23
六年前。
その冬は稀にみる暖冬であった。年を越しても寒さはそれほど深まることなく、北海道や東北地方でも雪よりも雨が多いと、顔見知りのニュースキャスターは連日熱のこもった弁舌で異常気象を訴えている。
芳野隆之が妻の
一日目は義実家、二日目は天狗平スキー場、三日目の今日は軽く温泉につかってから帰る予定で、三人を乗せた車は県道を順調に走っていた。平日だからか、それともこの雨のせいか。道路はずいぶんとすいており、対向車線を走る車はほとんどいない。ルームミラーには少し後方にいるトラックが小さく映っている。
「でも、運がよかったわね。昨日まではなんとかお天気がもってくれて」
茉莉子は後部座席から少し身を乗り出して、フロントガラスを叩く雨粒を見ながら言った。
週間天気予報ではこの旅行中はずっと傘マークが表示されていたので、直前まで雨天時の代替案に頭を悩ませていた身としては妻の意見には深く同意する。
「今日もお天気だったらスキー行けたのにねー」
「莉奈ちゃん、スキーは楽しかった?」
「たのしかったー! そりでね、雪をぴゅーってね。リナ、一番じょーずだったでしょ?」
「そうだね。莉奈はとても上手だったよ」
「えへへ。ねぇ、パパ、ママ。またスキー行こうね。リナはもうすぐいちねんせいだから、次はもっとじょーずになってるよ!」
この春に小学校入学を控えた娘の口癖は「もうすぐ一年生だから」だ。夏前に自分で選んだランドセルを毎日のように箱から出してはうれしそうに眺めている。背負ってみたらと勧めても、入学式まで我慢するのだと誇らしげな顔をする莉奈がどうしようもなく愛おしい。きっと当日は式が始まる前から泣いてしまうと思う。
……幸せだった。
そして、あのときの自分はその幸せがこの先もずっと続いていくのだと、なんの疑いもなく信じていた。
「ふたりとも、もうすぐ大きなカーブだからしっかり座っていてね。シートベルトは大丈夫かい?」
「はーい!」
「大丈夫よ」
よく似た母子は芳野の言葉にシートベルトを両手でぎゅっと握って、まったく同じタイミングでうなずいた。そんなふたりをルームミラーで確認しつつ、芳野は少しずつ車のスピードを落とす。雨脚は徐々に強まっている。視界不良とまではいかないが、後部座席の妻と娘を思えば用心しすぎるということはない。
見通しの悪いうえに急カーブだ。
ふと事故の条件がそろっていることに気づき、芳野はしっかりアクセルペダルから足を離してハンドル操作に集中した。ワイパーが雨を払うために忙しなく動いている。暖房を利かせすぎたのか、サイド・ウィンドウが少し結露で曇っているのが視界の端に見えた。
充分速度を落としていても感じる遠心力に莉奈が「きゃーっ!」と楽しげな声をあげる。興奮する娘をなだめながら、次の休みは遊園地にでも行こうかと、そんなことを考えた。
――それは……油断、だったのだろうか。
ゆっくりとカーブを曲がり終えた先。
センターラインを越えるどころか、ほぼ逆走する形で現れた対向車に、芳野はとっさの判断でハンドルを切った。自分がいま踏んでいるペダルがアクセルなのかブレーキなのかもわからない。思考する余裕のない脳内とは裏腹に、視界はまるでスローモーションのようにその光景を捉えていて、フロントガラス越しに対向車の運転手と目が合ったような気さえした。
まだ若い男だ。その顔には驚愕と焦りが張りついている。
辺りに響くブレーキ音。二台の車はギリギリのところで正面衝突することを免れた。しかし、それにほっとする間もなく、芳野の車は目の前へと迫っていた車両用防護柵にぶつかった。一瞬の浮遊感。激しい衝撃とともにシートベルトが身体に喰い込む。その痛みを知覚する前に、ボンッと作動したエアバッグに顔を押しつぶされ、呻き声はのどの奥へと消えた。
「茉莉子さん……っ! 莉奈っ!」
身動きできぬ状況の中でふたりの名前を呼ぶ。
怪我はしなかっただろうか。いや、きっと大丈夫だ。対向車はきちんと避けられた。後部座席側には被害はないはずだ――と、そこで再び車体を突き上げるような凄まじい衝撃に襲われ、芳野の意識は暗闇に吞まれた。
雨の音がひどく耳についた。
エアバッグはすでにしぼみ、ひび割れたフロントガラスからポタリポタリと雨が車内に侵入してきているのが見えた。……寒い。
「……っ」
身動ぎしただけで全身に走った痛みに歯を食いしばる。息を吸い込むだけで肋骨が悲鳴をあげるのがわかった。両足が燃えるように熱い。この熱が許容量を超えた痛みだと理解するのに時間はかからなかった。
再び意識を手放してしまいそうになる苦痛の中、それでも芳野は無理やり身体をひねり後部座席を振り返った。
――そのとき目にした光景を生涯忘れることはない。
のちに知らされた話ではあるが、茉莉子は即死だったらしい。
妻がいた後部座席は、後ろを走っていたトラックに追突され、完全に押しつぶされていた。原型をとどめぬ肉塊とかしたそれに、悲鳴よりも先に嘔吐感が込み上げてくる。
脳が、現状を理解するのを拒否していた。
「茉莉子、さん……」
呼びかけに答える声はない。
じわじわと絶望が心を、身体を、侵食していく。周りの景色から色が抜け落ち、すべての音が分厚い膜で覆われたように遠く聞こえる。痛みも寒さも、もう自分には関係のないもののように感じられた。
「パパ……」
その雨音にかき消されそうな小さな声に気づかなければ、芳野はそのまま絶望に呑まれてしまっていたかもしれない。
「莉奈っ!?」
「パパ……ママ……。痛いよ……」
「莉奈、大丈夫かい!?」
必死で後部座席をのぞき込むが、自身も両足がダッシュボードと座席で挟まれている芳野には、運転席の真裏にいる娘の姿はどうやっても見えなかった。痛いと泣く、莉奈のその弱々しい声に焦燥がつのる。妻のありさまを考えれば、娘がどれほどの怪我を負っているのか想像するのも恐ろしい。なにもできない自分の無力さに喘ぎながら、何度も何度も莉奈の名前を呼ぶ。次の瞬間にはこの声が途切れてしまうのではないかと気が気でなかった。
少しでも莉奈の様子が見えないだろうかと斜めに歪んだルームミラーへ目を向けると、そこに人影が映っていることに気づいた。芳野は慌ててへしゃげたフロントドアを押し開け、できた隙間から外に向けて大声で叫んだ。
「すみません! 助けてください!! 娘が後部座席で怪我をしているようなんです!!」
遠巻きにこちらを窺っているのは四人の男たちだった。
その中のひとりは見覚えがある。先ほどの対向車を運転していた男だ。残りの三人は同乗者だろう。彼らは芳野の言葉に顔を見合わせ、どこか浮足立った様子で騒ぎ始めた。
「ど、どうする?」
「バカ! 俺たち酒飲んでるんだぞ!」
「こんなことバレたら就職もパーだぜ!?」
「てか、運転ミスったのはおまえだろ」
「俺のせいだって言うのかよ!? おまえらだって同罪だっつーの!」
「まあまあ。こっちの車とは接触してないんだし大丈夫だって。あの様子ならドラレコもたぶん潰れてるよ。人が来たらヤバいし、さっさと行こうぜ」
彼らがいったいなにを言っているのか理解するのにしばしの時間を要した。ひょっとして、彼らは自分たちを見捨てるつもりなのか? 事故の原因を作ったのに……?
後部座席から聞こえる莉奈の声は一段と小さくなっている。このまま見捨てられたら娘は間違いなく助からない――。恐怖に背筋が凍りついた。
こちらに一瞥もくれず去っていく背中に向けて大声で懇願する。
「ま、待ってください! 救急車を! 救急車だけでも呼んでもらえませんか!?」
自分のスマホは事故の衝撃で助手席の下に吹き飛んだらしく手が届かない。
「君たちのことはなにも言わない! 事故のことは忘れるから!! だから、どうか娘を……っ!!」
彼らは誰ひとりその足を止めなかった。
視界から四人の姿が消え、しばらくするとドアの開閉音が聞こえた。雨音に混じって車の走り去る音が耳に届き、絶望で身体が冷たくなっていくのを感じる。
「痛い……」
「莉奈、莉奈! 大丈夫だよ、もうすぐ……きっと、助けが来るから……」
「たすけて……パパ……」
人も、車も、通りかからない。
雨音ばかりが強くなる中、芳野はずっと祈っていた。彼らが引き返してきてくれることを。彼らが呼んだ救急車が娘を助けてくれることを。
出血多量で意識を失うそのときまで、ただひたすらにそれだけを祈っていた。
24
「目が覚めたのは事故から三日後だった。僕自身もずいぶんと危ない状態だったらしくて、ICUから一般病棟に移れたのはそのさらに一週間後でね。……妻と娘の葬儀はとっくに終わっていた」
小さな骨壺に収まったふたりを前に抱いた感情は、六年経ったいまでも鮮明に覚えている。
震える手で持ち上げた骨壺はあまりにも軽かった。その軽さが恐ろしくて、あのとき芳野はふたり分の骨壺を抱えて、病室の窓から飛び降りてしまいたかった。
底のない絶望と悲しみ。
世話焼きな友人が毎日のように仕事を休んで見舞いに来なかったら、芳野はとうに彼女たちのもとに逝っていただろう。だが、そのあと芳野を生かしたのは――怒りだった。
「容態が落ち着いて事情聴取を受けたときに警察から言われたよ。せめてあと一時間早く救助できていたら、娘は生きていたかもしれないって」
芳野たちが発見されたのは事故からおよそ二時間後。
あの日は雨の影響で、事故現場から数キロ先の県道では玉突き事故による大規模な渋滞が発生していたらしい。……そう、彼らは結局通報すらしてくれなかったのだ。
警察から教えられた事実は芳野を打ちのめした。
「いまでも、あの日のことを夢に見るよ」
夢の中で娘はずっと助けを求めて泣いている。
どれほど痛かっただろう。どれほど苦しかっただろう。あの子はまだたったの六つだったのに……。潰れた母親の横で、莉奈はどんな気持ちで死を迎えたのか。
「莉奈は……娘は、見殺しにされたんだ」
「警察には事情を話さなかったんですか?」
「いや、話したよ。でも法律上は、ふたりを殺したのは追突してきたトラックの運転手になるから、被疑者死亡で事故自体の捜査は終わってしまったんだ。まあ、目撃者や事故の証拠となるような映像の類はなにも出て来なかったから、捜査を続けていたとしても彼らを捕まえられたかはわからないけれど」
芳野に「動機はなんだ」と問うた少女は、唇を引き結び、その意志の強そうな瞳に憂いの色を浮かべている。もし娘がいまの自分を見たら、ハジメと同じような顔をするのだろうか。
どうしてか、胸に息苦しさを覚えた。
似ているわけではないのに……どこかで、彼女と娘を重ねている自分がいる。
「だが、それならあんたはどうやって水島たちを見つけ出したんだ?」
「私が知っていたのは彼らの顔だけです。名前も、どこの誰かも、なにもわからなかった。でも……彼らの顔だけは一日たりとも忘れたことはありません」
「なるほど。水島明のブレイクですね?」
「ええ。一目見て気づきました。いまは便利な時代ですね。若い世代は誰もがSNSでつながっている。元々、事故のときの彼らの会話から大学の卒業旅行かなにかだろうとは当たりはつけていたので、ひとり見つければあとは簡単でした」
最初に接触した相手は沼田だった。
部署は違えど同じTV局勤めである。こちらが少し意識して行動すれば、沼田と面識を持つことはなんら難しいものではなかった。
「事故のとき車を運転していたのは沼田君でした。あのとき、私は彼と間違いなく目が合った。フロントガラス越しにお互いをはっきり認識したんです」
しかし、沼田は芳野のことを覚えていなかった。
沼田だけではない。水島も比賀も、芳野になんの反応も示さなかった。それとなく話の水を向けたこともある。
「驚きました。たしかにその時点で事故から四年以上経っていましたが……たった四年です。あれだけのことをして、どうして忘れていられるのか……。私には理解できなかった。妻の死を、娘の死を、軽んじられているような気がしました」
あのとき、はじめて彼らへの憎しみがふたりを喪った悲しみを上回ったのだと思う。
自分の中にあった許せないという漠然とした怒りが、明確な殺意に形を変えた瞬間だった。
「そこから今回の殺人計画を考えました。本来はここに石井光雄を呼び出して、彼を犯人に仕立て上げるつもりだったんです」
◆
しばらく誰も口を開かなかった。
己の過去を語る芳野の口調は少しの乱れもなく、終始どこか淡々としていた。もう彼の中には怒りも憎しみもないのだろう。視線の先にいる芳野は、すべてを絶望に塗りつぶされてしまったような暗い瞳をしている。
いままで見たことのない虚無的な表情。
彼の人柄を表す目元に刻まれた笑いじわがあまりにも痛々しかった。
「犯行の方法は先ほどの金田一さんの推理通りです。私の目的は果たせました。抵抗の意思はありません。――さあ、行きましょう」
芳野はそう言って、近くにいた剣持に歩みより両手を差し出す。
彼の言葉に芝の肩がピクリと跳ねた。うつむいたままだった顔をのろのろと上げる。不安と混乱に揺れる瞳は、それでもしっかりと芳野を見つめていた。
「芳野さん。あと一つだけ聞かせてください」
そう問いかけたのは、ハジメの目にはまだ芳野が雪夜叉の仮面を脱いでいないように見えたからだ。
「なんだい?」
「どうして……どうして、カメラを比賀さんの部屋に置いたんですか?」
「…………」
「谷川に捨てることだってできた。いいや、むしろそっちのほうが自然だったはずだ。あの部屋にわざわざカメラを置いていくメリットなんてない。そうでしょう?」
芳野はなにも答えない。
両手を差し出した姿勢のまま、静かに自分へ手錠がかけられるのを待っている。それがよりハジメの確信を強めた。
「青木さんに疑いがかからないようにするため、ですよね」
「……考えすぎだよ。部屋にカメラがあったほうが、そこが殺害現場だと印象づけられるからそうしたんだ。結果的には墓穴を掘ることになったけどね」
「芳野さん……」
いまさらこんなことを明らかにしても仕方がないのはわかっている。
犯した罪の内容やその重さが変わるわけでもない。それでもハジメは知りたいのだ。復讐の末に三人の人間を殺した殺人鬼“雪夜叉”ではなく、芳野隆之という人物のその本質を少しでもいいから理解したい。
そしてそれは、事件を暴いた自分の義務だとも思う。
「あなたは、万が一水島さんの自殺が他殺だと見抜かれたときのために……」
「――金田一さん。いいんだ。そんなふうに考える必要はない。僕は水島君たち三人を殺した。……それが、すべてなんだよ」
言葉は柔らかいのに、芳野の態度はどこまでも頑なだった。
その静かな拒絶にハジメはそれ以上言葉を続けることができなかった。芳野は自分が選んだ復讐という選択肢が間違っていたことを理解しているのかもしれない。だから、罪を受け入れてただの殺人者として裁かれることを望んでいる――。
ふたりのやりとりを待っていてくれた剣持はしばし芳野の様子を窺っていたが、彼に視線で促され、やりきれなさそうな顔で手錠をかけた。
歩き出した警部のあとを芳野は無言でついて行く。
「芳野君!」
残り数歩というところで呼びかけられた芳野はこちらに背を向けたまま立ち止まった。
「なんでや……なんで、なんでボクになんも言わんかったんや!?」
芝の悲痛さすら感じさせる叫びに芳野の背中がかすかに震える。
彼はふた呼吸ほど間を置いてから、やはり背を向けたままなんでもないような声で答えた。
「うーん。……言ったら、典さん、手伝ってくれそうだからなぁ」
その言葉に芝が苦しげに唇を噛みしめた。
なにかを堪えるように、あるいは呑み下すように、芝ののどがひくつく。強張った頬はぴくぴくと痙攣していた。彼の瞳に渦巻くものが怒りなのか悲しみなのかはハジメには判断がつかない。
落ちた沈黙は短かった。
芝は無理やり口角を上げ、自分を見ぬ友人にひどく不器用な笑顔を向ける。
「アホ言いな。引っ叩いても止めたるちゅーねん」
「そっか……」
震える声に小さくあいづちを打ったあと、芳野は首を回して顔だけでこちらを振り返った。
「――じゃあ、やっぱり言わなくてよかったよ」
泣きとも笑いともつかない表情には、雪夜叉ではなく、芳野自身の感情が滲んでいる。
芳野はどこかで芝に自分を止めてほしかったのかもしれない。その表情を見ると、ハジメはついそんなことを思った。
友人たちはお互いにそれ以上言葉を重ねなかった。
顔を戻し正面を向いた芳野は刑事に促され、ゆっくりと談話室を出ていく。その後ろ姿を見送る芝の目には薄い涙の膜が張られていた。
こうして、背氷村で起こった連続殺人事件は幕を下ろした。
外は雨が降っている。
冷たく悲しい雨が、しとしとと降り続いている――。