平行線機能不全   作:キユ

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第二章「劇団幻想④」

 

 正木佳浩は睡眠不足と空腹からくる足のふらつきをこらえ、稽古場に立っていた。

 二日前のあの夜。

 不具合が出ているというライトを確認しに行き、偶然あのおぞましい計画を知ってしまったときから、まるで覚めることのない悪夢のなかにいるようだ。

 胸の底にこびりついた後悔が少しずつその質量を増し、もはや呼吸さえもままならない。

 

「刑事さん、どうしてあたしたちだけ集められたの?」

 

 最後に稽古場へと入ってきた加奈井理央は、不思議そうに集められた顔ぶれを見回してから尋ねた。警察から容疑者と目されている自分や能条、高遠の他に、正木や緑川、美歌もいるからだろう。そして……金田一一と名乗ったあの少女も。

 

「あー、それはですね」

「あたしがみなさんを呼んでもらったんです」

「君が?」

 

 権藤刑事の隣から一歩前に踏み出し、臆することなくそう告げる少女に稽古場にいる全員の視線が集中する。

 かの名探偵・金田一耕助の孫だという少女は、その幼さに似合わない強い瞳で真っ直ぐにこちらを見た。すべてを見透かすような静かなハジメの表情に、言葉にできない不安が湧き上がってくる。

 

「そ、その子は部外者じゃないんですか? だいたいなんの権限があって」

「まあまあ。先ほども言いましたが、今回の滝沢厚の自殺を偽装だと見破ったり、いままでにもいくつかの事件を解決に導いているんですよ、この子は」

 

 緑川をなだめる権藤刑事からはハジメへの信頼が感じられた。

 能条と美歌は静観するように話の成り行きを見守り、加奈井はどこか面白そうな興奮を隠せない顔をしている。

 

「つまり、名探偵さんはこの事件の犯人がわかったってこと?」

「ええ。真上寺聖子さんと滝沢厚さんを殺した犯人は――この中にいる」

 

 少女の言葉に誰もが少なからず動揺した。

 半ば予想していた展開だというのに、正木の手は緊張で血の通わぬ死人のように冷たくなっている。無様に震えぬようにと意識してゆっくり深呼吸をし、はじめて自分が息を止めていたことに気づいた。

 

「だ、誰なんだよ、それは!?」

「聖子さんのときのアリバイがないのはあたしと能条さんと高遠さんだけど」

「その前に少しこの二つの事件を整理しましょう。まず第二の殺人である滝沢さん殺し。これは権藤刑事が説明したようにトリックを使えば誰にでも犯行は可能です」

 

 滝沢の死亡推定時刻である午前一時から午前三時のアリバイはここにいる誰も持っていない。

 事件は滝沢の自殺で終わるはずだった。

 まさか、ベッドを動かしたのを誤魔化すために掃除したことが裏目に出るとは思わなかった。部屋のレイアウトが左に寄りすぎている? そんなことから違和感が生じるといったい誰が想像できるのか。

 ただ自殺偽装こそ暴かれてしまったが、正木を犯人だと示すような証拠は何もないはずだ。

 

「この二つの事件を解く鍵は、第一の殺人にある」

 

 自分はどんなミスを犯したというのだろう。

 いや、ミスもなにもない。はじめからその場しのぎで誤魔化してきただけなのだから。

 説明のために場所を変えると事件現場である休憩室に向かうハジメのあとに続きながら、真綿でじわじわと首を絞められるような感覚に襲われ、もうすべてを叫びだしてしまいそうなる。

 だが、まだダメだ。

 舞台に上がった以上、その幕が下りるまで己の役割を演じ切らなければならない。

 

「聖子さんの死亡推定時刻は昨日の午後三時十五分から午後三時四十五分の間ですよね」

「ああ。間違いないよ」

「この劇団内の人間でその犯行時刻にアリバイがないのは殺された滝沢さんを除けば、能条さんと加奈井さん、そして高遠の三人だけ。……どうしてこの三人に容疑者を絞ったんです?」

「状況的に見て、この事件は衝動的なものだ。被害者と揉めるかなにかして殴って気絶させ、ナイフで刺し殺してほかの劇団員たちのもとに戻る……数分では難しいと判断した」

「それは、殴った時間と刺した時間にほとんど差がないと考えた場合ですよね」

「それはそうだが……」

 

 ハジメの指摘に権藤刑事は渋面を作る。

 殺害時刻だけに注目してしまうと容疑者が絞り込めない。多少不自然な点があっても、わかりやすくアリバイがない者から疑ってしまうのは仕方がないだろう。

 

「実際、能条さんも高遠もアリバイがないのは三十分ちょっとで、加奈井さんに至っては二十分もない」

 

 名探偵は続ける。

 はたしてそんな短時間で犯行は可能なのか、と。

 

「衝動的な犯行であるなら、その前に被害者と揉めるようなトラブルがあったはずでしょう? 気絶させるほどの力で殴り倒したんだ、部屋の中も少しは荒れたと思いますよ。それを片付けて、殴打に使った凶器の隠滅までするのに三十分は短すぎませんか」

「むむ。だが、そうするとあの日犯行が可能だった人間は劇団内にはいないということにならないか?」

「だから前提条件が違ったんですよ」

 

 話しているうちに休憩室の前へと到着していた。

 あの日、この部屋の扉を開けて聖子が倒れているのを見たとき、正木は自分の背が運命に押されたのを感じた。そしていま、この扉の向こうには自分を追い詰める証拠が用意されているのだ。

 

「あの日、ドアを開けた先にはこんな光景が広がっていたんじゃないですか?」

 

 がちゃりとドアノブを回す音がひどく大きく響く。

 正木の隣で緑川が小さく悲鳴をあげた。ひと目でマネキンとわかるそれが聖子の姿とダブったのかもしれない。

 うつ伏せに床へと倒れているそのマネキンの背中には、深々とナイフが刺さっていた。シャツに滲む血がどこか生々しい。

 

「聖子さんはまだこのとき生きていたんだ」

「な、なに言ってるんだ。俺と正木監督がドアを開けたとき、聖子さんはナイフを刺され、血まみれで倒れてたんだぞ!?」

「そうだ。被害者は即死だったんだ。その状態で生きているはずがない」

「もちろん、心臓を刺されて生きていたりはしません。このナイフで、人が刺せるならね」

 

 ハジメがマネキンに刺さっていた――いや、固定されていたナイフを持ち上げると、誰かが呆けたような声でつぶやいた。

 

「……マジックナイフ?」

 

 刃の先端を押すと引っ込むそのナイフは演出用の精巧なおもちゃだ。

 

「で、でも血が出て……」

「本当の出血じゃなくて血糊ですよ」

「血糊!?」

「実際、本当に心臓を一突きにされていたらあれほどの出血はしません。そうですよね、権藤刑事」

「あ、ああ。たしかに被害者の服からは、君が言った通り本人の血液のほかに血糊が検出されたよ」

「つまり犯人は聖子さんを気絶させたあと、あたかもすでに殺されているかのような偽装工作をしてから部屋を出た。そして何食わぬ顔で第一発見者としてこの場に戻ってきたんだ」

「そ、それじゃあ犯人は……!」

「犯人は緑川さんを目撃者として利用したんですよ。あなたは緑川さんに、この部屋で背中にナイフが刺さり血で汚れた聖子さんの姿を見せ、人を呼びに行くよう指示したあとで、本物のナイフで彼女を刺し殺したんだ。――そうでしょう、正木監督!」

 

 とっさになにか言い訳をしなくてはいけないと思った。

 このまま自分の犯行を認めては滝沢を殺した意味がなくなってしまう。血糊が検出されたからなんだというのだ。そんなものは状況証拠にしかならない。

 正木が聖子を殺害できたと証明したところで、ほかの人間の犯行が否定されたわけではない。だから……なにか否定の言葉を返さなければいけないのに。

 

「このトリックを使って聖子さんを殺害できるのは、緑川さんと一緒にこの部屋に来たもうひとりの第一発見者であるあなたしかいないんです」

 

 自分よりもよほど苦しそうな顔をしている少女を見たら、そんな気持ちはどこかへ消えてしまった。

 探偵とは意気揚々と自分の推理を披露するものではないのか。

 いままで推理ものの舞台も手掛けたことはあったが、主役たる探偵の見せ場で役者にこんな表情をさせようなどと考えたこともなかった。

 

「休憩室のドアを開けて、聖子君が気絶したままなのを見たとき……私は賭けに勝ったと思ったんだが」

「おいおい。じゃあ、あんたが行く前に真上寺聖子が目を覚ましてたらどうしたんだ?」

「どうもしませんよ。彼女が目を覚ますか、ほかの誰かが彼女を見つけていたらそれまでだったんです。私は自分ひとりでは人を殺す勇気もない」

 

 運命に背を押されたからこそできたことだ。

 

「そんなのは……勇気じゃないよ。あなたに必要だったのはそこで踏み(とど)まる勇気だ」

「…………」

「正木監督……どうして聖子さんを?」

 

 悲しげな美歌の問いかけに、正木は力なく肩を落とした。

 

「――殺すつもりはなかった」

 

 あの日、聖子と話をしようと彼女の休憩室を訪ねたとき、正木に彼女を殺す気は微塵もなかった。前夜に聞いた話が信じ難く、もし本気なら考え直すよう説得するつもりで聖子に会いに行ったのだから。

 それなのに聖子は、あろうことか正木に手を貸すように言ってきたのだ。

 次の『オペラ座の怪人』の主役から美歌をはずし、自分が能条を手に入れるための手伝いをしろと。

 

「私にとってこの『オペラ座の怪人』の舞台は特別なものなんです。黒沢さんから……あの黒沢和馬から任された舞台だったから」

 

 娘のために演出家を辞め、小さなホテルをはじめるのだと笑った彼。

 尊敬する黒沢の引退がショックでなかったと言えばうそになる。

 それでも、黒沢和馬がその手で育てた劇団幻想で、彼の代名詞とも言える『オペラ座の怪人』の舞台監督をやれることは正木にとってこの上ない幸運だった。しかも、その主役は彼の娘――才能にあふれ、いずれ素晴らしい女優になることが約束されている黒沢美歌なのだ。

 正木の人生で、間違いなく最も大切な舞台になるはずだった。

 

「倒れた聖子君を見たとき、このままでは舞台が台無しになると思ってしまった」

 

 劇団の理事長・真上寺秋彦は娘を害した正木を許さないだろう。

 公演後ならどうなってもよかった。無事に『オペラ座の怪人』が終わったあとなら。

 

「どうして滝沢厚も殺したんだ?」

「彼は聖子君が喫煙者なことを知っていたんです。だから、休憩室から灰皿がなくなっているのに気づいた。その隠蔽方法も」

 

 聖子は自分の休憩室に他人を入れたがらなかった。

 事情聴取が進んでも警察は殴打に使った凶器を特定できず、とっさに思いついた隠蔽方法がうまくいったことにほっとしていたのに。

 

 ――俺、もう一つの凶器がなにかわかったんですよ。犯人がどうやってそれを始末したのかも。

 

 滝沢がそう言ってきたとき、自分がどんな顔をしていたのか覚えていない。

 

「滝沢君は脚本を書いていましてね。以前からときどき私に脚本を見せに来ていたんです。彼は今回の事件をネタに脚本を書きたいと相談に来ました。ネタに使うから、警察には言わないのだ、と」

 

 次の舞台に使えるかもしれないから話を詰めようと、滝沢の家に行ったのは半ば成り行きだった。

 狭苦しい彼の部屋で酒を酌み交わしながら、ふとあの密室トリックが頭に浮かんだ。

 悩んだのは一瞬。

 人が死んだ以上、犯人がいなければこの殺人事件という舞台の幕は下りない。

 

「滝沢君は"犯人役"にはうってつけでした」

「そんな理由で……」

「少なくとも、ほかの誰かに罪を着せるよりは良心が痛みませんから」

 

 自分勝手なのは百も承知だ。

 それでも、正木は自分の良心や倫理観よりも『オペラ座の怪人』という舞台が大切だった。

 

「まあ、結局……私が舞台を台無しにしてしまいましたが」

 

 初日から大成功を収めるはずだった舞台の幕はもう上がらない。

 

「美歌君。お父上に……黒沢さんに戻って来てもらいなさい。彼ならこの『オペラ座の怪人』をもう一度素晴らしい舞台へと変えてくれる。――あの人は、天才だからね」

 

 舞台監督と演出家として、黒沢と作品を作ってみたかった。

 こうして罪を暴かれてみれば、自分のしたことは前途ある若者の生命を奪い、なによりも大切だった舞台に消えない傷を作っただけとは、黒沢に合わせる顔がない。

 

「正木監督……」

「みんなにすまないと伝えてくれ」

 

 最後にそう言って、正木は権藤刑事に歩み寄り両手を差し出す。

 手錠のかかる重々しい音とともに、正木を苦しめ続けた悪夢はゆっくりと終わりを告げた。

 

 

 

 

 劇団幻想の舞台『オペラ座の怪人』は公演を一か月延期することになった。

 劇団内で起こった二つの殺人事件に、大演出家・黒沢和馬の復帰と、マスコミでも連日大きく取り上げられており、前売り券はすでに完売している。

 当初予定していた劇場は真上寺財閥が劇団から手を引いたことで使用できなくなり、一時は公演そのものどころか劇団の存続まで危ぶまれていたらしいというのに皮肉なことだ。

 

 

 

「七瀬さんと来なくてよかったんですか?」

「しゃーねぇだろ。美雪はスイミングスクールの日だったんだよ」

 

 前を歩く少女へと声をかければ、振り返りもせず答えが返ってくる。

 彼女の幼馴染もなかなかに忙しい。高遠の記憶が正しければ、再来年にはそのスイミングスクールで例のごとく殺人事件が起こり、名探偵とともにその事件に巻き込まれることになる。

 

「けっこー盛況じゃん」

「まあ、最終日ですしね」

 

 高遠はハジメに薄情と罵られようと役目が終わった劇団にいるつもりはなく、事件解決後早々にバイトを辞したわけだが、そのとき黒沢和馬からバイト代とともに渡されたのがこの個展のチケットだった。

 画家・間久部青次の個展『幻影少女』は黒沢美歌の成長を描いたものだ。

 ここには、金田一一が守りたかったものがある。

 絵の中の少女は無垢な輝きと透明感に満ちた美しい顔でこちらに微笑んでいた。

 

「……きれいだな」

 

 そうつぶやくハジメの横顔こそ、高遠には美しく思える。

 事件のたびに傷つく彼女を見るのが好きなはずなのに、最近はどうしてだか苛立ちにも似たなにかに胸が苦しくなる。

 ハジメを傷つけているのが自分の起こした惨劇ではないからだろうか。

 

「つーか、事件のなんやかんやで劇団大変なのに、あんたほんとに辞めたんだな」

「当然でしょう。"殺人事件が起こったところで働きたくない"ときちんと伝えましたよ」

「あんたは鬼かっ!」

「本当のことですから。もう、あそこでバイトする理由もありませんし」

「そうかも知れないけどさー。言い方ってもんがあるだろ」

 

 ブツブツ文句を続ける少女が人波に流されないように自分のもとへと引き寄せると、なんのためらいもなく手を繋がれて驚いた。

 ハジメの表情を窺うが、とくに気にした様子はない。

 

「能条さんたちの結婚式って……」

「公演と合わせて延期するようですよ」

 

 事件の発端となった真上寺聖子たちのたくらみを、正木佳浩は最後まではっきりとした言葉にはしなかった。取り調べでも一貫して「私的な揉めごと」で通しているらしい。

 それが尊敬する黒沢の娘への配慮なのは明らかだ。

 もっとも、原因を知らずとも身近で殺人事件が起きたのだから、結婚式を予定通りに執り行おうとは思えないのだろう。

 

「緑川由紀夫が警察にあの夜の出来事を告白するとは思いませんでした」

「うん。俺の知ってる緑川なら、そんなことはしなかったかもな。……あの人も、事件を通して思うことがあったんだろ」

「自分が加担しようとしたことが殺されるに足る理由だと気づいて怖くなったのでは?」

「そうだとしてもさ、罪を償わなきゃ、やっぱり前へは進めないじゃん」

 

 あの三人の中で緑川由紀夫だけは罪悪感を抱いていた。

 だからこそ、聖子が殺されたときにあれほど恐怖していたのだ。滝沢厚は死ぬその瞬間まで、聖子と自分が殺される理由を理解していなかったに違いない。

 

「緑川の証言があれば、正木監督もちょっとはじょーじょーしゃくりょう?のよち?」

「情状酌量の余地、ですか」

「そうそれ。それになったりしないかな」

「どうでしょうね。真上寺聖子も滝沢厚も、実際になにかをしたわけではありませんから」

 

 高遠と繋いだ手を意味なくぶらぶらと揺らしながら、ハジメは明るい未来を語る。

 

「いつか黒沢オーナーと正木監督が『オペラ座の怪人』の舞台を一緒にできたらいいよな。主役のクリスティーヌは、黒沢美歌と加奈井理央のダブルキャストでさ!」

 

 よくもまあ、あれだけ『オペラ座の怪人』に関わる事件に巻き込まれておいてそんなことが言えるものだ。

 シャンデリアが落下し、無惨な死体が転がり出る未来しか想像できない。

 

「いや、呪われていたのがオペラ座館の方なら、一縷の望みはあるかもしれませんね」

「なんの話だよ?」

 

 ジト目で睨むハジメの視線を受け流し、案内に沿って角を曲がる。

 

「…………」

「あっ!」

 

 数メートル先にいるというのに、その人物は容赦なく高遠たちの視界に飛び込んできた。

 バランスのとれた長身。人目を引く整った顔立ち。

 いったいどんな特殊能力なのか、今回の彼の周りにもキラキラとした輝きが意味もなく舞っている。

 明智健悟。

 のちの警視庁きってのトップエリート。

 東京大学法学部在学中に司法試験に合格し、卒業後であるいまはアメリカへ留学して犯罪心理学を学んでいるはずだが……なぜ日本にいるのだろう。

 一時帰国だとしたら時と場所は選んでもらいたいものだ。

 

「明智さん……」

 

 ハジメがその名を呼ぶのとほとんど同じタイミングで明智がこちらを見た。

 声が聞こえる距離ではない。

 偶然交わった視線に、明智は少し不思議そうな顔をしてから小さく会釈をして、通路の先へと進んでいった。

 

「び、びびったー。なんで明智さんがいんの!?」

「明智警視にとって美術鑑賞が日常だからでは?」

「ああ。そういえば、そんなイヤミなこと言ってたかも……って高遠、どこ行くんだよ!」

 

 ハジメと繋いだ手に力を込めて、明智が去っていったのとは逆方向へと歩みを進める。

 人の流れを逆流する高遠にハジメが抗議の声をあげるが、それに答える余裕はなかった。明智健悟に金田一一を会わせたくない。それをいま、唐突に理解した。

 明智が高遠やハジメと違い、一回目の記憶を保持していないことはわかっている。

 それでも、もし……金田一一を見て彼の記憶が蘇ったら?

 明智健悟は高遠遙一とは違う。

 協力できる範囲も、その立ち位置もすべて。

 

「おいってば!」

 

 少女に手を振り払われたときに感じたのは明確な怒りだった。

 

「なに? あんた、なんか怒ってんの?」

「……怒っていません」

 

 高遠の見え透いたうそにハジメは困惑した表情を浮かべている。

 だが、戸惑っているのは高遠も同じだった。自分がなにに怒りを感じたのかわからない。彼女の行動が気に障ったわけではないのは確かだ。

 

「…………」

「…………」

 

 しばらく無言で見つめ合う。

 再会して数年。

 こういったときに先に行動するのはいつだってハジメだ。

 

「なあ、とりあえずなんか食おうぜ」

 

 自分で振り払った手をなんの気負いもなしに掴んで、ハジメが高遠を引っ張っていったのは個展の会場に併設されているカフェだった。

 空いている席に座り、さっそくというようにメニューを広げる。

 その顔がいつもとなに一つ変わらなくて、高遠もハジメの向かいの席に腰を下ろした。不思議と先ほど感じた激情は消えている。

 

「俺さ……あんたと会う前に、明智さんに会いに行ったことあるんだ」

「…………」

「なんか覚えてねぇかなとか、話したら思い出せねぇかな、みたいな?」

 

 金田一一の現状を考えれば答えは聞くまでもないのに、なぜだか彼女の口からそれを聞きたくて続きを促した。

 

「それで?」

「明智さんはなにも覚えてないよ」

 

 少女の淡々とした言葉からはなんの感情も読み取れない。

 そのことに安堵している自分がいた。

 ハジメがどんな感情を抱いていたとしても、高遠はそれを許し難く思っただろう。

 

「君の協力者は私だけというわけですね」

「そうそう。物騒な助手しかいねぇの、不幸なことに!」

 

 失礼なことを言って生意気に笑うハジメと自分の関係はたしかに変わってきている。

 決して交わることのない平行線の先になにがあるのか――高遠がそれに気づくのはもう少しあとの話。

 

 

 

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