人の車で送ってもらうわけにもいかんのやって言うとったわ」
「私たちも警察が到着するまでになにかしてた方がいいのかな?」
「とりあえず、ついたら真っ先に話聞きたいから、関係者は全員どっこも行かんと一緒におれって」
心持ち行きよりも速いスピードで車は夜道を進んでいく。
雪夜叉。振り下ろされる斧。身体の芯まで凍てつくような吹雪。無惨な姿の被害者たち――。
目を閉じると過去と現在が入り混じる気がして、ハジメは本館につくまでの間ずっと窓の外に広がる暗闇を見つめていた。